第六話 吐水龍
僕にとっての息抜きは絵を描くことだ。勉強していても気づけばノートの片隅に落書きしているなんてことはよくあることで。授業の最後にノートを集めることになって、そこら中に描いてある落書きを慌てて消すなんてこともよくあることだった。
自分よりも絵が上手い人なんていっぱいいるというのはわかっている。けど、それでも描くのが好きなのだがらどうしようもない。
ばあちゃんの家にはそんな僕の絵心を刺激されるものがたくさんあった。庭の植物や家のあちこちにある古めかしい雑貨。そして奇怪な姿をした妖怪たち。見慣れないものばかりで、ついついスケッチしてしまう。
今日の被写体は庭の片隅に鎮座している吐水龍だ。吐水龍とは神社で手を洗う場所――手水舎にある、龍の口から水が出ているあれのことである。
ばあちゃんに教えてもらって初めてその名を知った。ここに来てからというもの、普段使わないような豆知識が増えているような気がするのはきっと気のせいではない。
母屋と離れを繋ぐ渡り廊下の間の位置にあるのだが、何故庭にこんなものがあるのか疑問である。更に言えば、水を受ける丸い水盤の傍らに信楽焼の狸が置いてあるのも謎だ。
ばあちゃんに訊いたら、「さあ、どうしてここにいるんだろうねぇ」と笑って返されたので謎は解明していない。家主がわかないことを僕がわかるはずもないのだ。
神社の吐水龍よろしく、この龍の口からも水が出るとのことだが今は水は出ていない。水盤に溜まっている水も雨が降って溜まったものらしい。偶に小鳥がやってきてこの水を飲んだり水浴びしたりする様子は実に風流だった。
吐水龍の近くには細いながらもしっかりとした梅の木があって、時期になれば小さな白い花を咲かせるという。是非ともその風景も描いてみたいものだ。
とまあ、それはさて置き。今は吐水龍だ。
鈍色に光る眼。くねった長い髭。鋭い爪。長い胴体には折り重なるように鱗がある。
しっかりと被写体を観察して、僕は真っ白なスケッチブックにその姿を描いていく。
想像して絵を描くのも好きだけど、スケッチするのも好きだ。じっと見つめてモノの特徴を捉えて描く。その作業が楽しい。
よし、もう少しで完成だ。
と思ったその矢先、突然吐水龍の胴体がぐにゃりと動いた。
「いやぁ、そんなに見られると照れますわい」
「うわっ!」
驚いて持っていた鉛筆とスケッチブックを落としてしまった。すると、吐水龍は「ふぉっふぉっふぉっ」と笑いながら胴体を伸ばしてそれを取ってくれた。
「あ、ありがとう」
「いやいや、こちらこそ驚かしてしまってすまなかったのう。それにしても大きくなったものだ」
少ししわがれた声は何処か懐かしさを含んでいた。長い髭を撫でながら、うんうんと一人で頷いていた。
「あのやんちゃ坊主がこんなに大きくなるとはなぁ。やはり人間の成長は早いものだな」
「や、やんちゃ坊主って……」
「庭を駆け回ったり、家中を探索したり……そうかと思えば至る所ですぐ寝たりするような子じゃったぞ。まつなも手を焼いとったわい」
そんなに自分は世話のかかる奴だったのか。
昔のことはあまり覚えてないし、祖母も特に話すことはしなかったから知らなかった。
父さんからは手のかからない子だと言われたこともあったが、どうやら祖母の家での僕は結構なやんちゃ坊主だったらしい。
「最後は……そうだそうだ。確か、びいびい泣きながらこの家を去って行ったな」
「へぇ……」
吐水龍は懐かしそうに目を細めた。
一方、言われている本人である僕だが、昔のことを言われても自分は覚えていないのだから他人事のような気がする。幼かったからか、祖母の家にいた頃の記憶がほとんど抜け落ちているのだ。
というか、泣きながらって……そんなにこの家を去るのが名残惜しかったのだろうか。でも、僕はこの家に来るのを嫌がっていたはずだ。それなのに、何で……。
僕はぐるりと家を見渡した。いつからあるのかわからないが、昔から変わらずここにあり続ける家を。
脳裏に過ぎったのは庭に響き渡る幼い僕の泣き声。ばあちゃんは困ったように、悲しそうに僕を見ていた。僕は更に泣きじゃくって、そして――
「ふわあぁ」
僕の思考を掻き消すように間の抜けた声が聞こえてきた。
はっと意識を戻してそちらを見遣れば、吐水龍がそれはもう大きな大きな欠伸をしていた。
「眠いの?」
「……ん、ああ、すまんな。わしももう年での。何もすることがないからずっと寝ているしかないのさ。否、何もできない、と言った方が正しいかもしれんが」
「どういうこと?」
「わしはな、もう水を生み出すこともできないし、空を飛ぶこともできないんじゃよ」
昔はできていたのに、と空を見つめながら吐水龍は呟く。
どうして今はできないのか、とは訊けなかった。彼がとても寂しそうな目をしていたから。
妖怪は人間よりも丈夫で、年を取れば取るほどその妖力は高まるという。そんな彼らができることは人間の僕より圧倒的に多いだろう。
そう思っていたけれど、妖怪にもできないことや今までできていたことができなくなることもあって、歯痒さを感じることもあるのか。
そういうところは人間と一緒なんだな……。
「昔はな……と言っても坊が生まれるずっと昔の話じゃ。この庭の池には色鮮やかな鯉が何匹も泳いどってな。夏には蛍も飛んでいて、それはそれは美しい光景だったんじゃよ」
まあ、今の庭の様子も大好きじゃがの。
吐水龍の瞳は今の庭の景色を映しながらも、彼は遠い昔に思いを馳せていた。吐水龍の記憶の中にある庭はきっと色褪せることなくずっと彼の中にあるのだろう。
「へぇ……僕も見てみたかったなぁ……」
その言葉に返事はなかった。いつの間にか、吐水龍は元の銅像に戻っていた。
「おーい、眠ったのか?」
呼んでみても応答はない。さっきまで動いていたのがまるで夢だったかのようにぴくりとも動きはしなかった。
僕は止まっていた手を動かして、吐水龍のスケッチを完成させた。
そして、身を翻して今度は庭のスケッチを始めた。
吐水龍が話していた昔の庭の光景はいったいどんな風だったのだろう、と思いながら。
*
大雨の音で僕は目を覚ました。雷が轟く程の豪雨だ。でも、それも一瞬の出来事で直ぐに雨は止んだ。
夢現に布団から抜け出す。緩慢な動作で庭へと続く扉を開ける。
空を見上げると、薄暗い雲が晴れて大きな月が出てきた。先程の雨なんて嘘だったかのように空は澄んでいた。
月明かりが庭全体を照らし、雨に濡れた草木がきらきらと輝きを放つ。
僕は誘われるように、サンダルを引っかけて庭へと出る。
「……え?」
掠れた声が口から零れ落ちた。目の前の信じられない光景に僕は目を丸くする。
何故なら、庭の池に水がたくさん溜まっていたからだ。
池の水面がゆらり揺れる。何匹かの鯉が泳いでいた。赤、黒、白のまだら模様の鯉だ。何処からやって来たのかはわからないがそれはゆったりと優雅に漂っている。
ふわりと目の前で光が飛び散った。ふわりふわりと光はゆっくりと宙を彷徨う。
「蛍なんてはじめて見た」
次々と辺りを漂う光が増えていく。互いに呼応するかのように、蛍たちは点滅する。それは天に昇っていって幾つもの星となった。
幻想的な光景に僕は息を呑んだ。
――ああ、吐水龍が見ていたのはこれなんだ。
いつもとは違う美しい美しい庭。もう見ることのできない庭。
僕は目に焼き付けるように、ずっとその光景を眺め続ける。
ふと、吐水龍のことが気になって彼の元へと向かった。けれども、そこに彼の姿はなかった。
「……あれ?」
水盤はあるのに。
一体何処にいるのだろうと辺りをきょろきょろと見渡す。すると、一筋の光がまるで流星のように天から飛来した。
大きな龍だ。長い髭を宙でうねらし、鋭くも美しい眼光で庭を見ていた。煌々と輝く胴体は月とも蛍とも違う気高い光を纏っていた。
僕の体は金縛りにあったかのように動かない。いや、動かせない。決して怖いからじゃない。ただただ動けなかったのだ。
ここにあるもの全てが綺麗で儚くて、動いたら壊れてしまいそうだと思ったから。
ずっとずっと見ていたい。でも、それは叶わない。何故だかそう直感した。
だから、僕は静かにその美しい景色を眺めていた。心に刻みつけるように、ただただ眺め続けていた。
*
気づけば僕は縁側にいた。
どうやら眠ってしまっていたようで、傍らにはスケッチブックが放ったらかしになっていた。
朝だろうか、と思ったが違う。太陽は西に沈みつつあった。
サンダルを足に突っかけて外に出る。
徐々に夜の帳に包まれつつある庭はいつもと同じだった。いや、もちろん日々その風景は少しずつ変化している。だが、雨に濡れたという訳では全くなかったし、池に水なんてない。鯉もいないし、蛍もいなかった。
僕は吐水龍の元へ向かった。
水盤のところにちゃんと龍は鎮座していた。相変わらず深く深く眠っているようで、声を掛けてもぴくりとも動かない。
「やっぱり、あれは夢か……」
庭を眺めながら、苦笑して独りごちる。
「でも、吐水龍が見た庭はきっとあんな風だったんだろうな」
僕は眠り続ける吐水龍に語る。あの儚くも美しい庭の光景を。
夢の中の光景は、僕の記憶の中に確かに刻み込まれていた。




