5・俺は頑張ったのに!(前半ダミアン視点、後半ダミアンの母カミラ視点)
時はしばしさかのぼる。
「お母様! お母様ーっ!」
自分と御者だけを乗せた竜車で侯爵邸に帰還するや、ダミアンは母の侯爵夫人カミラのもとへ駆け込んだ。
「まあまあ、どうしたのダミアン。そんなに慌てて……それに、この格好は……」
午後の紅茶を楽しんでいたカミラはダミアンのぼろぼろの格好に気づくや、しばらくは誰も近づけないよう命じ、控えていたメイドたちを下がらせる。ただ事ではない気配を察知したらしい。立場上、カミラはその手の勘にはとても鋭かった。
「それで、何があったの?」
「じ、実は……」
ダミアンは説明する。魔獣の群れが近くの村に現れたと報告を受けたことから始まり、わずかな騎士とアンネリーゼを連れてひそかに出撃したこと、思いがけず飛竜と遭遇してしまったこと、からくも倒せたが騎士たちが全滅したこと、まだ魔獣の群れが残る中自分と御者だけで脱出したこと……。
カミラはみるみる青ざめた。
「……では、貴方はアンネリーゼを囮にして逃げてきたということ?」
「お、囮にしたのではありません! 足手まといになるから置いてきただけです!」
「どちらでも同じ、騎士としても貴族子弟としても最低のことよ! 恥を知りなさい!」
パンッ、とカミラの手がダミアンの頬を打った。
ティーカップより重いものを持ったことのない貴婦人に打たれたところで、たいした痛みではない。痛みよりも、母親に打たれたことそのものがダミアンにとってはつらかった。
打たれても当然のことをしでかした自覚は、さすがにある。
まだ十歳の少女、それも婚約者の貴族令嬢を魔獣の群れの中に置いて逃げてきた。……命惜しさに、囮にしたのだ。
その事実はどう言い繕おうとくつがえらない。ダミアンの竜車を魔獣どもが追ってこなかったのは、アンネリーゼに夢中になっていたせいだろうから。これが他人のしたことなら、男の風上にも置けないと憤り糾弾しただろう。
けれど、己のしたことなら……我が身への可愛さと哀れみの方が先立ってしまう。
ダミアンだって頑張ったのだ。味方がわずかしかいない中、不運にも遭遇してしまった飛竜を倒すため体力と魔力を限界まで振り絞った。
だから飛竜にも勝てた。騎士たちは次期侯爵たるダミアンのために存在するのだから、ダミアンの武勲のために死ねれば本望だろう。
アンネリーゼは戦闘では何の役にも立たなかった。あの『死神』ジークヴァルトの娘のくせに剣も振れず、魔法で支援すらしてくれなかったのだ。婚約者ならダミアンを助けるのが当然なのに。
だからせめて最後に、未来の英雄ダミアンの礎にしてやった。きっと名誉に思いながら魔獣に食い殺されたはずだ。
誰も不幸にはなっていない。
なのになぜダミアンが責められなければならないのか。
誰か……せめて母親だけでも、ダミアンの頑張りを誉めてくれてもいいではないか……!
「ぐす……、う、うぅっ……」
鬱屈した思いが熱い涙と共にあふれる。泣き出した息子にカミラは目を見開いたが、ようやく母親らしい心を取り戻したのか、豊満な胸にそっと抱き締めてくれた。
「よしよし、いい子ね、ダミアン」
「ううぅ……、お母様ぁ……」
「打ったりしてごめんなさいね。お母様、あまりに突然のことだったから驚いてしまったの。許してくれる?」
甘い声で問われ、ダミアンはこくこくとうなずいた。
「……そういうことなら、許してあげます」
「ありがとう。ダミアンは優しい子ね」
頭を撫でられるうちにダミアンの心は落ち着きを取り戻していく。愚かであっても知能が低いわけではないダミアンは、己の行動をすぐにでも取り繕う必要があると理解していた。愛する母親が全面的な味方であることも。
「お母様、村のことですが……」
「ええ、すぐにでも正式な討伐部隊を編成し、派遣しましょう。他の者が報せを受けたのに、出撃したくないあまり黙っていたことにすればいいわ」
案の定カミラはすらすらと提案してくれる。ダミアンが困った時、いつもなんとかしてくれるのはカミラだった。
「アンネリーゼは……」
「……あの子のわがままで騎士たちと村に遊びに行き、魔獣の襲撃に巻き込まれたことにしましょう。かわいそうだけど、そうするしかないわ」
「……はい」
哀れに思いつつも、ダミアンはうなずいた。
アンネリーゼの父ジークヴァルトは、成り上がり者であっても貴族だ。可愛がっていない娘の死を悲しまなくとも、娘の命の代償に莫大な賠償金や領地を要求してくるかもしれない。そんなことになれば、ダミアンの次期侯爵の座が危うくなってしまう。
逆に騎士たちの死の責任をアンネリーゼに押しつけられれば、こちらがジークヴァルトに恩を着せることも可能だ。才気にあふれ、義息子になるはずだったダミアンにジークヴァルトは協力を惜しまないだろう。
アンネリーゼさえ犠牲にすれば、何もかも丸く治まるのだ。語る口を持たない死者には黙っていてもらおう。
「ではさっそく始めましょう。……ダミアン、御者ですが……」
「わかっております、お母様。後できちんと処分しておきます」
金貨十枚と引き換えに片棒を担がせた御者だが、約束を守る気などダミアンには最初からなかった。カミラに言われるまでもなく殺すつもりだったのだ。
秘密を知る御者が生きていては、いつその軽い口を割るかわからない。たかが金貨十枚のために主家の婚約者を見捨てる恥知らずなど、死んだ方が世のためであろう。
「貴方は賢い子ですね、ダミアン」
「ありがとうございます、お母様。次期侯爵ならこれくらい当然です」
ダミアンは破顔し、なすべきことをなすべく駆け去っていった。
「……我が子ながら愚かすぎて嫌になるわ。どうしてもう少しまともな子が生まれなかったのかしら」
ダミアンが去った後、カミラは嘆息しながら冷めた紅茶を飲んだ。メイドを呼んで淹れ直させるいとまはない。急いでやらなければならないことが多すぎる。
(次期侯爵、ね)
ダミアンは自分こそが侯爵家の後継者だと信じて疑わないが、実は彼の立場はそこまで盤石ではない。
現侯爵家当主マリウス・フォン・ロスティオーフはダミアンの父親ではなく叔父だ。前当主にしてマリウスの兄、ダミアンの父でもあるオリヴァーが六年前の戦役で戦死してしまったため、侯爵の位は幼いダミアンが成人するまでの間、マリウスに与えられたのである。
マリウスが独り身のため、侯爵家の女主人を務めるカミラが侯爵夫人を名乗っているけれど、実際は先代夫人だ。
成人すれば自動的に侯爵の座は返されるとダミアンは無邪気に信じている。しかし事はそう簡単ではないのだ。
マリウスはこのヴァルチュール王国で唯一の祝福『大魔法使い』を与えられた魔法使いである。侯爵家の次男だった彼は成人と同時に家を出て王国魔法軍に入り、またたく間に頭角を現した。
六年前の戦役では兄オリヴァーが戦死する一方で、マリウスは敵の重要拠点を陥落させる大殊勲をあげた。魔法将軍として地位も名声も獲得した彼を侯爵に任じたのは国王だ。
マリウスに比べたら、ダミアンは親のひいき目と祝福『魔法騎士』を加えても凡人である。国王からすれば、凡人より天才を侯爵に据えておきたいのは当たり前のこと。
マリウス自身に侯爵位への野心はないようだが、ダミアンの言動しだいでは侯爵位が譲られない可能性も高い。だから凡人なら凡人なりに品行方正にふるまえばいいものを、己を過信したダミアンはたびたび問題を起こしてきた。
そのたびに尻拭いを強いられ、いっそ捨ててしまいたいと思ったことは数えきれない。実行できないのは、カミラが『侯爵夫人』でいるためにはダミアンが必要だからだ。
マリウスが侯爵に任じられてから、カミラはひそかにマリウスを誘惑してきた。たとえダミアンが侯爵になれなくても、マリウスの妻におさまれば侯爵夫人の座は安泰だからだ。マリウスは亡夫オリヴァーと同じ血が流れているとは思えないほど理知的な美形で、一人の女としても魅力的な相手だった。
カミラはかつて社交界の華と称えられた美女。今もその美貌を保っているのに、マリウスはカミラがどれだけ秋波を送ろうとなびかなかった。業を煮やしてベッドに忍び込んだ日には、嫌悪もあらわに拒まれた。
『私に触れるな……穢らわしい』
生まれて初めての屈辱だった。今でも思い出すだけではらわたが煮えくりかえる。
マリウスさえカミラを受け入れてくれていれば、マリウスの子を産み、正真正銘の侯爵夫人になれたのに。マリウスの子なら、少なくともダミアンよりは優秀だっただろうに。
マリウスのせいで、カミラはダミアンを捨てられない。あんな不出来な息子でも、侯爵になってくれなければカミラの身分と将来は不安定なままだ。
(アンネリーゼが婚約者に決まった時は、これで次期侯爵が確実になったと喜んだものだけれど……)
伯爵令嬢にして『死神』ジークヴァルトの娘。ジークヴァルトとマリウスが親友であったことから結ばれた縁だ。
あのジークヴァルトが後ろ楯になってくれれば、ダミアンの次期侯爵の座は揺るぎない。そう期待したというのに、アンネリーゼは父にまるで愛されない娘だった。
マリウスはわけがあるのだと言うが、娘を婚約者の家に預けたきり会いにもこない父親がいるだろうか? いくら魔獣や敵国との争いに駆り出されているといっても。
それでも『死神』の娘という肩書は役に立つと思っていたけれど、こんなことになってしまった以上は切り捨てるしかないだろう。
かわいそうだとは思う。ダミアンに対する苛立ちもある。
でも、カミラが今の暮らしを守るためにはしかたない犠牲なのだ。
「ごめんなさいね、アンネリーゼ。貴方はただ運が悪かっただけなのよ」