父殺しの冤罪で処刑された令嬢は、十歳の冬に死に戻る 〜雪の上の足跡は、ひとつだけだった〜
父殺しの冤罪で処刑された令嬢は、十歳の冬に死に戻る ~雪の上の足跡は、ひとつだけだった~
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鐘が鳴っていた。
冬至祭の朝を告げる鐘だ。子どものころは、この音が好きだった。屋台が並んで、焼き林檎の匂いがして、領都リンデルの一年でいちばん明るい日。
その鐘を、私は処刑台の上で聞いている。
――ノーウッド伯爵令嬢リディア。実父毒殺の罪により、斬首に処す。
読み上げる声は、広場の雪に吸い込まれて、ひどく遠い。
私は父を殺していない。
父は死ぬ前の数日、ひどく何かに怯えていた。その理由も知らないまま、私は父の葬儀の翌日に捕らえられた。
毒入りの茶を運んだのはお嬢様です、と侍女のエマが証言した。泣きながら、一度も私の目を見ずに。
誰も、私の言葉を聞かなかった。
ただ一人を除いて。
昨夜、牢に面会が来た。顔の半分を革の仮面で覆った、背の高い男だった。名乗りもせず、鉄格子の向こうでしばらく黙っていた。
それから、考え込むように、ぱちん、と指を鳴らした。
「雪の上の足跡は、ひとつだけだった」
それだけ言って、男は去った。
意味は、わからなかった。
わからないまま、私は今、膝をついている。首筋に、冷たい木の感触。
雪の上の足跡。ひとつだけ。
どこかで聞いた気がする。ずっと昔、雪の降った朝に――。
刃が落ちる音は、鐘の音に紛れて聞こえなかった。
◇
目を開けると、見覚えのある天蓋の刺繍があった。
子ども部屋だ。
跳ね起きて、鏡をのぞく。映っていたのは、頬の丸い、十歳の私だった。
窓の外は一面の雪。初雪だ、と思った瞬間、背中がひやりとした。
覚えている。この冬の、初雪の二日後。
下町の幼馴染、ノアが消えた。
「おや、リディア様。今朝はずいぶん早起きですね」
扉が開いて、穏やかな声がした。
セドリック・ハロウ先生。私の家庭教師で、元は宮廷の薬師見習いだったという人。痩せた体に、いつも少しだけ大きい外套を着ている。
「初雪のお祝いです。内緒ですよ」
差し出されたのは、蜂蜜の焼き菓子だった。油紙に包まれて、甘い匂いがする。
前の人生の私は、この先生が大好きだった。勉強を褒めてくれて、町の子どもたちにも同じように焼き菓子を配る、優しい人。
「……ありがとうございます、先生」
受け取った指が、少しだけ震えた。
理由はわからない。わからないけれど、十八歳の私が、胸の奥で何かを叫んでいた。
前の人生で、私はノアがいなくなったことに一週間気づかなかった。気づいたときには、町の誰も彼を探していなかった。孤児が一人消えただけだと、大人たちは言った。
そして私も、いつの間にか、彼を忘れた。
忘れていたことを思い出したのは、牢の中だった。
◇
その日の午後、私はエマの目を盗んで下町へ走った。
煙突掃除の少年は、屋根の上にいた。
「ノア!」
呼ぶと、煤だらけの顔がこちらを見下ろした。灰色の目が、驚いたように丸くなる。
「お嬢? なんで一人でこんなとこ来てんだよ。怒られるぞ」
ノアは私より一つ年上の十一歳。身寄りがなくて、パン屋の屋根裏を借りて暮らしている。伯爵家の娘と孤児が友達だなんて、本当はあってはいけないことだった。
屋根から下りてきたノアの後ろから、小さな女の子がひょこりと顔を出した。
「ノアにいちゃん、このお姉ちゃん、だれ?」
「パン屋のティナ。……お嬢、聞いてる?」
聞いていなかった。
話さなきゃいけないことが多すぎて、何から言えばいいのかわからない。
あなたは二日後に消える。私は八年後に処刑される。その前の夜、あなたらしき人が会いに来た――そんなことを言っても、信じてもらえるはずがない。
「……変な顔してんな」
ノアは首をかしげて、少し考え込んだ。
それから、ぱちん、と指を鳴らした。
息が止まった。
牢の暗がり。鉄格子の向こう。仮面の男が、まったく同じ間で、まったく同じ音を鳴らした。
ノアの癖だ。考えごとをするとき、ノアは必ず指を鳴らす。小さいころから、ずっと。
あの男は、ノアだった。
消えたはずのノアは、どこかで生きていて、顔を隠して、私に会いに来ていた。私が彼を忘れていた八年のあいだ、ずっと。
「おい、お嬢? 泣いてんのか?」
「泣いてない」
袖で目をこすって、私はノアの手をつかんだ。冷たくて、ひび割れた手だった。
「明後日、絶対に外に出ないで」
「は?」
「仕事も休んで。誰に呼ばれても、ついていかないで。お願い」
ノアはぽかんとして、それからティナと顔を見合わせて笑った。
「なんだよそれ。占いか?」
「約束して」
私があまりに真剣だったからだろう。ノアは笑うのをやめて、小さくうなずいた。
「……わかったよ。約束な」
◇
約束は、守られなかった。
二日後の朝、パン屋の屋根裏はからっぽだった。
「夜のうちに、いなくなっちゃったの」
ティナが泣きじゃくりながら、私の外套の裾をつかんだ。
「ノアにいちゃん、どこにも行かないって言ってたのに」
ノアは約束を破ったんじゃない。そう思った。破るつもりなら、ノアは最初から約束なんかしない。
屋根裏から外へ続く、裏口の階段。その下に、夜のあいだに降り積もった新しい雪があった。
足跡が、ひとつだけ残っていた。
大人の靴の跡だ。裏口から路地へ、まっすぐに続いている。子どもの足跡は、どこにもない。
――雪の上の足跡は、ひとつだけだった。
膝が震えた。
これだ。あの男が牢で伝えようとしたのは、これだったんだ。
私はしゃがんで、足跡をよく見た。
かかとが深く沈んでいる。路地へ向かうほど、深くなっていく。
重いものを抱えて、歩いた跡。
「ノアは、歩いてない」
声に出すと、喉が焼けるようだった。
「運ばれたんだ」
足跡は路地の角で、馬車の轍に消えていた。その手前の雪の上に、小さな紙切れが落ちていた。
拾い上げる。油紙だった。
鼻を近づけると、甘い匂いがした。
蜂蜜の匂い。
町で蜂蜜の焼き菓子を配っているのは、一人しかいない。
「……先生」
前の人生の私は、きっとこの紙切れに気づかなかった。気づいたとしても、「先生が落としたのね」と笑っただけだ。あの優しい人が、と疑うことさえしなかっただろう。
油紙を握りしめて、私は屋敷へ走った。
ハロウ先生は、屋敷の敷地の外れにある離れで暮らしている。
前の人生で、十二歳の誕生日に、先生は私をその離れに招いてくれたことがある。「特別ですよ」と笑って、薬草図鑑の裏に隠した鍵束を見せてくれた。大事な薬棚の鍵です、ここだけの秘密ですよ、と。
あれは、薬棚の鍵じゃなかったのかもしれない。
火曜の午後、先生は必ず町の薬師組合へ出かける。今日は、火曜日だった。
離れに忍び込み、本棚から薬草図鑑を引き抜く。鍵束は、記憶のとおりの場所にあった。
床の絨毯をめくると、鉄の取っ手がついた跳ね上げ戸が現れた。
鍵は、三本目で合った。
◇
地下は、寒くて、甘い匂いがした。
蜂蜜と、何か苦い薬草が混じった匂い。
ランプを掲げると、石の壁際に、鎖でつながれたノアがうずくまっていた。
「ノア!」
駆け寄ると、ノアはうっすらと目を開けた。唇が紫色で、額がひどく熱い。
「……お嬢?」
「しゃべらないで。今、外すから」
鎖の錠も、鍵束の一本で開いた。抱き起こしたノアの体は、驚くほど軽かった。
ふらつくノアを支えながら、私は地下を見回した。
棚に、薬瓶がずらりと並んでいた。その一段下に、木の札が置いてあった。
七枚。
どれも子どもの手のひらほどの大きさで、名前が刻まれていた。
ピム。ヨハン。小さいマルタ。エリク。ロッテ。フィン。名前のない最後の一枚には、ただ「赤毛の子」とだけ。
札の横には、帳簿が一冊。めくると、細かい数字が並んでいた。日付と、量と、「反応あり」「三日目に停止」という短い言葉。
薬の量の記録だ。
子どもに毒を飲ませて、どれだけ飲ませれば効くのか、確かめていたんだ。
「……八枚目、だったんだな。俺」
ノアが、かすれた声で笑った。
私は返事ができなかった。
ノアを連れ出したあと、鍵束は元の場所に戻した。鎖の留め金だけを外れたように細工して、ノアが自分で逃げたように見せかけた。前の人生で、ノアが本当にそうしたように。
それから私は、町の衛兵詰所へ行った。
「子どもが、消えているんです。何人も」
衛兵長のグレゴールは、私の話を最後まで聞かなかった。
「お嬢様。孤児の話でしょう」
それで終わりだった。孤児がいなくなるのは珍しいことじゃない、冬は特に、と。分厚い手が、机の上の革袋を、そっと引き出しにしまうのが見えた。
屋敷に戻って、父に聞いた。
「お父様。先生の離れの地下には、何があるのですか」
父の手から、ペンが落ちた。
インクが書類に広がっていくのを、父は拾おうともしなかった。
「……騒ぐな、リディア」
低い声だった。
「二度と、あの離れのことを口にするな」
そのとき、わかった。
父は知っていた。
知っていて、黙っていたのだ。
◇
それから、八年が経った。
ノアは屋敷の厩番になった。先生の離れのことは二度と聞かないから、代わりに一人雇ってほしい。そう頼んだら、父は何も言わずにうなずいた。取引だと、お互いにわかっていた。
ハロウ先生は、ノアの顔を見ても気づかなかった。
厩の前ですれ違っても、焼き菓子を差し出すときでさえ、先生の目はノアの上を素通りした。
自分が鎖につないだ子どもの顔を、あの人は覚えていなかった。
私は毎晩、厩の二階でノアに文字を教えた。ノアは一年で帳簿が読めるようになり、三年で書き写せるようになった。火曜の午後、ノアは離れに忍び込み、増えていく帳簿を少しずつ写した。
十七歳の冬の夜だった。
藁の匂いのする厩の二階で、ノアが写しの束をランプにかざした。
「お嬢。これ、見ろ」
ノアが指さしたのは、ずっと古いページだった。子どもの名前が並ぶ記録の合間に、一行だけ、毛色の違う書き込みがある。
――ノーウッド伯へ、一瓶。
日付は、十二年前の冬。
その冬、父と領地の境を争っていたブラント子爵が、急な病で亡くなった。屋敷じゅうが黒い布で覆われて、幼い私には何もわからなかった。
「伯爵様も、先生の客だったってことか」
ノアが、ぱちん、と指を鳴らした。
私は答えられなかった。頭の中で、ばらばらだったものが、音を立ててつながっていく。
前の人生。十八歳の秋に、王都の監察官がブラント子爵の死を調べ直しに来た。あの日から、父は怯えるようになった。夜中に書斎にこもり、何かを書いては燃やしていた。
監察官に、全部話すつもりだったのだ。
そうなれば、毒を売った者の名前も出る。
だから父は、毒で死んだ。痕跡の残らない毒で。そんなものを作れるのは、この町に一人しかいない。
そして、毒の茶を運んだのは私だと、エマが言った。
「お嬢? 顔、真っ白だぞ」
「……エマのところへ行く」
エマの部屋の暖炉では、手紙が燃えていた。
私が扉を開けると、エマは火かき棒を取り落とした。
「お、お嬢様……」
「先生からの手紙ね」
エマの顔から、血の気が引いた。
弟がいるのだと、エマは震える声で言った。先生の口利きで、王都の薬屋に奉公に出ている。月に一度届く手紙には、弟の近況と、「いつかお願いをするかもしれません」という一文だけが、毎回書いてあるのだと。
前の人生で、その「お願い」が何だったのか。私はもう知っていた。
「弟さんは、ノアが迎えに行く」
「え……」
「別の町に逃がす。だから、そのときが来たら、本当のことを言って」
エマは長いあいだ私を見つめて、それから、私の手を両手で握った。
「……はい。本当のことを、言います」
冬至祭の三日前、私は帳簿の写しを王都の監察官へ送った。町の衛兵に握りつぶされないように。
父の名前の一行だけは、写さなかった。
冬至祭の前の晩、ノアが地下から七枚の名札を持ち出した。
証拠はそろった。
あとは、あの日を越えるだけだった。
◇
冬至祭の夜。
領都の広場には篝火が焚かれ、町じゅうの人が集まっていた。
私は、祭りの舞台に上がった。
「ノーウッド伯爵家のリディアです。皆さんに、聞いてほしいことがあります」
ざわめきが、少しずつ静まる。
私は七枚の名札を、舞台の上に並べた。
「この町では、何年も前から子どもが消えていました。誰も探さなかった子どもたちです」
一枚ずつ、名前を読み上げる。
ピム。ヨハン。小さいマルタ。
三つ目の名前で、人だかりの中から女の人の声がした。
「マルタ……うちの裏で寝泊まりしてた子だ。急に見なくなって、それきり……」
ざわめきが、別の種類のものに変わっていく。
私は帳簿の写しを掲げた。そして、エマが舞台に上がった。
「毒の量を、子どもで試していたのは」
エマの声は震えていたけれど、まっすぐに前を向いていた。
「セドリック・ハロウ先生です」
人の波が割れた。
その先に、先生が立っていた。いつもの少し大きい外套を着て、困ったように笑っていた。
「リディア様。お祭りの余興にしては、ずいぶんひどいお話ですね」
「余興じゃありません」
「証拠は、その札と書き写しだけですか。誰が書いたものかもわからない紙切れでしょう」
「書き写しだけじゃありません」
私は、まっすぐ先生を見た。
「八年前、地下から逃げた子が、先生の帳簿を一枚、破って持ち出しています。先生の字で、子どもの名前と毒の量が書かれた一枚を」
嘘だった。
そんな一枚は、どこにもない。
先生は、小さく笑った。
「ありえませんね。あの帳簿は、一枚も欠けていない」
広場が、しんとなった。
先生の笑みが、ほんのわずかに固まる。
「先生」
私は、ゆっくりと言った。
「見たこともない帳簿なのに、どうして一枚も欠けていないと言い切れるんですか」
誰かが息をのむ音がした。
先生はしばらく黙っていた。それから、ふっと肩の力を抜いた。困ったような笑みが消えて、見たことのない顔が現れた。
「孤児が一人二人いなくなったところで、誰が困るんです?」
天気の話でもするような声だった。
そのとき、私の隣でノアがフードを外した。
「俺を、覚えてないか。先生」
先生の目が、ノアの上で止まった。
「八年前の初雪のあと。あんたの地下で、鎖につながれてた。八枚目の名札になるはずだった孤児だよ。この八年、毎日あんたの前で馬の世話をしてた」
「……皆さん」
私は広場に向かって言った。
「この人は八年間、自分が鎖につないだ子の顔を、毎日見ていて気づかなかった。最初から、一人の人間として見ていなかったからです」
先生の目が、初めてノアの顔を見ていた。
そして、思い出したのだ。
次の瞬間、先生の手に、薬草を刻む小刀が光った。
まっすぐに、ノアへ。
考えるより先に、体が動いていた。
熱い、と思った。
それから、寒い、と思った。
衛兵ではなく、町の男たちが先生を雪の上に押さえつける。誰かが叫んでいる。ノアが、私の名前を呼んでいる。
雪の上に倒れた私を、ノアが抱き起こした。
「お嬢。お嬢、しっかりしろ。医者が来る。すぐ来るから」
ノアの手が、私の脇腹を押さえている。指の間から、温かいものがあふれていく。
時計塔の鐘が、零時を打った。
日付が変わる。冬至祭の朝が来る。
――ああ、今日だ。
前の人生で、私が死んだ日。
どうやっても、この日からは逃げられないらしい。
でも、と思った。
前とは違う。私を抱いている腕がある。私の名前を呼ぶ声がある。
「ノア」
「しゃべるな」
「ティナのこと、お願いね」
「だから、しゃべるなって……!」
ノアの顔が、雪明かりの中でにじんでいく。
夜明けまで、ノアは私を離さなかった。
やがて、鐘が鳴った。
前の人生で、処刑の合図に鳴ったのと同じ鐘。
その音を聞きながら、私は目を閉じた。
◇
ハロウは、王都から来た監察官に引き渡された。
お嬢が送っていた帳簿の写しと、離れの地下から見つかった本物の帳簿が、一字一句同じだったからだ。グレゴール衛兵長は、その場で罷免された。
伯爵は、何も知らなかったと言い通した。
写しには、伯爵の名前が一行もなかった。お嬢が抜いたのだと、俺だけが知っている。
娘の葬儀で、伯爵は一度も泣かなかった。誰も、あの男を裁かなかった。
お嬢が救った命の中には、あの男の命も入っていたのに。
七枚の名札の子どもたちは、誰ひとり戻ってこなかった。
救えたのは、俺と、ティナと、伯爵だけだった。
葬儀のあと、エマが小さな包みを持ってきた。
「お嬢様が、最後まで握っていらしたものです」
古い油紙だった。
八年前の初雪のあと、パン屋の裏の雪の上で、お嬢が拾ったもの。ずっと持っていたのか。端は擦り切れて、蜂蜜の匂いはもう少しもしない。
裏返すと、細い字が並んでいた。
俺に文字を教えてくれた、あの字だった。
前の人生で、あなたは私を探しに来てくれた。
仮面の下で、たった一人で、八年も。
だから今度は、私の番だっただけ。
もう焼き菓子は食べなくていいよ。
冬が終わったら、ティナのパンを食べてね。
前の人生。
意味はわからなかった。わからないのに、胸の奥のどこかが、知っている気がした。
鉄格子。仮面。間に合わなかった夜。
俺は、考えようとした。
いつものように、指を鳴らそうとした。
鳴らなかった。
指が震えて、何度こすり合わせても、かすれた音しか出なかった。
窓の外では、雪が降っていた。
足跡は、ひとつもなかった。
本日より連載開始いたします。
是非、お立ちよりお願いします。




