2:結と桜 前編
※中学2年生時の結の一人称視点です。
「また結は居残り? 頑張るねえ。じゃあ先に帰るからねー。ばいばーい。」
吹奏楽部の友達や先輩後輩を見送って、私は音楽室に残る。
居残りしてフルートの練習をするためだ。
もっと上手になるため……という真面目な動機……じゃない。
私の英語の先生にして吹奏楽部の副顧問、斎宮原桜先生。
年齢は教えてもらえないけれど、私達の間では26歳だとか28歳だとか言われている。
桜先生は可愛くて、きれいで、桜先生の授業があるだけで私は幸せだ。
桜先生もフルートを吹けて、桜先生のフルートを聴いたときはうっとりしてしまった。
もうバレバレだろう。
桜先生と二人だけでフルートを教えてもらう、のが、私がわざわざ居残りする動機だ。
もう部活の時間は終わってるし、宿題しててもいいよね。
他の部員が全員帰るまで、私は練習に加え宿題もやりながら待つ。
「桜先生! フルート教えてください!」
「はーい。時任さんは本当に熱心ね。」
部員がみんな帰ったようなので、私は桜先生のもとへ行く。
「宿題もある程度できちゃいました。」
「まあ。」
こうして桜先生を独り占めできるだけで私は舞い上がってしまいそう。
今日もいっぱい、練習するんだ。
こうして桜先生と練習をしていた、ある日のことだった。
「ねえ時任さん。」
「なんでしょう。」
「せっかくだし、二重奏してみない?」
「え。」
桜先生からの唐突なお誘い。
今、二重奏って言ったよね。
……え。
急に頭が理解しだすけれどこれってつまりえええ。
「桜先生と二人、ですか?」
私のマヌケな返答に桜先生は苦笑いしながら穏やかに話してくれる。
「他に誰がいるっていうのかしら。時任さんと私で、よ。」
「桜先生と、ですか。」
うれしい。とてつもなくうれしい。
うれしすぎて、言葉が上手く出てこない。
「時任さん。」
「はいぃぃぃ!!!! うれしいです!!! やりたいです!!!!」
声が出てしまってから、私は私から発された声に自分で引いていた。
いくらなんでも上ずりすぎだ。声が大きすぎだ。
そんな私に、桜先生は優しく笑いかけてくれる。
「うふふふ。じゃあ決まりね。あ、もう曲は決めてあるの。私の大好きな曲。ちょっと難しいかもしれないけれど……難しいほうのパートは私がやるわ。だから時任さんも頑張って。誰かに披露することは無い、二人だけの秘密ね。」
桜先生と二人だけの秘密。
大好きな桜先生と二重奏。
幸せが怒涛のように押し寄せてくる。
幸せに吞まれぬよう私は必死で私にしがみつく。
桜先生は手元にあった鞄からクリアファイルを取り出す。
そのクリアファイルからは、印刷機でコピーしたような楽譜が出てきた。
タイトルは……え、何語?
アルファベットだけど全然意味も読み方もわからない。
【Corridoio del Vento】
作曲者と思われる位置には「Livia Cassani」
「これはイタリアの楽譜なの。日本では販売されてないから珍しいかもね。このタイトルは、『コッリドイオ・デル・ヴェント』と読むの。意味は……風の回廊。イタリアの古い館の回廊に風が吹き抜ける風景を描いているんですって。」
と桜先生が教えてくれる。
二人で楽譜を眺める。
桜先生の言うとおり、難しそう。
「1stと2nd、どっちをやりたい?」
桜先生が聞いてくれる。
でも。
正直、どっちがやりたいとかぜんぜんわかんない。
「桜先生。私、二重奏の楽譜って、見るのも初めてなんです。だから、1stと2nd、どっちって聞かれても、わかんないです。」
「ああ、そうだったのね。ふふふ。……そうね。じゃあ、時任さんに2ndを吹いてもらおうかな。ここで、1stと2ndの役割について教えるわね。1stは主旋律……メロディーね、を担当することが多いわ。高音域を使う場面が多く、音のコントロールや息の支えが必要よ。
技術的に目立つパッセージやソロ的な部分も多くて、華やかね。」
ここで桜先生がふう、と一呼吸置く。
「それに対して2ndは、ハーモニーやリズムのサポートが中心ね。音域は少し低め、旋律よりも内声的な動きが多いわ。楽譜はそこまで難しくないけれど、アンサンブル力……1stに合わせてタイミングやバランスを取る能力が求められるわ。」
桜先生のひと呼吸。
息継ぎは、大事だよね。
「よく1stより2ndのほうが音低くて簡単、とか言われがちだけど。2ndが上手だと1stも上手に聞こえるし、何より吹きやすいの! 初心者のうちにむやみに高い音ばかり練習するよりは、一緒に吹く人を良く聞いてアンサンブルする練習をするほうが、役に立つはず!」
桜先生が私を見つめてくる。
はうっ。
照れちゃう!
「時任さん。私をしっかり、支えてね。」
「はい!」
こうして、桜先生と私の、秘密の二重奏の練習が始まった。
Corridoio del Ventoの1stを吹く桜先生はいつも以上にきれいで、2ndを吹く私は見とれすぎないよう必死だった。
桜先生のフルートの音色は風みたいに澄んでいて、高い音でもまるで歌っているかのように軽やかだった。
最初のうちは楽譜を見て吹くだけで精いっぱいだった。
しかし、半年も同じ曲を、大好きな桜先生と一緒に練習するうちに、楽譜や自分の指だけに囚われず、桜先生の音を聞いて顔を見て吹けるようになってきた。
桜先生の息と指は難しいメロディーをまるで踊るように軽やかに奏でていく。
その姿に、私は一層桜先生を好きになってしまう。
今日も桜先生は、きれいだ。
ある日、そう思いながら吹いていると、桜先生の音色がなんだか物寂しく聞こえる日があることに気づいた。
楽譜でもなく私でもなく、どこか遠くを見つめるような目。
私ではなく、どこか遠くへ向けて吹いているような音色。
そんな桜先生と彼女の音色は物憂げで、私をさらに夢中にさせた。