第一話 家鳴
空を仰げば照りつける太陽に目が眩んだ。青い空には大きな積乱雲が浮かんでいる。それを眺めていると「夏だなぁ」と当たり前の言葉が口をついた。
夏の日差しの下、都会というよりは田舎、ど田舎というよりは都会、でもどちらかと言えば田舎な町を僕は彷徨っていた。
「この道を真っ直ぐでいい、はず……」
ずれた帽子を直して改めて手元を見遣る。スマホの地図アプリと記憶を頼りに歩いていく。何かあった時のためにと父さんに持たされたスマホは早速役に立っていた。
桜の木が道端にある十字路に差し掛かった時、ふと顔を横に向ける。
「あ、ここか」
四方は石塀で囲われており、中央には黒い鉄門。その上にかかるように生える松。そして、その奥に佇む家。
記憶の片隅にもあるその家はまさしく祖母の家だった。
「……着いた」
ほっと胸を撫で下ろす。スマホを持ってはいたが、そこはやはり慣れない土地。ちゃんと辿り着けるかどうか少し不安だったのだ。
それにやっぱり緊張していた。いや、今現在緊張している。家の外面を見ても祖母がどういう人物なのか未だ思い出せてはいないから。
深く息を吸って吐く。ゆっくりと僕は呼び鈴へと手を伸ばした。
と、その時。僕が押す前にがらがらと玄関が開いた。
手を伸ばしたまま、はた、と固まる僕。対して、家から出てきたその人物は特に驚いた様子はなくこちらへ歩いて来て黒い鉄門を開けた。
「よう来たね」
真っ白な髪を後ろで一つ結びにしたその人物――僕の祖母ことまつなは、優しそうな笑みを浮かべた。
急のことでついていけず、ただただ立ち尽くしていた僕は、声を掛けられてはっと意識を戻した。居住まいを正して挨拶を返す。
「今日からお世話になります。にきです。宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しくね。さあさ、こんなところで立ち話も何だし、早よ中に入ろうか」
促されて僕はその後についていく。きょろきょろと辺りを見回して、景色を見ながら玄関へと向かう。
敷地内に入ってすぐ、両側に大きな岩があった。それを越えて右に行けば手洗い場が、左に行けば庭へと続く道がある。縁側に面しており、小さな石橋もあるそこそこ大きな庭だ。池もあるのだが水はたまっていないようだ。飛び石を超えて石橋を走り渡っていた記憶が頭を過ぎる。
真っ直ぐ進めば家の玄関だが、その間にも名前もわからない草花や木々があった。
玄関の前には梅の木があり、時期になれば大きな実を実らせてぽとぽとと落とす。それを小さな手で拾っては喜んでいたのも朧げだが覚えている。
何となくだけど覚えているもんだな……。
と、懐かしさを覚えたその時、庭の木々がざわざわと揺らめきだした。風も吹いていないのに、だ。
あれ、と少し不思議に思ったが、鳥が木に止まっただけだろう。
特に深く考えることなく、「さあさ、お入り」と玄関の扉を開けた祖母に倣って、「おじゃまします」という言葉とともに中へと入る。土間で靴を脱ぎ、きちんとそれを揃えて段差を登った。
案内されたのは、真正面に襖、他三方を障子で囲われた部屋だった。部屋の中央には年季の入った木製の机があり、片隅には積まれた座布団があった。
「暑かったでしょう。荷物は一旦そこに置いて、一服しましょうかね。お茶持って来るからちょっと待っててね」
「ああ、はい」
座布団を敷きながら祖母が言った。僕は促されるままに荷物を置いて座布団の上へと正座して座る。
それを見ていた祖母がくすくすと笑った。……何か可笑しかっただろうか。
「別に正座じゃなくて胡座でいいんよ」
「ああ、はい」
言われて足を崩す。よしよし、と頷いて祖母は部屋から出て行った。
それを見届けて、はあと息を吐いた。一旦座り込んだせいかどっと疲れが押し寄せてきた。
「あー、疲れた」
寝転がりたいところだがそこまでだらけるわけにもいかない。
手持ち無沙汰だったためぐるりと部屋を見渡す。やはり何となくだが記憶はあった。
松や竹、鳥の彫刻が施された欄間。
今は閉じられているが、富士山と鶴が描かれた襖の奥には更に部屋があってそこには仏壇があったはずだ。
「……ん?」
思い馳せていたその時、ふと視界の片隅で何かが動いた気がした。
「気のせいか……」
ぱちぱちと瞬きしてみたが特に何も変化はない。そんなに疲れているのか自分……。
「お待たせ。さあさどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
出されたコップを受け取ってぐいっと飲む。キンキンに冷えた麦茶が喉の渇きを潤していく。自分が思っていたよりも喉が渇いていたらしい。止まることなくごくごくとそれを飲み干した。
「おかわりいるかい?」
「あ、もう大丈夫です」
「そうかい。それにしても、さっきから気になっていたんやけど……にきちゃんはもともとそんな風に喋るのかい?」
「え?」
「さっきから敬語ばかりよ」
「ああ……いえ、違います」
「ほらまた」
指摘されて、あ、と口元を抑える。そんな僕を見て祖母が笑った。
「私はあんたのばあちゃんだ。まあ、そういう風に敬語を使えって躾る家もあるんやろうけどね。私の前で敬語なんて使わなくていいんよ。あと、何処かに出かけてここに帰ってくる時はただいまと言うんよ。おじゃましますは止めてな」
「は、はい……じゃなくて、うん、わかったよ」
僕の言葉を聞いて、祖母……いや、ばあちゃんは満足そうに笑った。
「さて、にきちゃんの部屋だけどね……離れの部屋を掃除しておいたんだけど、場所はわかるかい?」
「うん。そこの部屋だよね」
僕は庭の方を指差した。庭の奥には小さな建物がある。そこが離れで、この母屋の渡り廊下を歩いて行けばそこにつけるはずだ。
「よう覚えとるね」
「いや、何となくだけど……」
「あんたがこの家におったのは、何年も前のことやのにねぇ……」
感慨深くばあちゃんが頷く。
そう、僕はこの家に住んでいたことがある。とは言っても、何年も前のことだ。
今回のように父の仕事が忙しく、僕が幼かったのも相俟って、ばあちゃんの家に預けられていたらしい。けれど、その記憶は酷く朧気だった。
この家で過ごしたのはそれから一度もなかった。何故だかわからないが、幼い頃の僕にはこの家に行きたくないという思いが強くあったようだ。
どうしてここが僕にとって鬼門のような場所になったのだろう。
考えてみるがさっぱりわからない。別に嫌な気はしないし、ああ、あそこにはあれがあったな、などと思い出すのも楽しい。何より懐かしくて安心する。ただ、何処か不思議な感じはするのだけれど、それはきっと住み慣れていない家に来たからだろう。
物思いに耽っていると、突然電灯ががたがたと揺れ出した。
「じ、地震?」
驚いた僕は慌てて腰を上げかけたが、ばあちゃんにそれを制された。「大丈夫だから座ってなさい」とのんびりとお茶を啜るその姿に、慌てている僕がおかしいんじゃないかと思い、心配ながらもその場に座り直す。
けれども一向に部屋の揺れは収まらない。僕は取りあえず電灯が落ちてこない位置に移動しようとした時、
「いい加減にしなさい!」
突然ぴしりとばあちゃんが叫んだ。その声にびくりと肩が揺れる。どくどくと心臓が鳴り、少しばかり冷や汗が出た。
……僕、何かやらかしただろうか。
素行?……いや、ばあちゃんの言うとおり座ってたし。もしかして、移動しようとしたから怒られたのか?
考えてみるがわからない。理由はわからないが謝っておいた方がいいだろうか。
「ああ、悪かったね。にきちゃんに言ったわけじゃないんよ」
いつの間にか難しい顔をしていたようで、「驚いたかい?」と訊かれた。素直に頷けばあっはっは、とばあちゃんが笑った。
その間も部屋は揺れ続けている。やれやれといった様子でばあちゃんが立ち上がる。
「早くやめなさい。悪い子は締め出すよ」
部屋中に響き渡るように告げられた言葉。笑顔で紡がれたそれには、有無を言わせぬ圧力があった。
ああ、この人を怒らせちゃいけない。直感的に僕は思った。
「怒られたー」
「怒られたー」
ぴたりと揺れが収まったかと思えば、とすん、と上から何かが落ちてきた。それも続け様に、だ。
「驚かそうと思っただけなのにー」
「だけなのにー」
赤と青のそいつらは机の上で、きゃっきゃきゃっきゃと騒いでいる。対して僕は目を丸くした。
頭に二本の角を生やした赤いモノと、一本の角を生やした青いモノ。正しくそいつらの姿は昔話によく出てくる鬼のそれだった。けれど、決しておどろおどろしいモノではなく、手のひらサイズの可愛らしい小鬼だった。
彼らがぴょんぴょん飛び跳ねる毎に、どしんどしんと机が揺れる。
「これお前たち、机の上でそんなことをするんじゃないよ」
「はーい」
「はーい」
「全く、いつになったらその素直な返事が本当になるのかしらねぇ……」
慣れた様子でばあちゃんが苦笑いした。
一方、僕はというと未だ固まったままだった。目を見開いて、金魚のように口をぱくぱくとしている姿はさぞかし滑稽だろう。
そんな僕を見て、ばあちゃんがちょっと驚いた様子で訊ねた。
「おや、この子たちが見えているのかい?」
「う、うん」
こくりと頷けば、「そうかい、見えるんだねぇ」と微笑まれた。その笑顔は何処か嬉しそうだった。
目の前にいる奇怪なモノたちの存在が信じられなくて、自分の頬を抓ってみた。
「……痛い」
夢ではない。これは現実のようだ。
「何で頬抓ってるのー?」
「抓ってるのー?」
「自虐趣味でもあるのー?」
「あるのー?」
「ないわ!」
突っ込んでも小鬼たちはきゃっきゃきゃっきゃと笑うだけだった。きっと、僕の反応を見て面白がっているのだろう。……いや、確実に面白がっている。腹抱えて笑っているし。
「ごめんなさいね、にきちゃん。この子たちは悪戯っ子でね。さっきの家鳴もあの子たちが原因なのよ」
「やなり?」
「さっきの揺れのことよ。ほら、あんたたちも謝りなさい」
「全然驚いてなかったからやだー」
「つまんなかったからやだー」
ばあちゃんがそう言うや否や小鬼たちはぱっと机から飛び降りてどろんした。それはもう脱兎のごとく……いや、兎は消えはしないし、そもそも奴らは兎なんて可愛いモノではない。
騒がしかった二体がいなくなり、まるで台風が過ぎ去ったかのように部屋に静寂が戻った。
「……えっと」
口を開いたはいいがすぐに噤んだ。
いきなり現れて消えたあいつら――小鬼のことをばあちゃんに何て訊けばいいかよくわからなかったから。
けれど、ばあちゃんは見透かしていた。「ええよ。何でも訊きなさい」と静かに告げたのだ。
許可を得た僕は再び口を開く。
「あいつらって何なの?」
「見ての通り小鬼だよ。妖怪、妖、物の怪、怪異、魔物に化け物……呼び方は色々あるけど、まあそういった類の子たちよ」
「……へぇー」
然も当然といった風に説明され、頷くことしかできなかった。信じられないが先程しかとこの目で見たし、痛みは和らいだが抓った頬は痛かったから。
お伽噺や昔話で出てくる妖怪は確かに存在していた。
不思議なことに妖怪のことを否定する気はなくて、僕はその事実をすんなりと受け入れた。
そして、僕はばあちゃんから妖怪談義を受けた。
妖怪を見える人は限られていて、生まれつき見える人もいれば、突然見えるようになる人もいる。はっきりと存在を認知できる人もいれば、幽かにしか感じ取られない人もいる。人によってそれはまちまち、とのこと。
因みに、ばあちゃん曰く、父さんは見えないらしい。血筋は全く関係なくはないようだが、要はその人に見える素質があるかないかが重要だそうだ。
妖怪にはさっきの小鬼のように人の前に姿を現すモノもいれば、人と関わるのが嫌で人の前に姿を現さないモノもいる。ちょっとした悪戯をしてくるモノもいれば、もっと危険なモノもいて最悪命を狙われることもある……らしい。
「何それ無茶苦茶物騒!」
「十怪十色と言うしねぇ」
「いやいやそんな言葉ないし!」
「ふふふ。でもまあ、仕方がないと言えば仕方がないんよ。だって、孤独やから」
「え?」
「孤独なんよ。妖怪も、それが見える人間もね。まあ、生きているモノは皆、何処かで孤独を感じているものなんやろうけど」
目を閉じて静かに告げられた言葉。それは何処か寂しさを含んでいた。
何も言えず、僕は黙ってしまった。
カチカチと掛け時計の音だけが聞こえてくる。
だがその沈黙も一瞬のことで。先程の言葉を払拭するようにばあちゃんが明るい声で言った。
「まあ、安心しなさい。この家にいる子たちはそんなに物騒なことなんてしないし、ここいらの妖怪たちもそこまでのことはしてこないから」
「……ほんと?」
「まあ、断言はできないけどねぇ」
「何それ無茶苦茶不安!」
「大丈夫大丈夫。慣れれば平気よ」
のんびりと言われたが不安で仕方がない。慣れでどうにかなるものなのだろうか……。
「兎に角、もし何か困ったことがあったら遠慮せず気軽に相談するんよ。誰かに頼ることも大事やからね。あと、絶対にとは言わないけど安易に関わらないように。見えると絶対に関わらないなんてことは無理やけど。取りあえず、まずは害を為すモノかどうか様子を見て、それから行動するように。時と場合によっては無視することも大事やからね」
勿論妖怪の以外のことでも気軽に相談するんよ、と言われ素直に頷く。ばあちゃんは満足そうに微笑んだ。
「さて、そろそろ夕飯の準備でもしようかね」
壁に掛かっている時計を見ればもう夕刻を示していた。日が落ちるのが遅く辺りもまだそこまで暗くなっていないから、そんなに時間が経っているなんて気がつかなかった。
「あ、僕も手伝うよ」
「そうかい?でも、今日はええよ。疲れたでしょう」
「うん……」
「そうだろうねぇ……まあ、明日から手伝ってもらおうかね」
そう言ってばあちゃんはよいしょと立ち上がる。そして、何かを思い出したのか、「ああそうだ、と呟いてくるりと身を翻して僕を認めた。
「荷物、部屋に置いてきなさいな」
*
先ほどの部屋を出て縁側を通り、渡り廊下を歩いた先にある場所を目指す。そこが先程言った離れ――僕に宛がわれた部屋だ。部屋の右側にある大きなガラス戸を開け放てば、そのまま庭に出ることができる。
部屋の片隅には箪笥と折り畳み式の机があった。押し入れの中には布団が入っていて、寝る時はそれを使うようにとのことだ。他にこれといった家具は特に置かれていない。
持っていた荷物を置いて一息吐く。さっきはできなかったけど、今度は躊躇することなくごろりと畳の上に寝転がった。
「疲れた……」
何が、と言えば全てだ。この家に来る道のりも、久しぶりにばあちゃんと会ったことも。そして何より、妖怪が見えるようになってしまったことも、だ。
正直言って不安だ。なんせ、今まで見えていなかったモノが見えるようになってしまったのだから。
でも、それでも。何故かほっと安心している自分がいた。なんでこんな気持ちになっているのか自分でも不思議で。不安と安心がない交ぜになって、よくわからない感情に見舞われる。
「まあ、何とかなるさ……」
何とかなる。何とかなる。
自分に言い聞かせるように何度も何度も呟いた。そうしているうちに、段々と瞼が下がっていく。色々ありすぎて思いの外疲れてしまっていたようだ。
ばあちゃんが「ご飯よー」と呼びに来るまで、そのまま眠りこけてしまったのだった。




