〈2章 彼女の反撃と忠告〉
「七瀬・・・さん?」
唐突に眼前に現れたその美少女に半ば目を奪われるようにして、僕はしばらく固まっていた。彼女もまた、大きな瞳をいっそう強調するかのように広げた目で僕を捉えて離さない。
彼女が背を伸ばして佇むそのさまは、まるで上品な芸術作品であった。
重力に従い緩やかに伸びた黒髪は、彼女の腰よりやや上のあたりで落ち着いている。前髪の下から覗くのは、言葉では表現できないほどに美しいふたつの瞳だ。漆黒のまつ毛がすらりと行儀よく伸びている。そのさらに下には自己主張の控えめな鼻と唇が整然と並んでいる。そしてそれらを包み込む頬は雪のように白く、見ている者に冷たい印象を抱かせる。そのひんやりとしたオーラを染み出す肌は、ブレザーの袖口とスカートの下からもその姿を露わにしている。
きっと彼女は、神や仏のような理不尽な存在がお創りになった至高の作品なのだろう、と僕は息を飲んだ。しかし、本当に神や仏といった存在が彼女を創造したのであれば、彼女は日ごろ世界中の人々が崇める高貴な方々の下心から生まれたということになるのではないか。やはり万国共通、男はいくつになってもピチピチの美少女を愛でるものなのだ。
僕が、彼女を取り巻く年配の男たちの背後から後光が差しているようすを想像していると、ふいに彼女は口を開いた。
「・・・これがいわゆる視姦という行為ね。いざ面と向かってやられると、とても気持ちの悪いものなのね。新しい発見をありがとう。そしてもう二度と私を視姦しないでちょうだい」
彼女が踵を返して教室の扉へと向かおうとしたので、僕は慌てて呼び止めた。
足を止めるも振り向くことをしない彼女に、背中越しに訴える。
「その・・・じっと顔を見続けたりして、君を不快に思わせたことは誤る。けど、僕だって必死だったんだ。ほら、変な生き物が僕の足に絡みついているだろ?僕はただ、助けて欲しかったんだ」
「加藤先生に足を拘束されていたために、私を視姦したことは不可抗力であると?あなたはそう言うのね?」
振り返った彼女の睨むような視線に少々肝を冷やしたが、僕は食い下がった。
「シカンシカンって、そんなに僕に見られたことが気に食わなかったのか?なら明日からその大事な顔面を隠すためにお面でもつけてきたらどうだ?」
「そうね。その案も検討してみることにするわ」
「そもそも男子というものは女子をよく見るものなんだ。これはつまり、僕が健全な男子高校生であることのゆるぎない証左だ」
「ということは、やはりあなたは下心があって私を凝視していたということになるわね」
ふと気がつけば、僕たちのやり取りを見物する野次馬たちが増えてきていた。そもそも七瀬さんは自分からは必要最低限のことしか話さないため、今のような状況が人を引き付けるのは自明の理である。
と、ここで意外な人物が動いた。
「あら七瀬さん!この前の感想文すっごくよかったよー!あんなの高校1年生にはなかなか書けないよ」
ほんの数秒前までゾンビのように唸りながら僕の足にへばりついていた姉が起き上がっていた。何はともあれ、僕の体が拘束から解放されたことは喜ばしいことである。
まるでまともな人間であるかのように振る舞う姉に、七瀬さんは軽く頭を下げる。
「お褒めに預かり恐縮です」
「そんな社交辞令みたいな返事いらないから!」
「そうでしたか」
「うんうん。あっ、そうそう!それで私が七瀬さんに言いたかったのはね――」
邪知暴虐の王の如き悪辣な顔で、姉が僕に目配せをした。それにつられて野次馬たちの視線が僕へ集まる。
「――私の弟があなたに破廉恥な視線を送ってしまってごめんなさい。あんなゲス野郎に穢されて、とってもつらいでしょう」
「ええ。私の純潔は奪われたも同然です。ですが私はとても懐の深い人間ですから、あのような取るに足らない男の所業にも赦しを与えるのです」
「七瀬さん・・・!あなたは聖人かっ!」
人目を憚らずに嘘くさい笑顔を湛える七瀬さんと、同じくたいへん嘘くさい涙を流す姉の息はぴったりだった。もしも読者の皆様が学校で『加藤紅葉の心をを傷つけるには』と題したレポートの提出を教員から求められたのなら、彼女たちに尋ねるのが良いだろう。
しかしこれ以上この場にいては、さすがに僕の沽券に関わる。僕の明晰な脳が包括的な稼働を始め、「退却」という結論に至るまでにそう長くは必要としなかった。
「・・・あら、てっきり何か言い返してくると思っていたのだけれど」
教室内へ逃れようとする僕の背中を七瀬さんが追撃する。彼女はきっと、僕の体力がとっくにゼロだということを知らないのだろう。あるいは知ったうえでのこの猛追なのであろうか。
「君が何かを言い返して欲しくてそんな茶番をやっていることくらい、僕にだってわかるさ。だからここは何も言わないでおく。戦略的撤退だ」
「待ちなさい。あなたがここで立ち去るというのなら、私は引き止めなければならないわ」
「なんだよ、まだなんかあるのかよ?」
少々声を荒げたつもりだったが、振り返った視界の中央にある七瀬さんの表情はやはり芸術的なまでの無表情であった。
「ひとつ気になったからアドバイスよ。あなたのそれ、まさか無自覚ではないでしょうね?」
「『それ』ってなんだよ。指示語は相手に伝わるように使わなきゃ意味ないだろ」
「・・・・・・呆れた。本当に無自覚なのね。まあ、いいわ。外から眺めている分にはそれなりにおもしろいし、存分に続けるがいいわ」
「おい、だから一体なんなんだよ!」
「撤退するのではなかったの?それともまだ―――」
高揚しているのか、彼女の口調が僅かに速くなってきていると感じた。
だが。
「あの・・・お取込み中悪いんだけど、もうすぐホームルーム始まる時間だから教室のほうに・・・ね?」
恐る恐る姉が移動を促してきた。僕は今までの人生の中で、この時ほど姉が教師であることを誇りに思ったことはないだろう。
僕たちを取り囲んでいた野次馬生徒たちがちらほらと移動し始める。だが誰も言葉を発さない。両目を閉じ、腕組みをして立っている七瀬さんといい、その場にはなんとも気まずい雰囲気が充満していた。