第九話 磐座
長い長い散水ホースを使って庭全体に水をかけていく。水を滴らせた植物たちが夏の太陽の下できらきらと輝く。土はじわりじわりと湿り気を帯びていく。
僕はこの景色を見るのが好きだった。水を浴びた植物たちが活き活きとして見えるから。
「さて、こんなものかな」
庭を見渡して、よし、と独りごちる。
ホースをしまうために手洗い場に向かおうとしたのだが、
「……もっと……もっとこっちに水をかけてくれっす」
「うわっ!」
突如後ろから低い低い声が聞こえてきた。
ばっと振り返ってみれば、なんとツワブキが群生している場所から手が出ているではないか。
小さな子どものような手。けれど、その色は緑色。明らかに人間の手ではなかった。
な、何だこれ?ツワブキの妖怪か?
驚いて思わず後ずさる。しまおうとしていたホースをそちらに向け、いざ妖怪が襲いかかってきた時にいつでも水をぶっかけることができるように構えた。
が、ここでふと気づいた。
……待てよ。さっきの声何処かで聞いたことがあるような……。
ゆっくりとそれに近づいて、よく観察する。
小さな子どものような手。その色は緑色。そして、その指と指の間には水掻きがついていて――
「……河童?」
「ご名答ー」
ユルい声とともに、がさがさとツワブキの下から這い出てきたのは河童だった。「どもども」とお気楽に手を挙げる河童にがくりと肩を落とす。
「お前、もっと普通に登場しろよ」
「かっかっかっ。これぐらいで驚いてちゃあ若もまだまだっすね」
「まだまだでも別にいいよ……。というか、何で僕がここに住んでいるって知ってるんだ?」
河童は管狐の紹介もあって今は隣町の池に棲んでいる。だから、ここに来るのはそこまでたいへんなことではない。けれど、肝心のこの家の場所を河童に教えていなかったのだ。
僕が買った食材をばあちゃんに届けにいっている間は、つゆりさんと河童には待ってもらっていたし……もしかしたらその時につゆりさんに家の場所を教えてもらったのかも知れない。
なんて、僕の疑問はすぐに解決した。
「ああ、そこら辺の妖怪に訊いたんすよ。今は妖怪が見える人間は少ないっすからね。若の特徴を言ったら、それはきっとまつな様の孫だなってみんなすぐにわかったみたいっす」
「うわー、情報漏洩……」
「かっかっかっ。妖怪の情報網を甘くみないでもらいたいっす」
腕を組んで快活に河童が笑う。対して僕は脱力した。まあ、ここは河童がこの土地に馴染めているようで何よりだと思うことにしよう。うん、そうしよう。
「それで、何しに来たんだ?」
「ああ、そうそう。これを渡しに来たんす」
ぽん、と手を打って河童が何かを取り出した。それは、大きな二枚貝だった。だが、何故か紐で閉じられている。
どうぞどうぞと渡されて素直に受け取る。
「何これ?」
「蛤っす」
「いや、貝の種類を訊いてるんじゃなくてさ……」
「中身見ればわかるっすよ」
「中身?」
言われるがまま紐を解いて、ぱかりと蛤を開けた。すると、中から煙が出て来て、僕は白髪白髭のお爺さんに……なんてことはやっぱりなく、
「な、何これ?」
中身を見て思い切り顔を顰めた。
蛤の中におさめられていたのは、禍々しい緑色の物体だった。どろどろとしていて得体が知れない。
見ればわかると河童は言ったが……ごめん、見ても全然わからない。
「おや、若は知らないんすか?河童の妙薬っすよ」
「河童の妙薬?」
「そう。知る人ぞ知る逸品っす」
「……ほう」
言われても未だよくわかっていない僕に、何処か誇らしげに河童が説明してくれた。
河童の妙薬。それは、河童が持つといわれる伝説上の薬。骨接ぎや打ち身、火傷や切り傷などによく効く万能薬だという。河童から薬の作り方を教えてもらったという伝承が今もなお各地に残っているらしい。
「切り落とされた手もこれがあればくっつけられるんっすよー」
「へ、へえー」
き、切り落とされた手……。
一瞬想像しかけてやめた。ぶんぶんと頭を振って、思い浮かべた想像も一緒に振り払う。
「この前のお礼と言ってはなんですが、貰ってほしくて。いざという時に使えますんで」
「あ、ありがとう」
伝説の万能薬っていうのは確かに凄い。でも、見た目からしてアウトで、ましてや使うなんて僕にはハードルが高すぎる。
僕はそれをそっと紐で閉じて取り敢えずズボンのポケットにしまった。
たぶん、使うことはないだろうな……。そう思いながら。
河童は僕に薬を渡せたことに満足している様子で、何となく申し訳なくなった。
目が合わせられなくて視線を外していると、河童が「あと、もう一つ理由があって」と続けた。
「もう一つの理由?」
「相撲をとりにきたんす」
「相撲?」
「はいっす。あの時は弱っていたし、それどころじゃなかったんで言えなかったんすけど、河童と言えば相撲っすから」
「そういうものなのか?」
「そういうものっす。さあ、若!いざ勝負!」
ぺたん、ぺたん、と河童はその場で四股を踏んだ。おおう、様になっている。手慣れてるなこいつ……じゃなくて。
「いや、とらないから」
「どうしてっすか?」
「いや、どうしてって言われても……」
僕はこの前のことを思い出した。
河童はさっき「あの時は弱っていた」と言った。確かに弱っていたんだろうけれど、僕の足を掴んだその手の力強さと言ったら……。
そう、弱っていてもあの力だったのだ。河童が弱っていない今、僕がこいつと相撲をとったところで勝つなんてことできないだろう。
「無駄な勝負はしたくない主義なんで」
「大丈夫っすよ。怪我してもその薬を使えばすぐに治るっすから」
だから、さあさあさあ!
河童は何も問題などないと言わんばかりに促してくる。でも、僕は絶対にやらないぞ。
男には戦わなければならない時がある、なんて言うこともあるが今はその時ではないし、そんなことは知ったこっちゃない。第一、腕を怪我して絵が描けなくなったらどうするつもりだ。
万能薬なんてものがあったとしても怪我なんてしたくないし……もしかして、相撲をとらせるためにお礼と称してこの薬を持ってきたんじゃないだろうな……。
とまあ、色々考えたが深く考え過ぎるのも馬鹿馬鹿しい。
「兎に角、相撲はとらないから」
「えー」
きっぱりと断ってホースの片付けを再開する。
河童は足に捕まってきて「若―、やりましょうよー」とせがんでくる。……だから、力強すぎるって!
それから暫く河童と無駄な攻防戦を繰り広げた。こんなことになるなら素直に相撲をとっていた方がよかったかもしれない……いや、やっぱり負け戦なんてしたくない。
なんて、考えながら水を掛け続ける。因みに、庭の草木にではない。
「はー、生き返るっすー」
「そうか、そいつはよかったよ」
水を浴びているのは河童である。シャワーのように水を浴びる河童はとても幸せそうだ。これぞ水も滴る良い河童……などとはこれっぽっちも思わない。
――ああ、そうだ。水浴びでもしないか?
話を逸らすためにそう提案したら河童はすぐにそれに乗った。管狐もそうだったが、河童も案外チョロかった。僕が言えたことではないが、こいつらを見ているとおいそれでいいのかと少々心配になってくる。
まあ、平和が一番だしこれでいいか。
自問自答をしていると、「それにしても」と河童が口を開いた。
「これはまた面白いモノがあるっすね」
「面白いモノ?」
お前たち妖怪も十分面白いモノだけどな。
心の中で突っ込みつつ、「何が面白いんだ?」と河童に問う。
「これっすよこれ」
河童が指差した方を見れば、そこには庭石があった。所々に苔の生えた大きな石だ。偶にこの上に乗って野良猫がひなたぼっこしているのを見かける。
「庭石がどうかしたのか?」
「これ、ただの庭石じゃないっすよ」
顎に手を当てて河童が指摘する。
そう言われても、僕にはどう見てもただの石にしか見えないのだが。
「もしかして何か憑いているのか?」
「憑いているというより、憑いていた、と言った方が正しいっすね」
「どういうこと?」
「これ、元は磐座だったんじゃないっすか?」
「いわくら?」
はて、いわくらとは。
首を傾げる僕に河童が説明してくれた。本日二度目の河童による説明会の始まりだ。
磐座。それは、神様の御座所。所謂神様の鎮座する所である。岩石に対する信仰または信仰の対象となる岩石そのものを示す言葉であり、日本の自然信仰の一種だという。
「え、それじゃあ、これには神様がいるの?」
「いや、極僅かに神聖な気を感じ取ることができるだけで、今は磐座としての役割はしてないっすね。ずうっとずうっと昔にはその役割を果たしていたんでしょうけど」
「へー」
ここに神様がねぇ……。
まじまじと見てみるが、やっぱりただの石にしか見えなかった。神聖な気なんてものも僕にはさっぱりわからないし。
というか、神様が座っていた場所であの猫たちは寝ていたのか……凄いなあの猫たち。
「……丁重に扱わなくて祟られたりしないだろうか」
心配が声に出てしまった。
僕の言葉を耳にした河童が「かっかっかっ」と笑いながら頭の皿を撫でる。
「まあ、大丈夫っすよ。昔は神様の御座所だったとしてももうここに神様はいない。この石がどういう経緯でここにあるかはわからないっすけど、今はただの庭石としてここにあるんすから。元神様の御座所だろうが猫の寝床になろうが石は石としてあり続けるだけっす。そりゃあ割ったりしたら祟られるかもしれないっすけど。そのモノの価値観なんて人それぞれっすよ」
「そういうものなのか?」
「そういうものっす」
まあ、確かに河童の言う通りかもしれない。
僕も河童に言われるまでこれはただの庭石だとしか思っていなかった。石は石。ただそれだけ。庭の一部としてそこにあるのが当然で。言ってしまえば特にこれと言って気にもしていなかった。
神様にとっては元鎮座する場所。猫にとっては寝床。僕にとってはただの庭石。
価値観は様々だけど、それでも石は石としてそこにあり続ける。ただそれだけのこと。
ぼうっと庭石を眺めていたら、徐にくいっと服が引っ張られた。驚いてそちらを向けば河童と目が合った。
「若、水浴びはもういいっすよ」
「あ、うん」
言われて水を止める。「あー、気持ちよかった」と河童が満足そうにぐぐっと背伸びをした。
「という訳で、若。相撲とるっすよ」
「……いや何で?」
くるりと振り返った河童があまりにも当然のように言ったものだから、反応が遅れてしまった。
一呼吸置いて聞き返せば、さっきも聞いた言葉が返ってきた。
「河童と言えば相撲っすから」
「……そういうものなのか?」
「そういうものっす」
にやりと口角を上がらせた河童は、ぺたん、ぺたん、と四股を踏み始めた。水に濡れた頭の皿がきらりと光る。
「コンディションはばっちり。さあ、若!いざ勝負!」
「いや、とらないから」
「どうしてっすか?」
「いや、どうしてって言われても……」
お前が今言っただろ!
と、心の中で僕は叫んだ。
水を浴びたことにより、更に河童の力は上がっているはずだ。そんな相手と相撲なんてとりたくない。
「無駄な勝負はしたくない主義なんで」
「大丈夫っすよ。怪我してもあの薬を使えばすぐに治るっすから」
「だーかーらー!」
こうして、再び僕と河童の攻防戦が幕を開けた。
その時には僕の意識はすっかりそちらに持っていかれていて。
この石を丁重に扱った方が良いのでは、という考えなんてすっかり抜け落ちていた。
やっぱり僕にとってこの石はただの庭石でしかなった。




