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七章:朧月ノ雲

■7、(ろう)(げつ)(くも)


 瓦礫と化した私室から唯一持ち出した愛用の褞袍を、居守は埃を払ってから着た。春といっても夜はまだ冷える。寒がりであるためにこの品だけは手放しがたい。敵襲の際に着ていたおかげで汚れもさほど酷くなかった。

 すっかり明かりの消えてしまった東雲荘を外から見上げながら、居守は溜息をつく。

 壁に開いた大穴からは満月が差しこみ、部屋の中が見える。そのあまりのせせこましさに、居守は少なからず驚いていた。日々を過ごした愛すべき部屋は、こんなにも小さな場所だったのかと。

「修繕費も馬鹿にならないんじゃないか」

 いつからいたのか、縢もまた同じくアパートを見上げていた。居守はぼんやりとした相槌を返す。

「あ、そうだね。そっちの問題もあるか」

 早々に壁をビニールで覆わないと、雨でも降った日には一大事だ。大工に連絡を取って修繕の見積もりも出してもらわなければならないし、当面の生活費を工面する必要も出てきた。頭の痛くなる話だ。言われて初めて気がついた。

「なんだよ、らしくないな。あんた、金の勘定が好きなんだろ」

「そんな守銭奴みたいなこと言われてもね。まあ実際好きだけどさ」

 そうは言われても現状は異形達の祭りに強制参加となっている身分だ。思考の優先順位が狂うのは致し方ない。慣れぬ徹夜が思考を鈍らせる。間もなく命を賭けた戦が始まるというのに、だ。

 居守は、町の深部を覗いた時に日常の価値観をどこかに置いてきてしまったのではないかと本気で疑い始めていた。

「なぜそこまでこの家にこだわるの」

 声は玄関口からやってきた。赤みがかった目は同じく東雲荘を見上げ、声には色濃い疑問が滲んでいる。月光を浴びるのはいつもと変わらぬ制服着の綴だ。縢も同じく学ランを着ている。

 祭りを前に、まさかジャージ姿でもあるまいと思い直し、居守も久し振りにセーラー服を着た。なにぶん自室に深く立ち入るのは労力を要する。壁に掛けていた制服が一番手っ取り早かったのだ。

「自分の家が壊されたら誰だって悲しいよ」

「残念だけど、あたくし達はそういう感覚とは無縁なのよ」

「流浪の生活、ね」

 綴と縢はいわば半人半神。器は人だが、魂には濃度の高い異形の血が流れている。

 二人は「喧嘩」の一言で締め括ったが、まさか土地神との争いが口論レベルの話でもないだろう。鋭利な気配を漂わせる理由が居守は少しだけ分かった気がした。

「そうだ。俺達には帰る場所も行く場所も、どこにもない」

 居守は自分の家から視線を離し、双子を見つめる。

 居場所のない双子。この世を流離ってきたという、自らと同い年の子供達。

「なぜそこまでこの家にこだわるの」

 居守は眼鏡の弦を押しあげようとして、既に外していたことに気付いた。二三度目を瞬かせる。

 重ねられた問いは随分な重みを持っていた。

「……私は六歳の時に両親を亡くしたの。前に話したでしょ。形見分けで唯一残ったのがここ。親戚は身寄りのない子供を引き取るのが嫌だった。だから余りもの同士一つ所に纏めておけばいいって、私をこのアパートの管理人にした」

 話してみればそれだけだ、自らの過去というものは。

 居守は溜息をつく。親戚とは形見分けをした時以来会っていない。顔も碌に覚えていなかった。

 対照的に、葬式を終えて東雲荘を訪れた日のことを居守はよく覚えていた。ようやく辿り着いた自らの居場所。東雲荘の住人達が、身寄りのなくなった子供を暖かく迎えてくれた。

 先代の管理人達の死を、あの時アパートに住んでいた全員が悲しんでいた。広間に案内されて出された、全員が持ち寄ったなんとも統一感のない食事のメニューを今でも覚えている。決して忘れない。居守はあの時あの場所で初めて泣いた。両親の葬式の時には終ぞ流れなかった涙が湧き上がってきて、なかなか止まってくれなかった。

「私が子供の頃はこの家にもいっぱい人がいた。優しかったり、不思議な人達が沢山。一人一人の思い出が部屋に詰まってる。辛いこともあったけど、私はこの家が好きだから」

 様々な理由で住人達はアパートを離れていった。ある者は進学を、就職を、結婚を、死を機に。時折手紙が届く。しかし中にはもう住所も所在も分からなくなってしまった人間もいる。

 そして東雲荘だけが残った。

「今はもう誰もいない。……私とこの家は似てるの。同じなの」

 残された者。思い出と記憶だけを胸に、進むべき場所もなく、ただ黄昏に佇む者。

「この家だけは変わらない、ずっと私の家族。……だから」

 無残に破壊された。思い出を、居場所を、家族を。

 居守はきつく両手を握る。

「オンボロアパートに幽霊屋敷。何と呼ばれようが私は、私達は別にいい。そんなの全然関係ない。そんなのはもう慣れっこ。でもここは私と、東雲荘の居場所なの。……私は。私は、私達の居場所を傷つける奴だけは! 絶対に許さない!!」

 ざわりと風が吹く。居守の憤怒に応じるように、建物の大穴から吹き込んだ風が不吉な音を奏でる。

 東雲荘はそれでも無言のままだった。

「……厄介な所に転がりこんじまったな、綴」

 縢は溜め息交じりに苦笑した。

「ええ、あたくしも全くそう思うわ、縢。この国にもまだこういう人間がいたのね」

 双子は肩を並べると居守と向き直った。アパートを背後に、さながら社を守る石像の如く。

「最後に聞くわ。なぜあたくし達を、その大切な家に招き入れたの」

 問いは居守に、そしてまた悠久の時に佇む東雲荘へと向けられていた。

「無理矢理入ってきたんでしょ、あんた達が勝手に」

「違うわ。本気で断ろうとすれば、手前様にはそれができた。あたくし達は招かれなければ守り人のいる家には絶対に入れない。だけど手前様はそれをしようとはしなかった。……なぜ?」

 出会いはあまりに突然だった。

 窓を開けた先に綴と縢がいたのだ。

 双子が今日に至るまでいかなる苦労をし、どれほどの涙を流したのか居守は知らない。帰るべき場所もなく、行く当てもない永続の旅路。状況は違うが、居守もまた内情は一緒だ。不安を抱きながら日々を過ごし、たった一つの居場所に閉じこもっていた。

 綴と縢の赤い瞳が暗闇に光る。

 本当は気付いていた。どちらもがどちらもを、人と呼ぶには難しい力を有していることに。

「あんた達、行く所も行く当てもないんでしょ。いくら私の目が悪くったって、それくらいは見えるよ」

「そうだ、俺達はずっとそうやって生きてきた。だからあんたが思い直すのなら、素直にここを出ていく。守り神としても未熟だしな、なにより呼びこむのは厄介事の方が多そうだ」

 暁の問いが提示される。

 鬼となるか、蛇となるか。

 この町には異形ばかりだ。人の真似事をして、他人の不幸には目を瞑る。保身だけを信条に目を閉ざす沈黙の町だ。

 だとしたらこの半人半神たる双子の方が、居守は分かりやすかった。千万と呼ばれる異形の間で(まか)り通る(ことわり)の方が、よほど楽しそうだと思った。

「……いいよ。どこにも行かなくて。ここに住めばいい」

「何でだ。また家を壊されるかもしれないんだぞ」

 居守は東雲荘を見つめる。

 家はどこにも行かず、誰も拒絶しない。ただあるがままに人間を受け入れる。来る者を拒まず、去る者を追わず。いつも同じようにそこにある。無言のまま、ただ静かに。

 しかしそれはどうあっても家のあり方だ。

 人は、居守は違う。去る者を追いたくなるのは人としての(さが)だ。別れを惜しみ、もし引き留めていれば別れる必要はなかったのかもしれない。そういう後悔がいつも足枷となってついてまわった。空き部屋が増えるたびに己の未熟さを呪った。

「……寂しかった、から」

 月が天雲の帳を押し退けて、微かに姿を現す。微かに赤らんだ居守の頬を淡く照らした。

「……いてよ。どこにも行かなくていいなら、ここに」

 ちぐはぐな言葉だった。静止する力もない、手を振るえば切れてしまいそうな(えにし)だった。

 居守と双子が出会ってまだ数日。だが忘れがたく、懐かしくもある瞬間だった。速度を帯びて流れていく時を憂い、明日になれば今日の続きが必ずある。記憶の中にあったものが次第に色を帯びて輝いていった。誰かと共に時を過ごすことが嬉しくて仕方がなかった。

 砂利を踏む音が彼方で鳴る。居守ははっと顔を上げた。

 月下に宿る長い三つの影。先立って歩く光は異形の火だ。

「……あいつ等」

 爲地途と日向を背後に控え、悠然と歩む影。路地裏で相対した、角を持つ影だった。

 縢と綴は居守を守るように前に出た。居守は少しだけ高い二人の背中を見つめる。

「居守」

 綴が自らの名前を呼ぶのはこれで二回目だった。だが今度は、より深い刃となって居守の心臓に突き刺さる。強い声だ。心地よさと頼もしさを覚える。何にもなれそうな気さえする、好きな声だ。

 降り返った綴と縢が艶やかに笑んだ。月に勝る微笑を称え、燐光を纏った目で居守を見つめる。

 この双子は「そう」なのだ。「そう」だった。

 人外の者達なのだ。

「居守。あたくしは手前様のことが気に入ったの。だから骨の髄まで(守護)してやるわ。今宵は素直にあたくしに護られなさい」

 綴の靴裏が砂利を踏み潰して前に出る。綴の背を隠す長い黒髪が、奈落の陽炎が如く靡いた。

『よう』

 奇妙な反響を帯びた声が深淵から響く。

 居守達の前に立っていた影は辛うじて人の名残を留めていたが、しかし紛れもない異形だった。

 着ているものは居守や綴と同じ、門角学園指定のセーラー服だった。信じがたいが、上級生だったのだ。スカートの裾は地面に突きそうなほど長い。何より驚いたのは布地の間から覗く人肌の色である。

 青。青という言葉のイメージから連想される清廉さは微塵もない。生物が敵から身を守るために体を毒々しく染めた、そんな人工的な青だった。

 菱形の鱗が隙間なく肌を埋め尽くし、同色の髪の間からは枝分かれした二本角が伸びている。スカートの裾からは大蛇の如き長い尾が、挑発するかのようにくねっている。

 しかし眼前に立つ者は蛇とは似て非なるものだ。それよりも遥か上位に立つ者の証明に、空気を紫電が掠めた。

『ハジメマシテ、オンボロアパートの管理人。この碌でもねえ祭りにようこそ』

 口元に生え揃うは鋭利な歯。やはり獣でもなければ爬虫類でもない。

『一応の礼に(のっと)り名乗ろうか。アタシの名前は(ます)(くら) (たつみ)。そしてこの身体に巣食うは(ぎん)()(じょう)だ。もう少し長エ名前だった気もするが、忘れちまった』

 少女はぺたぺたと自らの胸元を叩く。それから手を翻し、風切りの音を上げて綴に殴りかかった。

「綴!」

 綴は体を翻して居守達のいる場所まで後退した。

 巽と名乗った少女は指先に数本絡む綴の髪を見ながら鋭い笑みを浮かべている。

『おお、避けやがった。こりゃ意外だ』

 異形の名乗りが終えるや否や、時の音が鳴り響いた。

 居守はその鐘の音をようやく聞くべくして聞いた。恐らく今までは意図的に意識から排除していたのだ。居守が耳を塞いでいただけにすぎず、本当は毎晩の如く町に鳴り響いていたのだろう。

 こんなにもおどろおどろしい音が聞こえていなかったとは。

 巽の姿は鐘が鳴り終わると同時に、青い残像を残して消えた。居守が視認できたのは巽の右手が綴の左手によって止められていた、その結末だけだった。

『へえ』

 侮蔑めいた感嘆は巽の口から零れる。

「一礼はおろか挨拶の一言もねえとは。躾のなってねえ女ね」

『テメエに言われたかねエよ、人の縄張りを無遠慮に歩き回りやがって。見た感じ、テメエは千万だな? 上手いこと人に化けてるみてエだが、アタシの目は誤魔化せねエぞ』

 綴の手に力が籠るも、巽は何も感じていないようだ。

『おおかた零落してこの町に流れてきたんだろうが……残念だったな、ここに座は一つしかねエ』

「昨日知ったわ。難易度の高い椅子取りゲームね」

『ははぁ、随分と人間らしい遊び知ってんじゃねエか』

 綴は人間だ。少なくとも居守はつい数時間前までそう思っていた。しかし巽と名乗る女は、この刹那で彼女が千万であることを完全に見抜いていた。

 過ごした時間は自分の方が長いはずなのに。居守はきつく拳を握った。

 巽は綴に握られている方の手を基軸に、地を蹴りあげて左回し蹴りを繰り出す。風を切り、火花の如く走った蹴りはだが、またしても綴の手で、今度は右手によって止められる。

 固い鱗で覆われた巽の手を、何の変哲もない綴の掌が止めている。巽は小さく舌打ちした。

 力は拮抗している。綴は肩越しに居守を見た。

「居守」

「な、何っ?」

 居守には綴の瞳に映った自分の姿が見えた。躑躅の目が少しだけ寂しげに細められたのは、居守の気のせいだったのだろうか。

「本当にあたくし達を住まわすかどうかは、この戦いを見てから決めなさい。全てが終わったあと同じことがもう一度言えるのなら、あたくし達は手前様に従いましょう」

『ちんたら御託を並べやがって。やるのか、やらねエのか! 尻尾巻いて知らねエ振りを続けんのなら、見逃してやってもいいんだぞ』

「生憎だけど、巻くための尻尾は持ち合わせてないのよ」

 居守はそれきり前を向いてしまった綴の背を見守るしかない。急に遠くなった綴の背を求めるように、居守は一歩前に踏み出した。

「そこを動くなよ、居守。珍しく姉貴殿がやる気だ。あんたは自分の居場所を守りたいんだろ」

 縢は姉と同じく、居守に背を向けたまま静かに言う。

「そうだけど! 綴や君が傷つくのは嫌だよ!」

「心配すんな、姉貴なら大丈夫だ。今まで負けたことしかないからな。負け慣れてる。それよりしっかり自分の居場所に立ってろ。お前がここにいるのなら、お前の居場所は大丈夫だ」

「どういう、こと」

 それよりも「負け慣れている」とは一体どういうことなのだ。居守は内心でツッコミを入れる。それはこの場合かなりまずいことではないのか。

『おい、そこの眼鏡。いや、もう眼鏡は掛けてねエな。重要なトレードマークを外しやがって。テメエは逃げねエのか?』

 巽は綴と組み合ったまま、敵越しに居守に問うた。捕食者めいた青い目が獲物を見定めるように瞳孔を細める。弱者をいたぶる愉悦が滴る声だ。居守は震える手を握りしめ、精一杯睨み返す。

「ここは私の家で、私の居場所です。逃げる道理がありません」

『居場所。……居場所ねエ。ソイツは大切なのか?』

 居守はその問いに奇妙な違和感を覚えたが、反射的に頷いていた。

 巽は緩慢と口角を持ち上げる。欲望を滴らせる狂気的な笑みに、居守の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。

『そォか。そいつは本当に良かったなア』

 綴の手が伸び、距離を取ろうとした巽の手首を掴む。

「何をしようとしやがってんのかしら」

『祭りだよ、祭り。馬鹿騒ぎの時間だ! いい加減出てこい、尾切!!』

 巽の声音に呼応し、遠方から獣の……否、爬虫類の咆哮が響き渡る。

 綴は咄嗟に巽と距離を取り、後方に退いた。はたしてその判断は正しかった。綴と巽の間に、小柄な日向の姿が割りこんでいたからだ。その速度、もはや落雷の如き速度だった。

『全く長話はうんざりだ! こうすりゃ話は早えだろ!』

『ちょ、尾切ってばぁ!?』

 裂けた口元から二通りの声が紡がれる。少女の体を借りた異形は細腕を振りあげ、思い切り地面に打ちつけた。

 固いはずのアスファルトに深々とした罅が入る。

「え……」

 蜥蜴は笑いながら、再度腕を振り下ろした。石が割れ、土がありえない速度で凹んでいく。

 事の顛末を見届ける前に、居守は縢に制服の襟元を掴まれた。力のままに背後へ引っ張られ、居守の体は宙を舞う。

 居守は今日が満月であると、そこで初めて気付いたのだった。


■ ■ ■


 一瞬の浮遊感のあと。即座に重力に捕らえられ、居守は口元まで出かかった悲鳴を何とか嚥下した。嘔吐にも似た感覚に、ただでさえ白い顔が更に漂白される。

 尾切の手によって地面が割れる刹那、縢が咄嗟の判断で居守を抱えて後方に飛んだのだ。

「それにしたって、どんな馬鹿力なの……!」

 落下速度のままに地面に叩きつけられることを覚悟したが、縢は居守を小脇に抱え、蝶の如く軽やかに地面に着地した。

「馬鹿とは失礼だな」

 一息つく暇もなく、居守はそのまま地面に放り出された。

「ぁだっ!」

 気がつけば四つん這いという絶望的な姿勢である。どうにも三日前から運勢が底辺を地で歩んでいる気がしてならない。一体何をどうしてこんな状況に陥っているのか。

「人生の難易度が半端ない……つらい……」

 ふらつく体で立ち上がると、縢が居守の背中を優しく撫でた。一体誰のせいだと思っているのだ。そういう意味合いの視線で睨みつけるも、居守の意識はすぐ別に向いた。

「で? 先輩が俺の相手をしてくれるんでしょーかね」

 居守の前に立ち塞がる縢が、歩み寄った日向を睨んだ。縢の声質はいつも通りに穏やかだが、含まれる感情は敵愾心が著しい。漂う敵意が空気を焦がす。

『キハハッ、良いねえ。そういう怯えた顔が俺は大好きだ』

『もう、尾切! 性格悪い!』

 日向の姿は相変わらず小さい。だというのにその歪な声を聞くだけで周囲の闇が膨張した気がするから不思議だ。聞き慣れた少女の声も、居守の警戒心を解く材料にはならない。口元は裂けた蜥蜴のままだ。

『煩えなあ! 久々の獲物だ、俺様にやらせろ!』

『やだ!』

『てめえ!』

『尾切は引っこんでて!』

 居守は息を殺し、二つの魂が宿った少女を見つめ返す。

 視線に気付いたのか、日向は恥ずかしそうに頬を染めて目元を緩ませた。

『ごめんね。尾切って喧嘩早くて。たっちゃんとそっくりなんだ』

 辛うじて表情が掴める距離。居守にとっては遠いが、日向と尾切にとってはこの距離で十分なのだろう。

 居守は考える。状況を判断する。相手の戦力は高い。こちらの戦力は現状、縢だけが頼りだ。情けない話だが、居守は自らを戦力として見なすことができない。なにしろ自分の運動能力というものは、晴れた日の蛙並みだ。陸に上がった何とやらもかくの如しである。

『でも、たっちゃんがしたいことだから』

『諦めな、井戸守。こいつは馬鹿だが、あの龍への狂信っぷりは本物だぜ』

「待ちなさいよ、日向。あたしが管理人さんの相手をする手筈だったじゃない」

 その声を聞いた居守の足は知らずのうち一歩後ろに下がる。警戒の間合いだ。どうにも苦手な目つきである。昨日あんなことがあった後なのだ、怯えるのも致し方ない。猫ならば毛を欹てて威嚇の唸り声を上げているところだ。

 天鑰が……あの異質な力を行使した天鑰ですら「厄介」と言いせしめた人物の登場である。

 闇から現れたのは爲地途だった。鷹揚に駆けつける足取りは緩慢で、性急さが微塵もない。

 居守の考えは縢とも一致していたようで、

「俺としては手間が省けてよかったよ。あの中じゃあんたが一番厄介そうだ。戦闘能力は益嵓って人が断トツで高いんだろうが、あんたは影で策を弄するのが得意なんだろうな。全く大した夜だよ、今日は。せっかくのんべんだらりと暮らせると思ってたのに」

 躑躅色の目は鮮血を帯びた刀の如く禍々しく輝いていた。何かしら不利益な動きをすれば直ぐさまにうち抜く、そんな気負いが見て取れる。

 しばしの沈黙を挟み、爲地途の濡れた唇から滴るのは溜息だった。

「随分と平和ボケした千万なのね」

「……一般的な感性と言ってくれよ、先輩。人間同士の争い事は面倒だ」

 縢の表情が爲地途の一言で曇る。爲地途はその一瞬を見逃さなかった。

 どの言葉に縢が傷ついたのか、蛇は捕食者の目で以って見極める。弱きを見定めるのは彼女の得意分野だった。隙を見つけて潜りこむ。蛇は生来からそういう性質を兼ね備えている。

 「千万」。あるいは千万扱いされた瞬間、縢の表情が微かに曇った。恐らくあの姉にしか見抜くことのできないであろう変化だ。だが誤魔化していても爲地途は見抜く。見抜いてしまう。嘘は真実とは違う。だからこそ見える。

「気づかないとでも思った? 巽や日向はともかくとして、あたしは誤魔化されないわよ」

 間で交わされた言葉は僅かだが、爲地途にはそれだけで十分だった。開いた隙間にするりと忍びこむのは蛇の十八番である。嘘を縫い、真実を見つけることはこんなにも容易い。

「和御魂、ね。だったらどうしてこの土地に来たの。分かってるでしょう、千万なら。この地には()()が存在しない。ならば名声を得ようと各地から朧な者達が雪崩(なだれ)こんでくる。自覚があろうとなかろうと、この地の土を踏んだのなら、戦うべき義務がある」

 蛇は夜行性だ。なにより相手の鼓動を把握する術を身につけている。

 縢は指先でピアスを遊ばせながら、爲地途を見つめ返した。刃と刃が火花を散らして競り合う。

 縢は決断を迫られていた。

「まさに蛇だな。いたぶるのが好きなわけだ」

「大好き。女の子に限り、ね」

「そりゃ残念なことで」

 縢は手を振り抜く。指の骨を握力で以って鳴らし、拳を作る。

 爲地途は微笑を浮かべて佇んだままだった。その微笑を彩るように、上空に紫電が走る。雷の龍が堕ちたのはアパートの方角だった。

「何だ……?」

「巽の雷よ。綺麗ね。あの子は粗暴だけれど、あの雷だけは本当に綺麗」

 蛇は水気を好む。その陶然とした声が聞こえたのはすぐ後ろからで、縢は慌てて振り返った。居守でさえ、突如として縢との間に割って入った刹那を見届けることができなかった。

「油断大敵。覚えておきましょうね、まあ次の機会があったらだけど」

 音もなく、縢は一息の間に爲地途に背後を取られていた。

 二人の身長はさほど違わず、縢の方が僅かに高い。爲地途は縢の肩に頤を乗せながら体を密着させた。背後から伸びた爲地途の手が、蛇のようにしなやかに学ランの襟元を外す。焦らすようにゆっくりとした速度で。

「……男に興味はないんじゃなかったのか」

「ないわよ、全然。だから遠慮なくいくわ」

 浅く開かれた爲地途の口元から、注射針の如き長牙が伸びる。弧を描く、白々しいまでの毒牙。そしてそれを微塵の躊躇もなく縢の首筋に突き刺した。

「っ、い……!」

 縢の目が見開かれるも、動くことは許されない。爲地途は口付けのように目を閉じ、ゆっくりと牙を根元まで刺した。水滴が滴り、縢の白い肌を濡らす。

 やがてたっぷりの猶予を以って爲地途は牙を引き抜いた。そして獲物が暴れ出す前に身を引く。

 縢は爲地途に咬まれた傷口を手で押さえながら、背後を許さぬ距離へ後退した。……しようとした。しかし縢の足並みは二三歩進んだだけで弱々しく停止する。

「くあ」

 自己統制に反し、神経の糸が腰から引き抜かれたように力が抜ける。咄嗟に手をついて倒れこむのは阻止したが、立ち上がることができない。他に理由があろうはずもなく、縢は脂汗を滲ませながら爲地途を睥睨した。

「何、だ。何を……」

「ヘビといったら毒には色々種類があるわよね。出血毒、神経毒、血液の凝固阻害毒、筋肉毒。まあ勿論そういう危ないのも扱えるけれど、あたしが好きなのはオリジナルの方なの」

 白い牙からは縢の血が滴る。爲地途は二股に分かれた長い舌で血の滴を舐め取った。

 爲地途は倒れこんだ縢のそばに歩み寄りながら、獲物の頬を指でなぞる。縢は冷たい指先を払おうとしたが、その手からも力が抜けていった。

「一応の、教養とし、て聞い、ておくよ、先輩。……何の毒、だ」

「筋弛緩と媚薬」

 月光を背負い、濡れた蛇は艶やかに微笑む。縢もまた苦味の滴る笑みを返した。

「面白そうでしょう。実際とても面白いの。毒は本性を露わにする。普段どんなに冷静を装っている人間でも、皮膚の下に獣を飼ってる。あなたの場合は何かしらね」

「本当、性格悪い。俺、あんた、嫌いだ」

「縢君!」

 ようやく蛇睨みから解放された居守は慌てて縢の元に走り寄る。体勢を保つことさえできないのか、倒れこんだ縢を抱き締めながら居守は爲地途を睨みあげた。蛇相手では、人の眼光などさほどの効果もないだろうが。

 行き場のない怒りに駆られるも居守にはどうしようもない。居守には力がないからだ。

 爲地途は切れ長の瞳にもう一方の獲物の姿を映す。爲地途の目は感情が掴みにくい。爬虫類は総じて冷ややかな目をしている。

「どうしてこんなことを、なんて定型の質問はやめてね。先に言っておくけど、この祭りには正義も悪も存在しないわよ。巽は、彼女は物心つく前に千万と契約した。ただ単純に『思うがままに在りたい』という願いを千万は素直に聞き入れた。あの子は楽しむためだけに、千万は惚れこんだ少女を楽しませるためだけにこの祭りに参加してる。そのためにあなたが邪魔なの」

 理由もなければ道理もない。そんなことは端から分かっていた。否、分かっていたつもりだった。

「居守、こいつの話を聞くな。いいから離れてろ」

「巽の雷撃に巻きこまれたら全身の血が沸騰して、まともな人間なら一瞬で消し炭になるわよ。それに今の巽ははっきり言って危険すぎる。あたしだって手出ししようとは思わない。まあ、あたし達をあのアパートから追い出した力なら、別かもしれないけど」

 焚きつける爲地途に、居守の心はいとも容易く揺さぶられる。蛇の狙いはそれこそだった。爲地途が愛すべきものは脆弱性を垣間見せる獲物の姿だ。

 爲地途がほのめかしたのは、紛れもないあの夜の出来事。何かが起因して発動する、居守自身の力。その力ならこの絶望的な状況を覆すことができるかもしれない。

「何を、言って……」

 狡猾な蛇は舌先三寸の嘘を含み、毒々しく微笑んでいる。

「あたしは単純に管理人さんの力に興味があるの。十二分な化物じゃない、貴女も」

「私、は」

「……ま、どっちでもいいか。流石にあれほどの抵抗を示されたら凹むし」

 居守が言いよどむ間に、爲地途はしゅるりと距離をつめる。背後から伸びた冷たい指先に顎をなぞられ、居守は背筋を正した。首筋に宛がわれる剣先めいた牙。心拍が嫌な方向に跳ね上がる。

「こういうことは嫌い?」

 甘く低い声だった。毒は総じて甘い。腐り落ちる寸前の、肉色をした毒林檎が獲物を誘う。尾骶骨の奥に響く官能的な声に、居守は慌てて太腿を閉じた。

 爲地途の牙は頸動脈の上を何度もなぞる。包丁を石で磨ぐ時のように、動作はあくまで慎重に。牙は鋭利で、僅かに動いただけで容易に皮膚を突き破るだろう。声を発することもできぬまま居守は目を瞑った。爲地途の声は骨を伝っていく。

「可愛い。初めてだものね」

 制服を着てきたことを、居守は本格的に後悔していた。冷たい指先が太腿を這う。

「……居守!!」

『爲地途お嬢の毒を受けてまだ意識があるとはな。まあ動くなよ。俺等が入りこむ余地は微塵もねえって』

 倒れ伏す縢の背に座り、尾切が退屈そうに呟いた。名残惜しそうに彼が見つめるのは、上空を走る雷だ。実に好戦的な千万である。それゆえに行動原理が分かりやすくもある。

『なあ、お前。それより昨日の紅白髪の女はどこだ。俺は奴に貸しがある。とっとと返さねえと目覚めが悪い』

 既に縢は戦力外と見なされているらしかった。その目の前では今まさに、比喩的な意味で蛇に喰われんとする恩人の姿がある。

 縢は毒に冒された体に鞭打つ。拳を軋ませながら、尾切の足首を握った。

『お?』

「っ……退け! 蜥蜴に乗られる趣味はない!」

 残る僅かな力の全てをこめて、明後日方向に放り投げる。蠅を追い払う雑な動作であったが、相手は人一人分の体重である。空中を投げ飛ばされた尾切はくるりと体を回転させ、木の枝を掴んで幹に垂直に降り立った。あまり驚いた様子はなかったが、少なくとも興味は湧いたようだった。

『何だぁ、お前? こいつの力、尋常じゃねえな』

「尾切、手負いと思って掛かると痛い目を見るわよ」

 縢はふらつく足を大地に突き立て、なんとか起き上がった。肩が上下し、既に体の自由はほとんど利かないだろう。それでも目は攻撃的に輝く。

「居守を離せ、毒蛇め」

「あたしの毒を受けて動けるんだ」

 爲地途の声には僅かな感嘆が含有されていた。

 居守が爲地途の腕を振り払おうとしても、華奢なはずの爲地途の体は微動だにしない。力の流動を熟知した、しなやかさを起因とする強さだ。

 爲地途は溜息をつきながら、居守の肩に頤を乗せて蜥蜴を見やる。

「尾切、相手をしてあげて。……違うわ、そういう意味じゃなくて。無力化してっていう意味」

 露骨に顔を顰めた蜥蜴を苦笑し、爲地途は指揮者の如く指を振るう。一転して尾切は満面の笑みを浮かべた。

『おお、そういうことなら分かりやすいな。行くぞ、日向!』

『え、わあっ、尾切ってばぁ!』

 肉体の主導権が強制的に切り替わる。日向は体の底から湧き上がる声に静止する暇もない。自分の体が、全く別の意識に支配されていく。

 悦楽に顔を歪めた尾切は幹を蹴りつけ、勢いよく拳を振りかぶった。

「縢!」

 回避しようにも、動くことすらままならない。居守の呼び声も空しく、縢はその場に立ったままだった。

 振り抜かれた尾切の一撃。風を切った満身の拳を、縢は体を半身にして避けた。

 「まぐれだ」。誰しもがそう思った。ふらつく体の縢の軌道を、尾切の攻撃が捉えきれなかっただけだ、と。尾切は舌打ちをつき、縢の足元に着地する。片足を基軸として尾切は蹴りを繰り出す。これもやはり縢を穿つことはなかった。

 尾切が攻撃を繰り出す。縢がそれを受け流す。縢の足はふらふらと覚束ない。熱病患者を相手にしているかのように尾切の攻撃はことごとく躱される。

 切れたばかりの尾の如く、あるいは名前通りに彼の気性は短かかった。

『しゃらくせえ、《割れろ》!』

 拳の軌道が変わった。もはや撃ち抜くための一撃ではない。尾切は掌を開き、五指を内側に曲げる。そして速度を緩めぬまま、縢の胸部目がけて繰り出した。

 避ける余地はない。縢は咄嗟に両腕を交差し、腕の中央で尾切の拳を受け止めた。

 防御の選択は過ちだった。それこそが躱さなければならない一撃だった。尾切の裂けた口が歪に持ち上がる。

 そもそも、居守の家の壁を砕いたのはこの蜥蜴のいかなる異能が齎したものだったのか。

 単なる馬鹿力ならば、壁を拳一つで貫くことは容易だ。人外の一点突破の剛力を以ってすれば、人が作り出した防壁など灰燼に等しい。だが今までの尾切の攻撃を見る限り、この蜥蜴はさほど力を有しているようではない。確かに体術には優れ、振り抜く拳一つには重みがあるとはいえ。

 居守が気になったのは綴と自分達を分かつ時の攻撃だった。地面に打ち下ろされた拳。アスファルトを砕いた拳。

 居守の思考を、鮮血が遮った。

「縢! ……く、離せってば!」

 居守は体を捻り、なんとか爲地途の拘束を逃れる。それでも縢へと歩み寄るべき足並みは、途中で止まった。

 勝利に酔い痴れる尾切の笑みが硬直する。重々しい唸りが場の空気を書き換えていく。

 一度魔蛭の鳴き声を聞いた居守にはその音が何であるのかすぐに分かった。

 この世ならざる者の声。冥府に片足を浸す、亡霊の声。獣の咆哮とは異なる、奇々怪々たる声。

 残る問題は。

「……縢」

 声の発生源だった。

 縢の表情は激しい頭痛を堪えているかのようにも見える。白皙の頬を脂汗が伝い落ちた。縢はそれでも不動のままだった。服の所々が切れているが傷はない。尾切が期待した人体破壊はそこにはなかった。

 交差した腕の向こうで鬼火の如く輝く、赤い目。

 生物的な本能から、尾切は宙を蹴っていていた。今再び繰り出すは鉤爪を組みこんだ掌底。

 縢は防御を解かなかった。また攻撃しようともしなかった。ただそこに立ったままだった。

 激突。骨と骨が打ち合わさり、筋肉が軋む歪な音が奏でられる。

 先に膝をついたのは、尾切だった。

『かッ……何だ、お前?!』

 鮮血が滴る。紛れもない、鉄拳を振るう尾切の一滴だった。縢は防御を解き、尾切の頭を勢いよく掴む。尾切の目が驚愕に見開かれた。

 居守は嫌な予感がした、途轍もなく。彼女の嫌な予感はよく当たるのだった。

『?!』

『ふええ、離してよう!』

『まこと目障り。耐え兼ねた』

 反響に残響を重ねた奇妙な声音だった。感情が氷結し、無機質と化した声だった。あまりに変容が激しく、居守は一体誰の声なのか疑問に思ったほどだ。

 尾切は力のままに持ち上げられ、それでも笑っていた。矜恃など今の縢の前では無力だった。

『この俺様と力較べか。キハハ、こいつは面白え』

 その笑みに余裕はない。尾切は拘束を逃れるために、左拳を縢の顔面に振るった。

 恐らくは異能が込められた一撃だったはずだ。闇夜に微かな火花が散る。

 閃光は罅を模す。罅だった。空気中に走った微細な線は一瞬にして消えたが、紛れもなく尾切の行使する異術だった。蜥蜴は隙間に入りこむ術に長ける。いかなる堅牢な壁であろうと、人の往来する堅実な道であろうと、一度罅が入ったものは脆い。

 だが破壊はない。縢の体に尾切の腕が看破する隙はなかった。尾切の攻撃は無効化されたのだ。

 残される右拳を、尾切は振るおうとはしなかった。両腕を失ってはまずいと判断したのだろう。実際それは正しい判断だった。尾切は躊躇なく、縢の鳩尾へ膝蹴りを繰り出した。

 苦悶の喘ぎが続く。それはやはり尾切の声だった。

『っ、ぐ』

『はは』

 縢は敵の攻撃をなぞるように、尾切に向かって膝蹴りを繰り出す。こちらは十二分な効果が見て取れた。縢は一度、二度、三度と同じ攻撃を繰り返す。蜥蜴はそれでも悲鳴を漏らすことはなかった。

『《わたくし》が相手になってやろう、()蜥蜴(とかげ)

 狂気に濡れた凄惨な笑みだった。連続攻撃に、尾切がついに膝をつく。地を割り砕くこの蜥蜴も確かに力自慢であるはずだ。それが完全に子供扱いである。

 口の端から血の滲む唾液を垂らし、それでも蜥蜴の目は死んでいなかった。

『っ……昨日今日町に来たばかりの新入りに、この《(さん)(もん)(とりで)(あぎと)》が落とされてたまるかよォ!』

 尾切は靴裏を地面に打ちつける。すると大地に巨大な亀裂が生じ、足元が大きく崩れた。縢の拘束が一瞬緩んだ隙に尾切は跳躍して距離を取る。縢は追うことをしない。

『蜥蜴だから腕を千切って逃げるかとも思ったが、流石にそれはないようだ。生え変わるのは果たして尾だけか』

『……煩え』

『試しにやってみるか、助力しよう。生えてくるんだろう、小蜥蜴』

『煩えっつってんだろうが!』

 激昂する炎に油を注ぐ縢の声はやはり冷淡だった。確かに常から縢は口が悪かったが、相手を侮辱する物言いはしたことがなかった。縢らしくない。否、本当に今眼前に立つ者は縢なのだろうか。真実と虚構が揺らぐ今宵に、信じられるものなど本当に一握りだ。

『……日向。ちいと無理すんぞ』

 呟きめいた蜥蜴の声と共に少女の筋肉が唸りをあげる。浅黒く変色した両腕はつるりとした鱗に装甲されていく。

 海外のトカゲに較べて、この国に生息するトカゲはあまり攻撃的な外見をしていない。つるりとした四肢に棘はなく、牙には毒もなく、武器といえば戦術的撤退である自切くらいだ。それでもこうして人体と混交を果たすと、れっきとした生存競争の中にいる生き物だと思い知らされる。

 日向の体の主導権は完全に尾切に明け渡された。

『勘弁ならねえ。お嬢、俺はこいつの(なわ)(ばり)を割り砕くぞ』

 尾切の言う縄張とは、獣が己の玉座を置くための領域ではない。城郭を築く際の設計図。礎のことだ。

 この山門砦の牢穴から生まれた一匹の蜥蜴は、《崩す》術に長ける。それは策を弄して、雨が岩肌を削るような回りくどい方法ではない。戦場を駆け抜けて敵の足元に入りこみ、文字通りの《罅》を入れる。

 元より爲地途の返事を期待していない尾切は戦場へと向き直った。肘の辺りまでを茶褐色の鱗で覆い、五指は既に人の形をしていない。長さが不揃いなこともあって、鉤爪はひどく禍々しい。

 尾切は前に突き出した両手の甲を重ねた、閉ざされた門に指を通す構えである。

(きり)(ぎし)(くず)し』

 闇夜には深い亀裂が走る。深遠の茨が宙を這いずり回り、縢を貪らんと鎌首を擡げる。夥しい数の罅は縢の足元にも及び、周囲に屹立する樹木が次第に傾ぎ始める。大地を穿つ深々とした罅の群れ。否、既に地割れに匹敵する段階だ。

「わ、わわ!」

 深い亀裂が足元に及び、居守は慌てて背後に飛び退く。

 石を砕き割る重低音が腹の底に響く。夜の底を押し広げて、森が闇に飲みこまれていく。尾切が指を通す不可視の門は、未だ掌を通せるくらいまでしか開いていない。尾切はその奥に縢の姿を捕えていた。

 縢の足元を幾重もの罅が地を駆けずり回る。世界が軋む音を上げて崩壊していく。罅に巻きこまれた木々が(かし)ぎ、雑草が沈みこむ。沼地を連想させる貪欲なまでの引力だった。粉塵が上がり、視界は急激に悪くなっていく。居守は目を凝らして縢の姿を探した。

 探すまでもなかった。土煙の向こうには赤く燃える二つの目が輝いていたからだ。罅は縢の服を裂き、皮膚を切る。それでも縢の笑みは消えていなかった。

『……罅。罅だな、お前の《それ》は。蜥蜴は隙間に入りこむからな』

 尾切の焦燥は募る。

 これまでどんな硬質な物質をも粉砕してきた《罅》が入らない。服や皮膚や傷つけることはできる。されど、この縢という何者かの縄張が分からない。それこそが《罅》の欠点だった。

 そも、罅とは即ち不和である。石の砦ならば分かりやすい。固く、それぞれが己の役割を務めているからこそ盾として成立する。尾切がそこに齎すのは一滴の不和だ。僅かな綻びはたちまち全てに伝播し、崩落を招く。

 そして罅の発動条件。それは。

『何だ、お前……。《中》に一体何を巣食わせてやがるんだ!?』

 崩すにしても、敵の腹の底が見えねば策は弄せぬ。異法の業と言えど、従うべき暗黙の了解はある。尾切は「崩すべきものが何であるのか」。それを知らねば力は発動しない。

『さてな。だが、まだまだ。石竜の(わっぱ)如きに砕かれる《わたくし》ではない』

 一人称が先とは違う。居守はうなじの辺りに浮いた冷たい汗を感じた。

 縢ではあるが、縢ではない。声は相変わらず美しくよく通る。音は同じ。喉も同じ。だが声を奏でる魂が異なっていた。その声で蜥蜴を食らおうと笑う不如帰。人は見かけによらない。中身が何であるのかも分からない。一方的に驚くのはいつであっても第三者だ。

 果たして呼ぶべき名前も分からず、居守は揺れる大地に必死にしがみついていた。

『……こりゃあ大番狂わせだ。とんだ化け物がこの町に来やがった。しかし俺も一将、ここで落とされる訳にはいかねえ』

 尾切の両手は既に肩幅まで開いていた。縢の背後に立つ巨木が半ばで折れる。右隣の巨石が瓦礫と化していく。唯一破壊を与えられぬ縢は退屈そうに首を傾げた。そして歩を重ねる。

『童にも崩せぬ道理があるのだな』

 焚きつける物言いに尾切は奥歯を噛む。憤怒は原動力となり、腕に力がこもる。怒りと矜恃を力として、尾切は最後の大技を仕掛けた。

『お前の皮膚の下に巣食う奴を見せろ! 一文字虎口《(かい)(ぎゃく)》!!』

 不可視の門が完全に開き切る。同時に縢の背後に立つ木々がごっそりと倒れた。一本や二本などという生温い数ではない。尾切を起点とし、森の最果てまでの木が縦一文字に折り砕かれた。

 しかし千篝縢は倒れない。《罅》の攻撃で右頬に裂傷が生じたが、深い傷ではない。そればかりか血すら流れなかった。

 血が流れない。それは異変である。人間でも動物でも蜥蜴でも、傷がつけば血が出る。尾切は縢の皮膚の下に宿る硬質な触感に気がついた。凍てつく輝き。人の皮膚の色ではない。

『痛いな。……やれ、《殻》が弱っているから折角出てきてやったというに。随分な仕打ちぞ。仕方ない。《わたくし》が直々に遊んでやろう』

 唖然とする三人の中で縢の声だけが響く。

 縢はゆうらりと、右腕を脇腹につけた。掌は上に。人差し指と中指、薬指と小指をそれぞれくっつけた不自然な構えだ。構え。これから攻撃を齎すという意思。躑躅色の赤い眼が居守を見た。

『避けろよ、(やしろ)(もり)

「え」

 縢は腕を下から斜め上に勢いよく振り抜く。ちょうど逆手の袈裟切りのような軌道だ。

 銀の(ざん)(ぱく)。気がつけば眼前に尾切の姿はなく、背後にいた爲地途の姿もない。眼前にはただ攻撃の余韻に浸るように腕を振り上げたままの縢が立つばかりだ。

 居守は何が起こったのか分からない。辺りが不自然に静かで、疑問のままに背後を振り返った。

「……な」

 背後の木々は、縢の腕の軌跡をなぞるように切り裂かれていた。何らかの異能であることは明らかだ。何しろ居守を取り囲んでいた木々が右から左へ、順を追うように高さが下がっていく。右側の木の長さなどはもう切り株ほどの低さしかなかった。

 切った。それとも斬ったのだろうか。それにしては断面があまりに不揃いだ。――まるで強い力で握り潰されたかのような……。

 そこまで考えたところで、闇の奥から嚇怒の咆哮が上がる。

 声の元を探せば木の上。四肢をつき、縢を睨む尾切の姿があった。その横には枝に腰かけた爲地途が興味深そうに下界を見下ろしている。

「すごい力。尾切の言う通り、この子は確かに大番狂わせだわ」

 縢は無言のままに再び構えの体勢を取る。二度目は必ず当たる。戦闘の知識がない居守にすらそう思わせる、殺意。

「ただし、このテの力っていうのは」

 しかし縢の体からは不意に力が抜けた。がくんと膝から崩れ落ち、荒い息が吐き出される。爲地途は膝の上に肘をつき、冷静に縢の変貌を分析していた。

「……あまり長続きしないのよね。暴走みたいなものなのかしら」

 殺意と敵意は霧散した。縢は苦悶の喘ぎと共に片膝をつく。それでも眼光だけは鋭く、蛇と蜥蜴を睨み上げた。

「分かった、ろ! 俺は、喧嘩はしたく、ない! あんた達が自殺志願者なら別だけど、な! 頼むから、もう帰れ!」

 縢の声には逼迫感が滲む。圧倒的優位にいるはずの縢が、格下である敵に懇願する構図は奇妙だった。

 しかし居守は安堵する。「縢だ」。居守は疲労困憊の呈に陥る縢の姿に、不謹慎ではあるが、深い安心感を覚えた。あの腹の底が見えない闇ではない。居守の手料理が美味いと言って笑った、いつもの縢だ。

『脅しのつもりか、この野郎! こんな中途半端な形で戦をやめられるか!』

 だが案の定、縢の願いは敵の怒りの火に油を注ぐ結果になった。尾切の怒りも尤もだ。一方的な強さを見せられて、一方的に争いに終止符を打たれる。これほど理不尽なこともない。尾切の根は曲がったなりに真っ直ぐだ。

「尾切、やめなさい。帰るわよ」

『冗談じゃねえ! 例えお嬢でも祭りを邪魔することはできねえはずだ!』

 飛びかからんばかりに身を撓める尾切の肩に、爲地途が咬みついた。

「な……」

 不測の人物からの攻撃に尾切の目には驚愕が映る。尾切が背後を振り返る頃には爲地途はもう戦場に背を向けていた。身軽な動作で木を下り、足早に森の茂みに身を隠す。

『……あ? ……お、嬢……?』

「正攻法でどうこうできる相手じゃなさそう。負け戦はしない主義だし、あたしの毒が《内側》を起こしちゃったみたい。これは誤算ね。それにまだその子はお腹の底が見えないし、これは次回の楽しみにしておくわ」

 「腹の底が見えない」。それは全くお互い様だったが、居守は反論もできぬまま爲地途の背を睨んだ。

 尾切はなおも何かを続けようとしたが、体の主導権が強制的に切り替わる。裂けた口が肉の接合する音と共に元に戻っていく。瞳は鋭利さを失い、瞬き一つの後には日向の姿が戻ってきていた。

「あ、あれ?」

「今夜はお開き。おやすみなさい」

 あまりに鮮やかな撤退である。早くも闇に紛れた爲地途の後ろ姿を、居守と日向はやや呆然として見送っていた。

 日向は未だ状況の判断がついていないらしく、爲地途の背中と居守達とを交互に見比べている。

「……ふえ? あれ? 終わったの?」

「負けでもなく勝ちでもなく、戦術的撤退か。あの蛇は本当に性質(たち)が悪いな」

 冷えた縢の声に日向はぎこちなく立ち上がる。

「あ、待って、待ってよう、爲地途ちゃんっ!」

そして慌てて爲地途の後を追いかけた。

 やがてその人影が暗闇に消えて見えなくなる頃、居守は止めていた息をようやく吐いた。

 それから闇を睨む縢の傍らに膝をつく。殺意は消えたとはいえ、敵を睨む縢の姿はひどく刺々しい空気を纏う。居守はゆっくりと縢の肩に触れた。

「縢」

 そこまで言いかけたところで、縢の体から力が抜ける。居守は慌てて縢の体を抱き止めた。

「だ、大丈夫、縢?! ……って、大丈夫なわけないか、毒が。ど、どうしよう……!」

 縢の体は熱い。大分汗をかいている。それでも血の臭いがないことが、幾らか平常心を思い出させる。縢は居守に身体を預けながら、大きく息を吐いた。

「……疲れた。頭がぐらぐらする」

「うん。……ごめん、私何もできなくて」

「何かをしようとはしただろ。往々にして初めてはそんなもんだ」

 居守は縢の背を撫でながら、恐怖に震え出す体を叱咤する。声が震えていたかもしれないが、縢は何も言わなかった。

「俺は、多分平気だ。毒には慣れてる。それより姉貴の所に行ってやってくれ。俺も後から追いかけるから」

「でも……」

「いいから、行けっての!」

 異変を感じた刹那、居守の体は縢の手によって再び虚空へと放り投げられていた。

 縢が発揮する怪力。森の中を一断した攻撃。それが何を発露としているものなのか、居守は夜空から下方を見下ろしながら悟ったのだった。


■ ■ ■


「っつ、う」

 よくよく投げ飛ばされる日である。そんな日がそう頻繁にあっては堪ったものではないが。

 太い枝葉が緩衝材となり、居守は木の幹に逆さになってぶら下がっていた。もはや語るべくもない無様な格好である。スカート姿だが、露わになる太腿を押さえる気力すらない。

「おわぁ!」

 べちゃりとそのまま上体から落下し、居守は雑草の味を身を以って味わった。……意外に美味だった。これは春の七草粥の一つであるセリの味だ。ドクゼリでないことを祈りつつ、居守は土と共にそれらを吐き出す。ふらつく体を木に預けながら、曖昧な平衡感覚を必死に取り戻す。

「……そうだ、縢が!」

「縢が何やらまずいことになっているわね」

 綴の声に顔を上げれば、彼女もまた戦いに身を投じている最中だった。

 巽が風を切って、綴めがけて突進を繰り出す。硬質な鱗に覆われた右手が地面を削りながら、一切の容赦もなく綴の腹部へと叩きこまれた。鈍い音が上がる。居守は咄嗟に目を瞑った。

 巽は弛緩した綴の体を腕の力だけで持ちあげ、目の高さまで持っていく。

「……龍だわね、お前」

 口の中を切ったのか、鮮血が唇を染めていく。綴の血を浴びながら、巽の目がより一層光った。蛍光色を宿す黄の瞳孔は縦に割れ、月光を帯びることによって楕円へと形を変えた。

 龍。

 あまりに有名な異形である。神の顕現とすら謳われ、この国では遍く水に通ずる信仰の対象になっている。蛇体の如き体を有し、時に人を助け、時に人と敵対する異形共の王。信仰は厚く、当然人間の人気も高い。本来ならば玉座に優遇されるべき存在だ。

 巽は腕を振るい、少女の痩身を放り捨てる。綴は猫の如く空中で体を捻り、アスファルトに四つ足で着地した。

『ああそうだ。別に驚くもんでもねエだろう。ならテメエは何だ?』

 一瞬のうちに間合いを食い潰し、龍と融合を果たした巽が腕を振るう。いかなる異能によるものか、巽に憑いた龍は少女の内側に宿っているものらしい。鱗の一つ一つを波打たせる姿は歓喜に打ち震える獣そのものだった。

 綴はまたしても龍の一撃を止める。

 だが詰めが甘かった。巽は体を反回転させて、太い尾で綴の体を薙ぎ払う。

「っ……!」

 鈍い音がし、綴の体は再び宙に浮く。暴力的な勢いのまま体が吹き飛び、痩躯は庭先の桜の幹へと激突した。背中を強か打ちつけられ、やがて血の軌跡を描きながら地面に崩れ落ちる。どう見ても致命傷だった。

「綴!」

 居守は綴の元へ駆け寄ろうとするが、巽の雷撃が牽制となって二人の間に線を引く。居守は異形達の戦いを、息を呑んで見守るしかなかった。成すべきことが何もないのだ。人が神の、否、神となるべくして争う者達の間に割りこむなどできるはずもない。

 綴は痛みを分散させるようにゆっくりと体を起こし、桜の幹へと背中を預けた。皮膚を切ったのか、白い頬を血が流れ落ちた。巽は笑みを浮かべたまま、綴が動くのを待っている。尾を振る仕草は散歩を待ち侘びる犬のようだった。神龍を犬に例えるとは、不敬もあったものであるが。

「嗚呼くそ、全く手前様はよくよく異形に縁があるようね。何で戻ってきやがったのかしら」

「だ、だって縢に投げ飛ばされて……!」

 綴は人の夢の如き笑みを浮かべて空を仰いだ。

 桜が散る。東雲荘の庭に咲くただ一つの桜が、泣くように散り注ぐ。

「……それじゃあ可愛い管理人さんのために頑張ってみようかしら。早いところ縢も迎えに行かなきゃならないようだし」

 満月を宿した桜を一心に浴び、綴は長く息を吐いた。肺の酸素を全て消費し、舞い散る桜を空中で遊ばせる。どこからか吹く温い風が吐息に応じて黒髪を優しく梳いた。

 綴は地面を舐めるように上体を低くする。黒髪には薄紅色の花弁が絡んでいた。

 やがて花は芽吹き、黒いセーラー服の布地を押しあげる。四本の黒い樹枝が、綴の背中から生えたのだ。

 居守は息を呑む。服の間から見えた綴の背には複雑な呪印が描かれていた。見えたのはほんの一瞬で詳細は分からなかったが、刺青のようにも見えた。

 枝は少女の背中から直接生えている。綴を苗床とし、漆黒の枝葉が肉を掻き混ぜる音を立てながら空を目指して伸びていく。やがて(ひこばえ)は伸長を止め、成長を諦めるように全てが真逆の方向に折れ曲がった。

 居守はようやく気付く。今まで見ていたものが、はたして何であったのかを。

 「脚」だ。複雑な関節を持つ人外の歩脚だ。

 唖然としている間にも綴の体は刻一刻と別のものへ転じていく。

 肉が練り交ざり、筋肉が分裂を繰り返し、骨が割れ、あるいは増殖していく。わずかな痛みを伴うのか、苦痛の混じる微かな喘ぎが聞こえた。尾骨を貫く甘い音色に居守は思わず鼓動を乱す。

 やがて長く伸びた髪を振るい、地に臥した綴は背後へと大きく跳躍した。体を空中で一回転させ、その体が桜の上に降り立つ頃には、既に綴の姿はこの世のどこにもなかった。

 磨きあげた桜皮の如く、艶めいた八つの樹幹が突き立てられる。

 否、それは四対で構成される歩脚と言うべきだった。歩脚を(かなえ)とし、その生き物の頭部と胸部の境は非常に曖昧だ。ひとえに(とう)(きょう)()と呼ばれる部位があり、癒合した袋状の腹部が後ろに付随する。やや丸みを帯びた菱形の腹部には幾何学的な桜の紋様が浮かび上がっていた。そして全身を装甲するのは、漆黒の薔薇から拝借した微細な棘である。生き物に武器は多い方がいい。頭胸部には鋭利な鎌状の(きょう)(かく)と一対の(しょく)()が見受けられた。

 腹部に描かれた桜の紋様を除き、眼前の生き物は全身を影の色で統一していた。鋏角を擦り合わせると、澄んだ鉄金の音がした。回転する刃を鋼鉄に走らせる。さながら(しのぎ)の音だ。

 広い頭胸部のおおよそ中心。そこには大きいとも小さいとも言いがたい二つの眼がある。人間の瞳孔とは異なり、磨き上げた宝玉を直接埋めこんだような無機質な眼だ。

 朧月夜に顕現せしは節足動物門鋏角亜門に属する生物――クモ。そして一般にオニグモと呼ばれるものの姿だった。しかし体は規格外に大きく、体躯は二メートル近くに匹敵する。更に付け加えるなら、このような巨大すぎる蟲など日の下には絶対に存在しない。

 蜘蛛の瞳はまっすぐに居守へと向けられていた。円らな二つの眼だった。

 どこか既視感のある躑躅色の瞳。蜘蛛の全身を覆う純然な黒は、見知った少女の黒髪とそっくりだった。

「……綴……?」

『改めましてはじめまして、乞日辻居守。(あや)()(はっ)(きゃく)(ぼう)(ろん)(あら)(ひと)(がみ)(くろ)()(かげ)(おに)(つち)蜘蛛(ぐも)。これが千篝綴(あたくし)のもう一つの姿よ』

 蜘蛛の鋏角が奏でたのは綴の声に相違ない。全く異なる姿で、全く同一の声を発する。

 居守は瞠目していた。巽も居守と同じ胸中だったようで、未だに立ち尽くしたままだった。

『……憑依か? 全身に宿す奴なんて、聞いたことねエぞ』

 聞き慣れぬ単語に居守は巽に視線を移した。詳しくは分からないが、巽と綴とでは何かしら力の隔たりがあるらしい。

 確かに巽は龍の力を宿しているというが、姿形はほとんど人間だ。尾や角、牙、爪、鱗。様々な部位を龍に明け渡してはいるが、人としての形が崩れるほどの変貌はしていない。

 対する綴は違う。姿はもはや見知った少女のそれではない。

 完全なる異形。居守の眼前にいるものは、蜘蛛そのものだった。

「……綴。綴、なの?」

 名を呼ぶと、()(くろ)の蜘蛛は歩脚を動かして体をこちらに向けた。

 見つめ返してくる目は不思議な引力を持っていた。時折不規則に明滅する。瞬きのようでもあるし、電気信号めいた点滅のようでもあった。肉の器を持つ以上、眼前に君臨するのは確かに生物である。だのに呼吸音はおろか鼓動すら聞こえない。機械めいた形である。

 居守は言葉を続けようとする。だが蜘蛛の居守の間を引き裂いたのは、侮蔑と嫌悪の入り混じる低声だった。

『気っ持ち悪い。蟲、しかも蜘蛛かよ。最悪だな』

 伸ばしかけた居守の手が不自然に静止する。

 確かにクモは一般的に毛嫌いされる生き物だ。アラクノフォビアという病名がわざわざあるくらいに、クモは人の根源的な恐怖心を煽る。八本脚はしばしば人の領域を踏み荒し、無遠慮に室内を歩き回る。巣を張り巡らし、姑息に獲物を狙う。

 何をしたわけでもないのに、一方的に嫌われてばかりいる。

 巽の(こと)()は確かに綴の心を穿ったはずだ。それでも蜘蛛は微動だにしなかった。

『御託は要らねえのよ、益嵓巽』

 蜘蛛は器用にも、最前に位置する左脚で宙を掻いて巽を挑発する。沸点が人より低い巽が激昂するのは当然だ。

『言うじゃねエか、一年坊主』

『あたくしは居守より甘くねえわ』

 青い軌跡を常夜に描き、巽の姿が掻き消える。同時に、桜の上に立つ漆黒も消失した。

 一瞬の空白の後、木の真下で激突音が上がる。

 龍の剛力を宿した巽の正拳と、細く長い蜘蛛の左脚がぶつかり合う。微かに巽の顔が歪んだ。

 蜘蛛は体を反回転させ、余りある脚の一本で巽の腹腔を横に薙ぎ払う。巽の孤影が吹き飛び、茂みの中に吸いこまれていった。

 蜘蛛も後を追って跳躍し、軽々と道路の境まで飛ぶ。その動きは蜘蛛というより、精緻な機械が人間の手によって操られているかのようだった。つまるところ動きがどこか人間臭く、蜘蛛離れしている。

 足並みは地面を滑るように歩き、あれほどの巨体だというのに足音一つしなかった。

『く、そがァァ……!!』

 雑草と倒木を押し退けて、巽が森の中で跳ね起きる。

『蟲如きが龍に逆らってんじゃねエ!!』

 逆鱗に触れたらしい。巽の性格を考えるのなら当然とも言えた。反撃の意図は、これまでの彼女の言い分を考えるのなら十二分に敵意に値する。

 蜘蛛は巽の直線的な攻撃を既に読み取ったらしく、今度は高く空に跳躍し、上から計八本の鉄槌を巽の腹腔に叩きこんだ。一切の慈悲なく。道路には文字通りに蜘蛛の巣状の罅が入り、巽の姿は中心に縫いつけられた。

『龍は自尊心が高くて嫌いなの』

 蜘蛛は動かなくなった巽の尾を掴み、眼の高さまで持ちあげる。

 体節の細部まで行き届いた精緻な自己統治のあまり、居守は眼前の蜘蛛が綴であることにあまり疑問を覚えなかった。所作の所々に人間の時の名残があるのだ。

 口から血を零し、それでも巽の目に宿る闘志は消えていない。むしろ、より一層冴え渡るほどに輝いていた。

『一応聞くけど、なぜ居守を狙うの。あの性格よ、脅すだけ脅したら尻尾を巻いて逃げるわ』

『アタシがテメエ等を気に入らねエってことが重要なんだ。理由なんざいらねエよ。それとも何か、もっと正当な理由がなきゃあ人は人を襲っちゃならねエのか』

 巽の持論は日の下でなら、真っ先に駆逐されるものだ。人は人を襲ってはならない。

 しかし月下では。ここは既に日常ではない。異形が異形となって争う、凶事なのだ。

 巽の角がばきりと音を立てて伸びた。蜘蛛の脚とは対照的な、白樺を彷彿とさせる勁角である。

 巽は巨大な蜘蛛の手中に捕えられながらも微塵も恐怖していない。それどころか笑みを浮かべ、目には狂気にも似た灯が揺らいでいる。

 千鳥の鳴き声が聞こえる。居守は嫌な予感がした。はたして彼女の嫌な予感はよく当たる。

『アタシはアタシが気に入らねエものは全部ぶっ壊す。せっかくこんな力があるんだ。何を好んで感情を押し殺さなきゃならねエんだ』

 紫電が闇を貪り、吠え猛る。龍の力を媒介とし、皓々と輝く角からは人の英知が及ばぬ雷が撃ち放たれた。

「綴!!」

『日和ってんじゃねエよ! 黴臭エ古神ごときが!!』

 龍の咆哮と化した雷が巽の角から放たれる。やや青みが強い雷が杭となって、巽を掴んでいた蜘蛛脚を強襲する。

 居守の声は龍の轟きに掻き消される。綴は危機を悟り、龍から手を……否、脚を離して虚空を舞った。

 まさか本物の雷に匹敵する電力ではないだろう。しかし空気を走り抜けた万象の力は十二分に殺傷能力を持っていた。周囲を照らし出した雷は細やかな蛇となって巽の角に絡みついている。

『さあ、もっと遊ぼうぜ』

 巽は一瞬にして距離を詰める。不意をつかれた綴に生じた一瞬の隙に、龍は刺々しい角で以って二メートルはあろうかという蜘蛛の巨体を宙に跳ね上げた。闘牛の猛攻さながらの一撃に蜘蛛の腹腔が傷つき、そこから溢れ出した黄色い体液が宙を染めた。

 居守は考えるより先に駆け出していた。

「綴!!」

 ただ名を呼ぶことしかできなかった。

 蜘蛛は震える脚で体を支え、眼光だけで居守の歩みを静止させる。『来るな』という、端的な意思表示だった。巽はそんな居守の前に立ち塞がる。綴と居守の間に、常人では踏み越えられない境界線となって。

『お前が行って何が変わるんだ、管理人』

 声は居守に向けられ、拳は綴に向けられていた。朦朧としているのか、綴は躱す余力さえない。巽の正拳は蜘蛛の頭胸部に打ちこまれ、巨体を再び宙に浮かせる。

 痛い。痛かった。綴が殴られるたびに、己が殴られている気がした。

 黄色く濁った体液が散る。鱗を纏った青い拳が返り血に濡れていく。綴の痛みの色だった。

 居守は拳を握る。

『見捨てちまえよ、こんな気持ち悪い蟲は。アタシが駆除してやるからよ』

 呪詛めいた一言だった。

 愉悦に歪む巽の横顔は、遊び半分で蟻を殺す童子と何ら変わらない。てんで無邪気なのだ。自らの悪行を悪とも思わぬ、純粋極まりない暴力行為だった。だからこそ矯正の余地がない。この女は、この龍はただ遊んでいるだけに過ぎないのだ。

 誰しもが狂気を胸に飼う。あばら骨の檻に隠された臓腑の奥底に、澱めいた呪いを飼っている。巽の場合は初めから檻がないだけだ。あるいは龍との契りが、檻を取り払った。この暴龍の狂気はあくまで人並みである。

「……蟲なんかじゃない」

 確かに巽の眼前にいるのは蟲だ。異形の蟲だった。この世の夜に蔓延る化け物だ。

 暴龍の攻撃は止まない。もはや一方的な蹂躙が続いている。そもそも龍人と化け蜘蛛とでは、基礎からして力の差がありすぎる。聡い綴だ、こうなることは分かっていたはずだ。それでも彼女は戦うことを選んだ。

東雲荘(う ち)の……私の! たった二人だけの家族だ!!」

 しかし、綴だった。散っていく桜に目を細め、自らの料理を美味いと言って誉めた双子の片割れだ。姿形は違えど、魂は揺らがない。綴であることに変わりはないのだ。

 綴は呼び声に応えるように震える脚を地に突き立て、何とか起き上がった。

 アスファルトを黒々と濡らすのは紛れもない彼女の体液だ。体節の所々から鈍く軋む音が上がっている。早く止めないと本当に手遅れになってしまう。

『うちの管理人さんに余計な悪知恵を吹きこまないでくれる。……居守、引っこんでなさい。邪魔』

 空中を蹴りあげて、落下速度を加算した巽の踵落としが蜘蛛の頭胸部を直撃した。蟹などの甲殻類と違い、蜘蛛の外骨格はさほど強固にはできていない。蜘蛛の体は力のままに地面に打ちつけられる。蜘蛛は腹腔を地面に強か打ちつけられ、八本脚が不規則に痙攣した。だらりと八脚を投げ出し、躑躅色の瞳からは意識の光が消える。

 居守は地を駆けた。駆けていた。恐怖のために足が思うように動かず、ちっとも速度は出なかった。足の捥がれた蟲のように鈍い歩み寄りだった。

 巽は角の間に雷を走らせながら首を傾げる。

『おい、何のつもりだ。退けよ、邪魔くせエな』

「綴……! 綴!!」

 震える手で蜘蛛の体に触れる。

 いつか繋いだ手と同じ、蜘蛛の体はひんやりと冷たかった。夥しい血と体液の匂いが肺腑を軋ませる。

『何のつもりだ、はねエか。聞くまでもねエな。全く予想通りだ。あの路地裏でもそうだった。なぁ、テメエは本当に考えて行動してんのか? テメエを見てるとな、アタシは全く腸が煮えくり返りそうになるんだよ』

 巽は血糊を払い、暫しの間、攻撃の構えを解く。

『人が人を助ける時、理由は要らねえとこの世ではよく言うよな。博愛だの思いやりだ何だのと。アタシはこの言い草が嫌いなんだ』

 巽は蜘蛛と向き合ったままの居守に難色を示す様子はない。

『まずな、人を助けるっつう選択肢を選んだ時点で「心配」だの「同情」だのが理由になってんだよ。「世間体」とかな。こいつが一番厄介だ。助けない方法を選ぶと世間体が許さねえ。だからこそ人はその場の空気で取るべき行動を選んでる。分かるだろ。そういうのを偽善っつうんだ。そしてアタシは偽善が嫌いだ』

 居守は蜘蛛の頭胸部を撫でる。躑躅色の瞳は明滅を繰り返している。意識が殆んど飛びかけている。返事がない。

『爲地途なんかはアタシからすれば分かりやすくていい。人を助ける時、アイツは必ず利益を天秤に掛けるからな。日向の場合もだ。アイツは他人への恐怖心がある。ちなみにアタシも助けない方を選ぶ。全くの他人だ、自分の身を危険に晒してまで守りたいと思うだけの善性は端から備えてねエ。世間体が何とか言うようだったら、アタシはその世間体をぶっ潰す』

 人が人を助ける時、そこには必ず理由がある。

 巽は暗に問うているのだ。『お前はなぜ、その蜘蛛を助けるのか』と。

『見たくなかろうが何だろうがこの町の祭りってのは、いや、この世ってのは昔からこういうもんだ。弱肉強食。人外共の陣取り合戦だぜ? その方式が単に見えやすくなってるってだけの話だ』

 陣取り合戦。確かにそうだ、天鑰が話したことを思い出す。

 たった一つの神座を求めて戦い合う。この町は狩坐だ。千万とはいわば寄る辺なき土地神なのだ。一体どれほどの数の千万がいるのかは定かでない。八百万という言葉ですら、「数多」という意味合いしか含まれていない。どこにも居場所のない異形達が血を流しながら争う凶事の宴。

 そしてそれは日常の世界と何も変わらない。誰しもが心で血を流しながら、己の居場所を求めている。

「祭り、なんて……名前だけじゃない。こんな……」

 居守は背後の東雲荘を見、次に綴を見る。触れた指先には蜘蛛の体液らしき黄色の液体が付着していた。躑躅色の目は未だ現実と夢の境で明滅を繰り返している。

「……うちの陣地が欲しいなら持っていけばいい。だから」

 居守の声にようやく蜘蛛の目に光が灯った。

『馬鹿なことを言うん、じゃねえわ……居守。あれは、あそこは手前様の居場所なんで、しょう』

 震える声が脳を揺さぶる。

 自分の居場所。そうだ。東雲荘は思い出と記憶を詰めこんだ、たった一つの居場所だ。

 千万達が居場所を求めて戦う理由が、居守には痛いほどよく分かる。自分にはあの家しかない。世界がどれほど広くとも、居守の居場所はあの家にしかなかった。

「私の居場所……だけど! あのアパートは私だけど! こんなのは嫌だ!」

 巽は背後の古めかしい建物を顧みることなく、歩を進める。

『いらねエよ、あんなオンボロアパート。アタシはそこの害虫をぶちのめせればそれでいい』

 巽の手は居守の体を軽々と持ち上げる。胸元を掴み、間近で居守の顔を眺めた。

『アタシが憎いか? 一年坊主』

「っ……ぐ」

『その憎しみは果たしてお前の偽善を越えられるかねエ』

 燐光を帯びた龍の目と、暗く光る苔色の目が交錯する。

 居守は震える手で、拘束する巽の腕に触れる。

「……熱っ!」

 血が沸騰しているのではないかとさえ思うほど熱かった。間近でよく見れば、巽の頬には幾重もの汗が流れている。

 龍と交わっていながらも、基礎は人間なのだ。雷を纏うことがどれほど人体に影響を及ぼすのか。

「何、で。そうまでして……」

『何度も言わせんなって。だからアタシはなぁ……』

 巽の腕に力が籠る。筋肉が流動し、龍の力を宿した一撃は何の容赦もなく少女に繰り出されるだろう。

 綴は同時に地を駆けた。龍の速度には劣るが、人の領域を踏み砕く速度で二人の間に割って入る。巽は綴の乱入に動じなかった。龍の紫電の前では、何をしても無駄なのだ。何もかもが無力なのだ。

「くそ……! 居守! 姉貴!」

 視界の隅で、駆け寄る縢の姿が見えた。満身創痍の呈に陥りながらもここまでやってきたのだろう。蜘蛛の速度には劣るが、縢も懸命に地を駆ける。

 しかし間に合わない。既に龍の間合いは絶対だった。

『テメエみてエな偽善者が、アタシは、一番、大っ嫌いなんだよ!!』

 蜘蛛は残された余力で居守の体を自らの背後に押しやる。居守は尻餅をついた。

 巽の雷撃が綴の腹腔を貫く。

 刹那。

 ぐらりと居守の視界が揺れた。居守は我知らず、頭を押さえていた。胸ポケットにしまっていた眼鏡が落ちる。

 守らなくてはならない。綴を、縢を、東雲荘を守らなくてはならない。ただその思いが思考を埋めつくしていく。

 綴が何か叫んだ。縢の声が重なる。

 「大丈夫だ」と返した気がした。一体何が大丈夫なのか。

 居守は「それ」を知っていた。「それ」も居守を知っていた。

 七色の光が視界を霞める。ひどく懐かしい光だった。

 光球。さながら季節外れの蛍の群集劇。呼応して、大地が地鳴りのうねりとなって脈動を開始する。

 閉じていた居守の目が、開く。

 脈打つ音は大地の鳴動となり、アスファルトの表面を押しあげた。地震にも匹敵する隆起である。波打つ大地は地響きと共に盛り上がり、遂には道路を砕き割った。罅割れた地面から這いあがったのは、砂利と土の壁だった。

 居守のいる場所を起点に一帯の地面が練り交ざり、捏ね上げられ、巨大な壁と化していく。平地だったはずの地盤は窪み、あるいは屹立し、居守の居場所を取り囲むように夥しい壁面が背を伸ばしていった。

 轟音の後に残ったのは、凍てつく静寂。それだけだった。

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