九章:八代守
■9、八代守
斜陽が影を縫いとめる。
幼い居守は一歩を前に踏み出せなかった。距離にすれば何のことはない距離だった。
鞄を手に、誰かが振り返る。「誰か」。呼ぶべき名は知っていた。声は出ない。
何かを言うべきだった。静止するべき言葉も、資格もない。ただ空虚な沈黙だけがあった。
楔として願いを刻むことも許されない。
人影の表情は逆光で見えなかった。細い指先が一度だけ居守の頭を撫でた。
扉は音もなく、自然に閉ざされていく。
沈む彼岸に去っていく後ろ姿を、居守はずっと見送っていた。影が消えてなくなるまで長い間。
声は絶対に届かない。
『いかないで。いっしょにいて』
■ ■ ■
「お前はもうここには来てくれないと思ってたよ」
雑貨屋【大吉】の前に座りこんでいると、下駄の鳴る音がした。居守は緩々と顔を上げる。
汚れた作務衣に身を包み、天鑰はいつものように片目を閉ざしたまま、いつものように笑っていた。
居守は何かを言おうとした。しかし今しがた見た夢に声帯を奪われてしまい、言葉が即座に出てこなかった。慣れない徹夜が続いているためか、意識がはっきりしない。少しの間だが、座りこんだまま寝ていたらしい。
短い夢を見た。
天鑰は苦笑を浮かべて居守の前にしゃがみこんだ。
「悪い夢に憑かれている。どれ」
天鑰は乾いた手で居守の頭を撫でた。微睡みに揺蕩っていた意識が次第に明瞭になっていく。天鑰は居守の眦に浮かんだ涙を拭うと、柔らかい笑みを浮かべた。
「懐かしい夢を見てたな」
「……うん。誰かの夢。顔も思い出せないのに、なんでだろう。すごく悲しい夢」
天鑰は居守の隣にどっかと腰を下ろし、店の扉の前に陣取った。それでは客が入られないが、今日の天鑰の店は静かだった。店を囲む水路からの水音が沈黙をゆすいでいく。
天鑰は胸元から煙草を取り出して口に咥えた。それから居守が見つめる前で、煙草の先に火を灯した。……何の予備動作もなく。
居守は少し驚いたが、天鑰はもはや自分が人間ではないことを隠すつもりはないらしかった。だから居守は何も言わなかった。
「あたしはお前の一族に、居守とお前の姉さんが一緒に暮らせるように懇願したんだ」
煙草の煙めいた苦味の混じる声が傷口に滲みる。居守は通りを見つめたまま、小さく頷いた。
「……知ってる」
鯨幕を跳ね上げながら親戚の前に転がりこんだ天鑰の姿が脳裏に蘇る。珍しく取り乱しながら、天鑰は誰よりも乞日辻姉妹を案じてくれていた。そのあまりの逼迫した姿は、いつも和やかな天鑰の姿からは遠くかけ離れていて、幼い居守はとても意外に思ったものだ。
こうして本当の姿を知ると、あの時の彼女を思い出す。
「……でも、駄目だった。あたしはお前達と血の繫がりがない。「他人の家のことには口を出すな」と一蹴されたよ。あたしはお前と、お前の姉さんのことを誰よりよく知っている。知ってるつもりだった。今まで一度もお前達に関与しなかった親戚より、よっぽど。……だというのに、いざこういう話になれば蚊帳の外。朽ち果てたとはいえ、元神が人に乞い願った結末がこれとは。……全く変な話さ」
天鑰にしては珍しく、苦渋と後悔に満ちた物言いだった。
天鑰は、居守の姉の姿を知る数少ない人物だ。居守自身は幼かった所為と家族の死のショックが原因で記憶は朧げだった。姉との記憶は夢の狭間に漂っている。こんな夢を見たのは本当に久し振りだった。
居守は膝を抱えたまま鼻を啜り、天鑰を見つめる。
「天姉」
「んん?」
「私の力って、何なんだろう」
天鑰は煙草の灰を携帯灰皿に落とし、空いた手で居守の頭を撫でた。居守は咄嗟のことだったので、思わず目を瞑る。閉じた瞼の奥を、赤黒い燐光が通りすぎた気がした。
「この世には千万と朧がいるという話はしたね」
「うん」
「朧。あれは無差別に人を襲う。食うこともあるし、憑くこともある。良くないものの総称だ。自我を持たない狂気……ともとれる。今しがたお前に夢を見せたのも朧の仕業だろう」
居守は背筋を正す。天鑰はハハハと、さも面白そうに笑うものだから、居守はからかわれた気持ちになった。天鑰の声はだが真剣そのものだった。
「朧と千万は意志の有無に関して言えば異なるが、性質はとてもよく似ている。千万は八百万とは違って、闇ととても近しいんだ。ならば八百万の根幹は何か」
「八百万はこの国の信仰のおおもとでしょ? 自然石や巨木に畏敬の念を払うっていう」
万物に霊魂を信仰を見い出すことは宗教の起源だ。岩は神を降ろすための座であり、百年を経た大樹に注連縄が巻かれる理由も等しく。この国の神は遍く場所に座す。
「なら八百万が八百万と呼ばれる前は何だったろう」
「うーん……。難しい話?」
「いや、単純な話だ。「名前」を与えられる前。神聖的なものの始まりは何だっただろう。この国では「精霊」という考え方は少ないね。そういうものはみな「八百万」という言葉に吸収されていってしまったから」
「精霊」と聞くと、思い浮かぶのはどうしても西洋の印象が強い。
「千万もこの国ではもはや滅びかけた言葉だ。そして「古霊」という思想も」
「……綴や縢もそんなこと言ってた。結構逼迫した状況だったから、あまり詳しくは聞けなかったけど」
再びあの不思議な燐光が舞う。七色の光球。天鑰は見えているのかいないのか、静かに目を瞑った。
「古霊の性質は善意だ。だがこの国に古霊は殆んどいないという。ある者は名前を帯びて八百万となり、あるものは名前がないまま消えていった」
「でも」
「ああ、そうだ。きっとお前には視えるんだろう。あたしには視えないがね。お前は不思議なことに、古霊にとても好かれやすいんだ」
先ほどから七色の光がそこかしこで瞬いて眩しいくらいだ。天鑰にも見せてやりたかった。
双子は言っていた。「視えていなければ、いないのと同じ」。
人ではない者達すら見えない光。淡く美しい灯火は居守の手の中にふわりと落ちた。ずっと見ていると胸の奥が熱くなる。
「古霊は純粋なんだ。だから彼等は望んでお前に力を貸すだろう。勿論、お前が望んでいなくても」
「じゃあ、アパートを壊された時も」
「あの時、お前は相手が心底憎いと思ったんじゃないか? だから古霊はお前の感情を汲み取って、諸悪の根源を排斥しようとした」
「曖昧な存在」。「善意の性質だ」と天鑰は言ったが、行使した力は禍々しい。アパートを襲われた時も、双子を守ろうとした時もそうだ。あれを無差別に発動してはたまったものではない。何より危険すぎる。
「だから気をしっかり保ちなさい、居守。お前の感情がぐらついたままだと、古霊は誤った力を貸してしまう。そして朧もまたお前を愛しているからね。聖と魔は表裏一体だ。特にこの町では」
ざわりと温い風が吹いた。手の中の灯火が強く輝く。まるで居守を守るように。
「でも、そんな。ただ愛されてるだけで、あんな力が……」
「すぐに理解はできないだろうが、そういうことなんだ。お前の姉さんもそうだった。愛は純粋な力だよ。強くもなれるし、弱くもなれる。相手を守ることもあるし、傷つけることもある。人間と一緒さ」
夜が近い。次第に斜陽も濃くなってきている。
居守はゆっくりと立ち上がった。
「……ありがとう、天姉。色々話してくれて。あと、うちの修理も頼んでくれて」
「あたしにできることはこれくらいだからねえ」
「また来る。それまでちゃんと家の掃除もしてね」
「そりゃあなんとも耳が痛い話だ」
天鑰は困ったように笑った。その笑顔は、見慣れた彼女のいつもの姿だった。
夜が近い。
居守は無人の家へと帰ることにした。
あの夜以来、双子が家に戻ることはなかった。
戦いの後、巽は血塗れになりながらも再戦を訴えたが、爲地途と日向の停止により結局有耶無耶になった。具体的には爲地途が昏睡作用のある毒を巽に叩きこんで、ようやく嵐は去った。
居守は傷ついた双子の治療道具を探すために一旦家に引き返した。外に出ると、双子は既にいなくなっていた。地面にこぼれた体液を頼りに追いかけようとしたが、足取りは森の境目でぱたりと消えてしまっていた。
消えた双子を探すために、居守は町のいたる場所を探した。双子は行きそうな場所を徹底的に。そうまでしても双子を見つけることはできず、彼女達は二度と居守の前に現れなかった。
なかったことになろうとしているのだ。
居守は溜息をつきながら東雲荘を眺める。
「また私達だけになっちゃったね」
目下、東雲荘は工事の準備が進行中である。木材や重機が運びこまれ、修繕工事は早ければ明後日から始まるだろう。居守の部屋は青いビニールシートで覆われて、外から中を窺い見ることはできない。
天鑰曰く、眷奉大祭に巻きこまれて損壊した建物はこうして無償で直されるのだそうだ。居守は一銭も金を出す必要はないという。最初は弱みを握られている気がして断った。だが町のどの建物であっても同じ交渉が持ちかけられるのだという。一般民家が半壊しようとも、アスファルトが半ばから崩落しようとも、川の水が百メートル単位で旱魃しようとも。
何者かが雇った大工達は町の建築会社に身を置く生粋の一般人であり、どのような策略が張り巡らされているのか、一人として「祭り」を知る者はいなかった。
破壊された居守の部屋を見るや、棟梁らしき中年の大男は呵呵と笑いながら逞しい二の腕を見せつけてきた。
「災難だったなあ、お嬢ちゃん。この町ではよくこういう事があってよ。何、気にすることはねえ。俺達がすぐに直してやるからな」
大工の男達に再三に亘ってこうなった原因を聞かれたが、まさか「どこぞの爬虫類一派に壊されたのだ」とは言えまい。言葉を濁す居守の肩を叩き、棟梁は「まあ良いじゃねえか」とおよそ気にする様子はなかった。おまけに頭まで撫でられた。完全に子供扱いである。
定時の刻限を過ぎたのか、東雲荘に人影はなかった。玄関口のポストを見れば、乱雑な字で書かれた明後日からの工事予定表が入っている。
道路を縦断する黒い焦げ跡。付着する何者かの体液。隆起して罅割れたアスファルト。四方八方に飛び散った石の立方体。このことについて、大工達は何も言及しなかった。あのように屈強な男達でさえ、町の掟には無意識のうちに従っているのだ。
居守は荷物を持ったまま、自分の部屋を通りすぎる。そしてすぐに隣の部屋のドアノブを捻った。立てつけの悪い扉を苦労して押し開く。
部屋の中は閑散としていた。生活の痕跡が何一つとして残っていない。
「別れの挨拶もなし、か」
居守は扉を閉めて二階へ向かう。
心の隙間はどうすれば埋められただろう。居守は制服の上から心臓を握る。
寝不足が続いているというのに満足な睡眠が摂れず、疲労感だけが蓄積していた。更に体力の消耗を助長させるのは、深い眠りに落ちる前に見る嫌な夢の所為だ。
誰かを見送る、幼い時の記憶。記憶力は良い方だ、アパートに関係した人物なら明確に思い出すことができる。だというのに、夢の中の誰かはいつまで経っても「誰か」のままだった。
居守は残夢を振り払い、広間を突っ切って窓の外を眺めた。
家の裏手に面した広間は北側に面しており、そこから先は完全な森林となっている。更に奥へ進むと戦前まで使用していた旧街道があるが、今は森の侵攻を受けており、気軽に通ることはできない。
視線を下に向けると、藪の中に佇む社が見えた。
扉は閉ざされているが、居守は水遣りと掃除を怠らなかった。例えその場所に祀るものがいなくとも。花瓶に生けた野花が気持ちよさそうに揺れている。裏手はすっかり風通しがよくなって、地面の水捌けも見違えるほどだ。生き物が寄りつかなかった裏手には今、二三羽の小鳥達が会議を開いている。
「……薄情者」
声はすぐに消えていく。
「たった一週間で出ていく入居者なんて」
瞼の許容量を超えた涙が溢れそうになり、居守は慌てて手の甲で拭った。
溜息と共に振り返ると、水場に視線が辿り着く。
そこにはまだ水を滴らせる、洗ったばかりの弁当箱が二つ置かれていた。
「あ……」
それは数日前、居守が綴と縢のために作り置いたものだ。一連の事件によってすっかり存在を忘れていた。
居守は慌てて階下へと降りた。
■ ■ ■
「なあ。本当にいいのかよ、姉貴」
縢は少し先を歩く姉の背中を見つめながら、再三にわたる問いを投げかけていた。再三では些か言葉数が足りず、再三再四にわたってようやく無駄口も評価される塩梅だ。
姉の背に何度も問いを投げ続けている。会話のキャッチボールが聞いて呆れる一人遊びだ。縢は、姉よりかは気が長いと自負しているが、どちらにせよドングリの背比べである。なまじ同じ形をしたドングリなものだから差異を見つけるのが容易ではない。
肝心の返事はいつまで経っても返ってこなかった。
「おい、綴。聞いてんだろ」
「煩えわね、聞いてるわよ」
名前を呼ぶ行為は千万にとって重要な意味合いを持っている。双子は人間の血が半分流れているため、体がいきなり消滅することはない。それでも先に生まれた姉を、後に生まれた人間が名指しで呼ぶ行為には双子なりの理由と意味合いが含有されている。
綴は決して振り返らなかった。縢も予定調和のうちだったらしく、ひとまず姉の意識を呼び戻せただけでも僥倖と、姉の背を追いかけながら話を続けた。
「居守とあの家は俺達を受け入れてくれたじゃねえか。そりゃ短い時間かもしれないけどさ……。何で出ていく必要があるんだよ」
縢は立ち止まり、背後の建物を見遣る。
東雲荘。本来の名を鑑みるのなら、あの建物は曙光こそが最も相応しい色なのだろう。だというのに東雲荘はどこの部屋を覗いても黄昏の時を残していた。
思い出や憧憬、人々の記憶という残滓が、形を変えることなく留まっていた。
ああいう建物は最近では随分と少なくなった。
建物というのは形を留める。そしてまた、稀にではあるが、記憶を留めることもある。廊下で遊ぶ小さな子供達の影を、月花を浴びながら窓辺で談笑する恋人達の影を、子供を抱いて子守唄を歌う母親の影を、紫煙を燻らせながら笑う大きな影を。二人は見た。
居守に初めて案内された時、双子が全ての部屋を見たいと申し出た理由はそれだった。過去に切り取られた記憶の残滓が影絵となって綴と縢を包んだ。
流浪の旅をしてきた双子でさえ、これほどまでに鮮明な家の記憶は見たことがない。
「なあ、綴。俺はあそこがいい。何だか落ち着くんだよ」
各地を転々としてきたが、縢がそんなことを言うのは初めてのことだった。
二人が守り神のいる家に入れば、大多数の土地神が拒絶反応を起こしてきた。
家というのは一種の聖域である。要である神の機嫌を損ねれば、聖域は一瞬にして祟り場と化す。土地神や家主に追い立てられ、逃げるように借家を出てきたことなど数え切れない。
だからこそ双子は東雲荘に引き寄せられたのかもしれない。小さな管理人が住まう、無人の社に。
「……あたくしはあの子に迷惑がかかるのが嫌なの」
姉の声に、縢は振り返った。綴も立ち止まって東雲荘を見上げている。縢は溜息をつき、少し足並みを速めて姉と向き合った。
「嘘つけよ。怖いんだろ」
「怖くなんかねえわよ。ぶっ飛ばすわよ」
綴は頑として譲らない。不動の位置を守ったままだ。
「俺達はそうやっていつも後ろ指を指されて、やれ化け物だ、やれ妖怪だのと散々言われてきた。古の神が聞いて呆れるぜ。……けど。けどさ! あいつは……居守は俺達のこと一度も拒絶しなかっただろ!」
「綴! 縢!」
縢はその声に顔を上げる。
綴は縢越しに、駆け寄ってくる少女の孤影を眺めていた。
「どこ行くの……っ」
居守は双子の元に駆け寄ると、呼吸も整えぬうちにそう吠えた。
眼鏡を取り払い、大きな瞳に不釣り合いな険を漂わせながら双子を睨みつける。……居守の方が身長が低いので、どうしても恰好がつかないのが難点だ。それでも声音は、東雲荘が破壊された時と同等の怒りを帯びていた。
「部屋を空けて一体どこをほっつき歩いてたの、あんた達は」
縢は直立不動の姉をちらと窺ってから居守と向き直った。
「……いや、居守。悪いんだけどさ、俺達やっぱりこの町を」
「東雲荘家訓! 部屋を長期間空ける際は管理人に一言言ってから出かけてください!」
「は……、え?」
「東雲荘家訓! 学生の門限は夜十九時まで! なお部活動や仕事などの緒事情がある場合は柔軟に応じます!」
「…………おい?」
「東雲荘家訓! 使用した食器類は二階広間の水場に戻してください!」
「あ、それはやったぞ。きちんと。……じゃねえ、聞けよ人の話を」
縢の言葉を遮るように居守は家訓を、さながら軍人の如く高らかに詠唱する。だが次第に姿勢が崩れ、斜め上を仰いでいた顔は俯いていった。第四項目とやらを唱える前に、落涙の音が言葉を濁す。
「……なんで、あんたが泣くんだよ」
「あの傷でいなくなったら誰だって心配するよ!」
涙ながらに睨む居守の剣幕に呑まれながら、縢の足が一歩後ろに下がる。代わりに前に出たのは綴の足だった。
「心配しなくとも傷一つ残ってねえわ。あの程度の傷、半日もあれば治るわよ」
「半日で治るなら別にウチで養生したっていいでしょ?! 何で何も言わないで出ていくの!」
「……言う必要なんか」
「ある! 私のアパートの入居希望届に名前を書いた時点で、私はあんた達の居場所を守る義務がある!」
居守の目は濡れていたが、それでも強い光を帯びていた。綴ですら反撃の術を見失うほどに。
だが綴も綴で、退くことをよしとしない。なまじ脚が多い生き物をもう一つの姿に持つためか。
「……だから! あの戦いを見て、住まわすかどうか考えろっつったでしょうが!」
「決めたでしょ! あんた達が神棚に入りたいとかぬかしたその日に!」
ぶつかり合う応酬に、二人の間に立ったままの縢は介入を諦めた。学ランの前方は全開であり、ワイシャツ越しに腹を撫でると空腹を告げる音が上がった。
「……腹減ったなあ」
互いに言いたいことを捲し立てて息が上がったのか、綴と居守は睨み合ったままだ。
涙を拭う居守の隙に乗じて、綴は胸の蟠りを溜め息に置換して吐き出す。それから努めて平静を装い、旅行鞄から手を離した。
「……あのね、居守。見たとは思うけれど、あたくしは蜘蛛の体をもう一つの姿として持つわ。呪術や神降ろしじゃない、歴とした異形化の力をね」
異形。それはあの月夜に見た漆黒の蜘蛛のことで間違いないだろう。
桜花を背負い、影を縫う異形の蜘蛛。
綴はけん制のつもりで述べたのだと、居守は感じていた。よって居守は綴の策略を須らく無視することにした。
「……それが?」
案の定、平素だった綴の口元が微細な怒りに震える。この国に生きる蜘蛛は総じて臆病だが、化生ともなれば別なのだろう。何よりこの千篝 綴という名の蜘蛛は存外に好戦的である。
「絶望的に察しが悪いわね。一般人の手前様には刺激が強かろうと、あたくしは言ってんのよ!」
とうとう激昂のあまり居守の胸元を掴み上げる始末だ。見兼ねた縢がようやく二人の間に割って入る。姉はだが残る片方の手で縢の体を押し退けた。
「おい姉貴、落ち着け。もういい、俺が翻訳するから」
「黙りなさい、縢。こういう手負いは言わねえと分からねえのよ。……待ちなさい、翻訳って何よ。あたくしの生まれは手前様と同じお腹でしょうが」
「だって会話が成立してねーんだもん」
縢はもうすっかりいつもの様子だ。言い争う二人の少女を見て、楽しげに笑っている。生き写しの双子は容易に互いの感情を見て取る。縢には激昂しているはずの姉の姿が久し振りに輝いて見えた。
「嬉しそうだなあ、姉貴」
「喧しい! いいから黙ってなさいって……」
それまで双子の賑やかなやり取りを見つめていた居守は、ダン! と強く片足を踏み鳴らした。
居守の憤怒に応じ、彼女の背後でアスファルトが勢いよく盛り上がる。瞬く間に一メートルほどの石柱が、道路の真ん中に屹立した。見事な石柱は居守の力の顕現に相違ない。
居守の感情と結びつき、名もなき古霊がもたらしたのは「威嚇」だった。
双子はぴたりと口を閉ざす。
「……で?」
あまりの剣幕に、蚊帳の外に佇む縢ですらたじろぐ。居守は綴の手を払いのけ、逆に綴の胸元を両手で掴みあげる。予想だにしなかった反撃に、綴は体勢をわずかに崩される。
「……で、何。あんたは何が言いたいの、綴」
蛇に睨まれた蛙は体を竦ませて動けなくなるというが、井守が蜘蛛を睨んだ場合はどうなるのだろう。元々土俵の違う生き物だ。ならば有名な、かの三竦みの状況か。蛇か蛙か蛞蝓か。
縢はとりあえず「蛞蝓には例えられなくねえなあ」と口の中だけで呟いていた。
しかし蜘蛛もここで引き下がる道理はない。元より巻いて逃げる尻尾が存在しないからだ。
それでも綴にしては珍しく言葉の装填に戸惑う。言葉は銃弾だ。気をつけて扱わねば暴発する。
「っ……だから! 蜘蛛に化ける人間なんて住まわせたくねえでしょう……?!」
綴の声には血が滲んでいた。
自信と矜恃に満ちた綴の心臓の奥から、鮮血が滴る。荒糸と鉄錆びた針で結わえた傷痕を、居守は垣間見た気がした。しかし綴の服を掴んだ手の力だけは緩めない。緩めたが最後、この二人はあっという間にいなくなってしまう。あの夢のように、姉のように、泡沫と消えてしまう。
綴は逃げなかった。傷つきながらも居守と向き合っていた。逃げることはしない。逃げ道など、この双子にはもうどこにもないのだ。
「あたくしは誰に何と言われようと、あの姿を誇りに思う。もう一つの体として蜘蛛となり、影を扱えることを何より嬉しく思う。化け物と呼ばれようが、妖怪だと罵られようが関係ない。……けれど、手前様は。あたくし達を招き入れた手前様にだけは! ……そう言われたくないと、初めてそう思ったのよ……」
綴の手が伸び、居守の頬に触れた。
冷たい掌だが、体温は人のものだ。傷を負い、膿に汚れ、それでも空を見上げることをやめない人間の体温だった。
居守は行き場のなくなってしまった怒りの矛先を明後日方向へと放り投げた。
全く慣れないことをしている。普段の居守なら、去る者の後を追いかけた時点で十二分に椿事だ。脇道に咲いているのは桜だが、庭木の彼女にはいつも情けない姿を見られている気がする。風がそよぎ、桜が笑う。
「蜘蛛、ね。確かにあれくらいのサイズともなると、もう完全に御伽噺の存在だよね」
居守は綴の制服から手を離し、皺の寄った部分を丁寧に撫ぜた。
綴は感情の読み取りにくい瞳で居守を見つめている。躑躅色の目に自分が映っている。囚われている。蜘蛛の巣が如き精緻な容貌をした双子に、憶病なはずの井守はすっかり虜だ。囲われていた。
今日は本当に色々な花を見る。春は生まれゆく季節だ。人や場所と巡り合う、出会いの季節だ。
「……でも、かっこよかったよ。あんなに傷ついて、それでもあんた達は私の思い出を守ってくれた。命を賭けて守ってくれたじゃない。言ったでしょ、私が怖いのは残高ゼロの貯金通帳と、特別国税徴収官の差し押さえ。蜘蛛なんか、怖くないよ」
返事も聞かず、居守は綴の荷物を持つ。縢は恩寵にあやかって、ちゃっかりと居守に最も重いトランクを預けた。全く以って食えない人物である。
「ほら、行こうぜ。綴」
居守の背に続き、縢が軽快に歩を進める。
綴は未だに一歩を踏み出すことができない。
居守は肩越しに振り返り、我儘な少女を見つめた。
黄昏時の帳を外してよく見れば、そこに佇むのは居守と何ら変わらない年端の少女だった。それもそのはずである、数日もすれば一緒に門角学園の高等部に入学を果たすのだ。飛び級制度のないこの国では、肩を並べるほとんどの生徒が同い年。それが当たり前なのだ。
「言っておくけど、嫌だって言っても連れて帰るからね。なんかこの力の使い方も分かってきた気がするし」
「神様を恐喝する人間なんて聞いたこともねえわ」
綴は渋々というように歩を進めた。
前に、前に。
三者三様の靴音が疎らに響く。居守は笑う。双子も笑った。
「……私は何なんだろう。天姉も私のことに関しては話してくれなかった。やっぱり私も人間じゃないのかな」
「イモリだろ、あんたは。あれって焼いて煎じると惚れ薬になるらしいぜ。全く罪作りな女だよ」
「君、何気に怖いこと言うね」
「もう手遅れな気がするわ……」
全く下らない戯れ事だった。だからこそ楽しかった。東雲荘への道筋を、時間をかけてゆっくりと帰る。荷物を投げ合い、奇妙な問答を繰り返しながら歩く。
そして東雲荘に双子が入ろうとすると、居守は慌てて先に玄関戸を潜った。
揃って疑問符を浮かべている双子に、居守は歯を見せて笑う。
「おかえり、綴と縢」
双子は顔を見合わせる。
それから肩を並べ、小さな管理人を見つめ返した。
「ただいま、居守」
「ただいま、居守。…………どうしよう、縢。あたくしちょっと泣きそう」
らしくない物言いに、縢がけたけたと笑った。その眦に浮かぶ雫に気付く。
この東雲荘に巣食う者に人間など一人としていなかった。闇夜に伸びた影が複雑に絡み合っていく。
居守は思う。自分のことを「化け物」と呼べるようになるまで、何度自分を殺し続ければいいのだろう。綴も縢も、そうして自らを乗り越えて受け入れてきたのだろう。
居守は大きく息を吸う。周囲を取り巻く虚ろな光が強く瞬いた。
「無理も無茶も、罷り通るならそれでよし。私の家に住む以上、私はあんた達の居場所を徹底的に守るよ」
「ならばあたくし達も全力を尽くして手前様を愛しましょう」
「あんたが泣いて嫌がるほど幸福にしてやる。覚悟しろよ、居守」
家の管理人と、家の守り人は笑みと共に誓いを汲み交わす。
東雲荘の扉が閉ざされる刹那、町のどこかで鐘の音が鳴ったような気がした。
だがそれは少女達の笑い声にかき消され、三者の耳には届かない。
また、肌に馴染んだ夜が来る。
【『ヤシロ守と影縫い神』第一話 了】
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