三年放っておかれた妻に転生しました。夫が新しい妻を連れて帰ってきた日のことです
目を開けたら、玄関ホールに立っていた。
正面に男がいる。
その男が、若い娘の手を握っている。
「今日から彼女がこの家の女主人だ」
声はホールの天井まで響いて、落ちてきた。
左右に並んだ使用人たちが、いっせいに私を見る。
みんな青い顔だ。
メイドの一人は、盆を持つ手が震えている。
私は誰だ。
頭の奥で、二つの記憶が二枚の布のように重なった。
一枚目は、商店街の洋品店。
重いシャッターと、ミシンの油の匂い。
看板には母の名前が書いてあった。『洋品ふみ』。
四十五歳で、店は一人で回していた。
裾上げ一本五百円、即日仕上げ。
二枚目は、この屋敷。
リーゼ・グレンフェルト。伯爵夫人。
嫁いで半年で、夫は王都へ出て行った。
それから三年、一度も帰らなかった。
その三年、この家の家計簿をつけていたのは私だ。
領地に春蒔きの種麦を手配したのも私だ。
使用人二十三人の給金を一日も遅らせずに払ったのも、私だ。
目の前の男が、その夫。
オスカー・グレンフェルト伯爵。
三年ぶりに見る顔は、記憶より顎が丸い。
王都の食事はさぞよかったのだろう。
「お前には離れを用意させる」
夫は娘の手を離さないまま言った。
「何か言うことはあるか」
ここは泣く場面なのだろう。
すがりついて、なぜですかと叫ぶ場面。
使用人たちも、それを待って息を詰めている。
けれど私は、二十年分の客商売を覚えている。
理不尽な客の前で、まず何をするか。
笑うのだ。
「承知しました」
口角を上げ、目尻を下げる。
店でいちばん売れた顔だ。
「では、引き継ぎを始めましょうか」
夫の眉が寄った。
「……引き継ぎ?」
「女主人が替わるのでしたら、お仕事も替わりますでしょう。三日いただけますか。帳面と鍵と、それから人の名前をお渡しします」
娘が、初めて私を見た。
十七か十八。栗色の髪。
着ている水色のドレスは、袖が指一本ぶん長い。
借り物だ。
私の目は勝手にそこを測ってしまう。
職業病だ。
「好きにしろ」
夫はそう言うと、娘を連れて階段を上っていった。
娘は一度だけ振り返った。
謝るような目だった。
*
その夜、私は離れの書き物机に向かった。
前世のことを思い出していた。
店は母から継いだ。
母は入院する前の晩、大学ノートを一冊、私の膝に置いた。
表紙には、マジックで「ひきつぎ」と書いてあった。
――山田さん。ズボンの裾はダブル。本人は言わないけど、必ず。
――集金は二十五日。銀行が混むから午前中に。
――下糸は右の引き出し。泣きたくなったら、店を閉めてから泣くこと。
最後の一行で、私は泣いた。
もちろん、店を閉めてから。
あのノートがなければ、店は一年で潰れていた。
この屋敷にも、同じものが要る。
厚手の帳面を一冊おろして、表紙に書いた。
『ひきつぎ』
今度は、この国の文字で。
――料理長ハンス。塩を足したがる。旦那様は濃い味を好むので止めなくてよい。ただし客の日は止める。
――メイドのアンナ。母親が病気。月末に一日休みを。給金から引かないこと。
――ローデン商会。種麦。毎年、春分の十日前までに払う。一日も遅らせないこと。この家の信用は、ここで保っている。
――支払いには手紙を添える。こちらの霜がいつ上がったかを書く。ここで霜が上がると、北の領地はおよそ十日遅れで上がる。商会はそれを見て、北へ種を出す日を決めているらしい。
最後の行を書きながら、ペン先が止まった。
霜のことだけでは紙が余って、毎年、もう一行書き足していた。
庭の話や、鳥の話を。
ほかに言う相手がいなかったからだ。
それも書くべきか迷って、やめた。
もう一つ、思い出したことがある。
リーゼの記憶の、ずっと底のほう。
嫁いだ日、神殿で老いた神官が読み上げた古い習いだ。
――当主が家の者の前で認めた離縁は、神殿に届け出るだけで成る。
花嫁に聞かせるには縁起の悪い文句だと、当時のリーゼは思った。
今の私には、ありがたい文句だった。
離れに残れば、私は帳面を見るだけの影になる。
三年そうだった。
これ以上は、ごめんだ。
三日で引き継ぐ。
三日目に、出ていく。
蝋燭を替えに、使用人頭のベルタが来た。
五十がらみの、口数の少ない女だ。
「ベルタ。三日目の朝の点呼、厨房の前ではなく、玄関ホールでしてもらえるかしら」
「ホールで、でございますか」
「鍵をミア様にお渡しするの。皆の前でないと、誰が女主人かわからなくなるでしょう」
ベルタは少しだけ私の顔を見た。
「旦那様には、お伝えしますか」
「当日の朝に、私からお願いするわ。鍵の受け渡しには、当主の立会いが要りますもの」
早く言えば、あの人は理由を考える時間を持つ。
考えさせないほうがいい。
「……かしこまりました」
ベルタは新しい蝋燭を二本置いていった。
頼んだのは一本だった。
書いているうちに、その二本も尽きた。
三年分の仕事が、一冊に収まった。
多いのか少ないのか、私にはわからなかった。
*
一日目。
ミアというその娘は、家計簿を開いたまま動かなかった。
朝から二刻が過ぎている。
私が指でなぞる数字を、彼女の目は追っていない。
「ミア様」
「……はい」
「お疲れですか。お茶を淹れましょうか」
「いえ」
ミアは膝の上で手を握った。
指の節が白くなっている。
「読めないんです」
小さな声だった。
「字は少しなら。自分の名前と、神殿の祈りの言葉くらい。でも数字が並ぶと、わからなくなって」
ああ、と思った。
前世の店でも、こういう顔のお客さんを何人も見た。
試着室から出てこられない人。
サイズを聞かれて黙ってしまう人。
「旦那様には言いましたか」
「言えません」
ミアは首を振った。
「父の借金を、旦那様が払ってくださったんです。私には帰るところがありません。ここで失敗したら」
その先は言わなかった。
「奥様はご病気で、もうお屋敷のことはおできにならないと聞いていました」
「元気ですよ」
「はい。とても」
ミアは私を見て、少しだけ笑った。
それから慌てて真顔に戻った。
あの男。
元気な妻を三年放っておいた夫より、病気の妻の代わりに若い娘を連れてきた夫のほうが、体裁がいいらしい。
私は家計簿を閉じた。
「では、数字はやめましょう」
「え」
「印を探します」
左に入ったお金。
右に出たお金。
同じ月を横一列に並べてある。
払い終えた行の端には、小さな字が一つずつ入っている。
くるりと輪を描いて、尾を下に払う一文字。
「この字が、あちこちにありますでしょう」
「奥様の、お印ですか」
「リーゼ。私の名前です。その頭の字」
ミアは小さくうなずいた。
口の中で何か言いかけて、言わなかった。
奥様を名前で呼ぶ家ではないと、もう誰かに教わったのだろう。
「払い終えたら、私がこれを書きました。この字があるところは、もう払ってあります。ない行は、まだです」
「この字を、探せばいいんですか」
「そう。字の数と行の数が同じなら、この家は誰にも借りがありません」
ミアは一行ずつ、指で数えた。
唇が動く。
いち、に、さん。
数字の読み方は、そこから教えた。
私の頭の字の隣にある数字から。
日が傾くころ、ミアは春の行を自分で読んだ。
指が三度止まり、三度戻った。
「ろ、ローデン商会。種麦。銀貨……四十二枚」
「正解です」
ミアが顔を上げた。
初めて、怯えていない顔だった。
「今年の分は、もう袋に分けて金庫に入れてあります。袋の口に、商会の名前の札をつけて」
「もう、ですか」
「毎年、商会の方が値と量を確かめに来て、そのあと払うの。待たせない家だと思われるのが、いちばん安上がりですからね」
ミアは家計簿のその行に、指を置いたまま聞いていた。
*
二日目の朝、離れの戸を叩く音で目が覚めた。
ミアだった。
目の下が少し青い。
家計簿を胸に抱えている。
「読んでみても、いいですか」
止める理由はなかった。
ミアは春の頁を開いて、昨日と同じ行を読んだ。
今日は、指が一度しか止まらなかった。
それから、一年目、二年目、三年目と、日付まで読んだ。
「夜、蝋燭を一本いただきました。ベルタさんに」
一本で足りたのか、と思った。
私は二本使い切ったのに。
*
二日目の午後、事件は応接間で起きた。
ローデン商会の人が来る日だった。
これまでは番頭が来ていた。
今年は若主人本人だという。
「私が出る。当主が出るのが筋だ」
夫が言った。
止める理由は、私にはなかった。
女主人はもう私ではない。
それに、三年帰らなかった当主が当主らしいことをしたいのなら、させておけばいい。
私は廊下で待った。
扉の向こうから、夫の声が聞こえる。
「銀貨四十二枚? 高い。三十五にしろ」
私は額を押さえた。
前世にも、これをやるお客さんがいた。
仕上がった品を受け取りに来てから値切る人。
そういう人の次の注文は、私も少し高めに見積もった。
案の定、若い男の声が返ってきた。
落ち着いた、よく通る声だった。
「伯爵様。今年からのお支払いは、どなたが」
「私だ。この家のことは私が見る」
「左様ですか。では、八十四枚になります」
倍だ。
「なんだと」
「当商会の値は、秋のうちに翌年の種を取り置くお約束込みです。取り置きは、一日も遅れずにお支払いくださるお家にしかいたしません。こちらのお屋敷は三年間、一日も遅れませんでした。ですが、お支払いの方が替わられるなら、新しいお取引です。新しいお取引には、新しい値をつけます」
うまい。
私は廊下で、少しだけ感心した。
王都で伯爵のツケがどれだけ溜まっているか、商人の耳には入っているのだろう。
「それと」
若主人が続けた。
「この三年、手紙をくださっていた奥様に、一度お目にかかってお礼を申し上げたいのですが」
「あれは関係ない」
扉が開いて、夫が出てきた。
顔が赤い。
「八十四枚払え。種がなければ領地が困る」
払えなくはない。
けれど家計から出せば、夏の給金が足りなくなる。
足りない分は、私の持参金の箱から埋めることになる。
その箱を三年かけて軽くしたのは、私ではない。王都にいた誰かだ。
それでも、口には出さなかった。
言えばこの男は明日も、私に払い方を考えさせる。
夫は階段を上っていった。
今夜は隣領の男爵家で晩餐なのだそうだ。
応接間では、若主人がまだ待っている。
振り返ると、廊下の角にミアがいた。
家計簿を胸に抱えている。
昨日からずっと、それを持ち歩いているのだ。
「ミア様」
「はい」
「あの部屋の椅子に、座ってください」
ミアの顔から血の気が引いた。
「わ、私が?」
「女主人ですから」
「奥様が行ってください。奥様なら」
それは、そうだ。
私が入れば、すぐに四十二枚に戻せる。
三年分の手紙を書いたのは私だ。
礼も言われるだろう。
ほしかったものが、扉一枚向こうにある。
でも明日の夜、私はこの家にいない。
来年の春、あの椅子に座るのはこの子だ。
「私は、明日ここを出ます」
ミアが息を呑んだ。
「だから、あなたが行くの。今朝の行を読むだけでいい。お金は、もう袋に入っているでしょう」
ミアは家計簿を抱え直した。
私は腰の鍵束から、金庫の鍵を一本外してベルタに渡した。
ベルタは走って行き、札のついた袋を持って戻ってきた。
鍵を私の掌に返すと、黙って扉を開けた。
ベルタは私を見なかった。
ミアの背中だけを見て、軽く押した。
扉が閉まる。
私は廊下を離れようとした。
離れようとして、足が止まった。
扉の隙間から、ミアの声がする。
つかえながら。
「ろ、ローデン商会。種麦。一年目、銀貨四十二枚。春分の十二日前、払い済み。二年目……四十二枚。春分の十一日前、払い済み。三年目」
数字を一つずつ、指で押さえながら読んでいるのがわかった。
「三年間、一度も遅れていません。今年の分も、ここにあります。今日、お払いします」
袋を卓に置く音がした。
「払い終わった印は、今年から私がつけます。前の印の、隣に。だから、前と同じ値でお願いします」
静かになった。
紙をめくる音がする。
若主人が家計簿を覗き込んだのだろう。
「この、行の端の字は」
「払い終わった印です」
「どなたの印ですか」
少しの間があった。
「リーゼ様です」
ミアが言った。
「この家の帳面は、ぜんぶリーゼ様が書きました」
私は廊下の壁に手をついた。
リーゼ様。
奥様ではなく。
伯爵夫人でもなく。
この三年、誰も私をその名で呼ばなかった。
夫はいない。
使用人にとって、私は奥様だ。
手紙の署名は、この国の習いで「グレンフェルト伯爵夫人」。
一昨日帰ってきた夫は、私を「お前」と呼んだ。
昨日、あの子は私の名前を聞いて、口の中にしまった。
前世の私だって同じだった。
商店街の人は、私を「ふみさん」と呼んだ。
看板の名前で。母の名前で。
訂正するのが面倒で、二十年そのままにした。
自分の名前を、自分の仕事と一緒に呼ばれたのは、いつ以来だろう。
「リーゼ様」
若主人が繰り返した。
確かめるように。
「北では、種の取引は奥の帳面を預かる方と結ぶのが習いです。殿方は春になると値切りますので」
ミアが小さく笑った気配がした。
「帳面を預かる方が替わっても、帳面がこうして続いていくなら、新しいお取引ではありません。四十二枚で。秋の取り置きも、例年どおりに。伯爵様には、女主人様とお約束したと申し上げてください」
私は壁から手を離した。
泣かなかった。
店は、まだ閉めていない。
扉が開いて、若主人が出てきた。
背の高い男だった。
二十代の終わりくらい。
旅の埃をはらった外套の裾が、左だけ少し下がっている。
ほつれた糸が一本、垂れていた。
私の目は、勝手にそこを測る。
目が合った。
彼は軽く頭を下げた。
「失礼。こちらの方ですか」
「引き継ぎ係です」
自分で言って、少しおかしかった。
「では、お伝えいただけますか。リーゼ様に」
彼は応接間の扉を振り返った。
中では、ミアが家計簿に印を書き入れているはずだ。
「毎年、手紙の終わりに、こちらの霜が上がった日を書いてくださいました。おかげで、うちは北へ種を出す日を決められた。三年分、助けられたのは商会のほうです」
それから、少し言いよどんだ。
「去年の手紙には、霜の話のあとに一行、燕が今年も厩の梁に戻った、とありました」
覚えている。
夜中に書いた。
誰かに言いたかった。
言う相手が、便箋しかなかった。
「返事に、うちの店先にも来ました、と書きかけて、やめました。商人が伯爵夫人に書くことではありませんので」
彼は少し困ったように笑った。
「それも、お伝えいただけますか」
名乗れば、私は奥様に戻る。
今日の取引は、あの子のものだ。
「お伝えします」
「お願いします」
彼はもう一度頭を下げて、玄関へ歩いていった。
垂れた糸が、一歩ごとに揺れていた。
あれは、今日のうちに直したほうがいい。
言いそびれた。
*
三日目の朝、ベルタに伝言を頼んだ。
鍵の受け渡しに、当主の立会いをお願いします、と。
夫は本館ではなく、まず離れに来た。
上着には、昨夜の晩餐の匂いがまだ残っていた。
「種麦の件は聞いた」
「そうですか」
「ミアには荷が重い。お前はこの離れに残れ。表向きはあれが女主人だが、帳面はお前が見ろ」
ああ、やっぱり。
この男がほしいのは、妻でも女主人でもない。
文句を言わずに回る家だ。
私は笑った。
三日前と同じ、店の顔で。
「旦那様。そのお話は、本館でいたしましょう。ちょうど鍵をお渡しするところです」
本館の玄関ホールには、二十三人が並んでいた。
ベルタが約束どおり、朝の点呼をここに移していた。
列の端に、ミアもいる。
家計簿を抱えて。
夫が一瞬、足を止めた。
私はホールの真ん中に立った。
三日前と同じ場所だ。
腰の鍵束が、じゃらりと鳴った。
「三日前、旦那様はここでおっしゃいました。この家の女主人はミア様だと。皆が聞いています」
二十三人は、うなずきもせず、首も振らず、ただ立っている。
「旦那様はいま、私に離れに残って帳面を見ろとおっしゃいました。女主人が二人いる家だと、皆の前で言い直されますか」
夫の口が開いて、閉じた。
言い直せば、使用人たちは知る。
この家を三年回してきたのが誰か。
これからも回すのが誰か。
そして当主に、それを表に出す気がないことを。
噂は王都にも届くだろう。
種商人の耳にさえ、伯爵のツケの話は届いているのだから。
「言い直されないのでしたら、もう一つ、皆の前でお願いがございます」
私は息を吸った。
「私を、離縁してください」
ホールの空気が、ぴんと張った。
盆を持っていたメイドが、今日は盆を持っていなかった。
両手を胸の前で握っている。
夫は使用人たちを見た。
ミアを見た。
最後に私を見た。
女主人ではない妻を、この先ずっと離れに置いておく。
その理由を、二十三人の前で言える男ではなかった。
「……認める」
かすれた声だった。
「離縁を認める。好きにしろ」
ベルタが一歩前に出て、短く言った。
「確かに、伺いました」
私は鍵束を腰から外した。
ミアの前まで歩いて、その手に載せた。
重さで、ミアの手が少し沈んだ。
「持参金をお返しください」
振り返って言うと、夫は顎を上げた。
「当然だ。返す」
「金貨二百枚でした」
夫が黙った。
私は知っている。
家計簿をつけていたのは私だ。
三年のあいだ、王都から何度も「当座の入用」という手紙が来て、そのたびに箱は軽くなった。
「いま箱に残っているのは百枚です。それをいただきます」
「夏の給金はどうする」
初めて家のことを心配した、と思った。
自分の体面の心配だろうけれど。
「種麦が四十二枚で済みましたから、家計で足ります。家計簿の、夏の頁に書いてあります」
列の端で、ミアが小さくうなずいた。
昨日、あの子が値を戻したから、私の百枚は箱に残ったのだ。
「残りの百枚は、旦那様の王都のお手当から、いずれお返しください」
「……わかった」
返ってこないだろう。
これは私の負けだ。
売掛は、全部は回収できない。
母のノートにも書いてあった。
――取れないお金は、取れないと決めて、次へ。
その日の午後、ベルタと一緒に神殿へ行った。
年寄りの書記は、ベルタの証言を聞いて、帳簿に二行書いた。
三年と半年の結婚は、二行で終わった。
*
本館を出る前に、ミアに引き継ぎ帳を渡した。
三日前の夜に書いた、表紙に『ひきつぎ』とある一冊だ。
ミアはそれを開いて、一行目を指でなぞった。
「料理長、ハンス。しおを、たしたがる」
読めた。
「最後のページは、閉めてから読んでね」
「閉めてから?」
「お店でも、お屋敷でも。一日の終わりに」
最後のページには、母の一行を、この国の字で写しておいた。
ミアは引き継ぎ帳と家計簿を重ねて、両腕で抱えた。
「リーゼ様」
あの子が呼んだ。
廊下ではなく、私の目の前で。
「ありがとうございました」
私は店の顔を作ろうとして、うまく作れなかった。
*
街の東、染物屋の二軒隣に、小さな店を借りた。
金貨百枚は、家賃半年分と、足踏み式の縫い台と、糸と針と、看板用の板に化けた。
伯爵夫人の部屋の十分の一もない広さだ。
夜の井戸水は冷たい。
でも朝、自分で戸を開ける。
それが、思っていたよりずっと嬉しかった。
三年分の値打ちを認めさせてから出ていくつもりだった。
認めさせるとは、どういうことか。
夫に頭を下げさせることか。
金を積ませることか。
三年分の働きには、銀貨一枚も払われていない。
自分の持参金さえ、半分しか戻らなかった。
なのに、足りない気がしない。
あの廊下で、もう受け取っていたからだ。
店を開けて五日目に、最初の注文が来た。
持ってきたのはベルタだった。
メイドたちのお仕着せ十二着の、袖の直し。
注文書の末尾に署名があった。
インクが一度滲んで、書き直してある。
それでも、まっすぐな字だった。
『ミア』
前払いだった。
銀貨の袋が、注文書と一緒に台に置かれた。
「女主人様が、遅れてはいけないとおっしゃいまして」
ベルタはにこりともしないで言った。
「それから、水色のドレスの袖も直していただけますか。指一本ぶん長いそうで」
私は笑った。
今度は、店の顔ではない笑い方で。
ベルタが帰って一刻ほどして、戸の鈴が鳴った。
背の高い男だった。
旅の埃をはらった外套を着て、紐でくくった手紙の束を持っていた。
見覚えのある紙だった。
私が三年間、毎年春に買っていた便箋だ。
外套の裾が、左だけ少し下がっている。
ほつれた糸が一本、垂れていた。
まだ直していないらしい。
「引き継ぎ係の方」
彼はそう言って、少し笑った。
「お屋敷で、こちらだと伺いました。あの日、名乗っていただけなかったので、女主人様に教わるまで気づきませんでした」
ミアだ。
あの子はもう、自分で口を開く。
「ローデン商会のフェリクスと申します。三年分の手紙の、お礼を申し上げに来ました」
それだけ言って、彼は黙った。
それから、もう一言だけ足した。
「伯爵夫人に、商人は礼状しか書けません。燕の返事も書けなかった。でも、仕立て屋なら、訪ねて行けますから」
いらっしゃいませ、と言いかけて、やめた。
「どうぞ。お掛けください」
彼は店の中を見回した。
縫い台。糸の棚。
まだ何も書いていない看板の板が、壁に立てかけてある。
「こちらは、何というお店ですか」
私は少し考えた。
前世の店には、母の名前がついていた。
この店には、まだ何もない。
板の前に立って、私は答えた。
「リーゼ、です」
彼がその名を繰り返した。
三年分の手紙の署名には、一度もなかった名前を。
私は針箱を開けた。
まず、その裾から直しましょうか、と言うために。




