3 塾講師
時計を見るとそろそろ家を出なければいけない時間だった。
塾に通う桜を迎えに行くために。お父さんは仕事で夜遅くまで帰ってこないしお母さんは車の免許を持っていない。だからと言って私が迎えに行く必要はないけど、それでも桜が心配なのだ。あの子はやたらと可愛いからもし一人で帰っている最中に何かがあったら……と考えてしまう。
それに、塾にはあの関口遙もいるから。
「あれっ。桃?こんな時間に何してんだ?」
玄関を出ると隣の家から同じように出てくる真澄がいた。
タイミングがいいのか悪いのか。私は無視をして路上を歩く。
「桃もコンビニ?」
しかし何故かその後ろをついてくる真澄。
「何なの?」
仕方なく振り返る。
「女の子がこんな時間に一人歩きはダメっしょ。夜に出掛けるなら連絡しろよ」
「誰に」
「俺に決まってるでしょーが」
「……なんで?」
意味がわからない。
真澄は時々、聞いてるこちらが嫌になるほどフェミニスト的な発言をする。だからこいつはモテるんだろうな。好きな女の子以外には冷たい兄の拓真とは違い、真澄は誰にだって平等に優しい。普段はがさつなくせにこういったところで紳士的な一面を見せるものだから、女の子たちはそのギャップにやられてしまうんだ。
「だって普通に心配じゃん?桃だって、一応は女の子なわけだし」
「一応、ね。ていうか真澄には関係ないでしょ。ついて来ないでくれる?」
「待てよ桃。ホントにどこ行くわけ?そっちはコンビニじゃない」
「どこでもいいでしょ」
あーもうしつこいな!
真澄ってこんな性格だっけ?前まではここまで言えば簡単に引いてくれたのに。
「まさか、これから兄貴と出掛けるとか?」
「は?」
なんでそうなるの。
真澄の唐突な発言に私は目を丸くする。まさかとは思うが前回の誤解がまだ尾を引いているのか。
「兄貴、友達と遊んでくるから遅くなるとは言ってたけど……それ、まさか桃のことかよ」
「何言ってんの?」
「桃は兄貴が好きとか?兄貴だけはやめとけよ。似合わないし」
「はぁ?」
このブラコンめ!
真澄と拓真は兄弟仲が良い。真澄としては尊敬する兄に私みたいな虫がつくのが気に食わないのだろうけどさ。似合わないのだって本当のことだし、容姿端麗で頭も良い拓真とどんぐりみたいな私とでは釣り合いがとれないのも分かってる。でも何だか真澄にそこまで言われるのは癪だ。
「私が誰を好きになろうが、真澄には関係ないでしょ」
「……」
きつく訴えれば真澄は何も言わなかった。俯きがちに視線を落として「それもそうだな」と納得する。
「で、桃は今からどこ行くんだ?」
関係ない、で納得したわけではないのか。
懲りずに行き先を尋ねてくる真澄に今度は私の方が折れた。
「……桜の塾の迎え」
途端に目を輝かせる真澄。
分かりやすいことこの上ない。
「俺も行っていい?」
「好きにすれば」
あーあ。こうなるだろうと分かっていたから教えたくなかったんだよねぇ。
◇◆◇
塾に着いて時計を見るとまだ時間があった。隣に真澄がいたせいか知らず知らずのうちにいつもより早歩きで来てしまっていたらしい。
私たちは入り口の植木のすぐ傍で桜の終わりを待つ。
「というかさ、桃はいつも桜を迎えに行ってんの?」
何の脈絡もなしに真澄が話しかけてきた。無視をしたらしたで面倒臭そうなので適当に返事をする。
「まーね」
「一人で?あんな暗い夜道を歩いて?」
「街灯あると思うけど」
「フツーに暗いじゃん、あんなの。灯りとは言わない。桃って自分が女の子な自覚ある?」
「……」
ちらりと横目で真澄を確認すると、その顔は至って真剣。ひょっとして説教でも始める気なのか。勘弁して。
「真澄、前よりなんか口うるさくなってない?」
以前はもっとつかず離れずのちょうどいい距離を保ってくれていたのに。立ち入った話だってしなかったし、こうしてあれこれと小言をこぼすこともなかった。
なのに今やお母さんみたいなことばかり。何が真澄を変えたんだろう。
「当たり前だろ。桃が心配なんだから」
「……幼なじみだから?それとも桜?親たちに配慮してのことだったら、ありがた迷惑ってやつだけど。別に必要ない」
「違う!そうじゃなくて」
途端に掴まれる二の腕。
びっくりした、というよりも珍しく焦っている真澄の滅多に見られない表情に何故か身動きがとれなくなる。
……意味が分からない。
必死に言い募ろうとしている姿はまるで私に誤解されたくないみたいで。私なんかに。真澄は懸命だ。
「俺は桃のことも、大事な幼なじみだと思ってる」
まっすぐにこちらを射抜く真摯な瞳。何の曇もないそれはただただ眩しすぎて。
自分との違いを思い知らされてしまう。
「離……」
真澄の拘束を振りほどこうとした時。
「桃ちゃーーーん!授業終わったよ、今日も迎えに来てくれたんだね!桜、感激っ!!」
夜の帳が下りた静寂さを突き破る声が辺りに響く。
桜が建物から出てくるところだった。
「桜……」
彼女の登場に真澄はようやく手を離してくれた。
「あれぇ?真澄くんもいる!どーして?」
トコトコと可愛らしい擬音がつきそうな小走りでこちらに駆け寄り、真澄がいることを不思議に思っている様子の桜。桜のことが好き過ぎて塾にまで来ちゃったんだよとは流石に言えず、なんか着いてきたとだけ簡潔に話しておく。
「そぉなんだ~。桜、嬉しい!」
無邪気に真澄の腕をとってはしゃぐ桜に真澄も満更ではないようだった。
兄の拓真もだけど、ほんと分かりやす……。
「桜ねぇ、さっきまで先生とお話してたの。あ、桃ちゃんも初めてだよねっ?紹介するね~、関口先生」
こちら、と桜が紹介したのは私が最も会いたくない人物だった。
関口遙。桜の後ろにいるなとは思っていたけど敢えて存在を無視していたのに。こうなってしまっては仕方がない。私はゆっくりと彼に視線を合わせた。
「……どうも、初めまして。塾講師のアルバイトをさせてもらってます、関口遙です。お二人は桜さんのお友達かな?」
ぽわんとした桜によく似た雰囲気の男。いかにも人畜無害そうな笑みに思わず騙されそうになる。
「違いますよぅ!桃ちゃんは私の家族!大好きな妹なのーっ」
私が言葉を発するより早く桜の否定が入る。
「ああ、先程桜さんが話していた双子の妹だね。とても仲が良いんだって?僕にも弟がいるけど、思春期だからかな。会えば口喧嘩が絶えなくてね、羨ましいな」
関口遙は私の方を見てそう言った。目尻を下げてにこやかに談笑しているはずなのに、私には何かを探ろうとしている冷たい目に思えた。
本当は羨ましいなんて微塵も思ってないんだ、この人は。
「そちらの男の子はきみの彼氏?」
真澄を一瞥して、再び私に問いかけてくる。真澄が驚いた顔をしていたけど安心して。私もあんたとカップルに見られるのは御免だから。
「桜、帰ろう」
「えっ?桃ちゃん?」
桜の手をとって私は歩き出す。絡み付いて離れない関口遙の視線が気持ち悪い。
「おい!桃?急にどうしたんだよ」
関口遙はいつも桜を見ている。ドロドロに混濁した目で、けして綺麗とは言えない感情を綯い混ぜて。そして、桜の妹である私のことも……。
あれはどういう意味?あの視線に何がこもってるわけ?
愛情?憎悪?分からない。
そもそもそんなに簡単なものなの?
問いかけを無視した挙句に途中で立ち去るという何とも不躾な態度をとったにもかかわらず、振り返った先にいた関口遙は憤怒しているわけでもなくニコニコと底しれない笑みを浮かべていた。
『―――きみはお姉さんが好き?』
以前に一度だけ、私は関口遙と話したことがある。
今日のように桜がやって来るのを待っていたとき。関口遙は突然そう声をかけてきた。初対面の相手にそんなことを聞かれる意味が分からず返事はしなかったけど、思えばそれから私が桜を迎えにくる度にやつは私に意味深な視線を投げかけてくる。
関口遙は知っていたはずだ。私が桜の妹だと。なのにさっき、あたかも面識がなかったかのような振る舞いを見せた。
何を企んでいるのだろう、あの男は。腹の中が見えない。
「桃ちゃん~!ちょっと待ってよぉ、さすがにさっきのあれは先生に失礼だよっ」
考え耽っていた私の前に立ち塞がり、お説教モード全開の桜。
後ろには真澄も着いてきていた。
「……ごめん」
「もぅ!桃ちゃん相変わらず人見知りだねぇ」
「そういうわけじゃないけど……」
関口遙は特別だ。特別、苦手。
「ぶっ!桃が、人見知り?!んなわけないじゃんぜってー!」
ゲラゲラと腹を抱えて笑い転げる真澄に失礼だと脳天チョップを入れる。
と、そこに桜の睨みも追加された。
「真澄くんが知らないだけ!桜は分かるもん。桃ちゃん人見知りなの」
「いやいや桃はそんなタチじゃないって。知らない人間にとんでもなく冷たいぜ?」
「人見知りだからだよ。ね」
同意を求められてもな。正直どうでもいいんだけど。自分が人見知りだろうがそうじゃなかろうがどっちでもいい。
「つーか、桃。あの先生苦手なの?めちゃくちゃいい人そうだったけど……」
そう見えるだけだ。よく観察していればあの男の底冷えた瞳に気づくはず。
私に答える気のないことが分かったらしい真澄は首を傾げつつも話題を変え、それから私たち(というより私を除くあとの二人)は他愛ない話をして盛り上がっていた。時々話を振られたりするけど積極的に会話に参加することはない。
前を歩く二人と少し離れた位置にいる私。
……こう見ると、お似合いなんだよなぁこの二人って。
爽やかなスポーツ系の美男である真澄と花のように儚い感じの美少女、桜。笑い合う二人は本当のカップルのようだ。
桜を前にすると真澄はよく笑う。真澄だけじゃなく、拓真だって。私といるときはいつも眉間にシワを寄せた状態である彼らだけど、やっぱり好きな子相手だと喜びを隠せないようだ。
しばらく歩くと家に着いた。さっさと中に入ろうと玄関に向かう私を何故か真澄が引き留める。
「ごめん、桜。ちょっとお前の妹借りていい?」
「10分だけだからね!それ以上かかるようだったら、延滞料とるからねぇ~!」
「んー」
そう言ってさっさと一人家に入っていってしまう桜。ちょっと待って。なんでそんなにニヤけてんの?何か勘違いしてない?
「で、桃」
「……なに」
あんた、桜に変な誤解されたかもしれないけど、いいわけ?
「連絡先教えて」
「はあ?!やだよ、なんで」
「いいから」
真澄は有無を言わさず携帯を出すよう指示してきた。今まで聞かれたことなんてなかったし今後教える気もなかったのにどうして。
「……口で言うんじゃダメなわけ?」
「桃の場合、嘘つくだろ?」
「……」
は、反論できない。
「これから桜の塾の迎えに行く時は俺を呼ぶこと。オーケー?」
「げっ。めんどくさ……」
心で思ったことが口からも出てしまったみたいで、即座に真澄の非難めいた視線がとんでくる。
「桃は、自分の危機管理がなってない」
ああ、これはまたお説教か?と、さっさと家に帰ってしまった桜を恨んだ。