八章:地主
■8、地主
「……え?」
居守の唖然とした声は深淵に響いた。
空を仰ぐと、皓々と照っていた月が見当たらない。一帯は暗闇に塗り潰されていた。星もなければ月もない。完全な深淵に一つだけ、一条の光が降り注いでいた。
月光を一身に浴びるのは漆黒の鬼蜘蛛。不規則に赤い光が瞬き、それが誰かの目であったことを思い出す。
居守は震える足で立ち上がり、大蜘蛛の近くへ走り寄った。蜘蛛のそばには縢が立っていた。
「おい、姉貴。大丈夫か、しっかりしろ」
縢は黒い産毛で覆われた頭胸部をぺちぺちと叩き、沈みかけた蜘蛛の意識を呼び戻す。
蜘蛛の瞳が明滅し、やがて色濃い躑躅の花が咲いた。しばらくの沈黙の後に返ってきたのは、血の滲む悪態だった。
『……ああいうメジャーな神様って本当に嫌い。干支に組みこまれてる時点で、作為的な悪意を感じるわ』
「俺もだ。しかし随分なやられ具合だ。荒人神が聞いて呆れるぜ」
壁の向こう側からは激昂する巽の怒声が聞こえてくる。だが防壁と化したアスファルトを砕くのは容易ではないだろう。周囲を見渡せば、四方八方に加えて天地が壁で覆われている。ちょうど巨大な箱の中にいるような状態だ。
ひとまず蜘蛛からの返事があった。
「生きている」。
安堵のあまり、居守は蜘蛛に抱きついた。
『ちょっと。汚れるわよ』
「言ってる場合?! あんな無茶して……! 死んじゃったらどうすんのよ!」
震えた声音を聞き、口達者なはずの蜘蛛が押し黙る。長い前脚を引き寄せて、何度も何度も迷った末に、居守の背を撫でる。棘が生えた歩脚を慎重に操り、綴は居守が落ち着くのを静かに待った。
『……本当に変なヒト。手前様、あたくしが怖くないの』
ぐずりと鼻を啜りながら、居守は拳で蜘蛛の頭胸部を叩く。もちろん手加減はした。相手は怪我人だ。否、人ですらなかった。だというのに怖くなかった。これほど巨大な生き物と直面しているというのに、不思議と怖くはないのだ。鬼蜘蛛に対して、考えるより先に綴の名を呼んでいた。
居守は結んだ拳を躊躇いがちに解いて、蜘蛛の頭胸部に触れた。低い温度が、汗ばんだ居守の手を冷やす。夕焼けの中で繋いだ指先の温度。蜘蛛の体温は一体どれほどなのだろうか。危機的な状況だというのに、そんなことを考えている自分に驚いた。
「痛く、ない? 血が……」
傷口に触れると、蜘蛛の体が大きく跳ねた。多脚が頭胸部を守るように寄り合わされ、居守は思わず手を引っこめる。黄と赤の体液が混ざり、粘着質な触り心地が伝わった。決して浅い傷ではない。
『……つう。そりゃ痛えわよ……』
「ご、ごめん。それに縢も。毒が回ってるのに無茶したら駄目だよ」
滲んだ声音に、居守は謝罪の意を兼ねて蜘蛛の頭胸部を撫ぜる。今度は傷口に触れないように注意した。短い毛に覆われた蜘蛛の表面はさりさりとしていて、存外触り心地がよかった。
綴は黙って撫でられながら、ゆるゆると体の緊張を解いた。縢は笑みを浮かべたまま傍らに佇んでいる。服の所々が破けており、なんとも痛々しい。
「平気だ、毒も抜けた。ただ、俺の《中身》は過保護すぎてな。だからこれは単なる言い訳なんだが……その、危険な目に合わせて……悪かった」
率直な謝罪に、居守は慌てて体を起こす。蜘蛛は居守の影に寄り添うようについてきた。
「何で縢が謝るの」
「怖がらせた」
「だったら私だって謝らなきゃいけない。二人に任せっぱなしで、何もできなかった」
綴や縢が謝罪を求めているわけではないことは、居守自身分かっていた。だが縢と同様に罪悪感を募らせていたのも事実だった。
『しっかり見ておきなさいな。縢のしおらしい姿なんて貴重よ?』
「綴はもう少し空気を読もうよ」
背後に寄り添った大蜘蛛の軽口に居守は苦笑を零す。縢も笑っていた。既に彼女達は満身創痍だ。蜘蛛の体からは今も体液が流れ続けている。
「俺達はな、居守。肉の器を持つ以上はそう簡単には消えない。それでもこの町に巣食う千万は違う。……千万はとても脆いからな。曖昧な体を名前で拘束し、いつ消えるかも分からない恐怖に怯えている。だから安定を求める。その名前が誰かの中にある以上、千万は確固たる存在となれるからだ。だからあいつ等は命を賭けて、名前を紡ごうと抗うんだ」
「もし、忘れられたら……?」
『存在できなくなるわ。ただ単純に死ぬってわけでもねえのよ』
「自分を忘れ、言葉を忘れ、初めから存在していたのかどうかも分からなくなる。これまで築き上げてきた関係や契約の全てが色々な形で失われていく……らしい」
忘失の末の死。居守もあの家に一人でいると、似た思いに駆られることがあった。
このまま誰にも気付かれずに忘れられていく。暗い妄想だと言われればその通りだ。
だが異形達は。
『人は生まれれば名を与えられ、死ねば墓に名を刻まれる。でもあたくし達は違う。いつの間にか生まれて、いつの間にか死んでいる。生も死も等しく同じ。けれど一旦万象の真理に気付いてしまえば、後はもう落ちるだけ。千万と呼ばれる者はそういった奴等の集まりなの。生を覚えてしまったから死に怯える。千万はそういう不具の者。故に血不具』
双子は長く息を吐いた。蜘蛛は足音もなく居守の眼前に歩む。柔らかな触肢が器用に動き、居守の両頬を包んだ。蜘蛛の目と居守の目が平行に交わる。それは綴が人の姿の時と同じ目線の高さだった。
『人に近付きすぎた異形のことよ』
「……だから戦うの? こんなになってまで」
「まあ信じ難い話だろうけどな。……それでもあんたは俺達を認めた。だからこそ言うんだ。この世には異形の蜘蛛が、古の神々が、こうして存在している。人間の大半が俺達を見ていながらも無きものとして理解する。見ていると自覚しなければ、俺達の姿は見えないからな」
確かに存在している。だというのに周囲は目を閉ざす。どれほど声高に叫んでも、耳を閉ざしていれば結果は同じだ。知らぬ存ぜぬを続け、他人が闇の底に引き摺りこまれても知らん顔だ。
沈黙の町。静寂に満ちた門角町の夜は、そう揶揄される。
ようやく気付く。これは、戦争なのだと。
「あんた達は、本当にそれでいいの……?」
長い沈黙が続いた。
居守の瞳孔が仄暗い色を帯びて輝く。
小さい頃は色々なものが見えた。時々に応じて形を変える。美しく、醜く、曖昧で、不思議な者達を。世界は一つではなく、複雑な可能性に満ちていた。本に綴られる空想は地続きで、この先には希望に満ちた何かが待っているのだと。そう信じて疑わなかった。
だがいつしか黒々とした現実が視界を蝕んでいった。三百六十度の世界に満ちていたはずの絵空事は、結局はただの夢物語でしかない。視界はいつしか狭まり、見えるのはごくわずかな手元だけになった。
居守の視力は極めて悪い。近視に加えて、強い遠視を患っている。
しかし視えるものがあった。本から剥がれ落ちた一頁として、時折視界をよぎるものがあった。それらは自己主張するかの如く踊り、舞い、笑い声を響かせた。
居守は分厚い眼鏡をすることで古の光景に蓋をした。見えないふりをした。
そして本当に見えなくなった。
今はもう見える。見ざるを得なくなった。全ては現実であると。
居守は意外にも晴れやかな気持ちだった。疑問は産声を上げるばかりで一向に晴れないが、そういうものだと理解した以上、飲みこみは早かった。視界が冴え渡る気がした。思えば夜は昼より視えるものがずっと多い。そんな現象は普通では起こるはずがない。
「普通」。平々凡々とした日常。
つまるところ、この世は初めから普通ではなかったのだ。普通などどこにもない。どこにもないからこそ普通に見える。下らない逆説だった。
居守は罅割れた眼鏡をもう一度掛ける。視界に変化はない。これが居守の世界だった。
「つまりあんた達はちゃんとここにいて、この町には他にも沢山の変な生き物がいる……ってことでいいのかな」
「言うに事欠いて「変」とはな。やれやれ、あんた、俺の話をきちんと聞いてたか」
縢の呆気に取られた様子に、居守は乾いた笑みを零す。
「実際、まだ信じられないけどね。……でもこうして話す蜘蛛なんて、きっと他にはいないだろうし。まあ貴重な体験かな」
「腹括ったのか」
「……どうかな。……でもさっき、私も何か変な力使ったでしょ。あれ、前にもあったんだ」
居守は自らの手に視線を落とす。
確かに過去、居守は何度も奇妙なことに出くわした。その時の記憶は曖昧だが、確かに先ほどと似た力を使った。「まさかそんなことがあるはずがない」。そう思うことで、記憶を塗り潰していた。
「流石にこれほど大規模なのは初めてだけど」
具現化した壁は一向に身に覚えがない。それでも確かに存在している。
月をも覆い隠すほどの巨壁に囲まれているというのに、双子の姿はしっかりと見えた。今ばかりは相似の形ではない。かたや人型、一方は鬼蜘蛛の姿だ。
上空にはたった一つだけの窓が開いている。
双子と出会った時と同じだった。そう、居守の部屋にある窓の形と同じなのだ。
「居守、これはお前の力だよ」
「私の、力……?」
「そう。居場所を守るためのな」
巽の攻撃が及ぶ刹那。
居守はただ、双子を守りたいと思った。ただそう願っただけだ。漠然とした願いは果たして現実となった。巽の一撃を防ぐことができた。守ることができた。
綴は体液の軌跡を描き、居守と距離を取った。
『居守』
「何? 綴」
蜘蛛の目は感情が読めない。否、そもそも表情がない。獣ならば顔には筋肉がある。だからこそ感情の良し悪しくらいは人間でも分かる。だが蟲は違う。機械の如く硬質な造形は限りなく無機質だ。
しかし眼前にいる蜘蛛は千篝 綴と千篝 縢だった。
居守は問い質されている気持ちになった。「いつまでそうしているつもりだ」と。
「私は……」
今は見えない東雲荘を思う。
帰ろうと思った。この双子と共に、我が家に。
『手前様は人間でいたいの? それとも乞日辻 居守でいたいの?』
爲地途がほのめかした、居守に宿る異能。何かしらのトリガーが起因して発動する、居守自身の力。その力ならこの絶望的な状況を覆すことができるかもしれない。
試す問いに、居守は同じ種類の笑みで以って笑い返す。
「私が怖いのは残高ゼロの貯金通帳と、特別国税徴収官の差し押さえ。龍なんか、別に怖くないよ」
何が何だか分からなかった。これから何かが起こるのだという予感だけがあった。
三人は笑いながら空を仰ぐ。
『話す時間も惜しいわ、片をつけましょう。来なさい、居守。縢、自分の身は自分で守れるわね』
「へぁっ?」
強く手を引かれ、居守は蜘蛛に抱き寄せられる。
『手前様は何があってもあたくしが守るわ』
「行ってこい、居守に綴。初陣だ」
鬨の声もなく、鬼蜘蛛の目が沈黙のままに燐光を纏う。
蜘蛛は鳴かない。泣くようにはできていない。それでも居守には分かった。蜘蛛の歩脚を伝う恐怖を。目に宿る悲哀。キチン質の底に脈打つ魂。
眼鏡を押し上げる。
祭りが始まる。
■ ■ ■
『クソ! どうなってんだよ! おい、爲地途!』
アスファルトで構築された壁を蹴飛ばしながら、巽は地団駄を踏む。聳え立つ巨塔を睨む姿は、玩具を取り上げられた子供そのものだった。
背後の安全圏には、合流を果たしたらしき爲地途が影となって佇んでいる。こちらは突如出現した人工物にも大して興味をそそられないらしく、いたく退屈そうだ。
「あたしに言われてもね。ところで、いい加減帰っていいかしら。やる気が削がれてひどい気分なのだけど」
「良いわけあるか!」
扱う毒液と悪知恵は頼もしいが、如何せんこの毒蛇は気分屋である。こうなってしまうと爲地途の助力は望めない。日向にいたっては、完全に怯えてしまって爲地途の背後から出てこようともしない。
「も、もう止めようよう、たっちゃん……。尾切も引っこんじゃったし、この場所何か変だよう」
『アホ抜かせ、今更退けるかよ』
一度二度と巽の剛腕と剛脚が繰り出されるも、謎の人工物はびくともしない。
『クソ、もうちょっとだったのによ……』
巽は虫が、とりわけ蜘蛛が嫌いだった。勝手に家に侵入し、糸を張るのが気に入らない。脚の数が多くて気持ちが悪い。気が散る。見つけたのなら速やかに排除するのが道理だった。
巽は渾身の力をこめて腕を振りかぶる。
同時に巽の視界は一息で明瞭なものになった。未だ攻撃を行っていないのにも関わらず、である。
龍は空を駆ける漆黒の流星を見る。赤の輝きを宿し、黒鉄の閃きが視界を切り裂いていく。
「無理無理無理無理! 死ぬぅ!?」
『…………何だ、ありゃあ』
蜘蛛の背に乗った居守の情けない叫びが夜に響く。
道路の中央に屹立した卒塔婆の如き塔は一瞬にして瓦解する。精緻な計算のもとに裁断されたかのように、小さな立方体の飛礫となって砕け散っていった。空中を四散する立方体の一つ一つを足場にしながら、漆黒の大蜘蛛が居守と共に空を飛ぶ。
蜘蛛には通常、腹部の末端に糸を出す突起――出糸突起と呼ばれる部位がある。またこの器官の前方には楕円形の篩板がある。蜘蛛はこれらを巧みに利用して糸を操る。操るのは第四脚――最も後ろの脚だ――その末端にある毛櫛という櫛状に並んだ毛である。この先端を動かして蜘蛛は篩板から糸を引き出し、より太く、より強固な糸を作り出す。腹圧を利用して出した糸を、蜘蛛達は脚の爪先にひっかけるようにして外へ出し、縫いあげていく。
『何して、やがんだ……?』
奇妙な光景だった。
鬼蜘蛛は糸を紡ぎ、綴っていく。徘徊性の蜘蛛ならばいざ知らず、オニグモは造網性だ。糸を駆使してこその蜘蛛である。まさに製糸は彼女の特質といえた。
しかし巽は状況が理解できない。
理由はただ一つ、鬼蜘蛛の出糸突起からは何も生み出されてはいないからだ。
闇に同化する色の糸を操っているのかと思ったが、龍と融合を果たした巽の五感は並外れて優れている。その巽ですら綴の操る糸は見えなかった。見えないのではない。始めから存在しないのだ。
だというのに、漆黒の蜘蛛は糸を組み上げる動作を繰り返す。はっきり言って不気味だった。八脚が死の呪印を結ぶ。蜘蛛糸は即ち、獲物を殺すための道具だ。
蜘蛛は夜を「歩く」。足場となっていた石の上を離れ、巨体は宙に浮いた。
頭胸部を下に、ちょうど巣の上で過ごす時のように。背中に乗っていた居守の情けない悲鳴を、巽は完全に無視した。
鬼蜘蛛の長い前脚が夜を愛しげになぞる。多脚を引き寄せて、真ん中に位置する二対の脚を強く引いた。……引いたように見えた。
刹那、風に裂け目が入る。蜘蛛の脚に呼び戻された不可視の糸は返す力だけで、あろうことか巽の頬を浅く切った。それを皮切りに、宙に浮いたままの立方体を粘土細工の如く砕いていく。切断された巨塔の断片が雨と化して降り注いだ。
『……まどろっこしい真似しやがって』
巽は腕で払い落しながら、空に消えた蜘蛛を探した。探すまでもなく、八つ脚の蟲は巽の背後に音もなく舞い降りている。
もはや悪態の一つも出てこない。巽は角に雷撃を装填した。
敵意に染まった巽の目を、居守は今度こそ正面から捉えた。肝胆寒からしめる眼光だった。
人に敵意を向けられて喜ぶ人間は少ない。まして居守と巽はほぼ初対面だ。肩がぶつかったことに対して難癖をつけられ、絡まれている状態に近い。巽の行いは落雷と同義だ。どこに落ちるとも知れない災いの種だ。
だというのに居守の胸中は冷えていた。絶対的強者の眼光に射抜かれながらも、居守は自らの機嫌が急降下していくのを感じた。良い気分ではない。そう思っていることに、居守は少なからず驚いてもいた。
気分が悪い。否、機嫌が悪いのだ。三半規管がぐらりぐらりと揺らぐのは蜘蛛の背に乗っているからだが、粘ついた苛立ちが湧き出る根幹はそこではない。居守の苛立ちは完全に巽に向けられていた。
「……面白くない」
居守の低い声に綴が触肢を擦り合わせる。それはどうやら相槌のようだった。
「ねえ、綴。私さ、自分でもびっくりなんだけど、結構怒ってるみたい」
『まあ自分の巣を荒らされて怒らない輩は少ねえわね。一般的な感性だと思うわ』
居守は鼻から息を吸い、肺を膨らませ、同じ量の息を吐いた。
空中で浮遊を続ける無数の石が突如、鋭利な三角錐に形を変える。突然の出来事に、居守は背筋を正した。日頃から猫背なために背骨が嫌な音を立てた。
「な、何……っ?」
『何なのかしら、ねえ』
綴は珍しく言葉尻を濁す。
変異を遂げた三角錐は行き場を求めていた。居守に宿る敵意が万象に変形を促す。東雲荘に乱入された時と同じ現象だった。
そして居守と同じほどには不機嫌な巽が舌を鳴らす。その腕が、暇も与えずに風を切って蜘蛛へ強襲した。蜘蛛は脚を撓め、未だ聳え立つ巨塔の上に降り立つ。
いつもより少しだけ高い位置から吹く風に煽られながら、居守はあることに気がついた。東雲荘の二階から外を見下ろす時と同じ高さだった。いつも見ているからこそすぐ分かる。塗装はされておらず、構成物質こそ違えど、半壊した建造物は東雲荘と同一の形をしていた。
『龍め。こちとら座を追われるのは慣れてんのよ』
独白めいた呟きだった。居守は綴の瞳を見る。血の滾りを凝縮した赤い目が闇の中で脈打つ。
異形に身を窶して戦場に立つ少女の真意を居守は知らない。だが声に込められた祈りはすぐ近くで聞こえた。
蜘蛛は身を撓めて大きく空に跳躍する。
(けれど、今度は。)
『今度こそは』
強化ワイヤーの如き虚無の蜘蛛糸が編みこまれる。糸は寄り合わされ、やがて複雑な構造となって無のままに放たれた。
しかし巽が想像した連撃は降り注ぐことはなかった。ただ月光だけが体を射抜く。
『は。虚仮威しか。――遊びは終わりだ、蟲神』
綴の攻撃が外れたと悟った巽は、両足を地に打ちつけて殊のほか強い雷光を纏う。
青い殺意。侮蔑に濁った龍の目が照準を的確に合わせる。狙うは蜘蛛の頭胸部、その中心だった。禍々しいまでの破壊衝動が巽を突き動かす。それが巽の意思なのか、彼女の内側に宿る龍の魂がそうさせるのかは分からない。彼女自身すら分からなかった。ただ戦いの喜悦だけが巽の胸を高揚させていく。
振りかぶる巽の一撃。殺意と敵意が混ざり合った空気に、居守は冷や汗を流す。突破口を探すべく視線が泳がせると、ふと見た瓦礫の上に縢が座りこんでいた。
視線に気づいたらしい縢がこちらを見上げる。
笑顔だった。にっこりと満面の笑みでこちらに手を振り返している。居守につっこむだけの余裕はない。とんだ初陣もあったものだ。
蜘蛛の脚が撓り、宙を飛ぶ。居守は胃の浮く感覚を必死に堪えた。夕食を抜いたのは僥倖だった。
「しっかり自分の居場所に立ってろ、居守。お前がそこにいるのなら、俺達の居場所は揺らがない」
雷撃と轟音に掻き消されながら、縢は口の動きだけでそう言った。
居守に考えるだけの時間は残されていない。迫る巽の雷撃を前に、視界を再び七色の蛍が過ぎった。
閃光が弾ける。
「っ……!」
『居守、目を開けなさい。大丈夫だから』
いつの間にか閉じていた目を、綴に言われるがままゆっくりと開く。
鬼蜘蛛は未だ高さを失わぬ巨塔の上に着地していた。巽が放った一撃は既になく、世界は薄ぼんやりとした暗がりに包まれている。
「なん、で。今、確かに」
『思い続けなさい、居守。手前様の守りたいものが何であるのか。打ち砕くべきものが誰であるか』
巽の咆哮が鼓膜を劈く。
それは既に人間の声ではなかった。太い尾が大地に打ちつけられ、青い鱗が肌を浸食する。既に言葉はない。怒りに支配された巽は何もかもを異形に明け渡す。鉤爪が伸び、制御の利かなくなった青い雷撃が幾重もの大蛇となって地を這う。
止められる者などいるはずがない。
「あれと、戦うの」
『戦うんじゃないわ。手前様は「守る」のよ。戦うのはあたくしの仕事』
居守にはやはり綴の言葉が分からない。ただ、巽の雷撃を二回とも回避した時に共通する事項から物事を推理する。
頭に浮かんだイメージ。思ったこと。「守る」。居守は守ろうとした。一度目は双子を、二度目は自分達を。脳裏を過ぎる虹色の光彩。あれが何らかの力となって居守達を守った。
虹色の光彩。今もなお消えることなく周囲を浮遊する光球。
どこか懐かしい、暖かい光だった。狐の祝言の際に見る、彼岸と此岸の懸け橋。泡沫の夢の色。
指を伸ばそうとして、今は蜘蛛の上にいたことを思い出す。慌てて蜘蛛の体にしがみついた。
『あたくしには「それ」が視えない。だけど手前様には「それ」が視える』
「この光のこと……?」
『今は詳しく話してる時間がない。だから端的に言うわ』
巽の視界は赤く、青く染まっていく。憤怒が意識を支配し、五感が研ぎ澄まされていく。日頃纏っている外殻を捨てて感覚と感情を剥き出しにする。圧倒的な解放感に背中の鱗が歓喜に打ち震える。それは快感と言い換えてもよかった。体が思い通り以上に動く。五感、反射神経、身体能力。日頃重いだけの皮袋に収まっている自我が、本来の姿を取り戻した錯覚に捕らわれる。
だからこそ巽はこの開放を邪魔する者を厭う。障害物にまみれた世界を蹴り砕く。
体内に宿す龍が制御をかけようとするが無視した。拒絶し、押さえつけた。その代わりに何もかもを龍に明け渡す。銀鱗に覆われた腹の上に跨り、浅ましく相手を欲した。胎の奥に燻る熱が解れ、身も心も溶かしていく。凹凸が交わり、巽は熱い吐息を吐いた。龍が牙を剥き、頸椎に噛みつく。
遥か高みに座す、人間など及びも寄らない圧倒的な力を持つ存在に全てを捧げる。
巽の意識が龍の奔流に没する。
『……分かったわね、居守』
「よく、分かんない。……けど、分かった。分かったふりをする」
巽の喉からは声が失われた。歯は牙となり、言葉は咆哮と化す。龍の憤怒を吠え猛る、それはさながら逆鱗に干渉されたかの如く。
月下に顕現したのは人の形を持つ龍の御姿だった。
相対するは蟲と人。崩れかけた立方体が一匹と一人の周囲を浮遊する。
巽の姿が掻き消えた。
今までの比ではない速度だ。残像すら残さずに巽は蜘蛛の眼前に迫った。五指の鉤爪を振るうと、周囲に浮かぶ石が互い違いに組み合う。小さな一つ一つが市松模様となり、巨大な壁に変化した。
それでも龍の前では、いかなる防壁をも無力だ。怒れる龍の爪に触れた瞬間、壁は一瞬で砕け散った。それまでの巽の攻撃は直線的で、なにより体術が大きく関わっていた。だが今は違う。振るったのは拳ではなく、爪による斬撃だ。
既に一頭の、否、一柱の龍が相手なのだ。龍は、蜘蛛と人の喉元を掻き切らんともう一方の手を伸ばす。
銀爪が二人を葬らんとする刹那、龍の先には再び壁が具現化する。
「私は守る。居場所を守る」
龍はすぐに侮蔑で濁った瞳で敵を睥睨した。龍は空を舞う。
天を闊歩する龍を前に、蟲の抵抗など無意味だ。龍の胸中にあるのは、高みにある存在ゆえの高潔な矜恃だった。地べたを這いずりまわる蟲が永久に抱くことのない自尊。揺らぐことのない己自身への信頼。
龍は強く、気高く、美しい。泥にまみれ、死体を貪り、罠と毒を行使して必死に命を繋ぐ営みを知らない。龍がその身に抱く青々しい矜恃には、同じ比率の傲慢が含有されていた。
蜘蛛は今宵、だからこそ勝つのだった。
蜘蛛が足場にしていた立方体が崩れ去る。それでも蜘蛛が地に堕ちることはない。なぜならば蜘蛛は空にこそ巣食うからだ。
『何か勘違いしているようね、暴龍さん』
蜘蛛は空に巣食い、鋭利な鋏角を一度打ち鳴らした。音は周囲に張り巡らせた不可視の糸を伝い、沈黙の町に、琴の弦に似た音を奏でる。糸はないが音は鳴る。
居守ですら綴が操る糸は見えなかった。それでも龍の体は不自然に空中に縫いつけられる。
鬼蜘蛛の出糸突起と繋がる虚無の糸。さきほど投じた蜘蛛糸は巽ではなく、彼女の足元に結われていた。蜘蛛は触肢を動かして糸を強く引く。力のままではない、糸の強弱を知り得るがゆえの緻密な動きだ。
糸が引かれるや否や、巽の体は地面へと突き堕とされる。龍は何が起こったのか分からず周囲を見渡そうとするも、全ての筋肉を掌握されていては無理なことだった。ましてや巽の周囲には何もない。瓦礫の山と石、その上に座す縢と蜘蛛、居守。
「影……」
遠い位置から爲地途の声が響いた。青白い瞳孔が、冷静に龍の姿を見つめる。その足元に広がる影。
月という照明が齎す闇の中に、蜘蛛の糸はあった。巽の影には、現実には視えない幾重もの線が付け加えられていた。
巽は影ごと地面に縫いつけられていた。月夜に座す蜘蛛はそれでも地上に下りることをしなかった。獲物の自縄自縛を狙う、捕食者の絶対的な間合いを保つ。
『力任せに動けば余計に絡みついて首が飛ぶわよ。はい、出来上がり』
蜘蛛は空に結わえた巣の上で、全く器用なことに前脚一本で体を持ち上げる。更にはクルリと回ってみせた。曲芸か、と居守は思わず口の中でツッコミを入れる。無論舌を噛みそうなのでやめておいた。縢は苦笑していた。
『黒糸威《影縫》四要――《磔月》』
綴の宣告に、町の彼方より戦いの終局を告げる鐘の音が鳴り渡る。
蜘蛛は虚無を手繰り寄せながら下天を見下ろす。
龍は空を飛ぶ。対する蜘蛛に翼はなく、空もまた遠い。それでも空と地の間に糸を張り巡らし、留まることを選んだ。
『そこの蛇と蜥蜴。首を吊るされたくなかったらこの暴龍を連れてとっとと去りなさい。そして二度とこの地に踏み入るな』
綴の剣呑な声音に日向はがくがくと首肯し、爲地途は底の見えない笑みで以って答えた。
人でもなく鬼でもない。
鬼でもなければ蛇でもない。
神でもなければ仏でもない。
蟲でもなければ獣でもない。
それでも確かに、ここにいる。