六頁目 赤と灰の死闘
◇ ◇
ロゼの疾走が始まった。
四足獣を思わせる低い姿勢。華奢な脚が地面を蹴りつけるとわずかに地面が抉れた。
二秒と経たないうちに、スアルグの眼前にナイフを構えたロゼが迫る。
「──!」
風を切る音。
スアルグはのけぞって後退しつつ左手に持ち替えた銃を撃った。
彼の喉元に朱線が走る。同時に、射出された弾がロゼの頬を掠め、一筋の血が細く流れ落ちる。
ロゼは瞬きひとつしなかった。表情を変えず空中で体を捻り、手から着地。鞭のように脚をしならせてスアルグの脇腹を蹴りつける。
「ぐっ……!」
小さな体躯からは想像できない威力の蹴りに、スアルグは思わず苦悶の声を漏らした。まるで大男からバットで殴りつけられたような威力。体の内側で骨が軋む音がした。
スアルグは忌々しげにロゼを睨んだ。
伝説の暗殺者"赤ずきん"──彼女たちが伝説とされる所以、それこそは他の追随を許さない最強の近接戦闘術であった。
代々継承され、そして洗練されていくその獣じみた近接戦闘術を土台に、"赤ずきん"はあらゆる戦況に適応する。
「遅い」
足を地面につけたロゼはそのまま流れるような動作でウルが落とした銃を拾い上げ、白く細い指をトリガーにかけた。
銃声三発。鋭い破裂音が冷え切った森の空気を震わせた。
弾丸は二発は肌を掠り、一発はスアルグの右脇腹を貫いた。
「舐めるな、クソガキ!!」
痛みに顔を歪ませながらもスアルグも動きは止めない。瞬時に放たれた銃弾がロゼの左肩を貫通し、鮮血が飛び散った。傷口はじくじくと熱を持つ。
「何をぼさっとしてる! お前ら、全員皆殺しにしろ!! 誰が首を獲ろうが構わん!! 殺せぇ!!」
スアルグの叫びに、息もつかぬ空気に気圧されていた黒服たちがハッとする。
しかし直後、黒服の一人の喉から鮮血が噴き上がった。背後から、銀のナイフが正確に喉を刺し貫いている。
「せっかくの孫の晴れ舞台なんだ、邪魔すんじゃないよ」
ナイフを引き抜きながら、アルドレットがニタリと犬歯を見せて笑った。撃たれた右足からは依然として血が流れているが、傷を感じさせない圧倒的な迫力をまとっていた。
そんな彼女へそばの黒服が銃口を向ける。
しかし、それは彼女の背後から伸びてきた黒い手によってあっけなく捻じ曲げられてしまった。
「アルドレットの言う通りだ。手出しするヤツぁ、地獄からお迎えが来るぜ?」
大木のような低い声が空気を揺らす。
アルドレットの背後に現れたヴァルツは、牙を剥き出しにして獰猛な笑みを浮かべた。その背中の傷は癒えていないが、彼の表情は依然として強者のそれだ。
振り返らずにアルドレットの唇が薄く微笑む。その声音はわずかに柔らかかった。
「アンタもしぶといね」
「"不死身の黒狼"は伊達じゃねえさ」
背後でヴァルツが目を細めるのを感じながらアルドレットは声を上げた。芯のあるよく通る声が静かな森に響き渡る。
「雑魚はアタシらに任せな! だからロゼ、アンタはそいつを完璧に狩ってみせるんだ──これが最終試験だよ!」
ロゼは空になった銃を手放してナイフを持ち直した。
鉄が地面を叩く乾いた音が鳴り、姿勢を低く構えたロゼの足が砂利を踏む。
風はない。
その瞬間、そこは赤を背負う少女と灰色の亡霊だけの世界だった。
「そういうことだから──獲物はあなたよ、狩人さん」
その言葉で、二人だけの世界の時間は動き出した。
◇ ◇
ロゼが踏み込むのと、スアルグがトリガーを引くのは同時だった。
響いた銃声に一切の怯みを見せずロゼは突撃する。飢えた獣のような勢いで一息に距離を詰める彼女は、その一瞬の中でかすかに体を右にずらした。顔の真横を通り抜けた銃弾が栗色の髪を数本散らす。
スアルグはもはやロゼの間合いの中だった。振り抜かれるナイフは必中の距離。
そのとき、背後で固いものが跳ねる音をロゼの聴覚が捉えた。
「っ!」
その音でロゼは瞬時に理解した──通常よりも跳弾性を高めている銃弾。
一秒前に顔の真横を通り抜けたそれはロゼの背後の木へぶつかり、すぐさま彼女めがけて跳ね返っていた。
弾道の先は寸分の狂いもなくロゼの後頭部。スアルグは最初から、彼女が避ける位置を完璧に計算していた。
さらに彼はただちに二発目を撃つ。狙いは当然、ロゼの眉間。非常に練度の高い早撃ちだった。
ロゼの頭部に前後から音速の銃弾が迫る。今の彼女の速度では回避は不可能──ゆえに、ロゼは加速した。
全身の血液を、筋肉を燃やす。沸騰するような体と対称的に頭の中は冷たく澄んでいた。
煮えたぎる血と筋肉によって生み出される爆発的なエネルギーは彼女の身体能力をもう一段階上へと昇華させる。
その瞬間のロゼの素早さはただの獣にあらず。それは神獣が如き、人の限界へと迫る速度。
不可避の弾丸もその速度の前には無力であった。
瞬間、スアルグの視界からロゼの姿が消えた。
「なっ──」
正確には、目にも止まらぬ速さでロゼは地面に伏すほどに身を屈めた。
頭上で銃弾がぶつかり合い、甲高い金属音が鳴る。火花が散る。
ロゼはそのまま素早く足払いを繰り出し、スアルグはなす術もなくバランスを崩した。
その隙を彼女が逃すはずもなく。
ロゼのナイフは、スアルグのガラ空きの上半身を袈裟に切り裂いた。深く肉が裂け、体に刻まれた直線から鮮血が噴き出す。
「ぐうっ……!」
その出血量が、致命傷に等しい一撃であることを語っていた。スアルグの顔が苦悶に歪む。
血飛沫はロゼの顔に降りかかりその血色の良い肌に赤い斑点をつくる。それより真っ赤な彼女の瞳はただ一点、スアルグの命だけを見つめていた。
「そこ……!」
奥歯を噛み締めて仰向けに倒れるスアルグにロゼは間髪入れずに追撃する。ナイフを逆手に持ち直し、彼の喉めがけて垂直に振り下ろした。
銀の一閃が直線の軌跡を描き、スアルグの喉を貫く。
その寸前で、ナイフは止まった。
刃先は喉の表皮へ数ミリ沈むのみで、わずかに血が垂れる。
ナイフは喉の前に出されたスアルグの大きな右手を貫くにとどまっていた。
ナイフを沈めようとするロゼの力と、それを押し返そうとするスアルグの力が拮抗してナイフが震える。
鮮血を超える赤い目と血走った灰色の目が交差した。
次の瞬間、スアルグの左手がロゼの頭に素早く銃口を向ける。ロゼは咄嗟にナイフを引き抜こうとしたが、右手の筋肉に全身の力を込めたスアルグがそれを許さない。
その一秒にも満たない判断の過ちは、戦場において死を運ぶには充分すぎるものだった。
「死ね!!」
銃声と、彼の口から血液が溢れるゴフ、という音は同時だった。
不可避の弾丸。それはロゼの頭を見事に貫く。
はずだった。
「……クソが」
不可避の弾丸──それは、常人であればの話。
彼が対峙しているのは常人にあらず。
産声をあげたばかり、しかし目の前の彼女は紛うことなき"赤ずきん"であった。
ロゼはスアルグから数歩離れた場所に姿勢を低くして立っていた。手には何もない。その右耳の付け根は抉られたような傷ができており、表出した肉の断面からは新鮮な血液がダラダラと流れ落ちる。
しかし、赤い捕食者の瞳は一切揺らぐことなく目の前の獲物を見据えていた。
あの瞬間ロゼは本能的な速度で頭をわずかに逸らし、弾丸が頭に直撃することを間一髪避けたのだ。そしてナイフには目もくれずすぐさま飛び退き距離を取った。
「これが、"赤ずきん"か……」
スアルグは不恰好に片方の口角を上げた。
「化け物め……」
もはや笑うしかない者の笑みだった。銃は、あれが最後の一発だった。
スアルグがよろよろと立ち上がるのと同時に、ロゼが右太もものホルダーから最後のナイフを引き抜く。
ふわりとカーマインのスカートが翻る。スアルグの体から、そして口から溢れ出る血液が地面に落ちてびしゃりと湿った音を立てる。
ナイフを構えたロゼが全神経を足に集中させた。
「狩りは、これで終わり」
ドン、と地面を揺らすほどの万力でロゼは踏み込んだ。
稲光のような勢いでロゼの刃が迫る──しかし、スアルグは引き攣った笑みを浮かべた。




