二章:夾角
■2、夾角
鳥の歌が木霊していた。風が吹き、萌えたばかりの瑞々しい葉が心地良い調和を生む。
東雲荘は豊かな森の緑を背に、ただいつも通りに、いつもと変わらぬまま佇んでいた。家というものはそういうものだ。ただそこにあり、住人を受け入れ、無言のままに見送る。
居守は窓から射しこむ光に目を細めた。今日も暖かい一日になりそうだと一人ごちる。
それからやおら窓枠に手をかけると、
「宗教勧誘と訪問販売は固くお断りしております」
定型句めいた一言と共に、ぴしゃりと戸を閉めた。
閉める寸前、流石に行動が予想外だったのか、双子の唖然とした顔が見えた気もした。
外界との繫がりを絶ったことで、色濃い沈黙が室内に訪れる。
躊躇いのない、実に流れる動きだった。でなければ年端もいかない少女がアパートを守り続けられるはずもない。施錠は恙なく行われた、一切の容赦もなく。
怪しげなことには関わらないのがこの町の住人の美徳だ。美徳とはすなわち、処世術である。身の毛もよだつ話を又聞きすることを良しとし、それ自体に関わることを頑なに避ける。線を引いて、対岸の火事を安全な場所から眺めている。
居守は落ちた褞袍を身に纏い、閉ざされた窓向こうを睨みつけた。
宗教勧誘か訪問販売かは知らないが、怪しい事この上ない連中だった。危うく耳を傾けるところだった。ああいう手負いは相槌を一回でも返したら負けなのだ。
ならば妖怪の類か。
不可思議な現象の多い町だ。居守は信じていないが、町に下りれば妖怪だの幽霊を見ただのという話はそれこそ日常の範囲内だ。不可解な生き物も多いと聞く。狐狸にしては、少しばかり堂に入った演技ではあったけれども。
「……塩でも撒くか」
思い立ち、居守は台所へ向かうべく踵を返す。だがその足が前に踏み出すことはなかった。
聞こえるはずのない、開錠の音が響いたのである。居守は勢いよく背後を振り返った。
「まあ人の話は最後まで聞きやがりなさいな。それに宗教勧誘じゃねえわよ」
「な……」
今しがた、窓は閉めて、鍵も確かにかけた。だというのに、窓は開け放たれていた。
あろうことか窓枠に座り、こちらを見つめる少女と視線が交わる。
赤色とも桃色ともつかぬ奇妙な色彩を織り交ぜた瞳が、光を反射して瞬いていた。捕捉できぬものなどない。そんな気負いが見て取れる、強い引力を持った眼だった。
■ ■ ■
結局のところ、居守は塩を撒くことも居留守を使うこともできなかった。
今、彼女の私室には三人の姿がある。部屋の中央に置かれたちゃぶ台を囲み、いの一番に口を開いたのは窓辺の少女だった。流石に靴は脱いでいたが。
「この町でお祭りをやっていると聞いたのだけれど」
冴え渡る月の影を縫い留める、心地良いアルトが十畳一間の部屋に響く。
少女を象るのはまさしく影そのものだった。全身を漆黒のセーラー服で包み、髪は殊のほか黒い。光を宿さない純然たる闇は腰ほどまで伸び、羽の名残を完全に隠している。
触れれば切れる、触れなくとも切る。少女という外枠を象るのは、それほどまでに攻撃的な印象が強かった。だというのに瞳だけは甘い艶を宿す。毒を含むというレンゲツツジの色彩に、居守は心を奪われていた。
自分の部屋だというのに、先ほどから正座を崩すことができないでいる。膝の上に握り拳を置きながら、上目がちに少女を見つめた。
「……観光の方、ですか?」
黒の少女はきょとんと目を瞬かせた。そうすると年相応の姿が少しだけ垣間見える。すぐに艶やかな微笑みが叢雲となって全てを覆い隠した。唇が浅く開かれ、一言一句の発音も正しく言い切る。
「いえ? 今日からこの町に住むのよ」
「でも今、門角町でやってるお祭りなんて、ないと思いますけど……」
居守は卓の上に人数分の湯呑みを置きながら思案する。
十年間この町に住んでいる居守だ、町の行事なら熟知している。元より勤勉な性格が好奇心に直結し、古めかしいものの由来や伝承を知ることが好きだった。神は久しく信じていないが、信仰に寛容なこの国の風潮よろしく、民俗学の片隅を齧る真似事をしている。
その居守が言うのだ、間違いはない。この時期、この町の予定表は空欄だ。
「……それは変ね。あたくし達、一応正当な伝手でこの町に案内されたのだけれど」
なにやら思案する少女に対し、早々に湯呑へと手を伸ばしたのはもう一方の人物である。
白く細い指先が色褪せた茶碗を手に取り、音もなく啜る。茶の良し悪しを定める品評家よろしく、数度にわたって杯を傾け、最後に溜息をついた。
「なんとなく玉露は無理だと思ってたが、まさか出涸らしどころか白湯が出てくるとは思わなかった」
居守の肩がびくりと揺れる。
先ほど薬缶の前で、出涸らしの茶か、はたまた白湯を出すかという大いなる選択を強いられたが、あまり意味を成さなかったようである。
湯呑茶碗に口を付けたまま、こちらを冷ややかに見つめてくる瞳はやはり同じレンゲツツジの色だった。
「しょ、しょうがないでしょ。ちょうどお茶っ葉を切らしてたんです!」
取り繕ってみるも、焦燥が滲んでどうにも恰好がつかなかった。というのも茶葉を買うにも金がないからである。見栄と体裁を整えるために急須を用いたのが裏目に出たのかもしれない。どちらにせよ接客作法を早々に見失った選択肢だった。
「どうだかな。茶菓子も出ない辺り、相当家計が苦しいんじゃないか」
「うぐっ……!」
さても歯に衣着せぬ物言いである。しかし図星を射ていたために、居守が思い浮かんだ反論は皆々撃ち落とされていった。ぐうの音も出ないとはこのことである。
さて、かの毒舌の持ち主はやはり居守と同い年のようだった。真新しい学ランに身を包んでいることから察するに、もしかすれば新入生としてあの学校に通う者なのかもしれない。
純銀の短髪は所々が鋭角的に跳ね、触れば痛みを伴いそうな錯覚さえする。左右の耳には等間隔で、鮮やかな銀色のピアスが八つ輝いていた。
姉が闇なら、こちらは月だ。冴え渡り、日輪の力を借りて玉座に座す天体そのものだ。毎夜、時の鋏で体を切り刻まれては姿を変え、それでもなお青白い鱗粉を帯びて夜に羽ばたく。
軽薄な出で立ちだが、非常に中性的な顔立ちで、服の曲線が示す体つきはとても細かった。白い喉が奏でる声は甘く、姉であるという人物よりも更に低い。男か女かの判断を下すことが容易ではない。
居守は着ているものから性別を判断し、一応のところで少年という形容詞を添付することにした。
こうして並んで座っているのを見れば、二人の顔はますます似て見えた。髪型や衣類、雰囲気が多少異なるだけで、造りを複写した様子である。狭い町で暮らしている居守は双子という稀有な可能性をこの時初めて見た。鏡映しの世界に迷いこんだ、浮遊感のある錯覚を覚える。
居守はずれ落ちかけた眼鏡を押し上げて、何とか平素を気取った。
「こら、ものには言い方というものがあるでしょう。ごめんなさいね、気を悪くしないであげて」
言いつつ湯呑の中身を隣の杯に移行させているのは他ならぬ少女だった。居守はやや唖然とする。銀髪の方は文句を言いながらも、注ぎ直された白湯は全て飲み干した。
「それで……その……お二人は……」
呼ぶべき名前も分からずに、居守は口の中で言葉を濁す。
それに気付いたのか、少女は空になった湯呑を置いた。
「嗚呼、挨拶が遅れたわね。あたくしの名前は千篝 綴。この毒舌家の姉をしているわ」
「この」と言いながら、綴と名乗った少女は隣に座る人物を見つめる。
毒舌家と称された方は、満足げな吐息を零してから湯呑を置いた。碗の中身は全て胃へと流れたようである。再三に亘って言うようだが、ただの湯である。
「俺は千篝 縢。双子だが、この傲岸不遜な女の後に生まれた」
「この」と言いながら、縢と名乗る人物は隣に座る少女を見つめる。
同色の瞳が互い違いに混ざり合い、居守は二人を交互に見比べる。見比べても同じ顔があるだけだ。艶めくか、冴えた色を帯びるかの差である。どちらにせよ美しい双子だった。
「言ったわね、縢」
「おうとも姉貴」
「誉めても何も出ないわよ」
「俺の溜め息が出るよ。何でそんなにポジティブなわけ」
言いつつ縢は空になった茶碗をずい、と居守の前に突き出した。
居守は戸惑いながらもお湯を注ぐ。縢は「湯だな。紛うことなき湯だ」などと呟きながら、またそれを飲み干した。
「……別に、無理して飲まなくても」
客人に白湯を出すという行為に、居守は家主として非常に強い罪悪感を覚え始めた。縢の茶碗を取り返そうとするも、縢は体を引いてそれを逃れる。行き場のない居守の掌がおずおずと下げられ、指定位置となった膝の上に落ちた。
「そういえば手前様の名前をまだ聞いていないわね」
居守は俯きがちだった顔を上げた。綴が真っ直ぐに居守を見つめていた。
気付いてはいたが、些か口の悪い少女である。丁寧に取り繕ってはいるが、語尾の所々が角張っていて何とも危うい。指を辿らせれば血が出そうだ。この者にして、この姉あり。確かに同じ血が流れているらしい。
試すような間が少し続いた。
日没時、日暮れに塗り潰された相手の顔に向かって誰何を問う間にも似ている。
お前は物の怪か、人間かと。
「……私は乞日辻 居守。この家の管理人です」
「変わった名前ね」
誰そ彼の問答は呆気なく受諾された。返ってきたのは定石めいた回答だった。
居守自身、自分の名前の響きが特異なものであることは理解している。だが綴の言葉には侮蔑めいた響きはなく、ただ単純に驚いているだけのようだった。
視線を横に移動させると、縢も心なしか興味深げに居守を見ている。
「……な、何です?」
「いや。とてもそうには見えねえなと思って」
「は、はあ?」
居守は俯きそうになる視線を寸でのところで空中に結わう。彷徨わせる。先ほどから爪先が痺れてどうにもつらい。部屋は自分の居場所だと言うのに、ひどく居心地が悪いのである。
「……よく言われます。……ところで、さっきの。神棚に住まわせて、って一体どういうことです」
問いと共に、双子は同じ種類の笑みを浮かべた。感覚がなくなってきた指先を持て余しながら、居守はざわざわと肌が粟立つのを感じていた。
やはり狐か狸だ。そう思った。
「嗚呼、そっち。そうね、そうだったわね。ねえ縢、どうかしら」
「いないな、まあ確かにいない。いないは良いが、良いのか姉貴。本当に」
「良いも悪いも、良いんじゃない」
「そんなに気に入ったのか」
「いえ? ただ、この町に着いたら最初に目についた所にしようって思っただけ」
矢継ぎ早に繰り出される会話の応酬に、居守は眩暈を覚える。
そもそもこの数週間、他人との交流は無きに等しかったのだ。脳の情報処理が追いつかない。旧式の演算装置の要領で、居守はこめかみを二三度揉んだ。
双子は事もなげに会話を終えると、居守に焦点を合わせる。
今度こそ、ぎくりとした。毒性の花に囲まれて居守はたじろぐ。井戸守の生き物はその性質上、とても保守的だ。井戸を覗かれるたびに首をすくめてキュッキュと鳴く。彼の花が含む毒は神経毒だったか、麻痺毒だったか。いずれにしても大差はなかった。毒に犯されていることに変わりはない。
先ほどから、途轍もない脇道へ踏み入っている気がしてならなかった。
「ちょ、ちょっと。本当にさっきから一体何なの。神棚とか、いるとかいないとか、良いとか悪いとか!」
「大したことじゃないわ」
「そう。大したことじゃない。問題はそこじゃない。……話を戻すぜ。俺達は春からこの町の学校に進学する。推薦状が届いたんだ」
「……はぁ。それは……進学おめでとうございます……」
居守はちらと壁際を見遣った。
綴と同じ品ではあるが、やや使い古したセーラー服がハンガーに掛けられている。中学生時代に居守が着ていたものだ。
門角町周辺で制服をセーラー服と学ランに指定している学校は一つしかない。居守もまた、その学校へ行く。否、正確には通っていて、また通うことになっている。
「門角学園、とか言ったかしらね」
「嗚呼、やっぱり……」
【門角学園】。
それはこの町に存在する、現状唯一の教育施設の名称である。
小学校から高校までの一貫校であり、在籍する生徒数は町の総人口のおよそ二割に匹敵するとすら謳われている。実際広大な敷地を有する学園であり、関係者を含めるのならさもありなんと言ったところだ。
門角学園は過去、周囲の学校と大々的な融合を果たし、今やこの国の五本指に入る超有名校として名を馳せている。
学校側の教育方針は「貪欲」。その一言に尽き、有能な人間を一年を通して探している。転校生の数も余所とは比較にならないほど多い。そうして学園側が射た白羽の矢は、ある種の社会的ステータスにもなっていた。そのため、この学園には有名会社の令嬢や政治家の息子などがざらにいる。金を出して裏口から入学を果たす者もいると聞いた。
町民として学園への入学があらかじめ決まっている居守としては、やや疑問を覚える構図である。同じ教室にかたや将来を約束された人間がおり、かたや一方では中流階級の底辺として明日の食費を憂う人間がいる。
いわゆる人生と人間の縮図であった。居守はそういう、逃れようのない運命を憂うことを止めて久しい。庶民派としてやや肩身の狭い思いをすることに変わりはない。だがこの町の住人として生まれた一つの恩恵として、学園への入学試験と高額な学費が全額免除されるのは喜ばしいことだ。
中流階級の子供達が超有名校に無償で進学出来る権利。これは門角学園創立の際、町側が持ちかけた譲歩案だったらしい。
かつて伝統と格式を誇った学園は、校舎を新築する際に古めかしい格式を全て取り払った。町側は馴染みのある学校のあまりの変貌に、半ば嫌味のつもりでこの案を持ち出した。「土地と場所を提供する代わりに、町の子供達に安定した学びの場を提供をしてほしい」と。
学園側は二つ返事でその願いを受諾した。唖然としたのは町側の人間である。
以来、門角町出身の人間ならば、どんなに素行に問題があろうと金がなかろうと、恵まれた学園生活を絶対的に約束されている。高校進学率百パーセントという、他に類を見ない奇妙な構図がこの町で出来上がったのもそれと同じ時期だ。
「……で、だ。俺達は今、新居を探している。いや、正確には探していた、か」
縢は胡坐をかいた膝上に肘をつき、にんまりと笑みを浮かべる。綴は縢の言い分に決して口出ししない。予定調和なのだろう。窓際から吹く風に気持ちよさそうに目を細めている。
腑に落ちないのは居守だ。
「で、でも! 学園側から推薦状が届いたのなら、なおさら変だよ。学校には生徒寮がちゃんと完備してある。それこそ門の外に出なくても困らないくらい、あの学園の施設は整ってる」
「あー……、それなんだが、俺達はどうにもそういう、恵まれすぎた環境ってのが割に合わなくてな。苦手なんだよ。檻に入れられてるみたいで」
「自由気ままな放浪生活が長いのよ。察してくれる?」
居守はどうしても頷くことができなかった。
学園側からの推薦があったのなら、この双子は相当な逸材であるはずだ。
学園は生徒への投資を惜しまない。生徒の才能が発芽し、将来有能な花を咲かせることを信じるがゆえだ。現に学園の卒業生には錚々たる名前が連なっている。
そして投資の最たるものが生徒寮である。各部屋の設備はもはや過保護としか言いようがない。
全室にキッチン、風呂、トイレが備え付けられているのは当然であり、プライバシーを尊重して壁は防音、冷暖房完備。おまけに食堂に行けば二十四時間好きな時に、好きな食べ物が食べられる。門角町出身者ですら自発的に寮に入るほどだ。町民ならばどうせ無償、ならば恩恵に授かった方がいい。そういう魂胆である。
居守は東雲荘を守る義務と、逃れがたい愛着があるためにここに住むことを良しとしているが、そうでない者にとって、あの学園は楽園に等しい世界だろう。実際、友達を訪ねて寮に赴くたびに居守は桃源郷を幻視した。でなければ人を堕落させる万魔殿か。ウフフアハハと青春を謳歌する同級生達を見て、苦虫を口の中で噛み殺した回数は一度や二度ではない。
「入居を希望するわ」
「嘘だ!」
「え」
間髪入れぬ否定が居守の口から飛び出した。やおら立ち上がった管理人を、双子は唖然としながら見上げる。
「う、うちは築六十八年の、町じゃ有名なオンボロアパートだよ?! 南向き二階建て、最寄りの駅まで徒歩四十五分、商店街まで三十分! 台所と風呂にトイレは全部共同! この三年間、入居希望者はおろか下見に来た人すらいなかった! なのに、急にそんな、二人も……さては夢か、お前等! じゃなきゃ狐か狸だ!」
どうにも厳しい現実ばかりを見てきた少女は、幸福な出来事に猜疑的である。棚から落ちてきたぼた餅は黴が生えている可能性が高い。
「あんた、商売したいのかしたくないのか、どっちなんだよ」
らしくもない縢の乾いた呟きに、綴はといえば腹を抱えて笑っている。
「おい、姉貴。笑い事じゃないぞ。このままじゃまた根無し草だ」
縢は傍らの大きな手提げ鞄とトランクを乱雑に叩く。双子が揃って持ち運んだ、ただ一つの所有物だ。綴も色違いの旅行鞄を傍に置いている。
綴は笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら、「分かっている」とでも言いたげに手をひらひらと振った。
家主はといえば、今度こそ清めの塩を取りに行こうと踵を返す。もう視点が定まってすらいない。
縢は居守のズボンの裾を掴み、それ以上の進行を阻止した。そこまではよかった。居守は勢い余ってそのまま畳の上にすっ転ぶ。潰れた蛙の体勢で痙攣する居守の前に、にっこり顔の綴が立ち塞がった。
「まあ落ち着きなさいな、管理人さん。ここが現実よ。それに狐でも狸でもねえって言ってるじゃない」
居守の痙攣が途中で停止する。やや息を荒くしながら跳ね起き、鋭い眼光で双子を見据えた。
狐か狸かならば、そろそろ木の葉が舞って術が解ける頃合いである。しかし待てども待てども状況は一転しなかった。居守は頭を抱えたくなった。訳が分からない。
「あたくし達、あばら屋暮らしは慣れてるわ。言ってしまえば、全てを与えられた生活こそが苦手なのよ。だから雨風を凌げて、安心して寝られるのならこの際どこでも良い。部屋は空いているのね?」
「一応……」
入居希望者に丸めこまれる形になってしまった。
居守は乱れた呼吸を整えて、じっと綴を見つめる。相手の正体はちっとも掴めない。いっそ獣の尾を翻してくれた方が腑に落ちるほどだ。
「拒否する理由は?」
「一つもないです……」
綴は眼前で両手を叩く。
「宜しい! 縢、ここにしましょう、というかここにするわ」
「どうとでもしてくれ。姉貴殿に任せる」
こうなってはどちらが家主か分かったものではない。縢はごろりと横になり、トランクを枕にして眠る体勢に入った。居守は畳にへたりこんだまま、ずれ落ちた眼鏡を押し上げる。
「さて、では次は少し現実的な話をしましょう。月額はいくら」
月額。魔法の合言葉に、居守は久しく感じていなかった血の高揚を覚えた。我知らず、きらりと眼鏡の奥が光る。
暗闇に転げ落ちた銭の一円ですら無駄にしない、それは狩人の瞳だった。
褞袍の懐から取り出すは、使い古した由緒正しき演算機。算盤である。さながら銃弾の装填が如き音を立てて珠を弾いた。
「敷金礼金必要なし、月額三万円。水道は地下水なので、ガスと電気料金のみを徴収します。各部屋の前にそれぞれのメーターが付いてるから、それに応じた額を払ってもらいます」
「おお、水を得た魚のようだ」
居守はぱちぱちと小気味良い音を響かせて珠を弾いていく。綴は机に身を乗り出し、提示された金額を眺めた。
「ふうむ。まあ築年数と設備を考えるなら妥当な金額ね。あとは? アパートの掃除とか共同風呂の掃除とか。人間の共同体にはそれなりの規則と、譲り合いの心があるんでしょう?」
「必要ない。私が全部やります」
考える間もない、居守の即答に綴は「ほう」と意外そうだった。
それまで寝転がっていた縢は、思い出したように身を起こす。
「そうだ。聞き忘れてたことがあった」
間近に迫った顔に、居守は乱れる鼓動を自覚する。
どうにも美しい双子なのだ、観賞用として遠くから眺めるだけならいいが、このような至近距離で見られていると呼吸が危うい。美はすなわち毒である。
「な、なに」
「なあ、あんた。ここは台所も共同なんだろう? 俺も姉貴も料理はてんで駄目なんだ。この辺りに手頃な大衆食堂とかはないのか」
なるほど、死活問題である。アパートに住む以上、自炊は必須だ。学園の中にも食堂はあるが、外から通うとなると、朝と夜の食事は自分で用意しなければならないだろう。
「歩いて二十分くらいのところに、あるにはあるけど……」
言葉尻を濁した不安が伝わったのか、眉目秀麗な顔に影が差す。
「何か問題があるのか?」
「店長のお爺さんが少し、その……ボケちゃっててね。メニュー頼んでも目的の物が出てくるのかかなり微妙な感じ。運試しに行くならいいけど……。前、ネズミの天麩羅出されちゃった同級生がいて、私も暫く行ってない。た、たまにはちゃんとしたメニューも出るんだよ? 川魚の刺身とか、何の肉かは分からないけど焼肉定食とか……」
「ちゃんとしてねえじゃねえか! 何だその博打めいた品目は! 危うすぎるだろ!」
その同級生が狐狸ならば泣いて喜んだだろうが、生憎と居守の友達に獣はいない。カラッと香ばしく揚げられた野鼠の天麩羅に、同級生の少女が泣いてしまった逸話は記憶に新しかった。彼女が飼っていた動物がハムスターというのも、なんとも間の悪い話である。
大衆食堂【たまつづら】が潰れないのは、町の七不思議の一つだ。もっとも謎が七つでは済まないのが、この町の悪徳である。
「ふうむ。これは死活問題ね、縢」
縢の痩躯はやがて糸が切れたように畳に突っ伏した。先ほどの毒舌もどこへやら、心なしか銀髪もしょんもりとしている。食べることは即ち生きることと同義だが、こうも生気を抜かれるものだろうか。
「仕方ないわね。ここはあたくしが一肌脱ぎましょう。何、料理なんてのは捌いて煮るか焼くなりすればいいのよ」
「俺に死ねと言うのか姉貴!」
「どういう意味よ」
「俺に那由多の彼方を彷徨わせる気かと言っている! 姉貴のあれを、俺は料理とは認めん!」
喧々囂々と息巻く双子を前に、居守はおずおずと手を上げる。
「あ、あの……」
縢は胡乱な瞳で居守を見下ろした。それも床にうつ伏せになったまま。
「止めるな、管理人。これは死活問題だ。俺は食に関しては一歩も譲りたくない」
「……いや。私、言われれば作るけど」
「何」
居守はぱちぱちと算盤を弾き、机の上に載せた。
「食費は月に一万五千円を徴収し、全額私の懐に収まります。といっても食材費込みだから、あんまり手取りはないんだけれど。……昔、このアパートに人が沢山住んでた時にね、よくやってたんだ」
「管理人。お前の料理の腕は」
「まあ、人並みには。少なくとも鼠を調理したりはしないよ」
「姉貴、ここにしよう、というかここにする」
「どうとでもして。手前様に任せるわ」
交渉は無事成立した。
となればあとは書面上の契約だ。ひとまず卓の上を片づけ、居守は引き出しから数枚の用紙を出した。入居届である。役場に出すためのものと、管理人として取り置くためのものだ。
「じゃあ、簡単な書類を書いてもらうけれど」
振り返った先、双子はゆっくり腰を上げたところだった。
「ねえ、管理人さん。入居届を書く前に、家の中を少し見て回りたいんだけれど」
「あ、そうか。それもそうだね」
「ほら。早くしろよ」
せっつかれ、居守は鍵の束を取り出した。慌てて下駄をつっかけて部屋の外へと出る。全くどちらが入居者なのか分かったものではない。
外はひっそりとしていた。それがいつもの東雲荘なのだが、賑やかな双子を招き入れた今では、こんなにも静かだったのかと意外にさえ思った。
開け放った勝手戸から、庭先で小鳥が地虫をつついている様子が見える。
静かだった東雲荘が、これから騒がしくなっていく予感がした。
居守は狐につままれたような気持ちで、二人の背中を見つめる。
注意深く二人の背中を見つめたが、獣の尾はどうしても現れなかった。
東雲荘は一階と二階を合わせて二十の部屋がある。二階には広間があり、昔は食堂として使用していた。唯一の台所があるのもこの場所だ。広間のちょうど真下にあたる一階はトイレと男女別の風呂場がある。せせこましいと言えど、それなりにしっかりした造りであり、湯船は大人が三人は寛げる広さだ。
一部屋の面積は約八畳。六畳の居間と二畳の土間があり、土間には小さな洗面台が設けられている。部屋の構造自体は居守の部屋と変わらない。
「綺麗にしてあるのね」
「そうかな」
「ええ」
率直な物言いに、居守は熱くなる耳朶を掻きながらそっぽを向いた。
人の体重を預かった床板がキィキィと節足動物にも似た鳴き声を上げる。
「部屋は空いてるから好きな所を選んで。間取りは一緒だけど、窓向きとか好みがあるだろうし」
東雲荘の部屋の差異は本当にそれくらいだ。どの部屋も同じ間取りで、どの部屋も同じくらい使いこまれている。
「管理人さんの部屋は?」
「私のは、さっきまでいた部屋だけど」
「なら、あたくし達の部屋はその隣で良いわね、縢」
「え、一緒の部屋なの?」
「できるだけ出費は抑えたいしな。掃除の手間も省けるし、管理人さんもそっちの方が楽だろ? 食費はきっちり二人分出すさ」
「……いや、そうだけど。……まあ、そういうもの、なのかな」
家族とはいえ、二人は居守と同じ年端の子供である。姉妹や兄弟間ですら別室を提唱する年頃だ。そんな中、資金の工面が理由とはいえ同室でも厭わないという回答は少し意外だった。
同じ時間に生まれて共に育つ双子ならではの感覚なのだろうか、と居守はやや強引に納得することにした。
三人は靴を脱いで二階に上がる。一階の廊下がコンクリ床なのに対し、二階は木目の床になっている。日に照らされて、空気中の埃がちらちらと舞っていた。そういえば時刻はもう昼時だ。
代わり映えのない部屋を一つずつ見て回った後、次に居守が案内したのは広間だった。三十畳ほどの広さである。窓から射す光が畳の上に座して、久方振りの来客者を歓迎していた。
広間の片隅には広い水洗い場と大きなガスコンロがあった。傍らには業務用の巨大な冷蔵庫がある。使う機会が減ってしまったために冷蔵庫のコンセントは抜いている。何より、蓄える食料も備蓄もない。
「昔はここでアパートの皆とご飯食べたり、遊んだりしてたんだ」
綴は居守の目の奥に光った郷愁の残滓を見逃さなかった。
縢はさっそく冷蔵庫を開け、中に何もないことを確かめるや、がっくりと肩を落としていた。勝手な奴である。
「管理人さん、部屋はこれで全部か?」
「うん。あとはトイレとか風呂場になるけど、そこは各自でどうぞ」
「まだ行ってない所があるわね」
「え?」
綴は歩を進め、広間を突っ切って窓辺に立った。歩幅が広く、歩く速度が早いために髪が流れて黒翼が広がったかのように見える。
躑躅色の双眸が見据えるのは森の茂みだった。呆然とする居守は最初、綴の意図が全く分からなかった。
「外は、森だよ? 庭ならアパートの左手に、小さいけど。桜が咲いてたでしょ。あそこ」
「裏手に何か、あるでしょう」
「……あ」
綴は確信していた、欲するものがそこにあることを。
■ ■ ■
「嗚呼、こりゃ典型だな」
迷いなく歩を進める新居者達の後を追いながら、居守は家の裏手へと辿り着いた。案内が聞いて呆れる話である。
東雲荘の裏手は森と接合している。所有者の定かでない鬱蒼とした茂みが広がっており、自然の防壁になっているのだ。森は年老いた大木が多く、ここは昼でも薄暗い。地面は水捌けが悪く、歩くたびに泥が跳ねる。腐った水と落ち葉の匂いが肺腑を満たし、流れる風はそれらを掻き回すばかりでちっとも涼しくならなかった。
双子が興味を示したものは、そんな藪の中にひっそりとあった。
「一応挨拶するのが礼儀だと思ってね」
「アパートの中には神棚がなかったしな」
それは祠だった。
居守が生まれる前からそこにあり、誰に聞いても所以は不明の社だ。かつては森の神を祀っていたのかもしれない。
鳥居はない。平たい自然石の上に簡素な木の祠が鎮座しているだけだ。場所が場所だけに、暗い印象が付き纏う。石を這うヤスデが人の気配を恐れてか、身を反らして逃げていった。
「て、手入れはしてあるよ。私はあんまりそういうの信じないけど、一応ほら……」
汗ばむ手を自覚しながら、居守は祠から視線をそらした。
正直、居守はこの場所があまり好きではなかった。
なぜか昔から苦手なのだ。理由はない。ただ、何となく気持ちが逃げる。言った通り、定期的に掃除はしているが、信仰心より義務感の方が強い。
生暖かい風が体を舐め、森の闇とはまた異なる何かが蟠っている。深くは考えないようにしているが、そんな気がしてならないのだ。掃除の時でなければ滅多に足を踏み入れない。
「そう言えば、ここに来る前も言ってたね。神棚がどうのって。一体何なの」
「大したことじゃ」
「大したことだよ! 何でまた、こんな場所をいの一番に調べたがるの?」
目の高さにある祠は古く、既に屋根には苔が生え、石造りの土台には罅が入っていた。それでも居守は定期的に水と花を供えていた。周囲の雑草はそんな居守の行動を嘲笑うかのように一層濃く茂り、葉を伸ばしていた。
思えば、ここはどの場所より雑草の成長が早い。
「いないみたいね」
「いないって、何が」
「いるなら俺達は入れねえ」
「産土も?」
「まあこの様子だといないな。一応開けて見てみるか」
縢は姿勢を正して、居守を振り返った。居守は話についていけずに、困惑気味に首を傾げた。
「管理人さん。あんた、この祠を開けた時はあるか?」
縢は鉄錆びた錠を、ノックをする時のような気軽さでコンコンと叩いた。居守は反射的に首を振った。
開けようなどと、考えたこともなかった。今、縢に言われて初めて思いついたほどだ。
「……ない。扉の鍵が錆びついてて開かないから」
綴は居守の返答に頷き、縢と同じように居守へと向き直った。
居守はその光景に既視感めいた錯覚を覚える。
社の前に座し、よく似た姿形で神を守る者。
――まるで狛犬のようだと思った。
「管理人さん。生憎だが、ここには祀られている者がいない。不在の祠だ。……しかし何なんだ、この町は」
縢は腕を組み、珍しく困惑気味な様子である。
「いない、って?」
「祀られている者よ。神でも仏でも何でも良いけれど、人々から畏れられ、崇め奉られた神の座が存在しないってこと。八百万とか山神とか海神とか、聞いた時くらいはあるでしょう」
居守の疑問には綴が答えた。
「……まあ、うん」
「何もないってだけなら別にいいのよ。祀られているものがいない社というのはままある。それでもこの町の数は異常だけれど」
「……一体何の話をしてるの」
風が出てきていた。肌を舐める、湿気を纏った颶風だ。
寒気を覚え、居守は服の上から腕を摩る。さほどの効果もなかった。
綴と縢は何も感じていないのか、小さな社へと向き直った。
「ま、端的に言うとだな」
「どうやら管理人さん。手前様の家の祠、全く良くないものの住処になっているようね」
縢は掌を翻して、錆びた閂を握った。赤い鉄錆が乾いた血の如く、ぱらぱらと剥がれ落ちる。
風が一層強まった気がした。森のざわめきが悲鳴に近くなる。
縢の掌が錠前を圧迫していった。通常の人間が素手で壊せる代物ではないというのに、縢の手はどういう理屈なのか徐々に固い錠を捻じ曲げていく。
「ちょ、ちょっと」
静止する間もなく、鉄製であるはずのそれは崩壊した。聞いた時もない音を立てて、これまで頑なに開扉を妨害してきた鉄錠が砕け散ったのだ。
居守は唖然としながら縢の手中を見る。錠前が粘土のように練り固められ、ただの鉄屑と化していた。
だがそれより居守を驚かせたのは、暗い祠の中から突如として上がった悲鳴だった。鼓膜を爪で引き裂くが如き、耳障りな鳴き声が森に木霊する。
縢は鉄屑と化した錠前を放り捨てると、臆することなく、翻した手を社の中に突っこむ。さながら泥を捏ねり合わせる粘着質な音が社の中から聞こえた。
「ビンゴだ、姉貴」
「重畳」
濡れた音と共に、縢は社の中から手を引き抜く。
その手に握られていたものに、居守は大きく息を呑んだ。思わず上げそうになった悲鳴は手で口を塞いでなんとか阻止したが、喉奥で響いた自らの声は胃液のように苦かった。
「な、に。それ」
縢の白い手に握られていたのは、梅雨の湿度を寄り集めた漆黒だった。
蠢く闇。湿りけを帯びた表面はてかてかと輝き、薄気味悪く明滅している。黒から黄へ、黄から黒へと。時折不規則に蠕動することからも、何かしらの生体反応を示しているらしかった。
生物らしい特徴はほとんどない。あるとすれば体の一方に開いた口腔だけだろう。ヤツメウナギのような吸盤状の口。ただしこちらは鋭利で鋭い鑢の如き牙が生え揃っている。丸木をぶつ切りにしたかのような寸胴の体に手足はなく、目や鼻はなかった。
社の中から現れたもの。……それは丸々と太った、一匹の蛭だった。
単なる蛭。その一言で片づけられるのなら、居守もこれほどまでに驚きはしない。
大きさが尋常ではないのだ。一升瓶に近い太さがあるだろう。既に生き物の枠を超えている。こんなものが日の下にいて良いはずがない。
縢の五指は粘つく蛭の皮膚をがっしりと掴み、決して離そうとはしない。
またしても耳を塞ぎたくなる鳴き声が上がった。音の発生源は紛れもない、異形の蛭だった。
「管理人さんよ。あんた、最近妙にツイてないんじゃないか。不幸っつうか不運っつうか、何をするにも上手くいかない。そんな風に感じたことはないか」
縢は蛭を興味深げに眺めながら居守に問う。居守は見るに堪えなくなり、視線を逸らした。
意識的に異物を視界から排除したことで、少しだけ心の平静を取り戻す。居守は縢の問いに思案した。
幸か、不幸か。
遠く久しい命題だった。そんなことを考えている暇なぞなかった。
「……いや。うん……どうだろう。ツイてないのは生まれつきだし……」
「全部が全部コイツの仕業じゃないけどな。ただ、吸われちまった分、綻びが目立ちやすくはなるだろうさ。まあ吸いに吸ってこの大きさだ。俺もここまでデカい奴は久し振りに見た」
「何なの、それ……」
「幸吸いの魔蛭。オボロ中のオボロ。ま、低級だけどな」
縢は蛭を捕えた手に力をこめる。いかほどの握力が発揮されているのか、蛭は身を捻って拘束を逃れようとした。流石に痛覚は存在するらしい。だが太りに太った肉体では思ったように動けず、空しく尾で宙を叩くだけだった。
次第に縢の五指は蛭の肉に食いこんでいく。
「お、オボロって、何……? その蛭のこと……?」
綴は社に全く興味がなくなったようで、のんびりと背伸びをしている。何もかもが異常の状況で、である。しかし顔を青くしている居守の反応が物珍しかったようで、綴は居守のそばにゆっくりと進んだ。
「オボロ。朧。オンボロ。古くは『怨襤褸』とも書いたらしいわ。人にも神にも妖にもなれない夜の断片。この町の闇は濃いから、きっと奴等も過ごしやすいんでしょうね。……手前様、見たことないの? ウジャウジャいたわよ、この町のあちこちに。それこそ人より多いんじゃないかって思うくらい」
綴の声は平坦だった。蛭が撒き散らす泥土が服に跳ねぬよう配慮しながら、温度のない目で蛭を見つめている。
「そ、それって霊感とかいう話でしょっ? 残念だけど私、そういうのは信じてない」
「信じる信じないの話じゃない。単なる見方の違いってだけだ」
縢は手に力を注ぐことをやめない。蛭は悲鳴を上げるが、逃げることは絶対にできない。まして縢はそれを許さないだろう。蛭の悲鳴は次第にか細くなっていった。
そして遂に縢の指先が蛭の皮膚を突き破る。肉が破裂するおぞましい音と共に蛭は爆散した。
肉片と体液、それと幾許かの血痕に、縢の手は真っ黒に染まる。
「うえ、土臭え」
縢は汚れた手を振るい、泥を飛ばした。
立ち昇る泥の臭気に、居守は居守で、懸命に吐き気を堪えていた。混乱が生理的嫌悪を上回り、無様に嘔吐することはなかったが、視界が揺れて酩酊を覚える。
地に足をつけているというのに、靴裏が地面に沈んでいく錯覚を覚える。
地面とは即ち、常識という名の基盤だ。固く築いた基礎が何の変哲もない小雨によって傾きかけている。異形の蛭を「些細な出来事」で片付けられる器用さを、居守は持ち合わせていなかった。
なんにせよ難攻不落である居守の常識を突破したのは、たった二人の双子だった。居守が十五年を掛けて蓄積してきた日常という地面に大きな罅を入れたのも。
「さて。これでこの地には何もいなくなった」
清々しいほどにあっけらかんと、縢は言う。
双子は居守を見つめた。
無人の社はかくして開かれた。良く似た顔をした守護獣達が笑う。
辺り一帯に蟠っていた闇は一体いつ晴れたのか、開け放った社の内側が、居守の立ち位置からでもよく見えた。
社の中には、何もなかった。
「本日よりこの東雲荘の守り神を務めさせてもらうわ」
「せいぜい畏まって崇め奉ってくれ」
「……はぁ?」