三章:蝕始
■3、蝕始
幸吸いの魔蛭を倒した効果がさっそく発揮されたのかは分からない。
日常茶飯事だった家鳴りは確かにやみ、何もないところでの転倒も今日はなかった。居守は全て偶然だと思うことで、心を平素なものにしていた。
双子が住むことになった部屋の掃除は、日頃から綺麗にしているためにすぐに片付いた。
居守は時計を仰ぎ見ながら、ふと思いついたことを提案してみる。
「ねえ、午後から外に出てみない? せっかくだから町の案内してあげるよ。あんた達、この町に着いたばっかりなんでしょ?」
聞けば二人はこの町に着いたばかりだという。一体どこをどう迷えば、この町外れのアパートに辿り着くのか。綴曰く、「この町に着いたら最初に目についた」らしいのだが。
無人の社に住まうと高らかに宣言した双子はというと、全く同じタイミングで頷いた。
「じゃ、どこか行きたい所は」
双子は顔を見合わせ、それから揃って口を開く。
「管理人さんが好きな所でいい」
「好きな所って」
「場所でも店でも景色でも、何でもいいぜ。こういうのは地元民に聞くのが一番だからな」
居守はこの町で生まれ、この町で育った。
居守は他の土地を知らない。だから比較すべき対象がない。
町への愛着は恐らく人並みだろう。長く同じ土地に住んでいると良い所ばかりでなく、不便な所に目が向きがちだ。居守の住んでいる場所は特に、発展途上の町の不便性を如実に表している。
それでも居守はこの町と自分の家が、それなりには好きだった。帰るべき場所があることが、早くに両親を亡くした彼女の心の支えになっていた。
町きっての美人猫が集う廃神社、女子に人気の卜占屋【アバラギ】、発禁物専門の闇映画館【地雷屋】、神出鬼没の【十六夜古書堂】、時計まみれの喫茶店【無長針】、五段坂の駄菓子屋、古美術店【黒匣】。大衆食堂【お多福】。
門角町にはこれといった観光施設はない。だが住人それぞれに行きつけの店や、お気に入りの場所がある。
居守は自分の好きな場所を順繰りに案内することにした。
「じゃあ……」
■ ■ ■
「生まれてこの方、駄菓子の当たりが出た試しがない。……またハズレだ」
食べ終わったアイスの棒を咥えながら、縢がぼんやりと漏らす。その隣では棒付き飴の封を破りながら、綴が儚げに笑った。
「景表法という法律に則って公正に調節しているらしいけれど、実際どうなのかしらね」
どうやらこちらも外れだったらしい。
「私もないなあ。……あ、ほら。やっぱりハズレた」
居守はラムネ菓子を口に放り、ぼんやりとした同意を漏らした。
居守は自らが運や幸福と疎遠な人間であるという自負があった。早い話、絶望的に運が悪い。魔蛭に吸われるまでもなく、そういう星のもとに生まれたのだ。
今三人は五段坂の駄菓子屋を物色し、戦利品を買い食いながら町を歩いている最中だ。
時刻は既に四時。傾ぎ始めた太陽を仰ぎ、居守は今日の案内がこの店で最後になるだろうことを思う。
商店街の路地裏の最果て。
不思議なことにその店は、どの道に迷っても必ず辿り着くことができた。門角町の特徴として、この入り組んだ迷路のごとき路地裏はひとつの名物として捉えられている。
軒を連ねる民家や店から少しだけ離れた場所。周囲には細い水路が通っており、店には小橋を通っていく必要がある。
自称「幸薄い」三人からすれば、もっとも疎遠な二文字がでかでかと店頭に掲げられていた。
雑貨屋【大吉】は力強い寄席文字で書かれた、木彫りの紅白看板が目印だ。古民家を再利用した内観は吹き抜け構造となっており、一階と二階が雑貨屋になっている。離れには店主の居住スペースと工房がある。
「何と言うべきかしら。溢れ出る個性を抑えきれないこの感じ」
「実際溢れ出てるのは個性じゃなくて売り物の方だけどな」
路地から店に至るまでのわずかな小道には、古い焼き物や置物が並べられている。千客万来の招き猫と酒瓶を引っさげた狸が仲睦まじく肩を寄せ合っていた。
勝手知ったる居守は双子を連れて店へと歩む。
平らな石が敷かれた小道の左右は雑草が生い茂るが、荒れた様子はない。これは単に店長が不精なせいだ。最近店に居守が寄り付かなかったのも一因かもしれない。居守はここの店長に雇われて店回りの掃除などを手伝っていた。
居守は店の引き戸を叩く。いつものように返事はない。居守は迷いなく戸を開けた。
「こんにちは、居守です」
やはり返事はなかった。商い中の看板札がぶら下がっているというのに、室内はしんと静まり返っている。目敏い綴が棒付き飴で看板を示した。
「お留守みたいだわ」
「基本的にいつもこんな感じ。色々見てていいよ、多分そのうち戻ってくると思うから」
店の中は様々な雑貨品が来客を心待ちにしていた。和物の手ぬぐいや食器といった日用品から、銀製のアクセサリー、後はなんだかよく分からない置き物までもが雑多に並べられている。
天井には番傘がぶら下がり、壁にはポスターや張り紙で埋め尽くされており、さながら一枚の巨大なモザイク画の様相を呈していた。
「雑然」という文字を体現する店内はだが、不思議な温かみを帯びている。大きさや種類の異なる様々な照明が色彩の雨を降らせ、柔らかな陰影を床に描いていた。どこか郷愁を煽る店は、いつ来ても胸が落ち着く。
「すごい物量だな。雑貨屋というか、もはや卸問屋って感じだ」
「そうだね、この間来た時より増えてるかも」
居守は二人の姿が見えないことに気付き、背後を振り返る。双子は立ち止まったまま、茫と店の奥を眺めていた。
「どうしたの、二人とも? ほら、入りなよ。私、ここの店長とは昔からの知り合いなんだ。だから大丈夫だよ」
思えば双子はどこへ行っても、慎重に足を運ぶ。それは警戒心の強い猫を彷彿とさせる間合いだ。居守ははじめ、その理由が、こういった子供じみたことが苦手なのかもしれないと思っていた。だが双子は常に楽しんでいる様子だったし、居守のエスコートが下手だったという様子もなかった。居守の杞憂は徒労だった。ならばこの不思議な距離感は何だろうと考える。
双子は時々別の場所を見ている。そう感じる瞬間があった。
綴はやがてゆっくりと視線を足元に落とした。少し歪んだ敷居を眺めて、ぽつりと零す。
「驚いた、ここの店主は」
「いらはーい。水月菴のたい焼きを買ってきたんだが、お客人もどうだい」
綴の言葉に重なるように、間延びた間抜け声が朗らかに響いた。居守は綴の肩越しに、声の主を見つける。
陰り始めた太陽を背負い、表情は窺いにくい。だが馴染みの姿を見間違えるはずもない。
「閂店長! 留守にする時はちゃんと店に鍵をかけて下さい!」
「おや、そのキャンキャン声は居守だな。こりゃあ随分とご無沙汰じゃないかい」
閂と呼ばれた人物は右足を引き摺って歩き、杖で以って体を支えていた。また右目も相応に悪いらしく、片瞼はいつも閉ざされている。居守は先天的な障害が原因と聞いているが、いたって健康そうである。閂はひょこたんひょこたんと足を運び、双子の間を抜けて店に入った。
照明達が店長の帰りを喜ぶかのように照り輝く。外にいる時は太陽の陰影で表情が掴めなかったが、閂は若い女だった。頭の左右で紅白二色にきっぱりと分かれた髪を掻き分け、けらけらと笑っている。豊満な体を黒い作務衣で包み、口元には安い煙草を咥えていた。
閂が騒々しいのは人格によるものだが、もう一つの理由を述べるなら彼女が体中に巻いた数珠の音だ。重量感のある鐡の連なりは信仰のためというよりか、浮き世離れした風体を現世に留める重りめいている。体の前方で交差した一本は一際長い。手首や足首に巻いているものは小さな環の形であり、ブレスレットのようでもあった。
「施錠は安全対策の初歩ですよ、もう少し危機感を持ってください。そういう名字でしょう、あなた」
閂。すなわち門を貫く錠のことだ。
「だってすぐ売り切れてしまうんだよ、あすこのたい焼きは。っていうか居守、一体全体何なんだいその堅苦しい口振りは。ほら、あたしのことは昔みたいに『天姉』って愛くるしく呼んでおくれよ」
「閂店長」
「んなー! お前も律儀だねえ」
天鑰は眼鏡をかけている。目が悪く、相応に空気も読めないこの女は、ようやくしてから店先で立ったままの双子を手招きした。店内は土足が推奨されているために、靴音だけが少し大きく響く。
「入って入って。初見さんはびっくりするだろうけれど、これが我が城たる大吉屋だ。どれ、あたしは茶の準備をしてこよう。居守、ご案内をよろしくね」
「はいはい。躓かないように気をつけてくださいよ」
「お前ねえ、あたしが自分の店でそんな馬鹿な真似をしでかす、どゎたぁっ?!」
もはやお約束であった。居守は溜息をつきながら、閂に手を貸す。
「どうなんです。ギャグなんですか。それとも天然なんですか」
「どちらの方が萌え度が高いと思う」
「知りません。超知りません」
居守は閂を起こしてから杖を握らせて、転がっていた空き缶を拾い上げた。それからようやく店内に足を踏み入れた双子を眺める。縢は近くにあった品物をとっかえひっかえつまんでは眺めていた。飄々としていながらも珍しい物には敏感らしい。今日案内した店の先々でも、しきりに名前や由来を聞いてきたのを思い出す。
綴は店長の了承を得て、ようやく得心がいったらしかった。
「ねえ、綴さん。……あのさ、さっき」
「居守ー、客人に茶を振る舞おうとしたが茶っ葉が見当たらない! どこにあるのか教えてくれぇ!」
話の腰を折られ、居守はがっくりと肩を落とす。
「あなたの家でしょうが! なんでそう管理能力がないんです!」
「もうウチに嫁に来てくれよお前」
「何で十五の身空でこんな駄目人間の家に嫁がなきゃなんです。嫁として迎え入れる気があるのなら、もう少し身の回りに気を配ってください」
「ほっほう、ならばそれさえ努力すれば嫁に来てくれるか。感情だけでいうのなら問題はないと?」
「言ってませんよ? 別にそういうことは」
「耳まで赤くしちゃってまあ。ウヒヒ、愛い奴め」
「さーわーるーなー!!」
閂は昔からこの調子である。何かにつけて居守を嫁に貰おうとする。双子の生暖かい視線を背中に感じ、居守は慌てて台所に逃げた。
「さて、ところで君達は居守のお友達さんかい?」
店の主に客が茶を出すという複雑怪奇な構図だった。居守はいつものことながら、この状況下に少しも違和感を感じていない己の適応力を呪う。
「うちの入居者です」
「へえ! そりゃ本当に久しぶりだ! ほら、そんな所につっ立ってないで、こっちに来なよ。顔をよく見せて」
閂は居守が持ったままの盆からマグカップを取ると、一つずつ卓上に置いた。苦味と甘みの混ざる香り。中身はココアである。昼頃までは暑かったが、日が陰り始めると、この地方はまだ寒さが残る。茶っ葉は結局見つからなかった。
「まあ味の保証はないけど、暖くらいは取れるよ」
「あなたがそれを言いますか」
カップの中からはほこほこと湯気が立ち、甘い匂いが空腹に拍車をかける。駄菓子で誤魔化してはいたが、もうすぐ夕飯時なのだ。
レジがある机の縁にマグカップを並べ、閂はそれぞれの椅子を指差す。子供達は素直に着席し、店主と向き合った。カウンター奥は外観以上にせせこましく、工具や未完成の何かが乱雑に散らばっていた。その奥に閂は腰を下ろす。一瞬顔を顰めたのは、鉄屑でも尻に敷いたのだろう。
「しかし数年ぶりの入居者か。しかも二人。やあやあ、こりゃあ椿事だね、居守。おめでとう」
閂は我がことのように、東雲荘に住人が増えたことを喜んでいた。居守は掌でうなじをさすりながら溜息をつく。
「曲がりなりにも商いをしている者に堂々と言うことですか」
「だからこそだよ。町の人間にはオンボロ屋敷とまで言われてるじゃないか。町内最古の歴史あるアパートをそんな名で呼ばれては、管理人としての技量が問われるよ」
「人が気にしてることをあっさりと言ってのけますね! あなた、気遣いってものがないんですか!」
「あたしと居守の仲じゃないか、一体誰がお前のおむつを替えてやったと思うんだい」
「紛れもなく私の母ですよ! 人の思い出を勝手に改竄しないでください!」
「うはは。愉快愉快」
居守は羞恥で染まる頬をごまかしながら双子にココアを進める。双子はいたるところに並べられた品々を見上げながらマグカップを口に運んだ。
「えーと。改めまして、綴さん、縢君。この人はこのお店の店長さん」
「どうもね。姓を閂、名を天鑰と言う。ほほう、双子ちゃんかぁ。どっちがお姉ちゃん?」
天鑰は頻繁にずれ落ちる赤縁眼鏡を押しあげて、いたく興味深げである。天鑰は己の居城たる店の中では、視力が悪いことにかこつけて、どうにも人との距離が近すぎるきらいがある。
縢は率先してマグカップを手に取り、誰よりも早くココアを啜った。綴は天鑰を見つめ、しばらくの時間を相手の観察に使った。沈黙に気付いた居守が天鑰に双子のことを率先して話そうとしたところで、綴がようやく口を開く。
「あたくしが姉の千篝綴、こっちが縢です」
「はじめまして」
「敬語?!」
双子は言葉少なげに挨拶すると、ぺこりと頭を下げた。居守はこれまでの双子の振る舞いから、少しだけ意外な一面を垣間見る。綴も縢も、さながら借りてきた猫の態度なのだ。
天鑰は終始破顔し、頬を緩ませている。
「可愛いねえ。双子ちゃんはこの町じゃ珍しいし。うんうん、眼福眼福。……ほいで? 居守のおうちに住むってことは、今日はアレか」
「うん。お願いします」
「何だ何だ」
展開していく話にようやく追いついたのか、縢がいち早く空になったマグカップを置く。天鑰に視線で促されるままに、居守は注釈をつけ加えた。スカートのポケットから重い金属を取り出し、目の高さに掲げる。
「キーホルダー?」
「うん。ストラップでもいいんだけど、鍵の目印にね。東雲荘入居者の慣例みたいなものかな。個人が持ち歩く用の鍵と、スペアとして私が管理する鍵。それぞれに同じキーホルダーをつけるの」
居守はポケットから取り出した自室の鍵を見せる。
くすんだ銀の鍵には緑の生き物がぶら下がっていた。揺れるキーホルダーを縢がつつく。
「イモリか、こりゃ」
「ま、名前繫がりでね。二人とも好きなのを選んで」
「これは居守の自腹だから気にせずにね。気に入ったのがなかったらあたしが作ってあげる。取り寄せも可能だよ。居守には御贔屓にしてもらってるから、複雑なやつでも承るよ」
双子は揃って顔を見合わせた。
それからの時間はとても楽しかった。
旧知たる天鑰を挟み、雑談を交わす。
管理人としての義務感から、始めは遊ぶことに一抹の後ろめたさを覚えていたのだが、綴と縢の強引とも言える要求の数々に、そういった気の迷いは消えていった。
居守は大勢で騒ぐのが得意ではない。昔はアパートの住人達との馬鹿騒ぎがなによりも好きだったが、ある時、気付いてしまったのだ。いずれは全てが失われてしまうことに。
それでも、慣例や周囲の空気に囚われない双子との町探索は、居守の心を久し振りに高揚させていた。
■ ■ ■
「これからどうするんだ。家に帰るのか?」
「商店街に寄ってから帰るよ。夕飯の買い物があるし。あんた達は先に帰ってて」
双子はだが帰る素振りを見せない。居守を間に挟んで立ち、同じ方角を向いた。
「いや、別に付き合ってくれなくてもいいよ? 先に帰ってて良いってば」
「というか帰り道が分からねえのよ」
「嗚呼、あんた達、行きのバスの中でずっと寝てたしね……」
三人は影を伸ばしながら、商店街の中心へと進む。
門角町の中心にある常夜商店街は住民達の生活の要だ。何代も前から続く店が軒を連ねている。居守は胸に抱えた、いつになく重い財布に心地良さを覚えていた。
「食材なら昨日買ったじゃないの」
「あんた達が昨日一日で全部食い尽くしたからでしょ!」
昨日双子から徴収した資金は早速食費になった。……そのはずだったが、双子のあまりの食欲に、あっという間に食材が底をついたのだ。
危機的な食欲である。さらに、健啖かつ豪啖な胃袋が二つもあるのだ。居守は今日から心を鬼にして食材と食費のやりくりをするつもりだ。長い一人暮らし生活で、節約の勘がすっかり鈍っていた。
「なあ、管理人さん。俺はこの花見団子が食いたい」
「戻してきなさい、今すぐに」
こんなやり取りが商店街に着いてからというもの、もう十回は続いている。特に縢は、姉の綴より胃袋の欲求に忠実らしく、捨てられた子犬の目で居守を見つめてきた。罪悪感を喚起させる巧みな手段である。しかし居守はここで引くわけにはいくまいと、団子を返すべき店を指差した。
その先に立っていた菓子屋の店員は、どうやら居守と縢のやり取りを見ていたらしい。人差し指を口元に近づけながら、縢にみたらし団子を一本あげていた。もはや幼児への対処である。なまじ美貌に恵まれているのがいけない。路頭に座らせて物乞いをさせた方が効率が良さそうだと、居守はだんだんやさぐれた気持ちになってきた。
「不思議な町ね、ここは」
縢から一粒だけ団子を貰い受けながら、綴が呟いた。
居守は八百屋の前に並ぶ野菜を見比べながら、「んんー?」と曖昧な返事を返す。傷ついたトマトを見つけ、値切ろうかと考えていた。仁王立ちした中年の店主は気難しそうで、居守は眉間に皺を寄せる。なかなかの手練れだ。つるりとした禿頭に巻かれた鉢巻には「千客万来」の文字。
「おう、東雲荘の管理人じゃねえか。久しく見なかったが、息災のようだな」
「店主も。お元気そうでなによりです」
顔馴染の店主と居守の眼光が火花を散らし始めていた。
綴の目は町の遠くを見つめている。縢は団子の串を咥えながら、また違う店を眺めていた。
「許容も拒絶もしていない。……する気もないのね。一体何が陣取っていやがるのかしら」
綴の呟きは雑踏のざわめきに紛れて、居守の耳には届かなかった。
居守はだが、ふと背後を振り返り、縢の姿がないことに気付く。
「ちょ、あれ? 縢君は?」
「あの子なら路地裏の方に言ったわよ。何か美味しそうな匂いがするって」
「迷子になったら大変だよ、追いかけよう。この商店街、結構道が入り組んでるから。……店主、買い物はまたの機会にします。首を洗って待っていて下さい」
「おうおう、なんとも呆気ねえ。また来な、うちの野菜共はいつでも産地直送、新鮮第一だ」
居守は名残惜しさを覚えながらも傷んだトマトを棚に戻し、路地裏へと入った。綴はやはりどこか遠くを見つめたまま、静かに居守の背後に付き従った。
年甲斐もなく迷子になっていたらどうしようと考えたが、その心配は杞憂に終わった。
路地裏は運よく行き止まりになっていたのだ。
しかし今起こった事象を、全て運の恩寵として受け入れることは些か困難だった。
「え……」
路地裏の終着点は赤々と染まっていた。
落日の赤。天空の太陽が誤って地面に墜落し、熟れすぎた柿が如く四散したかのような光景が広がっている。香ってくるのが果実の芳香ならば、居守は快く目の前の現実を受け入れただろう。
だがしかしそれはどうあっても不可能だった。
『よお。見ねえ顔だな』
声は縢のものではない。
縢の足元には影が倒れていた。
否、それは影ではなかった。何もかもが否定されて現実から打ち消されていく。皮に包まれていた果肉がどろりと腐り落ち、足元を鮮血に染めていく。
居守が持っていた荷物が手から落ちた。
縢の影かと思ったのは実のところ、倒れ伏した人間であり、四散した太陽は血の色だった。
漂うのは濃厚な鉄錆の匂い。生き物の発する強い臭気が、町に漂う夕餉の食べ物の匂いと混ざり、吐き気を生んだ。
突如眼前に広がった光景を、少女はどう受け止めるべきか。
道の向こう側からは賑やかな商店街の声が聞こえてくる。壁一枚を隔てた世界にこのような惨状が広がっているなどと、一体誰が予想できただろうか。
「な……」
『見た感じ、新入生だろうテメエ等』
壁を背後に、何某かが喋った。声は奇妙な反響を帯びていて、性別の判別がつきにくい。よく尖った刀を連想させる、攻撃的で暴力的な低音だった。
なによりその者を「人」と形容すべきか、居守は悩んだ。
何某かの足元に張りつく影の頭からは二本の角が伸びていたのだ。
落日が邪魔をして顔が見えない。居守は眼鏡の鼻弦を押し上げてなんとか相手の特徴を捉えようとした。現実が陽炎と化して掌から逃れていく。はたはたと落剥していくのは現実の残滓だ。街頭に集まり出した蛾が、翅を羽ばたかせて虚実にまみれた鱗粉を落とす。
『悪いことは言わねえ。こうなりたくなきゃ、大人しくしてるこったな』
何某かは、言いながら倒れていた影を蹴った。
それは人のようだった。何処から血が出ているのか、居守は混乱する頭で必死に考えようとする。粘つく舌が言葉を生み出すより先に、影は身を撓めた。
『言っておくが、これは警告だ。破ったらテメエ等もこうなるぜ』
何某かは短くそれだけを告げる。
何をするつもりなのか、そう考える前に孤影は消えていた。
飛んだのである。高さ三メートルはあろうかという壁を、何の予兆もなく。さもそれが当然のことのように。空を駆け、姿は茜の世界へと掻き消えていった。
居守は何が起きたのか、最初から最後まで分からなかった。
やがて路地裏には、縢が団子の串を噛み砕く乾いた音が上がった。