第十一話 夏祭り
夕刻。何処からかどんどんと太鼓の音が聞こえてきた。微かな音に耳を澄ましてみれば太鼓だけでなく音楽も流れているようだ。
「ばあちゃん、この音何?」
「ああ、今日は祭りの日やからね」
訊けば近くの神社で夏祭りがあるのだという。
小さな神社での小さな小さなお祭り。それでも、絶えることなく続いているお祭りだ。
「折角だし、つゆりちゃん誘って行ってみたらどうだい?」
「そうだなぁ……って、え?」
ばあちゃんの提案に頷きかけたがちょっと待て。
「つゆりさんを?」
「つゆりちゃんを」
「誘えって?」
「そうよ」
「……いやいやいや!」
そんなハードルの高いこと僕にできるはずがない!あまり女の子と話したこともないのに、女の子を誘うだなんて……しかも、好意を寄せている相手を誘うだなんてそんなこと――
「無理。絶対に無理」
「男なら当たって砕けることも大事よ」
「何で砕けること前提?あと、砕けたら立ち直れない自信はある……」
「そんな自信など捨てておしまい。男は度胸よ」
「度胸だー」
「度胸だー」
ばあちゃんの言葉の後に、ひょっこりと現れた小鬼たちが復唱する。
男は度胸。それはわかるんだけど……でも、あまり女の子と話したこともないのに、女の子を誘うだなんて以下省略。
勿論出掛けたくないという訳ではない。寧ろ出掛けたい。もっとつゆりさんと親睦を深めたいとは思っている。別に変な意味じゃなくて……そう、仲良くなりたいだけだ。そうだやましいことなんてないんだようんうんって誰に弁解してるんだ僕は!
僕の思考なんて露知らず、小鬼たちは僕の周りを楽しそうに駆け回っているし、ばあちゃんは微笑ましそうに……いや、生暖かい目で僕を見守っている。
是非とも、どちらもやめてもらいたいのだが。
なんて、腕を組んで困っていると何処からともなく「成る程成る程」と声が響いてきた。
……この声は、まさか!
「話は聞かせてもらった!」
どろん、と僕の目の前に現れたのは管狐だった。もふもふの尻尾をぱたぱたと振ってにやりと奴は不敵な笑みを浮かべる。
……うわぁ、面倒くさいのが増えた。
「女の子一人誘うこともできないなんて、にきはほんと情けないなぁ」
「こっちにはこっちの事情ってもんがあるんだよ」
「嘘だー。にきがヘタレなだけでしょ?」
「へたれー」
「へたれー」
「五月蝿いよ!」
思わず大きな声で叫んでしまう。図星をつかれたからではない。そう、断じて違う。
「本当には駄目な奴だなー」
「駄目な奴って言うな」
「そんなにきに朗報だよ」
「朗報?」
ほい、と手渡されたのは一通の便箋だった。
「何これ?」
「いいから読んでみなよ」
言われて、封を切る。折り畳まれた手紙を開けて見れば、そこには綺麗な字でこう書かれていた。
――急で申し訳ないのですが、今日の夏祭り一緒に行きませんか?
こ、これは……!
生憎肝心の差し出し人の名が記されていなくて一瞬管狐の悪戯だと思ったが、この筆跡は見たことがあった。前に二人で夏休みの課題をやっていた時に見たのだ。
ばっと管狐を見遣れば、奴は「勿論断る理由なんてないよねー」と目を細めて面白そうににやついていた。いつもなら腹立たしいことこの上ない顔だが、今回ばかりは両手をついて管狐を拝みたい気分だ。……いや、しないけど。
「何が書いてあったのー?」
「書いてあったのー?」
「あ、おいこらお前たち!」
気を抜いていたせいで小鬼たちに手紙を取られてしまった。
慌てて手を伸ばすが、すばしっこい上に二体もいるもんだからなかなか捕まえられない。
いとも簡単に軽々と僕をかわして、小鬼たちはそれをばあちゃんの元に持って行った。どれどれ、とばあちゃんが手紙を受け取って遠慮なく見る。
「まあまあまあ。よかったじゃない」
手紙を僕の元に戻しながら、「若いっていいわねぇ」なんて言ってくる。管狐ほどではないがその顔はにやにやと笑っていた。顔に熱が集まって、今僕の顔は真っ赤になっているに違いない。
「それじゃあ、ボクはつゆりに伝えてくるからね」
言うが早いか管狐はどろんと消えた。つゆりさんに僕が行くことを伝えに行ってくれたのだろう。……今度、果物でも買ってきてやるか。
思考に耽っているとぽんと肩を叩かれる。いつの間にかばあちゃんが手に何かを持っていた。
「こんなこともあろうかと用意しておいたんよ」
差し出されたのは紺色の浴衣。……流石に用意周到過ぎやしないか?
もしかしてばあちゃん知っていたんじゃ……いや、深く考えるのはよそう。
とまあ、かくして僕はつゆりさんと夏祭りに行くことになったのである。
*
浴衣を着て急いでつゆりさんの家へと赴く。履き慣れていない下駄は歩きにくかったが、早く早く、と気持ちが急いた。
つゆりさんの家に着くと管狐が玄関のところに座っていた。「もうちょっとで支度が終わるから待ってて」だそうだ。
たわいない話をしていると……というか、管狐に揶揄われていると、ぱたぱたと家の中から足音が聞こえてきた。
「それじゃあ、あとは任せたよ」
そう言って管狐が消えた時、がちゃりと扉が開いた。
「お待たせしました」
出てきたのはもちろんつゆりさんだった。
夜空のような漆黒の生地には色鮮やかな赤と白の花の模様があしらわれていた。その花びらのふちは黄色く、花姿は波打つように反り返っている。
帯は淡い山吹色で浴衣に映えていた。髪も綺麗に結われており、簪も付けている。
つゆりさんのその姿がいつもより大人っぽく見えて、ぼうっと僕は彼女を見つめてしまっていた。
すると、唐突に彼女がぺこりと頭を下げた。
「あの、お待たせしてしまってすみませんでした。……あと、急に誘ってしまってすみませんでした」
「あ、いやいや別に全然いいよ。寧ろ僕得というかなんというか……」
「え?」
「ああいや気にしないで。でも、何で手紙だったの?」
「口伝えだとクダの悪戯じゃないかってにきくんが思うんじゃないかなぁと思いまして」
「ああ……」
確かに一瞬そう思った。なんたって管狐に限らず、妖怪には悪戯好きな奴が多い。奴らにとって僕を揶揄うことは最早日常茶飯事なのだ。いや、奴らに揶揄われることは僕にとって最早日常茶飯事なのだ、と言った方が正しいのかもしれない。
「電話してくれればよかったのに」
「……ああ!」
ぽんと手を叩いたつゆりさんに思わず呆れてしまった。
しゅんと申し訳なさそうにつゆりさんが言った。
「すみません。友だちに電話をしたことがないので……」
「え、あ、いや、そんなに落ち込まなくても……。それよりも、手紙のことなんだけどさ。一瞬これも管狐の悪戯なんじゃないかなって思っちゃったからさ、一応名前書いておいてほしかったかなぁ、なんて……」
「ごめんなさい。名前を書かなくても、にきくんならわかってくれるんじゃないかなぁと思いまして」
「……うん、いやまあ、わかったけど」
僕になら、と言われて嬉しくなり、そんな単純な自分に気がついて気恥ずかしくなった。けれど、言った本人は特に気にしていないようだ。
意識しているのは僕だけか……。
若干悲しくなりながらも、神社を目指して歩き始める。
……浴衣似合っているよって一言ぐらい言えばよかったな。
道中つゆりさんの姿を見ながら考えたが、今更言うのも憚られて結局言えずじまいに終わった。
小さな神社の小さな小さなお祭り。実際に神社に辿り着いて、その光景を見て改めて思った。
小さい故に屋台の数も限られている。食べ物はかき氷やラムネやわたがし、ポップコーンにみたらしだんご……りんご飴とかやきそばとかはないようだ。
勿論食べ物以外の屋台もちゃんとある。射的といった大掛かりなものはないが、金魚すくいやヨーヨーすくい、輪投げなどがあるようだ。
広場の中央には踊り台があって、太鼓を叩いている人、その周りで踊っている人、年配から小さな子までたくさんの人がいた。
あと、人だけでなく妖怪も。お面をつけて人間に紛れて踊っていたり、おいそれどうしたんだよって突っ込んでやりたいほどの食べ物を持っていたりする奴もいた。
途絶えそうで途絶えない。地元の人しか来ないお祭りだとしても、これだけの人や妖怪に愛されているんだ。
いつまでも続いてほしい、と強く思った。
「にきくん、どうかしました?」
「ああ、何でもないよ。うーん、何か食べる?」
「私、かき氷が食べたいです」
「夏の定番だしね。よし、行こうか」
と、ここですんなり手を繋いで彼女をエスコートできればよかったのだが、残念ながら僕にそんな度胸はなかった。
整理券を購入し、かき氷屋台を目指す。涼を求めてか少し混雑しているようだったが、着いた頃にはお客ははけていた。屋台に張られた紙に書かれたシロップの種類は、いちご、レモン、メロンにブルーハワイ。定番中の定番だ。
「つゆりさんは何にする?」
「わたし、いちごがいいです。にきくんは?」
「僕は……うん、レモンしようかな」
いちごとレモンを一つずつください。
整理券を渡して屋台の人に注文すれば「はいよー、いちごとレモン一つずつー!」と威勢のいい声が辺りに響いた。
ふと、屋台にいたうちの一人の男性が振り返って僕たちを――正確に言えば僕の隣にいるつゆりさんを認めた。
「おお、来たな!」
「はい、来ました」
男性が声を弾ませ、彼女がそれに応えた。「え、え?」と状況について行けてない僕に、彼女が男性を手で示して紹介する。
「父です」
「父だ」
「……え!」
こ、この人が例の親バカの父親か!
失礼ながらも心の中で指を差してしまったが許してほしい。
仁王立ちで腕を組んだ目の前の男性ことつゆりさんのお父さんは屈強そうで、華奢な彼女とは正反対である。でも、整った顔立ちはなるほど、彼女に似ている部分もある。……いや、彼女に似ているんじゃなくて、彼女が父親に似ているのか。
思わずまじまじと見つめてしまっていたらしい。その整った顔の眉間に皺が寄せられた。
「おい、友だちと来るとは聞いたが男と来るなんて聞いてないぞ」
「何言ってるんですか。にきくんは私の大切なお友だちです」
不機嫌そうな父親に彼女がはっきりと告げる。
大切なお友だち……嬉しいような悲しいような……。
やれやれと言った様子でつゆりさんのお父さんががしがしと頭を掻いた。
「まあ、来ちまったもんはしょうがねぇ。存分に楽しんでこい」
「はい」
父親の言葉に彼女は満面の笑顔を返す。その笑顔にぼうっと見惚れていると、目の前にずいと何かが差し出された。
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます」
お礼を述べつつかき氷を受け取ると、ちょいちょいと彼女の父親に手招きをされる。その目はギラギラと光っていて……うわぁ、嫌な予感しかしない。
「わかってんだろうな?手ぇ出したら赦さねぇからな」
ドスの効いた低い声で言われ、僕はこくこくとただただ頷くことしかできなかった。
それから僕たちは色々な屋台を巡った。とは言っても、幼い子どもたちに混じって輪投げなどする勇気はなかったし、金魚すくいでは一匹もすくえずに終わったし、祭り櫓の周りで踊っている人たちの輪に入ることもしなかった。
花より団子。わたあめを食べたりラムネを飲んだりして、どちらかといえば食べることに徹していたような気がする。それでも、楽しかったのは夏祭りの空気に当てられたからだろうか。それとも、彼女と一緒にいたからだろうか。
そして、楽しい時間というものははあっという間に過ぎてしまうもので。
祭りの終わりを告げるアナウンスが流れる。音楽は止み、皆散り散りと帰り始めていた。
「……そろそろ帰りましょうか」
「……そうだね」
名残惜しいが仕方がない。
僕たちも帰るためにゆっくりと歩き出そうとした。けれど、つゆりさんがふと何かに気づいて歩みを止めた。
「どうしたの?」
「あれって河童さんですよね?」
「うん?」
ほらあそことつゆりさんが指差す方を見遣れば確かにそこには河童がいた。
あっちへふらふらー、こっちへふらふらー。その足取りは千鳥足で見ていて非常に危なっかしい。
「あいつ、酔っ払ってるのか?」
「ちょっとあれは心配ですね」
「そうだね。……行く?」
「行きましょうか」
河童を回収することを決めた僕たちは人の波に逆らって歩き出した。
*
河童に直ぐに追いつけると思ったのだが、人混みをなめていた。特に走り回る小さな子どもたちを避けるのが大変だった、彼らは前を気にすることなく我が道を行くと言わんばかりに突進してくるから。
取り敢えず、河童が神社の竹林へと入って行ったのは見たのだが、その中に入るのは憚られた。酔っ払いに言っても無駄と思おうが、「何でこんなところに入って言ったんだよ!」と文句を言いたくて仕方がなかった。
昼間でも入ったことのないそこは真っ暗で人気がなくてただただ不気味だった。
何となく嫌な感じがする。「つゆりさんは戻った方がいいよ」と言ったけれど、彼女は河童が心配だからと首を振った。
――普段はあんなだけど、つゆりって意外と頑固なんだよねぇ。
と、前に管狐が言っていたのを思い出した。ああ、確かにそうかもなと一人心の中でその言葉に頷いた。
「足下気をつけて」
「はい」
懐中電灯なんて持っているはずもなく、スマホの懐中電灯アプリで足下を照らしながらゆっくりと歩いて行く。
落ち葉があまり落ちていない小道を進んでいけば、開け放たれた空間へと辿り着いた。そこには何やら大きな石碑があった。
「か、河童!」
「河童さん!」
僕とつゆりさんの驚きの声が辺りに響いた。
石碑の前で河童は倒れていた。まるで干からびそうになって倒れていたあの時のように地面に突っ伏していた。
急いで駆け寄ろうとした。だが、次の瞬間、僕の足は何故か空を切った。
「え?」
あれ、と思った時には僕は落ちていた。何処までも果てしない暗い暗い闇の中を。
長いような短いような時間を経て、僕は思い切り地面へとダイブした。
「痛っ!」
その衝撃に思わず叫び声を上げる。身体のあちこちが痛い。特に右足がかなり痛かった。
いたた、と呻きながら身体を起こせばたくさんの視線を感じた。
辺りを見渡せば、そこには不思議な恰好をした人たちが大勢いた。その身に纏っているものはさっきまで見ていた浴衣でもなければ、僕の知っているような普通の着物でもない。
女の人は頭の上で髪を一纏めにしており、紐や櫛をつけていた。特に男の人の髪型が印象的で、耳の横で髪を結んでいるという独特なスタイルだった。それはまるで歴史の教科書で見たことがある、古代の人々の出で立ちのようで。
人々を囲むように多くの松明が燃えていて、真っ暗闇の空間だがこの場所だけが明るかった。
……ここは何処だ?それにこの人たちはいったい……。
座ったままきょろきょろと辺りを見回していると、口元に髭を蓄えた一人の男が近付いてきた。
腕を組みジロジロと不躾に見てくるものだから、僕は咄嗟に身構えた。
ニヤリ、と男が笑う。
「おーおー、客人とは珍しいなぁ。おい、坊主。腹は減ってないか?ほら、これでも食え」
そう言って、男がぐいと差し出さしてきたのは高杯だった。その上には山盛りの米が乗っていた。いつも食べているものよりそれは生成りがかっていた。
「ほらこっちもお食べ」
今度は大きな耳飾りをした女の人が桃を差し出してきた。みずみずしい新鮮なものだった。
次は魚。次は豆。胡桃や葡萄などといった木の実。たくさんの食べ物が、次から次へと僕の元へ集まってくる。
え、何これいったいどういう状況なんだ?
訳がわからずうろたえていると、がしりと肩を組まれた。
「うわっ!」
「酒もあるぞー、お前もほら飲め飲めー」
「いえ、僕未成年なんで……というか酒臭っ!」
「つれねぇなぁー、ほらほら飲めよー」
「だから、いりませんってば」
未成年に酒を勧めるなんてなんて大人だ!
きっぱりと断れば、チッと舌打ちをしてつまらなさそうに男は去っていた。
……面倒臭っ!やっぱり酔っ払いって面倒臭っ!
内心毒付いていると、今度は何処からともなく楽器の音色が聞こえてきた。いつの間にか笛を吹く人や琴を奏でる人がいて、皆その周りに集まっていく。
その音楽に合わせて陽気に踊り、歌っている。さっきの酔っ払いの男もその中にいた。
皆楽しそうにしていてとても幸せそうだった。そう思うのに、僕の心は何故だか靄がかかっていた。
「これも美味いぞ。遠慮せずに食いな」
男が声を掛け、食事を勧めてくれる。
でも、僕はそれに手をつけなかった。さっき祭りでたくさん食べてお腹が膨れていたからではない。それもあるが、どうしてだかそれを食べたいと思わなかった。
「さあさ、貴方も踊りましょう」
女の人がこの宴を一緒に楽しもうと誘ってくれる。けれど、僕はそれに応えることができなかった。足が痛いのもあるけど、その輪の中に入っていかなかった。
周りの人たちは僕を気に掛け親切にしてくれる。
けれども、僕は軽く受け答えをするだけで、皆の様子をただただぼうっと眺めていた。
聞こえてくる音楽は酷くぼんやりとしていて、まるで水の中から聞いているようだった。
目の前の光景は確かに存在しているはずなのに、まるで夢の世界の出来事のように意識がぼんやりとしていた。
ぽとり、と何かが落ちた。
え、と思って目元に手を持っていく。手についた雫を見て驚いた。何故だかわからないが、僕は泣いていたのだ。
「おい、どうした坊主?」
「どうかしたの?」
周りの人たちが心配してくれる。「何でもないです」と返したが、その声は震えていて全然何でもなくはなかった。
僕は、孤独を感じていた。
ここには、僕の知っている人も妖怪も誰もいなかった。親切にしてくれる人たちには申し訳ないが、ただただ帰りたくて仕方がなかった。
涙を拭ってすっくと立ち上がる。その拍子に右足が痛んだが気にしない。
「親切にしていただいてありがとうございます。すみませんが、僕は帰ります」
はっきりと告げ、できるだけ丁寧にお辞儀をした。
辺りがしんと静まり帰った。食事をしていた人も楽器を奏でていた人も踊っていた人も皆が皆僕を見ていた。
「そうか、坊主は帰りたいのか」
最初に食べ物を勧めてきた男が眉尻を下げて残念そうに言う。
「久しぶりの客人だったんで楽しんでもらいたかったんだけどなぁ。帰りたいなら仕方がねぇ」
男が豪快に笑う。組んでいた腕を解いて、真っ暗闇を指差して高らかに言い放つ。
「声が聞こえる方へ行け。お前の名を呼んでいるモノの方へ。そうすれば帰れる」
「わかりました。皆さんありがとうございました」
さようなら、と彼らに別れを告げて僕は歩き出す。後ろを振り返ることはなかった。
右足を引き摺りながら、真っ暗闇の中をただただひたすらに歩く。何処へ行けばいいかなんて全然わからなかったけど、恐怖を感じてはいなかった。
早く帰りたい。
早く皆に会いたい。
その思いが僕の心の中を占めていて、歩みを早くする。
――にきくーん!
――にきー!
――若ー!
不意に声が聞こえた。遠い遠い何処かで僕のことを呼んでいる。
はっと上を向いた時、突然ぐんっと身体が引き上げられた。
長いような短いような浮遊感に襲われ、そして――
「……痛っ!」
気づいた時には地面へダイブ、再び。
くっ、一度ならず二度までも……。
流石にこれには身に堪えた。……精神的な意味でも肉体的な意味でも。
「にきくん!」
「にき!」
「若!」
僕に気づいたつゆりさんと河童が急いで駆け寄ってきてくれた。浴衣も足下も泥だらけの僕を心配そうに見つめる。
「大丈夫ですか?」
「うーん、あんまり大丈夫じゃないかも」
上体を起こしながら苦笑いで返す。さっき言った通り、精神的な意味でも肉体的な意味でも疲れていた。
と、ここでべしりと頭をはたかれた。
「何また巻き込まれてるんだよー!」
「いや今回のはマジで不可抗力……って、あれ、何で管狐がいるの?」
「何かあった時のために二人を尾行してたんだよ!ぶっちゃけ、にきが何かやらかしてそれを笑いのタネにするために尾行してたんだよ!」
「……お前、少しは包み隠せよ」
ぷんぷん怒る管狐に、「全くこいつは……」と顔に手を当てて呆れる。そんな僕に「わ、若……」と震えた声で話しかけてきたのは河童だった。
「話はお嬢とクダから聞きやした……おいらを追いかけてくださったせいでこんなことになってすみません!」
河童はその場で土下座をした。頭のお皿がそれはもうよく見える程の土下座だった。
「ぷふー、これはまた見事な土下座だね」
「いけませんよ、クダ」
笑う管狐をつゆりさんが窘めた。「はいはい、黙ってますよー」といじける管狐を横目に、「すみません。続けてください」と彼女は話を促した。
それでは、と咳払いをして僕は河童に向き直る。
「顔を上げてよ、河童」
「若……」
「僕たちが気になって追いかけてきちゃっただけだしさ。こんなことになるなんて普通誰も思わないだろ。だから気にしないで」
「わ、若ー」
「まあ、酒を飲むのは程々にしてもらいたいけど……」
「違うんっす」
「ん?何が?」
あのー、そのー、と頭のお皿を撫でながら河童が口籠もる。何か言いにくそうにしている河童に、「どうしたんだ?」僕は首を傾げる。すると、河童の代わりにつゆりさんが話してくれた。
「正確に言うと河童さん、酔っ払っていなかったんです」
「は?」
「おいらが飲んだのは酒じゃなくてサイダーなんすよ。祭りの雰囲気に当てられて……何か、その、酒を飲んだみたいな感じについつい上機嫌になっちまって……」
「酒じゃなくてサイダーって……なんだよ、それ……」
お前なぁ、と続けようとしたが、呆れのあまり気が緩んでしまったのだろう。
皆の驚いた顔が見えたと思った時には、ぐらりと身体が傾いていた。
……ああ、今日これで三度目だ。
土の感触を味わいながらぼんやりと考えた。
そして、情けないことこの上ないが、僕はそのまま意識を手放してしまったのである。




