1-X. 宵闇と不協和音
窓から見えるのは、もはや夜の色。
いくらか日が落ちるのは遅くなってきたような気はするけれど、やっぱりまだまだ冬の空。
淡い期待を込めて、部活が終わってもまだ残っていることにしていた。
顧問の小早川真央先生には『帰るときに鍵よろしくね。でも、あまり遅くまでいないように』と釘を刺されている。
そこまで遅くなる気もなかったけれど、今日の心境としては、そのまま朝までココに居てもいいやと思えるくらいではあった。
真央先生の雰囲気的にはあと20分くらいは居ても良さそうだったけれど、とくに何もすることは無かった。
ただぼけーっとしているのも悪くはないけれど――。
「……あ、そうだ」
折角なら、備品を使わせてもらっちゃおう。
簡単な伴奏程度ならば、一応は弾ける。
――本当に、一応だ。
誰か人前で弾けるような腕前ではない。
趣味で鳴らす程度と言えば何とか許してもらえるくらいのモノだ。
――身近に、本当はバリバリに演奏できるのに、出来ないフリを装っている人が居ることを私は知っている。
知っているからこそ、あたし程度で『弾ける』なんて言っちゃいけないと思う。
ギリギリ知っていて、ものすごくゆっくりなら指も付いてこられるレベルの曲は無いだろうか。
書架の楽譜を少し探してみる。
「あ」
あった。
そんなに時間もかからずに見つかった。
というか、目に入ってきた。
――『月光』。
ベートーヴェンの3大ピアノソナタとも言われたりする作品のうちのひとつ。
ピアノソナタ第14番。
あくまでも、通称が『月光』。
本当の名前は『幻想曲風ソナタ』という。
じゃあどうして『月光』と言われているかと言えば、ベートーヴェンが亡くなった後に音楽評論家がこの曲を指して『スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のようだ』と言ったことが由来だそうで。
その説明が瞬く間に世界に広まった結果、今現在でも『月光ソナタ』と言われている、と言うお話。
『交響曲第5番』、通称『運命』と同じパターン。
そんなことを、思い出してしまう。
――こんな知識はもちろん、あの人からの請売りだ。
楽譜を持ち出して、ピアノに置く。
開くのは、もちろん第1楽章。
その出だしの部分。
それはもう、間違っても第3楽章なんて開いたところで自分の手に負えないことくらい、充分解っている。
全篇は弾く側になるよりも、聞く側が良かった。
軽く指を動かしつつ、まずは五線譜をしっかりと眺める。
音の鳴り方は頭にしっかりと入っている。
問題は、指がしっかり動くか、と言う話だった。
「ふうっ……」
鋭く息をひとつ吐く。
楽譜に書かれているテンポよりもさらにゆっくりと、3連符を奏でていく。
『指の動きがハッキリしてた方がいいよ』
『でも、だからといって雑に動かすってことじゃないんだよね』
――うん、そうだったね、みずきくん。
ゆっくり弾ける曲だからって簡単だってワケじゃない。
そういうことをあたしに教えてくれた曲だった。
脳裏に、幼い声がよみがえってくるようだった。
もしかするとそれは、この曲の正式な題名が『幻想曲風』だからなのかもしれない。
でも、すぐさま、この前の少し驚いたような顔で思い出が上書きされていく。
弾きながら、思う。
間違いなく幻想的で、月光の波に揺れている小さな船のような雰囲気もある。
月の明かりだけに照らされて水面に揺蕩う小舟もまた、月色に染まっているような。
優しくて、寂しい雰囲気がよくわかった。
それにしても――。
この小船は、単純に佇んでいるだけなのだろうか。
自らの意志でその湖に漕ぎ出したのだろうか。
何かに抗う術も無いままに放り出されて、意思とは裏腹に負のオーラを纏わされてしまったのか。
それとも、ひとり悲愴的に思いつめて月の水面に飛び込んだのだろうか。
私が今弾いている『月光』は、どんな小舟を照らし出しているのだろうか――。
CDとかで聴いた『月光第1楽章』と比べれば、倍とは言わないまでもそれくらいに時間を掛けて演奏を終えた。
途中いろいろと怪しいところがあったけれど、何とかできた。
安心して小さく息を吐いたところで。
「まだ居るのは誰だー?」
こちらに尋ねる声がするとともに、ゆっくりと入り口のドアが開く。
「あ、はい! もう帰ります!」
勢いよく椅子から立ち上がると、ドアを開けた人の顔も見えた。
音楽教師兼吹奏楽部顧問、神村篤紀先生だった。
「ん? ああ、御薗か」
選択科目の芸術科の授業は音楽を選択をしているし、同じく音楽系の部活に所属している縁もあって、名前はしっかりとインプットされていた。
「弾けたのか?」
「え?」
「ピアノ」
ちょっと雑な訊き方だな、なんて思いつつ。
「一応です、一応」
「だったら今度授業のときにでも弾いてもらおうかな」
「えー……」
それは、ちょっと。
「ま、無理強いはしないから安心してくれ」
だったら、それでお願いします。
そんな気持ちを込めて小さくお辞儀をしてみた。
「習ってたりしてたのか?」
「……縁有って、独学です」
本当は、ちょっと違うけれど。
「なるほどな」
腕前については言ってこなかったあたり、きっとそういうことなんだろうけれど。
――そんなことを思っていると。
「ピアノもそうだけど、楽器って割と正直なところがあるからな」
「どういうことですか?」
ちょっと予想していなかった言葉が飛んできた。
「いや、まぁ……」
神村先生が言い淀む。
いつもはハッキリした物言いをするタイプの人だと思っていたので、この反応は意外だった。
何か言いづらいことでもあるのだろうか。
「最近何か迷い事とか、悩み事とかあるのかと思ってな」
「え。……どうしてですか?」
一瞬答えに迷ってしまった。
その所為か、神村先生は少し納得したように微笑んだ。
「いや、飽くまでも何となくだけどな。さっきの『月光』、ちょっとだけ聴いてたんだけど何となく薄暗い感じがしてな。悩みを抱えてそうな音だったから、少し気になったて話だ」
「そう……なんですか」
「ピアノもそうだが、楽器の音は演奏者の心を正直に映すものだからな。御薗が自覚してないところで、ちっちゃい悩みでもあるんじゃないのか?」
言葉に窮するとはこういうことなのだろうか。
正解だと思えるような答えが全然思いつかない。
そうではないと答えるのも正しいとは思えないし、でもそれを認めてしまうのも間違っているような気がして、結局自縄自縛だった。
「まぁ、俺の思い過ごしかも知れないから、あんまり気にしないでくれな」
「……はい」
早く帰り仕度でもしておけよ、と神村先生は一言付け加えならが音楽室から出て行った。
ひとり残され、音楽室には再び静寂が下りる。
もう一度ピアノの前に座る。
ポン、と、徐に一つだけドの音を弾く。
次いで、ポン、と、レの音。
ポン。ミの音。
ここで、ファのシャープを弾いた。
――不思議な違和感。
また、ド、レ、ミ、ファのシャープ。
もう一度。
そんなことを三回繰り返した。
――得体の知れない、不協感。
ファと、そのシャープ音の間には半音の差がある。
通常、白鍵と白鍵の間には一音の差がある。
ただし、例外的に、ミとファ、シとドの間は半音の差しか無い。
それなのに。ミからファを続けて弾いても違和感は無いが、一音の差があるミからファのシャープを続弾すると、表現できない気持ち悪さが生じた。
ドの音から一音ずつ一定感覚に刻んでいくと、背中が泡立つほどだ。
今度は、人差し指と中指で、ファとソを同時に弾いてみた。
指の形をそのままにひと鍵盤分左側に運んで、ミとファを弾いた。
同じ指、同じ間隔。
なのに、恐ろしく違う感覚。
不安感の大きさが、比べ物に為らなかった。
――不協和音。
神村先生が言った、楽器が素直に表した音――もしかするとあたしを正直に表した音は、どうやらこれだったのかもしれない。
奥底に仕舞い込んだはずの苦悩と切ない感情が、まさかこんな風に殻を突き破って飛び出してくるなんて思いもしなかった。
暫くピアノを見つめた後、ひとつ溜め息をついて外に視線を移した。
きっとあの時、複雑そうな顔をした彼とあたしとの間に、そんな音が通り抜けて行ったのだろう。
もうすぐ、ルツェルン湖には雨が降る――。
そんなことを意味も無く思いながら、音楽室を後にした。
最後に指が触れてしまった鍵が甲高い音を立てて、少し泣きそうになった。
ここまでお読みいただきましてありがとうございます。
「10話目」ということで、語り手が聖歌さんのストーリー。
まだ自分の保身でいっぱいいっぱいになる瑞希を見て、余計に辛くなるのです。
でも、どうしてそんな気持ちになるのでしょうね。
……という話は、またいずれ。
実はかなり前に『夕闇叙情詩』という短篇を書いたことがありました。
その作品のコンポーネントを抽出して、さらに熟成させたものが、『幼なじみの恋人は(ry』シリーズ、あるいは『クロスロード・カンタータ』シリーズだったりします。
いわば、源流なわけです。
源流的作品は、もうふたつほどあるんですけどね。
ちなみに、ひとつはすでに出してますw
第1章のラストシーンがそれですね。
最後のひとつは、……いつくらいに出てくるかな。今年の秋くらい?
ということで、この節の前半が終わりました。
次からは3月上旬のお話。
まずは、卒業式です。




