4・『黎明の戦乙女』覚醒
重たげなまぶたから現れた瞳は、吸い込まれそうなほど深い輝きをたたえた紫色だった。こんな色、見たことがない。
「俺なんか、ほっとけよ。どうせ、死ぬんだから」
かすれていてもなお魅惑的な声は、万全の状態なら……こんな状況でさえなければ、うっとりと聞き惚れたに違いない。
「……な、なん、で。鎖なら、私が」
「無駄、だ」
少年はのろのろと毛布を引き上げた。隠れていた下肢があらわになり、血と肉の腐った臭いが漂う。
「……ひ、ひどい」
しなやかに伸びていただろう少年の脚は、両方とも膝から下が切断されていた。あまり切れ味のよくない刃物を用いたのだろう。切断面は腐り、異臭を放っている。
人間なら激痛と衝撃に耐えきれず、死んでしまってもおかしくない。少年が今まで生き延びたのは、獣人の驚異的な体力のおかげだろう。……それは少年にとって、幸運ではないかもしれないけれど。
「たとえ鎖が切れても、俺は、逃げられない」
「……」
「逃げられたとしても、この脚じゃ、そう長くはもたない」
死ぬんだよ。
生気の失せた紫色の双眸に、アンネリーゼは強い既視感を覚えた。
この子は……私だ。
何をしても無駄だと諦め、自ら死を選ぼうとしている。諦めれば楽になれるから。何も考えなくて済むから。
でも。
でも、そんなの。
「……そんなわけ、あるかぁっ!」
叫んだ瞬間、どくん、とあの奇妙な鼓動が胸を弾ませた。少年が紫色の瞳を見開き、アンネリーゼを凝視している。そこに映る自分はひどいありさまだった。怒りに目を吊り上げ、髪を振り乱し、背中からは白い光を束ねた翼が生え……。
「死とは! 永久に血と恥辱と汚濁にまみれること、です!」
「……あ、あんたは……貴方、は……」
「それでも死にたいというのなら……その命! 私に、捧げなさい!」
(……よし! よう言うた!)
沈黙を保っていた典膳が快哉を上げたと同時に、アンネリーゼの意識は光に包まれた。
どこまでも果てなく続く白い空間に、鷲のように鋭い眼光の老人がたたずんでいる。背は高くなく小柄だが、弱々しさはまるで感じない。むしろうかつに触れれば斬られてしまいそうな覇気を漂わせている。
前合わせの上衣と幅広のズボンのようなものをまとい、腰には細長い剣を二本差すという異様ないでたちだが、アンネリーゼはすぐにわかった。
「テンゼン、ですね」
「おう。まみえるのは初めてだな、アン」
苦みばしった笑みを浮かべ、典膳は上を向いた。つられてアンネリーゼも見上げると、はるかな高みからきらきらと光の粒が降ってくる。何かに抱擁されるような感覚と共に。
【祝福『黎明の戦乙女』覚醒の条件が満たされました。アンネリーゼ・マルガレータ・フォン・ランドグリーズに祝福を与えます】
「あ……っ!」
男にも女にも、若くも老いたようにも聞こえる不思議な声と一緒に、すさまじい量の情報が頭に流れ込んでくる。
【祝福『黎明の戦乙女』】
・死にゆく定めの者の心身を掌握し、しもべとする。しもべの身体の状態はアンネリーゼの意志に従う
・アンネリーゼの体力、魔力、及び身体能力は、しもべの人数×10倍の補正を受ける
・『戦乙女の武術』を習得する。使用可能な武術はしもべの人数に従い解禁されていく。現在使用可能な武術……『必中の光弓』
【戦乙女の武術『必中の光弓』】
・対象に命中率100パーセントの弓攻撃を5連続で仕掛ける。特効:魔獣、飛行系
【祝福『黎明の戦乙女』覚醒条件】
・自らの力で死を回避する
・戦場を経験する
・死の迫った者に触れる
膨大な量の情報を必死に受け止めながら、アンネリーゼは理解した。神殿で祝福なしと判断されたのは、きっと覚醒条件を満たしていなかったからだろうと。
だが三つの条件のうち『死の迫った者に触れる』はまだしも、『自らの力で死を回避する』『戦場を経験する』は、貴族令嬢が満たすのはほぼ不可能だ。アンネリーゼだってこんなことにならなければ満たせなかっただろう。ある意味、ダミアンのおかげで覚醒できたとも言える。……感謝の気持ちはかけらもないけれど。
【また、魂の伴走者サ●●ベ・●デ●●の祝福『勇将の下に弱卒無し』を共有します】
再びあの不可思議な声が響く。
ところどころ雑音が入って聞き取れなかった部分は、たぶん典膳の本当の名前だろうと思われた。ここにはアンネリーゼ以外、典膳しかいないのだから。
それにしても、魂の伴走者とは?
【祝福『勇将の下に弱卒無し』】
・配下に置いたしもべに『忠誠の連動』を付与
・アンネリーゼが理性を保つ限り、しもべに対する状態異常を無効化する
・しもべはアンネリーゼに対する忠誠心に応じ、各能力に補正を得る
【『忠誠の連動』】
・しもべの人数に応じ、しもべは人数×10の戦闘練度と連携力を得る
「こいつは、えらいことになったな……」
典膳が顎ひげをしごいた。きょとんとするアンネリーゼに真剣な顔で教えてくれる。
「つまりだ。アンは死にかけてるやつなら誰でもしもべにして支配できる上、その後は身も心も自由にできる。しもべの数が増えるほどアン自身の能力は飛躍的に上がり、戦乙女の武術とかいうすさまじい技も使える」
「すごい……、ですね……」
「そう、すごいんだよ。でもそこにワシの祝福が加わって、とんでもないことになった。あらゆる状態異常にかからず、アンに対する忠誠心によって能力を上昇させ、人数が増えれば増えるほど強くなっていく規格外の軍隊を率いる」
「……誰が?」
「むろん、そなただ」
断言され、アンネリーゼはあぜんとした。
「テンゼンが率いるのではないのですか? 貴方はそういう立場の方だったのでしょう?」
「確かにワシは武将だったが、今のワシはそなたの魂の伴走者。言うなればそなたの心に陣借りしておるようなもので、主将はあくまでそなただ。そなたが率いなくてどうする」
言われてみればその通りなのだが、戦いとは縁のなかった十歳の少女にはいそうですかと納得できようはずもない。しかし、悩んでいる時間もない。
アンネリーゼと典膳を取り囲む白い空間が溶けてゆく。まばたきの後、アンネリーゼはあのすえた臭いの充満する小屋にいた。
さっきのは夢……ではない。身体の奥に、さっきまではなかった強い力を感じる。
「貴方は……」
横たわる少年の紫色の瞳にも、さっきまではなかったかすかな光が宿っている。無惨に切断された両足は、たぶん最上級の回復魔法の使い手でも再生させられない。
でも、アンネリーゼなら。
『黎明の戦乙女』なら。
【祝福『黎明の戦乙女』】
・死にゆく定めの者の心身を掌握し、しもべとする。しもべの身体の状態はアンネリーゼの意志に従う
「我がしもべよ、よみがえれ」
アンネリーゼは思い描く。大地を力強く踏みしめ、躍動する少年を。
するとアンネリーゼの背中に一対の翼が出現し、まばゆい光を放った。光は少年の両足に吸い込まれ、うじゃじゃけた切断面を癒し、形作っていく。アンネリーゼが思い描いた通りの、しなやかな両足を。
「あ、ああ……、あっ……!?」
我が身に起きた奇跡に、少年はがばりと跳ね起きた。その手で再生されたばかりの脚に触れ、ようやく現実だと悟ったのか、アンネリーゼを涙のにじむ目で見上げる。
「これは、……貴方が……」
「ギャシャアアアアアッ!」
苛立たしげな咆哮が大空から降り注ぐ。なかなかアンネリーゼが出てこないので、いらいらしているらしい。早く出てこいとばかりに、炎のブレスが連続で発射される。
(アン、往くぞ!)
「はい!」
典膳に動かされるのではなく、アンネリーゼは自ら小屋から飛び出した。恐怖が完全になくなったわけではない。けれど今の自分には戦うすべがある。その事実が怖じ気づきそうになる心を奮い立たせる。
(恐れるのは人として当然の感情だ。恥じるな)
ようやく出てきた獲物にらんらんと赤い眼を輝かせ、大きく息を吸い込む親飛竜。空を覆わんばかりの巨体は、翼を持たぬ人間の手の届かぬはるか高みにある。
人間など取るに足らない塵あくただとさげすんでいるだろう。人間に命を脅かされるなど、考えたこともないだろう。我が子の仇を取れると、信じて疑わないだろう。
(恥ずべきは恐怖に負けること。心を平らに保てれば、四十間先の扇の的さえ射貫ける)
アンネリーゼは大きく息を吸い、背中の翼を広げた。放たれた光がアンネリーゼの手に集まる。
形作られていく弓を武芸の心得のある者が見たなら、眉をひそめただろう。射手の身長よりも長く、握りが中央より下にある上下非対称の構造。あんないびつな弓でまともに矢が飛ぶわけがないと。
この世界の人間は誰も知らない。
日本と呼ばれた国の、戦国争乱の時代を。
アンネリーゼに弓術の心得はない。だが不思議な形の弓を持った瞬間、身体がひとりでに動いた。光が作り出した弓矢をつがえ、大きく弦を引き絞る。
かつて同じ弓を用いて戦った武士は、分厚い鎧をもやすやすと射貫いた。
ならば彼方の空を飛ぶ竜は。
「ギッギッギ、ギャッギャッギャッ」
巨体が揺れる。そんなもので自分を倒せるかと嘲笑っている。
つまり……舐められている。
「……私を……」
限界まで引き絞られた弓から、光の矢が放たれる。
「舐めないでください……っ!」
(南無八幡大菩薩!)
親飛竜がびくんと巨体を震わせ、旋回する。あれは自分に死をもたらすモノだとやっと悟ったのか。
でも、もう遅い。
『必中の光弓』の命中率は100パーセント。標的がどこにいようと……地中に潜ろうと空に逃げようと命中する。さらに魔獣、しかも飛行系である飛竜には特効を発揮する。
「ギャッ!」
一撃目は親飛竜の左翼を射貫いた。均衡を保てなくなった巨体が空中でふらつく。
「ギ、ギャアッ」
二撃目は右翼を。三撃目は右眼を。四撃目は左眼を。
「ギィギャアアアア、アアッーー!」
最後の五撃目は心臓を。
わずかな狂いもなく射貫かれ、親飛竜は断末魔の悲鳴をほとばしらせた。力を失った巨体はきりもみし、地面に叩きつけられる。
ズウゥゥン……。
地響きと共に墜落した骸はアンネリーゼのゆうに十倍以上ありそうな大きさで、力なく開いた口から覗く鋭い牙や四肢の鉤爪を見ると震えが走った。
胴体は分厚い皮膚と鱗に覆われている。アンネリーゼが射貫けたのはあの少年をしもべとし、『黎明の戦乙女』の効果で身体能力が大きく上昇していたことと、『必中の光弓』の効果……そして、何よりも。
「……貴方のおかげです。ありがとうございます、テンゼン」
全てを自ら手放そうとしていたあの時、典膳が目を覚まさせてくれたから、アンネリーゼは生き延びられたのだ。
(構わんさ。ワシもそなたに救われた。相身互いだ)
だから、と典膳は優しくささやく。
(後はワシに任せ、ゆっくり休んでおれ)
一間=1.82メートル
四十間=72.8メートルです。