五頁目 飼い犬と銃声
ふるりと長い睫毛が震えて、澄んだ真紅の瞳が開かれた。
ロゼはぼんやりとしたまま周りを見回す。目の前に立つアルドレットを見て、それから横で俯いているウルを見た。
彼は振り向かなかった。じっと俯いて、ぎりと音がするほど左腕を握り締めるその姿は、見ないでくれと叫んでいるようだった。
まだ霞む意識の中、二人をぼんやり見比べるロゼのこめかみに冷たい金属が突きつけられた。
「動くなよ。動けば殺す」
低い声が降ってきて、ロゼは無表情でちらりとスアルグを見上げた。彼は下卑た笑みを浮かべた。
「まあ、動かなくても殺すがな」
「……あなた誰?」
「スアルグ・グラウ。かつてお前の祖母に全てを奪われた男だよ。ぜひ覚えて死んでくれ」
冷え切った赤い目をしたロゼの形のいい唇が動いた。
「そう。明日には忘れそうな名前ね」
がん、と鈍い殴打の音がした。
銃を持ったスアルグの手が、ロゼの頭に一切の躊躇なしに振り下ろされた音だった。歯を食い縛りながらも荒い呼吸を隠せない彼は、血走った目でもう一度拳を振り下ろした。
「黙れ……黙れ、黙れ黙れ黙れ!!」
がん、がつん、がんがん。
彼がようやく手を止める頃には、ロゼの頭からはだらだらと血が流れ出ていた。顔にかかった前髪の下で、彼女の額から頬へと真っ赤な血が滑り落ちる。
しかしロゼは表情を変えなかった。
ウルは一度目の殴打の時点で目をつぶって顔を逸らしていた。
アルドレットは反射的に動きそうになった体を何人もの黒服によって御された。
はあ、はあと息を切らしながらも少し落ち着きを取り戻したスアルグはロゼを見下ろして嘲った。
「……赤ずきんの孫だっていうのに、お前も大したことないな。こんな犬を拾ってまんまと騙されるなんて」
「……ウルは、あなたたちの仲間なの?」
「ああ、そうだとも。ウルの居場所は筒抜けだったんだよ。なにせ、心臓に首輪をつけているからな」
「心臓に、首輪?」
その言葉にウルの肩がびくりと揺れた。ロゼが血を流しているのを見て気を良くしたのか、怪訝そうな顔をする彼女にスアルグは上機嫌に言った。
「ウルの心臓付近に発信機を埋め込んであるのさ。その信号を辿って俺たちはここまでやってきた。ようするに、ウルは"赤ずきん"の住処を特定するための餌だったんだよ」
左目に血が流れ込んできて半分が赤色に染まる視界の中、ロゼはウルを見た。彼は俯いたまま沈黙している。その握りしめた左腕には爪が食い込んで血が滲んでいた。
「傷だらけで倒れていたところで、あの血も涙もない"赤ずきん"の家に転がり込める確率は低いと思っていたが……まさかこうもうまくいくとは。ずいぶん丸くなったものだな、赤ずきん?」
「……たしかに、あたしも焼きが回ったらしいね」
「ははは!これはこれは素直じゃないか!」
スアルグの高笑いを遠く聞きながらロゼは理解した。
ウルの心臓付近に埋め込まれた発信機がある限り、彼は"灰の狩人"に逆らえないのだ、と。
そして、スアルグの笑い声が止んだ。森は再び静寂を取り戻し、
「さて、そろそろメインイベントといこうか」
スアルグの弾んだ声が空気を揺らした。直後、黒服たちが隙のない動きでロゼを羽交締めにする。スアルグは一歩下がるとロゼの眉間へ正確無比に銃口を突きつけた。
「さあ赤ずきん、お前にも家族を奪われる絶望を味わわせてやる」
灰色の濁りきった目を輝かせたスアルグの指が、引き金にかかり──
「やめろ!!」
スアルグは声をした方を鬱陶しそうに見る。視線の先ではウルが驚いた顔で自分の口を押さえていた。
「……お前、今なんて?」
「あ……お、おれ、は……」
狼狽するウルを見ていたスアルグだが、ふと何かを閃くと「ああ、そうか」と唇の端をいやらしく釣り上げた。
「仕方のないやつだな。だが仕事をした飼い犬には褒美をやらないと」
彼はニコニコとウルの肩を抱いてロゼの前まで連れてきた。そして、その白い毛並みの手に銃を握らせる。
「いいだろう!こいつはお前が殺すといい!」
満面の笑みで、まるで目玉のマジックを披露するマジシャンのように大袈裟な手振りでスアルグは言った。
「ち、ちが……」
「ん??」
黒い笑みが深くなる。ウルの微かな抵抗は、圧倒的な圧に一瞬にして消された。
ウルは震える手で銃口をロゼに向けた。
「ウル!待ってよ、私の相棒になるって約束したじゃない!」
「……キミが、勝手に言っただけだろ」
「そ、それはそうだけど……!でも……!」
絶え間なく震える手のせいで銃がカタカタと音を立てる。白い尻尾はすっかり股の間に隠れている。
スアルグはアルドレットの元まで悠然と歩くと、ジャケットの中から取り出した銃で彼女の右足を撃ち抜いた。そして彼女の髪を乱雑に掴んで顔をロゼたちの方向へ固定した。
勝ち誇った笑みが青白い顔に浮かぶ。
「さあ、指を咥えて見ていろ赤ずきん。お前のかわいい孫娘が殺される、その瞬間を──」
「まだだよ。まだ……あたしの賭けは終わっちゃいない」
アルドレットの目は静かにロゼとウルを見つめていた。視線の先で、ロゼの赤い瞳が純粋な光を宿して輝いている。
「でも……ウルは本当にそれで、こんな奴らの言いなりでいいの!?自由になりたくないの!?もっと広い世界を見たくないの!?」
はあ、はあとウル呼吸が荒くなる。どれだけ息を吸っても胸が苦しくてたまらない。
手が震える。視界が震える。耳鳴りが止まない。
「──私と一緒に来て!ウル!」
赤い瞳が、痛いほど真っ直ぐにウルを射抜く。世界中の誰よりも、今この瞬間自分を信じてくれる目の前の少女があまりに眩しくて。
目が眩む。そうだ、自分がしたいのは、こんなことじゃ──
「ウル」
冷え切った声がした。
反射で、声のした方をちらりと見る。
「殺せ」
瞬間、そこにないはずの無数の鎖が重く冷たい音を立てた。彼の首に、腕に、足に、心臓に絡みついた鎖は息もできないほど容赦なく彼を締め上げる。
痛い。
かつて鞭を打たれた頬が。
斬りつけられた腕が。
焼かれた背中が。
貫かれた足が。
傷は塞がっているはずなのに、痛い──怖い。
息がうまくできない。ぐちゃぐちゃの脳内はただひとつ、目の前の少女を殺せ、命令を遂行しろと叫んでいた。
ウルの指が引き金にかかる。
「ウル!!」
ロゼの全身全霊の叫びがウルの鼓膜を揺らす。
そして、一発の銃声が鳴り響いた。
「……ごめん、ロゼ」
ウルが射出した弾丸は──正確に彼の胸を貫いていた。
ほぼ中央からやや左、今も鼓動を続ける心臓のその位置に穴が空いている。
そこから鮮やかな赤色がみるみるうちに白いシャツへ広がって。
ウルの体は力無く地面に倒れる。
その金の瞳は水面のように揺れ。
閉じられた瞳から涙が一筋流れていったのを、ロゼは見逃さなかった。
──どくん、と。
彼女の心臓がひときわ強く鼓動する。
「は……」
ぽかん、と口を開けたスアルグはゆっくりとした足取りでウルのそばまで歩いた。
その足音が鼓膜を揺らすたびロゼの鼓動は加速して、心臓はより多く、より熱い血液を全身へ巡らせる。
「なんだ、期待外れだったな」
淡々とした口調。スアルグの足がウルの腹を蹴った。
ロゼの血液は灼熱へと達する。
スアルグはウルを片足で押さえつけると、慣れた手つきで銃を構えた。カチャリと撃鉄の起こる音が冷たく響く。
「──駄犬は殺処分しなくちゃな」
赤が、弾けた。
出所はスアルグの右腕。咄嗟に体を逸らさなければ腕は切断されていたであろうことを、ざっくりと刻まれた傷口が語っている。
「……!」
痛みに顔を歪めたスアルグは足元を見た。
ウルがいない。視界の端で動いた影を追えば──数歩先に立つロゼの腕の中に、ウルはいた。
俯くロゼの顔は前髪に隠れている。スアルグはちらりと彼女が先ほどまでいたはずの場所を見た。ロゼを捕らえていた黒服たちは首から血を流しながら苦しそうに呻いている。
あの一瞬、思わず全員の注意がウルに向いた刹那の中で、拘束を解き、腕を切りつけ、ウルを救出したというのか──スアルグは傷口を押さえながらロゼを見た。
「ごめんね、ウル。痛いよね」
「ロゼ……オレ……」
「うん。もう大丈夫だから、少しだけ待ってて」
聖母のような声でロゼは言った。その表情は相変わらず前髪の下で、ウルにしか見えない。
ロゼはウルの体をそっと木に預けた。そして彼を背にするように立ち上がる。正面にはスアルグ。
それらを見ていたアルドレットはにやりと口角を上げた。
「ウルはロゼを殺さなかった……賭けは、あたしの勝ちだ」
ロゼは顔をあげた。
爛とした瞳は、かつてないほど深い赤。
右手のナイフから滴る血よりも鮮やかな色をした眼差しが、ぴたりとスアルグを見据えていた。
「──みんな、私が守るから」
それは、新たな赤ずきんの産声だった。




