2・血路を開け
(死地で笑えるとは、なかなかの大物だな。いずれは板額御前や巴御前にもなれるかもしれん)
典膳の姿は見えないが、にやりと笑う気配が伝わってきた。
「ハンガクに、トモエ?」
(ワシの世界では知らぬ者のいない女武者よ。どちらも勇猛果敢な戦いぶりが後世まで語り継がれておる)
アンネリーゼはちくんと胸が痛むのを感じた。そんなに立派な女性たちに比べて、この自分は。
(何も持っていないわけがなかろう)
典膳は断言する。
「で、でも、私は本当に駄目なのです。お父様の娘なのに、何の祝福も持っていなくて」
神の御手ではなく、瘴気から生まれいでる異形……魔獣。その脅威にさらされた人間を哀れんだのか、神は時おり人間に祝福と呼ばれる特別な力を与えることがある。
その割合は平民なら一割、貴族なら三割程度。決して高くはないのだが、アンネリーゼの周囲には祝福持ちが多かった。
父ジークヴァルトは二つ名の由来にもなった『死神』。あらゆる弱体化の魔法や攻撃系魔法を無効化し、ジークヴァルトの振るった武器が命中した者の命を奪う。たとえかすっただけでも、だ。
この祝福を与えられた者は歴史上ジークヴァルト一人。騎獣グリフォンにまたがったジークヴァルトが戦場に現れれば、人間の兵士も魔獣も恐れおののくという。
婚約者のダミアンは『魔法騎士』。読んで字のごとく魔法技術と剣術に大きな補正を得る祝福で、祝福を持たない者の数倍から数百倍の実力を有するにいたることもある。
こちらは祝福としては珍しくなく、与えられた者は他に何人も存在するのだが、ダミアンは誇りに思っていた。珍しくはないといっても、祝福を与えられること自体が幸運だし、彼が目指す有翼猟騎にも親和性が高い。それにダミアンの養父、ロスティオーフ侯爵も『大魔法使い』という魔法系の祝福を与えられている。
なのにアンネリーゼは、何の祝福も与えられなかった。貴族の子女は五歳になると必ず神殿で祝福を与えられたかどうかを調べてもらうのだが、アンネリーゼを担当した神官はつかの間首を傾げた後、憐憫の表情を浮かべて宣告した。
『……残念ながら、ランドグリーズ伯爵令嬢は何の祝福も与えられなかったようです』
父ジークヴァルトは何も言わなかったが、それはアンネリーゼに関心がないからだ。ダミアンには『あの英雄ジークヴァルト卿の娘が凡人とはな!』とさんざん馬鹿にされ、今もことあるごとに揶揄されている。
貴族にとって祝福とは、神に選ばれし者の証だ。
(祝福? はん、ただの神頼みではないか)
なのに典膳は小馬鹿にしたように笑う。ダミアンが聞いたら激怒するにちがいない。
「か、神頼み……」
(おうよ。神とやらの気まぐれで与えられるものにすがるなぞ、愚者のふるまいよ。そうやって身を滅ぼした阿呆を、ワシは数えきれぬほど見てきたわ)
ふん、と鼻を鳴らすような音がした。
(いざという時、頼れるのは己のみ。……見てみよ)
典膳にうながされ、アンネリーゼは周囲を見回した。取り囲むのは有角小人、豚面獣、巨鉄鼠など、脅威度そのものは低いとされる低級魔獣がほとんどだ。
しかしどれも弱いゆえに群れる種族であり、とにかく数が多かった。この村の外れのあたりに群れているだけでも、たぶん百匹を下らない。……きっと村の中は、悲惨なことになっているだろう。
倒しても倒してもきりがない。だから魔力と体力を使い果たしたダミアンは、アンネリーゼを囮にして逃げたのだ。
低級といえど、戦うすべを持たないアンネリーゼにとっては死を覚悟するほどの脅威。向こうもアンネリーゼがか弱い獲物だと悟り、ひとかけらでも多くの肉を喰おうと襲いかかろうとしていたのだが。
「……どうして?」
魔獣たちは相変わらずアンネリーゼを囲んではいるものの、見えない結界にでも阻まれたかのように立ちすくみ、小刻みに震えていた。醜悪な獣面に浮かぶのは、間違いなく恐怖だ。
(そなたが生きることを選んだからだ)
「……そんなことで?」
(今までのそなたは、死んだ目をした肉のかたまりだと思われていた。……ありていに言えば、舐められていたのだ。だから腹をくくったそなたには尻込みしているのよ)
舐められる。
初めて聞くその言葉に、アンネリーゼは強い不快感を覚えた。それは典膳にも伝わったらしい。
(そう、舐められるのは武士としてあってはならぬ恥辱。舐められたら殺す、舐められる前に殴る。それが武士のあるべき姿よ)
淡々とした口調は、典膳自身がそういう生き方をしてきたことを示している。
(泥水をすすってでも生きると決めた者は強い。そなたもな)
「強い……私が……」
(さあ、あれを拾え)
典膳に指示されるがまま、アンネリーゼは少し離れたところに落ちていた剣を拾った。ずっしりと重たいそれは、たぶん戦死した騎士のものだ。どうにか持ち上げることはできたが、振り回せる自信はないし、ダミアンのような剣術を学んだこともない。
(あんなへなちょこ坊主は気にするな。舐められないのに必要なのは……気迫だ!)
「きゃっ!?」
かっと体内が熱くなり、剣の重さを感じなくなった。まるで羽根ペンでも持っているみたいだ。
(そなたの体内にめぐる魔力を燃やし、一時的に筋力を底上げした)
アンネリーゼは目を見開いた。典膳の言うそれは、すなわち身体強化魔法だ。調整が難しく、ダミアンも使うのに苦労していたのに、戦闘訓練を受けたことすらないアンネリーゼに発動させられるなんて。
(されどそなたの肉体は、強化の負荷にさほど長くは耐えられん。早々に勝負をつけるぞ)
「で、でも、どうやって?」
剣を振るえるようになっても、アンネリーゼは戦うすべを知らない。攻撃魔法も放てない。
(血路はワシが開いてやる。……参るぞ!)
オオオオオオオ……!
典膳の雄叫びに応えるかのように、頭の奥に鯨波がとどろいた。そこへ吹き鳴らされる法螺貝と、無数の騎馬の蹄音が入り交じる。
未知の世界。未知の音。
なのになぜ、こんなにも胸が騒ぐ?
「ギャアアッ!」
耳障りな悲鳴と手に伝わる鈍い感触で、アンネリーゼは我に返った。緑色の皮膚を真っ二つに切り裂かれた有角小人が血しぶきを撒き散らし、どうっと地面に倒れる。
斬ったのは……。
(ワシだ。そなたではない)
さっと振って刀身からどろどろした血を落とし、返す刃を次の標的に叩き込む。一連の動作にはいっさいの無駄がなく、洗練すらされていた。とてもアンネリーゼがやっているとは思えない。
(ワシがやっておるのだ。そなたは何も見なくていい)
アンネリーゼの中にいる典膳が、アンネリーゼの身体を動かしている。
不思議な感覚だった。ダンスの練習くらいしかしたことのない身体が素早く動き、魔獣の攻撃を紙一重でかわし、お返しとばかりに急所へ一撃。
まるで現実感がない。
けれど肉を切り、骨を断つ感触はまぎれもなく現実だ。
「……いいえテンゼン、……私は、見ます」
典膳が戦っているのはアンネリーゼのためだ。なのに言われるがまま目を逸らし、守られているだけなんて耐えられない。
どんなに凄惨な光景が繰り広げられるとしても。
(……そなたは、思った以上の大物かもしれんな)
典膳が獰猛に笑った。
(よかろう、ならば刮目せよ。戦国を生き抜いた武士の戦いをな!)