15・白狐と死神の密約
侯爵家の使用人部屋に閉じ込められてから半日以上が経った。ベッドの端に腰かけ、じっと扉を見つめながら、少年はため息をつく。
(……姫様は、目が覚めただろうか。いつ俺を迎えに来てくださるのだろう……)
幻術は狐、それも白狐は特に得意とするところ。姫様のしもべになったことで増強された魔力なら、大半の人間を騙せるはずだった。
だが侯爵家の当主マリウスは一目で見抜き、少年をここに閉じ込めた。あれはただ者ではない。マリウスがその気になれば、少年を簡単に意のままにできるだろう。
警戒していた少年だが、あの薄氷色の瞳の男が部屋に押し入ってくることは今のところない。食事を運んでくるメイドや従僕が少年に色目を使うこともない。
結果として少年は、ここ数年で最も穏やかな時間を過ごしているのだ。
労働も奉仕も強要されず、ただ食ってぼうっとしているだけなんてどれほどぶりだろう。ひょっとしたら赤子以来かもしれない。
何もしなくていい時間は頭の奥にこびりついた記憶を浮き上がらせる。母だと信じていた女に手を引かれ、逃げまどった記憶。売られそうになり、路地をさまよった記憶。結局捕まり、薄汚い人間たちのもとを転々とした記憶。ようやく逃げ出したと思ったのに辺鄙な村で行き倒れ、また捕まった記憶……。
行き倒れた少年を拾ったのは、村長の娘だった。見た目は優しげだったが、頭の中は狂っていた。
『私を見て』
『私だけを愛して』
『私だけのものになって』
少年の美貌に魅了された村長の娘は、真名を明かせとことあるごとに迫った。獣人は真名を把握されたら魂まで従属させられてしまう。こんな女に従属するのはまっぴらだ。
頑として口を割らない少年に焦れた村長の娘は、少年を納屋に運び、恐ろしい宣言をした。
『貴方が真名を教えてくれるまで、貴方の手足を一本ずつ切り落としていくから』
そしてためらわずに実行した。わざわざ錆びた斧を使ったのは少年により苦痛を与えるためか、少年の悲鳴を堪能するためか。きっと両方だろう。そういう女だ。
たぶん少年の悲鳴に村人たちは気づいていたが、助けは来なかった。獣人のために村の有力者に逆らう気にはなれなかったのだろう。あるいは村長の娘の危険性が知れ渡っていたのか。
幻術を使えたら逃げるのは簡単だったが、長い奴隷暮らしのせいで少年の魔力は枯渇していた。枯渇状態が長期間続けば身体は魔力を生み出せなくなる。
なすすべもなく右足を奪われ、左足も奪われ、次は右腕だと宣言された翌日だったのだ。魔獣の群れが村を襲ったのは。
村長の娘は少年を連れて逃げようとして、少年の鎖をほどこうとする間に背後から豚面獣に食い殺された。娘の骸をばりばり食らいながら離れていった豚面獣は、がりがりに痩せた少年は好みではなかったらしい。それきり戻ってこなかった。
あちこちで響いた村人たちの悲鳴はだんだん聞こえなくなり、やがて血の臭いと共に魔獣どもの鳴き声が充満した。納屋に閉じ込められて動けなかったのが幸いしたが、いずれ魔獣どもは少年を見つける。奇跡的に見つからなかったとしても飢え死にだ。
糞みたいな人生の終わりは、やはり糞みたいだった。
一族の悲願を叶えるなんて、本当に可能だと思っていたわけじゃない。ただ理由が欲しかっただけだ。生きる理由が。……生きていてもいい理由が。
せめて、最期に光が見たい。
ずっと少年とは無縁だった光。強くまぶしい太陽の光に一瞬でも照らされてから逝きたい。
そんな時、彼女は現れたのだ。
『死とは! 永久に血と恥辱と汚濁にまみれること、です!』
『それでも死にたいというのなら……その命! 私に、捧げなさい!』
空のような瞳を潤ませて、太陽のような髪をなびかせて。
その背中には、白い光の翼が生えていた。
『我がしもべよ、よみがえれ』
翼から放たれた光は失われた脚を再生させたばかりか、痩せ細った身体も、枯渇して戻らないはずの魔力まで復活させていた。みなぎる体力と気力は奴隷に落ちる前より、いや、一族の幹部にも匹敵するかもしれない。
姫様のしもべになった恩恵だと、姫様の中にいる典膳が教えてくれた。自分は白狐でも奴隷でもなく姫様のしもべなのだ。この命は姫様に捧げたのだ。そう思うだけで絶頂してしまいそうだった。
ここに閉じ込められてもおとなしく待っているのは、自分が暴れれば姫様が困ると思うからだ。自分の恥は姫様の恥だと思えば、自然とふるまいは改まった。
自分と姫様の間には確かなつながりがある。誰にも断ち切れないつながりが。
そのつながりが教えてくれる。姫様は近くにいて、少年を迎えに来てくれると。だから十年でも百年でも待てる。じっと扉を見つめながら。
「……!」
こちらに近づいてくる足音を、人間の数十倍を誇る獣耳が捉えた。使用人とは違う。重々しい足音は戦う者特有のものだ。しかも完全に消すこともできるのに、わざと音をたてて歩いている。おそらくは少年に聞かせるために。
少年は立ち上がり、扉の脇の壁に張りつくように身をひそめた。この部屋の扉は廊下に向かって少し突き出しているから、ここなら扉から入ってくる者の死角になる。足音の主の狙いが何であれ、こちらが先手を取れる……。
「……お前があの子のしもべか」
「っ!?」
緊張をわずかにゆるめた瞬間、背後から首筋に冷たいものが押し当てられた。獣の勘がささやく。背後にいるのは、まるで子どもが花を摘むように自分の命を摘み取れるモノだと。
実際に、ソレは名乗った。
「俺は『死神』だ。子狐、お前の命は今、俺のたなごころの上にある」
小馬鹿にした呼び方にも腹は立たなかった。死神の言うことは事実以外の何物でもないからだ。
だが、疑問はある。
「……死神が、俺に何の用だ」
死神は命を刈り取るのが務め。この死神なら少年に存在を悟らせずに殺すこともできたはずなのに、なぜ対話を求める?
「聞きたいことがある」
「……」
「お前が『姫様』と呼ぶあの娘。もしも世界中の全ての者があの娘にすがり、あの娘一人で世界中の人間が救われるとしたら、お前はどうする?」
刹那、視界が紅く染まった。
それは妄想の中で姫様にすがる衆愚をこの手で切り裂き、飛び散る血しぶきであり、踏みにじった肉の断面であり、血に染まった大地であり、全てを焼き尽くす炎であり……。
「全部、なかったことにする」
「なかったことに……?」
「姫様は優しいから、すがられたらきっと助けようとする。だからその前に、姫様にすがろうとするやつらを全部焼き尽くす。そうすれば姫様は何も悩まなくていい」
知らないうちに、唇がつり上がっていた。
はあ、と嘆息した死神が少年から離れる。向かい合った死神は姫様と同じ金色の髪に碧眼の偉丈夫で、その手は何も持っていない。隠したのではなく、最初から丸腰だったのだ。長身から発散される静かな殺気が凝り固まり、刃のように感じていただけ。
「『死神』、ジークヴァルト……」
その名が自然と口をついた。ろくに人間の社会と関わってこなかった少年でも知っている。この王国には生きた死神がいると。死神の刃に触れれば最後、生きては帰れないと。
けれど殺気から解放された嗅覚は信じがたい匂いを捉える。求めてやまない姫様の匂いが、かすかに、けれど確かにこの死神から漂ってくる。
「お前が姫様と呼ぶあの子は、俺の娘だ」
明かされて納得した。命を刈り取る死神と死にゆく者を導く戦乙女は、死をもってしか報われない者にとっての救いだ。
「娘はお前をそばに置きたいと望んでいる。……一つだけ条件を呑むなら、叶えてやってもいい」
「呑む! 何でも呑む!」
食いつくように叫んだ。死神の条件がどんなに厳しくても、姫様のそばにいるためなら絶対に守るつもりだった。
けれど実際に提示されたのは、拍子抜けするほど簡単なことで。
少年はもちろん迷わず受け入れて。
――そうして、名実共に姫様のしもべになったのだ。
『拍子抜けするほど簡単』なのは少年にとってであって、普通の人間にとってはかなり難しいことです。内容はいずれ。
これにて一部本編は完結、次回はダミアン視点の番外編です。