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三年放っておかれた妻に転生しました。夫が新しい妻を連れて帰ってきた日のことです

作者: _mon_mon_
掲載日:2026/10/23

目を開けたら、玄関ホールに立っていた。


正面に男がいる。

その男が、若い娘の手を握っている。


「今日から彼女がこの家の女主人だ」


声はホールの天井まで響いて、落ちてきた。


左右に並んだ使用人たちが、いっせいに私を見る。

みんな青い顔だ。

メイドの一人は、盆を持つ手が震えている。


私は誰だ。


頭の奥で、二つの記憶が二枚の布のように重なった。


一枚目は、商店街の洋品店。

重いシャッターと、ミシンの油の匂い。

看板には母の名前が書いてあった。『洋品ふみ』。

四十五歳で、店は一人で回していた。

裾上げ一本五百円、即日仕上げ。


二枚目は、この屋敷。

リーゼ・グレンフェルト。伯爵夫人。

嫁いで半年で、夫は王都へ出て行った。

それから三年、一度も帰らなかった。


その三年、この家の家計簿をつけていたのは私だ。

領地に春蒔きの種麦を手配したのも私だ。

使用人二十三人の給金を一日も遅らせずに払ったのも、私だ。


目の前の男が、その夫。

オスカー・グレンフェルト伯爵。


三年ぶりに見る顔は、記憶より顎が丸い。

王都の食事はさぞよかったのだろう。


「お前には離れを用意させる」


夫は娘の手を離さないまま言った。


「何か言うことはあるか」


ここは泣く場面なのだろう。

すがりついて、なぜですかと叫ぶ場面。

使用人たちも、それを待って息を詰めている。


けれど私は、二十年分の客商売を覚えている。

理不尽な客の前で、まず何をするか。


笑うのだ。


「承知しました」


口角を上げ、目尻を下げる。

店でいちばん売れた顔だ。


「では、引き継ぎを始めましょうか」


夫の眉が寄った。


「……引き継ぎ?」


「女主人が替わるのでしたら、お仕事も替わりますでしょう。三日いただけますか。帳面と鍵と、それから人の名前をお渡しします」


娘が、初めて私を見た。

十七か十八。栗色の髪。

着ている水色のドレスは、袖が指一本ぶん長い。

借り物だ。


私の目は勝手にそこを測ってしまう。

職業病だ。


「好きにしろ」


夫はそう言うと、娘を連れて階段を上っていった。

娘は一度だけ振り返った。


謝るような目だった。


   *


その夜、私は離れの書き物机に向かった。


前世のことを思い出していた。

店は母から継いだ。

母は入院する前の晩、大学ノートを一冊、私の膝に置いた。

表紙には、マジックで「ひきつぎ」と書いてあった。


――山田さん。ズボンの裾はダブル。本人は言わないけど、必ず。

――集金は二十五日。銀行が混むから午前中に。

――下糸は右の引き出し。泣きたくなったら、店を閉めてから泣くこと。


最後の一行で、私は泣いた。

もちろん、店を閉めてから。


あのノートがなければ、店は一年で潰れていた。


この屋敷にも、同じものが要る。


厚手の帳面を一冊おろして、表紙に書いた。


『ひきつぎ』


今度は、この国の文字で。


――料理長ハンス。塩を足したがる。旦那様は濃い味を好むので止めなくてよい。ただし客の日は止める。

――メイドのアンナ。母親が病気。月末に一日休みを。給金から引かないこと。

――ローデン商会。種麦。毎年、春分の十日前までに払う。一日も遅らせないこと。この家の信用は、ここで保っている。

――支払いには手紙を添える。こちらの霜がいつ上がったかを書く。ここで霜が上がると、北の領地はおよそ十日遅れで上がる。商会はそれを見て、北へ種を出す日を決めているらしい。


最後の行を書きながら、ペン先が止まった。

霜のことだけでは紙が余って、毎年、もう一行書き足していた。

庭の話や、鳥の話を。

ほかに言う相手がいなかったからだ。


それも書くべきか迷って、やめた。


もう一つ、思い出したことがある。

リーゼの記憶の、ずっと底のほう。

嫁いだ日、神殿で老いた神官が読み上げた古い習いだ。


――当主が家の者の前で認めた離縁は、神殿に届け出るだけで成る。


花嫁に聞かせるには縁起の悪い文句だと、当時のリーゼは思った。

今の私には、ありがたい文句だった。


離れに残れば、私は帳面を見るだけの影になる。

三年そうだった。

これ以上は、ごめんだ。


三日で引き継ぐ。

三日目に、出ていく。


蝋燭を替えに、使用人頭のベルタが来た。

五十がらみの、口数の少ない女だ。


「ベルタ。三日目の朝の点呼、厨房の前ではなく、玄関ホールでしてもらえるかしら」

「ホールで、でございますか」

「鍵をミア様にお渡しするの。皆の前でないと、誰が女主人かわからなくなるでしょう」


ベルタは少しだけ私の顔を見た。


「旦那様には、お伝えしますか」

「当日の朝に、私からお願いするわ。鍵の受け渡しには、当主の立会いが要りますもの」


早く言えば、あの人は理由を考える時間を持つ。

考えさせないほうがいい。


「……かしこまりました」


ベルタは新しい蝋燭を二本置いていった。

頼んだのは一本だった。


書いているうちに、その二本も尽きた。


三年分の仕事が、一冊に収まった。

多いのか少ないのか、私にはわからなかった。


   *


一日目。


ミアというその娘は、家計簿を開いたまま動かなかった。


朝から二刻が過ぎている。

私が指でなぞる数字を、彼女の目は追っていない。


「ミア様」

「……はい」

「お疲れですか。お茶を淹れましょうか」

「いえ」


ミアは膝の上で手を握った。

指の節が白くなっている。


「読めないんです」


小さな声だった。


「字は少しなら。自分の名前と、神殿の祈りの言葉くらい。でも数字が並ぶと、わからなくなって」


ああ、と思った。

前世の店でも、こういう顔のお客さんを何人も見た。

試着室から出てこられない人。

サイズを聞かれて黙ってしまう人。


「旦那様には言いましたか」

「言えません」


ミアは首を振った。


「父の借金を、旦那様が払ってくださったんです。私には帰るところがありません。ここで失敗したら」


その先は言わなかった。


「奥様はご病気で、もうお屋敷のことはおできにならないと聞いていました」

「元気ですよ」

「はい。とても」


ミアは私を見て、少しだけ笑った。

それから慌てて真顔に戻った。


あの男。

元気な妻を三年放っておいた夫より、病気の妻の代わりに若い娘を連れてきた夫のほうが、体裁がいいらしい。


私は家計簿を閉じた。


「では、数字はやめましょう」

「え」

「印を探します」


左に入ったお金。

右に出たお金。

同じ月を横一列に並べてある。


払い終えた行の端には、小さな字が一つずつ入っている。

くるりと輪を描いて、尾を下に払う一文字。


「この字が、あちこちにありますでしょう」

「奥様の、お印ですか」

「リーゼ。私の名前です。その頭の字」


ミアは小さくうなずいた。

口の中で何か言いかけて、言わなかった。

奥様を名前で呼ぶ家ではないと、もう誰かに教わったのだろう。


「払い終えたら、私がこれを書きました。この字があるところは、もう払ってあります。ない行は、まだです」

「この字を、探せばいいんですか」

「そう。字の数と行の数が同じなら、この家は誰にも借りがありません」


ミアは一行ずつ、指で数えた。

唇が動く。

いち、に、さん。


数字の読み方は、そこから教えた。

私の頭の字の隣にある数字から。


日が傾くころ、ミアは春の行を自分で読んだ。

指が三度止まり、三度戻った。


「ろ、ローデン商会。種麦。銀貨……四十二枚」

「正解です」


ミアが顔を上げた。

初めて、怯えていない顔だった。


「今年の分は、もう袋に分けて金庫に入れてあります。袋の口に、商会の名前の札をつけて」

「もう、ですか」

「毎年、商会の方が値と量を確かめに来て、そのあと払うの。待たせない家だと思われるのが、いちばん安上がりですからね」


ミアは家計簿のその行に、指を置いたまま聞いていた。


   *


二日目の朝、離れの戸を叩く音で目が覚めた。


ミアだった。

目の下が少し青い。

家計簿を胸に抱えている。


「読んでみても、いいですか」


止める理由はなかった。

ミアは春の頁を開いて、昨日と同じ行を読んだ。

今日は、指が一度しか止まらなかった。


それから、一年目、二年目、三年目と、日付まで読んだ。


「夜、蝋燭を一本いただきました。ベルタさんに」


一本で足りたのか、と思った。

私は二本使い切ったのに。


   *


二日目の午後、事件は応接間で起きた。


ローデン商会の人が来る日だった。

これまでは番頭が来ていた。

今年は若主人本人だという。


「私が出る。当主が出るのが筋だ」


夫が言った。


止める理由は、私にはなかった。

女主人はもう私ではない。

それに、三年帰らなかった当主が当主らしいことをしたいのなら、させておけばいい。


私は廊下で待った。

扉の向こうから、夫の声が聞こえる。


「銀貨四十二枚? 高い。三十五にしろ」


私は額を押さえた。


前世にも、これをやるお客さんがいた。

仕上がった品を受け取りに来てから値切る人。

そういう人の次の注文は、私も少し高めに見積もった。


案の定、若い男の声が返ってきた。

落ち着いた、よく通る声だった。


「伯爵様。今年からのお支払いは、どなたが」

「私だ。この家のことは私が見る」

「左様ですか。では、八十四枚になります」


倍だ。


「なんだと」

「当商会の値は、秋のうちに翌年の種を取り置くお約束込みです。取り置きは、一日も遅れずにお支払いくださるお家にしかいたしません。こちらのお屋敷は三年間、一日も遅れませんでした。ですが、お支払いの方が替わられるなら、新しいお取引です。新しいお取引には、新しい値をつけます」


うまい。

私は廊下で、少しだけ感心した。

王都で伯爵のツケがどれだけ溜まっているか、商人の耳には入っているのだろう。


「それと」


若主人が続けた。


「この三年、手紙をくださっていた奥様に、一度お目にかかってお礼を申し上げたいのですが」

「あれは関係ない」


扉が開いて、夫が出てきた。

顔が赤い。


「八十四枚払え。種がなければ領地が困る」


払えなくはない。

けれど家計から出せば、夏の給金が足りなくなる。

足りない分は、私の持参金の箱から埋めることになる。

その箱を三年かけて軽くしたのは、私ではない。王都にいた誰かだ。


それでも、口には出さなかった。

言えばこの男は明日も、私に払い方を考えさせる。


夫は階段を上っていった。

今夜は隣領の男爵家で晩餐なのだそうだ。


応接間では、若主人がまだ待っている。


振り返ると、廊下の角にミアがいた。

家計簿を胸に抱えている。

昨日からずっと、それを持ち歩いているのだ。


「ミア様」

「はい」

「あの部屋の椅子に、座ってください」


ミアの顔から血の気が引いた。


「わ、私が?」

「女主人ですから」

「奥様が行ってください。奥様なら」


それは、そうだ。

私が入れば、すぐに四十二枚に戻せる。

三年分の手紙を書いたのは私だ。

礼も言われるだろう。


ほしかったものが、扉一枚向こうにある。


でも明日の夜、私はこの家にいない。

来年の春、あの椅子に座るのはこの子だ。


「私は、明日ここを出ます」


ミアが息を呑んだ。


「だから、あなたが行くの。今朝の行を読むだけでいい。お金は、もう袋に入っているでしょう」


ミアは家計簿を抱え直した。


私は腰の鍵束から、金庫の鍵を一本外してベルタに渡した。

ベルタは走って行き、札のついた袋を持って戻ってきた。

鍵を私の掌に返すと、黙って扉を開けた。

ベルタは私を見なかった。

ミアの背中だけを見て、軽く押した。


扉が閉まる。


私は廊下を離れようとした。

離れようとして、足が止まった。


扉の隙間から、ミアの声がする。

つかえながら。


「ろ、ローデン商会。種麦。一年目、銀貨四十二枚。春分の十二日前、払い済み。二年目……四十二枚。春分の十一日前、払い済み。三年目」


数字を一つずつ、指で押さえながら読んでいるのがわかった。


「三年間、一度も遅れていません。今年の分も、ここにあります。今日、お払いします」


袋を卓に置く音がした。


「払い終わった印は、今年から私がつけます。前の印の、隣に。だから、前と同じ値でお願いします」


静かになった。


紙をめくる音がする。

若主人が家計簿を覗き込んだのだろう。


「この、行の端の字は」

「払い終わった印です」

「どなたの印ですか」


少しの間があった。


「リーゼ様です」


ミアが言った。


「この家の帳面は、ぜんぶリーゼ様が書きました」


私は廊下の壁に手をついた。


リーゼ様。


奥様ではなく。

伯爵夫人でもなく。


この三年、誰も私をその名で呼ばなかった。

夫はいない。

使用人にとって、私は奥様だ。

手紙の署名は、この国の習いで「グレンフェルト伯爵夫人」。

一昨日帰ってきた夫は、私を「お前」と呼んだ。

昨日、あの子は私の名前を聞いて、口の中にしまった。


前世の私だって同じだった。

商店街の人は、私を「ふみさん」と呼んだ。

看板の名前で。母の名前で。

訂正するのが面倒で、二十年そのままにした。


自分の名前を、自分の仕事と一緒に呼ばれたのは、いつ以来だろう。


「リーゼ様」


若主人が繰り返した。

確かめるように。


「北では、種の取引は奥の帳面を預かる方と結ぶのが習いです。殿方は春になると値切りますので」


ミアが小さく笑った気配がした。


「帳面を預かる方が替わっても、帳面がこうして続いていくなら、新しいお取引ではありません。四十二枚で。秋の取り置きも、例年どおりに。伯爵様には、女主人様とお約束したと申し上げてください」


私は壁から手を離した。


泣かなかった。

店は、まだ閉めていない。


扉が開いて、若主人が出てきた。

背の高い男だった。

二十代の終わりくらい。

旅の埃をはらった外套の裾が、左だけ少し下がっている。

ほつれた糸が一本、垂れていた。


私の目は、勝手にそこを測る。


目が合った。

彼は軽く頭を下げた。


「失礼。こちらの方ですか」

「引き継ぎ係です」


自分で言って、少しおかしかった。


「では、お伝えいただけますか。リーゼ様に」


彼は応接間の扉を振り返った。

中では、ミアが家計簿に印を書き入れているはずだ。


「毎年、手紙の終わりに、こちらの霜が上がった日を書いてくださいました。おかげで、うちは北へ種を出す日を決められた。三年分、助けられたのは商会のほうです」


それから、少し言いよどんだ。


「去年の手紙には、霜の話のあとに一行、燕が今年も厩の梁に戻った、とありました」


覚えている。

夜中に書いた。

誰かに言いたかった。

言う相手が、便箋しかなかった。


「返事に、うちの店先にも来ました、と書きかけて、やめました。商人が伯爵夫人に書くことではありませんので」


彼は少し困ったように笑った。


「それも、お伝えいただけますか」


名乗れば、私は奥様に戻る。

今日の取引は、あの子のものだ。


「お伝えします」

「お願いします」


彼はもう一度頭を下げて、玄関へ歩いていった。

垂れた糸が、一歩ごとに揺れていた。


あれは、今日のうちに直したほうがいい。

言いそびれた。


   *


三日目の朝、ベルタに伝言を頼んだ。

鍵の受け渡しに、当主の立会いをお願いします、と。


夫は本館ではなく、まず離れに来た。

上着には、昨夜の晩餐の匂いがまだ残っていた。


「種麦の件は聞いた」

「そうですか」

「ミアには荷が重い。お前はこの離れに残れ。表向きはあれが女主人だが、帳面はお前が見ろ」


ああ、やっぱり。


この男がほしいのは、妻でも女主人でもない。

文句を言わずに回る家だ。


私は笑った。

三日前と同じ、店の顔で。


「旦那様。そのお話は、本館でいたしましょう。ちょうど鍵をお渡しするところです」


本館の玄関ホールには、二十三人が並んでいた。

ベルタが約束どおり、朝の点呼をここに移していた。

列の端に、ミアもいる。

家計簿を抱えて。


夫が一瞬、足を止めた。


私はホールの真ん中に立った。

三日前と同じ場所だ。

腰の鍵束が、じゃらりと鳴った。


「三日前、旦那様はここでおっしゃいました。この家の女主人はミア様だと。皆が聞いています」


二十三人は、うなずきもせず、首も振らず、ただ立っている。


「旦那様はいま、私に離れに残って帳面を見ろとおっしゃいました。女主人が二人いる家だと、皆の前で言い直されますか」


夫の口が開いて、閉じた。


言い直せば、使用人たちは知る。

この家を三年回してきたのが誰か。

これからも回すのが誰か。

そして当主に、それを表に出す気がないことを。


噂は王都にも届くだろう。

種商人の耳にさえ、伯爵のツケの話は届いているのだから。


「言い直されないのでしたら、もう一つ、皆の前でお願いがございます」


私は息を吸った。


「私を、離縁してください」


ホールの空気が、ぴんと張った。

盆を持っていたメイドが、今日は盆を持っていなかった。

両手を胸の前で握っている。


夫は使用人たちを見た。

ミアを見た。

最後に私を見た。


女主人ではない妻を、この先ずっと離れに置いておく。

その理由を、二十三人の前で言える男ではなかった。


「……認める」


かすれた声だった。


「離縁を認める。好きにしろ」


ベルタが一歩前に出て、短く言った。


「確かに、伺いました」


私は鍵束を腰から外した。

ミアの前まで歩いて、その手に載せた。

重さで、ミアの手が少し沈んだ。


「持参金をお返しください」


振り返って言うと、夫は顎を上げた。


「当然だ。返す」

「金貨二百枚でした」


夫が黙った。


私は知っている。

家計簿をつけていたのは私だ。

三年のあいだ、王都から何度も「当座の入用」という手紙が来て、そのたびに箱は軽くなった。


「いま箱に残っているのは百枚です。それをいただきます」

「夏の給金はどうする」


初めて家のことを心配した、と思った。

自分の体面の心配だろうけれど。


「種麦が四十二枚で済みましたから、家計で足ります。家計簿の、夏の頁に書いてあります」


列の端で、ミアが小さくうなずいた。

昨日、あの子が値を戻したから、私の百枚は箱に残ったのだ。


「残りの百枚は、旦那様の王都のお手当から、いずれお返しください」

「……わかった」


返ってこないだろう。

これは私の負けだ。

売掛は、全部は回収できない。

母のノートにも書いてあった。


――取れないお金は、取れないと決めて、次へ。


その日の午後、ベルタと一緒に神殿へ行った。

年寄りの書記は、ベルタの証言を聞いて、帳簿に二行書いた。

三年と半年の結婚は、二行で終わった。


   *


本館を出る前に、ミアに引き継ぎ帳を渡した。

三日前の夜に書いた、表紙に『ひきつぎ』とある一冊だ。


ミアはそれを開いて、一行目を指でなぞった。


「料理長、ハンス。しおを、たしたがる」


読めた。


「最後のページは、閉めてから読んでね」

「閉めてから?」

「お店でも、お屋敷でも。一日の終わりに」


最後のページには、母の一行を、この国の字で写しておいた。


ミアは引き継ぎ帳と家計簿を重ねて、両腕で抱えた。


「リーゼ様」


あの子が呼んだ。

廊下ではなく、私の目の前で。


「ありがとうございました」


私は店の顔を作ろうとして、うまく作れなかった。


   *


街の東、染物屋の二軒隣に、小さな店を借りた。


金貨百枚は、家賃半年分と、足踏み式の縫い台と、糸と針と、看板用の板に化けた。

伯爵夫人の部屋の十分の一もない広さだ。

夜の井戸水は冷たい。


でも朝、自分で戸を開ける。

それが、思っていたよりずっと嬉しかった。


三年分の値打ちを認めさせてから出ていくつもりだった。

認めさせるとは、どういうことか。

夫に頭を下げさせることか。

金を積ませることか。


三年分の働きには、銀貨一枚も払われていない。

自分の持参金さえ、半分しか戻らなかった。


なのに、足りない気がしない。

あの廊下で、もう受け取っていたからだ。


店を開けて五日目に、最初の注文が来た。


持ってきたのはベルタだった。

メイドたちのお仕着せ十二着の、袖の直し。

注文書の末尾に署名があった。


インクが一度滲んで、書き直してある。

それでも、まっすぐな字だった。


『ミア』


前払いだった。

銀貨の袋が、注文書と一緒に台に置かれた。


「女主人様が、遅れてはいけないとおっしゃいまして」


ベルタはにこりともしないで言った。


「それから、水色のドレスの袖も直していただけますか。指一本ぶん長いそうで」


私は笑った。

今度は、店の顔ではない笑い方で。


ベルタが帰って一刻ほどして、戸の鈴が鳴った。


背の高い男だった。

旅の埃をはらった外套を着て、紐でくくった手紙の束を持っていた。


見覚えのある紙だった。

私が三年間、毎年春に買っていた便箋だ。


外套の裾が、左だけ少し下がっている。

ほつれた糸が一本、垂れていた。

まだ直していないらしい。


「引き継ぎ係の方」


彼はそう言って、少し笑った。


「お屋敷で、こちらだと伺いました。あの日、名乗っていただけなかったので、女主人様に教わるまで気づきませんでした」


ミアだ。

あの子はもう、自分で口を開く。


「ローデン商会のフェリクスと申します。三年分の手紙の、お礼を申し上げに来ました」


それだけ言って、彼は黙った。

それから、もう一言だけ足した。


「伯爵夫人に、商人は礼状しか書けません。燕の返事も書けなかった。でも、仕立て屋なら、訪ねて行けますから」


いらっしゃいませ、と言いかけて、やめた。


「どうぞ。お掛けください」


彼は店の中を見回した。

縫い台。糸の棚。

まだ何も書いていない看板の板が、壁に立てかけてある。


「こちらは、何というお店ですか」


私は少し考えた。

前世の店には、母の名前がついていた。

この店には、まだ何もない。


板の前に立って、私は答えた。


「リーゼ、です」


彼がその名を繰り返した。

三年分の手紙の署名には、一度もなかった名前を。


私は針箱を開けた。

まず、その裾から直しましょうか、と言うために。


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