8. 東大の物理 27ヵ年
三人の目の前、机の上には年季の入った赤い本が置かれている。
その表紙にはこう書かれていた。
『東大の物理 27ヵ年』
まさかの赤本だった。
「読めるのか!?」
俺は無言で頷いた。
「なんと……」
老人は俺の顔と赤本の間で視線を行ったり来たりさせた。どうやらこの時代では現代日本語は失われた言語らしい。いよいよ古代人としての自覚が芽生えてきそうだ。
「ならば、これらの文献も解読できるのか」
そう言って老人は奥の書架から大量の本を持ってきた。いずれも日本語で書かれた本だが、中には古典も含まれている。達筆すぎてタイトルすら判読できない。また日本語に似ているが見たことのない文字もある。カタカナを崩したような直線的な文字だ。未来の文字だろうか。
「これとこれ、あとはこれも読めます」
「おおおおおお!」
「へぇ~、シンジさんってすごいんですね!」
スズリは隣で笑った。何も特別なことはしていないが、悪い気はしなかった。
「で、これはどのような文献なのじゃ?」
「これは参考書です」
「参考書とは何じゃ」
「教科書と問題集のミックスみたいなものです」
「教科書じゃと!?」
老人の鼻息がますます荒くなる。毎回このやりとりをやるのか。
スズリもそわそわした様子でこちらを見ている。
「それでは、この赤い文献には何らかの研究成果がまとめられているということか!」
素晴らしい! と老人は絶叫した。鼻息の粗さは蒸気機関もかくやというほどになっていた。
「中にはどんなことが書いてあるんですか? 読めるんですよね?」
「読めはするけど……」
「読んでください!」「読んでくれ!」
二人の圧の強い要望に押されて、俺は渋々赤本を開いた。
学生時代、物理は苦手ではなかったが、それは相対的な話でしかない。数学はあまり得意ではないし、仕事で必要だからどうにかできているだけだ。
頁をめくると、あの人を舐めたような簡略化された図が現れた。どうして坂道で台車を転がす必要があるのだろうか。
「何て書いてあるんですか?」
「これは物体の運動についての話」
「え、そんなこと?」
「そんなことが案外難しいんだ」
「こっちは?」
スズリが頁をめくると、次は電磁気の問題だった。
「何かまた違う図が書かれてますね」
「回路図だな」
「わかるんですか!?」
「俺の仕事の半分はこれなんだ」
俺は組み込みエンジニアとして雑多な仕事を押し付けられていた。学生時代は苦手だったコンデンサも、今では当たり前のように毎日扱っている。いや、もう遥か昔のことになってしまったのだが。
「これはすごいことじゃぞスズリ! 大発見じゃ!」
そう言って老人は俺の手を両手で掴み、力任せに握り込んだ。
「お前さんをこの大図書館の特別司書長に任命する!」
老人のしわがれた声が、その時だけは張りに満ちていた。