8・侯爵邸への帰還と父の背中
そろそろタイトル回収に向けて動き始めます。
『お父様』
たくましい背中にアンネリーゼは呼びかける。
『お父様』
『ねえ……お父様』
だがか細い声で何度呼んでも、父は振り返ってくれない。ただ前だけを向き、足早に去っていく。
いつでもそうだった。物心ついてから父の顔より、背中を見たことの方が多い。
貧しい貧民街に生まれ、唯一の祝福『死神』を持っていたことから否応なしに軍へ入隊させられた父ジークヴァルトが武勲を追い求め、伯爵の位まで得たのは、一目惚れした貴族令嬢テレーゼを妻にするためだ。
テレーゼの父であるローゼンハイム伯爵は、溺愛する一人娘を平民にくれてやるつもりなどなかった。たとえ『死神』の祝福持ちだろうと、稀有な有翼猟騎であろうと。
だからジークヴァルトがテレーゼに求愛した時、『娘と結婚したければ、最低でも伯爵になるのだな』とはねのけたのだ。平民がいくら武功を立てて叙爵されたところで、子爵止まりだと知った上で。
しかしジークヴァルトを応援するかのように当時の王弟が反逆を起こし、ジークヴァルトは総大将たる王弟を討ち取るという大殊勲をあげた。窮地に追い込まれた王族出身の将軍を救うおまけ付きでだ。
殊勲の見返りにジークヴァルトは伯爵位を望み、異例ながらその願いは聞き届けられた。そしてテレーゼとめでたく結ばれ……きっとそこがジークヴァルトの幸福の絶頂だった。
結婚から間もなくテレーゼは妊娠したが、生まれつき病弱な身体は出産に耐えられず、アンネリーゼを産んですぐ亡くなってしまった。以来ジークヴァルトは一人娘の養育を義父や乳母に任せ、アンネリーゼが十歳になるとすぐ親友マリウスの甥ダミアンと婚約させ、未来の婚家に預けた。
愛する妻の命を奪って生まれてきた娘を避けているのだと、周囲は噂した。
愛されない娘。死神の娘。
父親に振り向いてもらえない、哀れな娘。
アンネリーゼにはいつも人々の同情と憐憫、そして好奇のまなざしが付きまとった。
それでもアンネリーゼは父に振り向いて欲しかった。愛する妻を奪った娘とののしられてもいいから、自分をまっすぐ見て欲しかった。
『お父様……!』
どんどん遠ざかっていく背中に伸ばした手は、むなしく空を切った。
倒れそうになったアンネリーゼを誰かが支えてくれる。鷲のように鋭い眼光の、腰に二本の剣を差した老人は……。
「テン……ゼン?」
口にした瞬間、すさまじい量の記憶が奔流のように流れ込んできた。……ああ、そうだ。アンネリーゼはダミアンに置き去りにされて、魂の伴走者だという典膳に助けられ、祝福『黎明の戦乙女』を覚醒させた。村に囚われていた不思議な少年を助け、親飛竜も倒し、そして……そして……?
「……どう、なったのでしょうか?」
見上げながら尋ねると、典膳は険しい目元をゆるめた。
「そなたは親飛竜を倒した時点で疲れきっていたゆえ、ワシが交代したのだ。厄介なやつばらが近づいてきておったしな」
「厄介な……?」
「そなたの婚約者のダミアンだ」
聞きたくなかった名前に胸がずきりと痛む。
ダミアンが村に戻ってきた理由は明らかだ。改めて魔獣の群れを討伐し、自分の手柄にするため。騎士たちの死を、アンネリーゼに押しつけて――。
「結果から申せば、あのうつけは母親共々侯爵家を追い出されることになった。母親の実家に戻るそうだから貴族でなくなったわけではないが、侯爵家を継ぐ目は消えたと言って良かろう」
「えっ……?」
アンネリーゼは大きな碧眼をぱちくりさせる。いったい何がどうなったら、侯爵家唯一の後継者として大切にされていたダミアンが追い出されることになるのか。しかも女主人として君臨していたカミラまで一緒に。
典膳は順を追って説明してくれる。
アンネリーゼと交代した典膳は、まずアンネリーゼがしもべにして助けたあの少年に協力を仰いだそうだ。
アンネリーゼは狼か犬の獣人だと思っていたが、何とあの少年は大陸でも珍しい白狐の獣人だった。白狐は数少ない幻術の遣い手でもある。身体能力と共に魔力も取り戻した少年は典膳に求められるがまま幻術で大人の姿をまとい、耳と尻尾を隠し、旅の魔法使いエチゼンに化けた。
「エチゼン?」
「越前守……まあワシのあだ名のようなものよ」
典膳がわざわざ偽名を考えたのは、少年がかたくなに通り名も真名も明かそうとしなかったからだそうだ。恩人であるアンネリーゼにしか教えないと言い張ったらしい。
「恩人というのなら、テンゼンもそうだと思うのですが」
「男心がわからないとこれから苦労するぞ」
「男心?」
首を傾げたアンネリーゼに苦笑し、典膳は説明を続ける。
少年と典膳は村を回って魔獣の生き残りを倒し、骸を村の入り口に集めた。親飛竜の骸は少年の炎の魔法で灰も残さず焼いてしまったそうだ。
そこへアンネリーゼは死んだものと思い込んだダミアンが討伐部隊を引き連れて現れた。動揺するダミアンを典膳は少年の存在をうまく利用して追いつめ、失言を誘い、最終的には失禁させたというから驚いた。
「失禁……ダミアン様が……」
ぷぷっ。
まっさきに笑いがこぼれたことに驚いた。これまでのアンネリーゼはダミアンの機嫌を損ねまいと、いつも首をすくめておどおどしていたのに。
ああ、でも。
おかしいのはおかしいのだから、しかたない!
「ふふっ……、ふふふ……」
こみ上げる笑いの衝動に身を任せていると、典膳がどこかほっとしたような顔をしていることに気づいた。短い付き合いだが、この男がこんな表情をするのがとても珍しいことは何となくわかる。
「いや、笑ってくれるのだと思うての」
「……?」
「あんなうつけでもそなたの婚約者であっただろう。こけにされれば傷つくのではないかと……」
歯切れの悪い口調は、この傲岸不遜な老人がアンネリーゼを慮ってくれている証拠だ。嬉しいようなくすぐったいような気持ちで、アンネリーゼは首を振った。
「傷つくなんて、ちっとも。むしろ胸のすく思いがしました。……きっと私は、薄情なのでしょうね」
「アンが薄情なら、あんなうつけに今まで付き合ってなどおれなかっただろうよ。いくらでも笑ってやれ」
けっ、と悪態をつく典膳がおかしくて、アンネリーゼはまた笑った。こんなに笑ったのは初めてかもしれない。
アンネリーゼの笑いが収まるのを待ち、典膳は説明を再開する。
股間を濡らしたダミアン、そして討伐部隊の兵士たちと共に、典膳は侯爵邸に帰還した。エチゼンに化けた少年も一緒だ。
上があの通りのダミアンなので心配していた典膳だが、意外にも侯爵家所属の兵士たちはいたってまともだった。主君のためアンネリーゼを殺して口封じをもくろむ者も、アンネリーゼの言葉をしょせん子どもの言うことと軽視する者もおらず、魔獣の群れに置き去りにされた哀れな被害者として丁重に送り届けてくれたという。
そして侯爵邸で待ち受けていたのはなぜか憔悴しきった侯爵夫人カミラと、ロスティオーフ侯爵マリウスその人だった。
「マリウスおじ様が!? 王宮に参上されていたのに、どうして……」
「カミラがダミアンの出撃後、通信魔法で侯爵に一報を入れたらしい」
それはあくまで、息子の手柄を強調し、非を問われないようにするためだった。だがアンネリーゼがわがままを言って騎士たちと共に魔獣の出現した村へおもむいたと聞いたとたん、マリウスは高位貴族にしか使用を許されない移動魔法陣で侯爵領まで跳んできたのである。
『アンネリーゼがそんなわがままを言うはずがない。本当は何が起きた? 事実を話しなさい』
予想外の尋問にカミラはしらを切り通そうとしたが、探索魔法を発動させたマリウスが御者の骸を見つけてしまい、ごまかしきれなくなってしまった。口封じのために殺した御者を、ダミアンはずさんにも裏庭に埋めておいたのだ。
マリウスの祝福『大魔法使い』は、普通なら素質がなければ使えないありとあらゆる系統の魔法を使用可能にする。その中には死霊魔法も含まれる。
マリウスは死霊魔法で御者をつかの間冥府から呼び戻し、真相を問いただした。嘘をつけない死者はダミアンの愚行をつまびらかに語り、カミラの偽りは露見したのである。
激怒したマリウスは自ら村へ跳ぼうとした。むろんダミアンに我が手で鉄槌を下すためだ。
典膳たちが帰還したのは、まさにその時だった。甥の愚行の犠牲になって殺されたはずのアンネリーゼの生還を、マリウスは驚愕しつつも歓喜し、救い主である魔法使いエチゼンにも深く感謝したのだが。
礼をしたいから、と少年とアンネリーゼだけを連れてきた小部屋で、マリウスは少年の幻術を強制解除した。
「ええっ!? ……では、あの子が白狐だと……獣人だとばれてしまったのですか?」
「ばれたと言うより、最初から気づいていたのだろうな。幻術の気配に」
今の少年は典膳の祝福『勇将の下に弱卒無し』の効果で能力を大幅に上昇させている。マリウスの魔力はさらにその上を行くということだ。あるいは『大魔法使い』の効果かもしれないが。
「そんな……ではあの子は……」
人間の国で、獣人はまともな扱いを受けない。貴族ならなおのこと、扱いはひどくなる。
「安心せい。閉じ込められてはいるが、食事や水は与えられておるし、場所は使用人用の部屋だ。それもそなたから話を聞くまでのこと」
「え……」
典膳はその場で気を失うふりをし、アンネリーゼの部屋に運ばれたのだという。アンネリーゼは今、部屋のベッドで眠っている状態だ。