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1. 明日なんて来なければいいのに

『シャットダウンしています――』


 PCの電源を切ると、暗転したノングレアのディスプレイに疲れきったおっさんの顔が写り込んだ。ぼんやりとでもわかる、ひどい顔だ。

 それから目を逸らすと、ディスプレイのまわり、散らかりきったデスクの惨状が目に入った。積み重なったクライアントからの修正案件ファイル、いつの物かもわからない無数のエナジードリンクの空き缶、奇跡的にやる気のあった日に気まぐれで買ってみた最新の技術書――と言っても買ったのはもう一年以上前で、つい最近メジャーバージョンアップが発表されたから、もうすぐ資源ゴミになってしまうだろう。要するにゴミ、ゴミ、ゴミ。ゴミだらけだ。


「あ~~~……」

 俺は思わず大きなため息をついた。でかい声を出すのがストレス発散になるのはカラオケと同じだ。

「なにデケぇ声出してんだ古谷」

 椅子に座ったままのけ反ると、同期の笹木が見下ろしていた。

「あと、俺のデスク蹴るな」

「あぁ、悪かったよ」

 言われてから、自分の足が反対側のデスクにぶつかっていることに気付いた。


「ひどい隈だな。昨日はあの後何時まで残ってたんだ?」

 笹木が自販機で買ってきたらしい缶コーヒーを渡してくれた。礼を言いながら受け取ると、思ったより熱くて落としそうになった。

「あんまり覚えてないけど、たぶん十一時くらいじゃないかな」

「マジか、終電間に合ったのか?」

「まあ、なんとか」

「あんま無理すんなよ」

「無茶言うなって。これ見ろよ」


 俺は机上に積み上がった書類の山をバシバシと叩いた。一部がひらひらと落ちていくのを無視したが、親切にも笹木が拾ってくれた。そのままなくなってくれればよかったのに。

「また課長から仕事押し付けられたか」

「『期待』って便利な言葉だよな、まったく。三十過ぎのいい年したおっさんに何を期待するって言うんだ」

「そう不貞腐れるなよ。同期入社の春日井って覚えてるか?」

「かすがい……なんかいたような気もするけど、あんまり覚えてないな」

「あいつ、先月できた新部署の部長に抜擢されたらしい。地方に飛ばされたけど」

「つまり?」

「俺たちもまだまだイケるってことだよ」

「お前は左遷のことを栄転だと思ってるのか?」

「物の見方は一つじゃないんだぜ」

 笹木はなぜか自慢げに言った。

「俺はどこからどう見たって冴えないおっさんだよ」


 缶のプルタブを開ける。独特の甘さと香ばしさの混ざった香りが立ち昇った。俺はコーヒーと缶コーヒーを別の飲み物だと思っている。疲れている時だけおいしいのだ。


「ほれ、これ見てみろ」

 笹木は自分のスマホの画面を目の前に出した。

 何かのトーク画面のようだった。


「この後デートなんだ」

「は?」

「若いし可愛いし、こんな娘とマッチできたの奇跡みたいだろ?」

 どうやらマッチングアプリのトーク画面のようだった。

「さすが魔法使いは魔法が上手なんだな」

 確証のない嫌味を投げてみたが、笹木はそのことに気付いていないようだった。

「それも今夜までの話さ。果報を寝て待ってろ」

「それそういう意味じゃないから。で、どんな魔法を使ったんだ?」

 そう訊くと、笹木はマッチングアプリに登録している自分の写真を見せてきた。言われれば確かに笹木だが、言われなければ別人だ。


「髪型、服装、加工。どうせ顔しか見てないし、会っちまえばこっちのもんさ」

「そんなもんかい」

「金曜日の夜にデートだぞ、これはもう勝つしかねぇよ」

 そうか、今日は金曜日だったのか。

 ここ二週間は平日も休日もなく働いていたから、曜日感覚がなくなっていたらしい。


「古谷お前、週末の予定は?」

「特にないけど」

「寂しいやつだな、趣味の一つでもないのか?」

「俺はインドアなんだよ」

「たまには飲みに行こうぜ、戦果聞かせてやるからさ」

「楽しみにしてるよ」

「じゃ、優勝してくるわ。おつかれ」

「ん、頑張れ」


 笹木は気合の入った顔で去って行った。廊下から雄叫びが聞こえてきたのは気のせいではないだろう。

 広いフロアに俺一人になった。

 気付けば三十二歳。

 窓から見える夜景はいつもより明るい。クリスマスのイルミネーションだろう。

 笹木は上手くやれるだろうか。


 実を言えば、俺も一時期マッチングアプリを始めたことがあった。だが、登録できる写真がカメラロールに一枚もなかったのだ。これには愕然とした。まさかここまで寂しい人生だったなんて。

 顔を上げると、窓に映り込んだ自分と目が合った。アプリの中の笹木とは大違いだ。

 僻みの感情がゼロではないことに情けなくなった。

「帰るか」

 溜まっていた空き缶をまとめて捨ててから、俺は帰途についた。


 コンビニで買った惣菜を食べ終えると、片付けもそこそこにベッドに寝転がった。

 仕事から帰った後はスマホを無気力に眺めることしかできない。半日以上働いて、その上で本を読んだりゲームしたりするような元気は残っていないのだ。

 しばらくまともに料理だってしていない。できないわけではないが、まず買い物に行くのが面倒だし、作る時間があればその分寝たい。

 とにかく忙しいのだ。誰の役に立つのかもわからないプログラムを書くだけで、およそ生活に関わる作業はしていないこの人生の、何がそんなに忙しいのか。

 そのくせ貯金は増えないし、奨学金の返済はまだまだ続く。生きていくだけで精一杯なのに、同級生たちにはたいてい恋人がいて、子供がいる奴だって普通にいる。笹木でさえ進もうとしているのに、どうして俺は何もできないのか。

 こんな忙しさは嘘だ。偽りの薄っぺらい忙しさだ。

 本当に大切なことは何一つできていない。

「明日なんて来なければいいのに」

 それが夢の中で言った言葉か、寝落ちする直前だったかはわからない。

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