台所で料理する 3(もう一つのラスト)午後の光のアンジェラとポンポネッラ
台所シリーズ 第2部
『台所はせかいをかえる』長旅編
最終話案2(整稿)
午後の光のアンジェラとポンポネッラ
三年後
テレビのついたリビングで、哲郎はコーヒーをいれながら、響香につぶやいた。
「これが、有名なトレーナー。君の言う“トレーナー”なのかい?」
「知らないわ。伸子さんに聞いただけだもの。」
「まあ――彼、いつもトムとジェリーのトレーナーばかり着てるよね。」
「公のところに出るときはね。まるで、“グッドジョブ”って、誰かに言ってもらいたいみたいに。
彼のマイクラ水道バージョン、またアップデートしたみたいよ。」
「ゲームとしては、法外な金額だろ。まさに、アメリカらしいね。」
「アメリカ人かどうかは、わからないわ。でも伸子さんは言ってた。
ゲームで水道管の設計図をつくるシステム、虹の輪でつくったって。
きっと、高くないのよ。コピペ自由なんだから。」
「それで?」
「それで、自国の子どもたちが、自国の問題点に気づくようになるって。
事情があって、伸子さんが“一太郎”の使い方をトレーナーに教えたって言ってたわ。」
「一太郎か。なつかしいな。」
哲郎は、コーヒーを片手にぽつりと言った。
「ずいぶん、一太郎で論文を書いたよ。」
響香は聞き返す。
「いちたろう……って、そういえば、誰だっけ?」
一太郎くらい、なんとなく覚えている。
でも、あえてぼけたふりをして、聞いてみた。
「一太郎を使って、じゃないか。研究室の共同パソコンで。
みんなであの古いデスクトップを囲んでただろう。
まだWindowsが出るか出ないかって頃から、日本で使われてた文章ソフトだ。
ワープロソフトってやつだよ。Wordの前に、みんなが使ってた。」
案の定、的確な記憶の補填。
「じゃあ、“次郎”っていたりして。」
「そんなの、知らないよ。」
哲郎は少し笑って、続けた。
「日本語を書くには、一太郎のほうがずっと都合がよかった。
縦書きもできたし、句読点の位置まで気にしてくれてな。
何より、“ことば”に対して丁寧だったんだ。
画面の右下に、小さく“ATOK”って文字が浮かんでただろ。」
響香は、その文字そのものは思い出せなかったけれど、
パジャマ姿の弟や、研究室の仲間たちの顔が浮かんだ。
――そう。お世話になった、パソコンオタクたち。
「また、フリーズしちゃった。」
「慎吾ちゃんに言えば、大丈夫よ。」
そんな声。
彼らに、今さらだけれど、心の中で言う。
――ありがとう。
記憶の画面は、再び、伸子さんの笑顔へと戻る。
つわものたちや、子どもたちにならって学び、
お互いにフィードバックしていたのかもしれない。
あの、札幌の喫茶店で。
「弟に、教えてもらったんだけどね……」
「凛のほうが、Amazonの注文は詳しいのよ。」
互いのiPadを出して、夢中で話したテーブル。
気づけば、パフェは溶けていた。
リビングのテレビ画面は、
ちょうど、上野動物園の新しい仲間の話題に変わっていた。
「かわいい。アンジェラって名前、いいね。
今度、上野動物園に行かない?」
のどかな、昼下がりだった。
長旅から帰った伸子さんが、
孫の凛の誕生会をした翌週。
動物園に行ったと、LINEで送ってくれた写真を、響香はひらく。
庭では、ポンポネッラの花が、風に揺れている。
コーヒー片手に窓を開けると、
画面の向こうの午後の光が、
アンジェラという名を、やさしく包んでいた。
おしまい
台所シリーズ 第2部
『台所はせかいをかえる』長旅編 完




