13・お父様の真実
「……お父様、どうしてここに?」
アンネリーゼがおずおずと尋ねると、ジークヴァルトは小さく背中を揺らした。
「マリウスから、通信魔法で連絡があった。お前が魔獣の群れに置き去りにされ、死ぬところだったと」
「おじ様が?」
かつん、と足音がした。きつく抱きしめられているせいで見えないが、たぶんマリウスだ。
「ほんの一時間ほど前にな。お前は南境の森に出現した魔獣の群れを討伐していたはずなのに、どうしてこんなに早く来たんだ」
「南境の森!?」
アンネリーゼは驚いた。南境の森からこの侯爵領は、竜車でも二十日はかかる距離だ。ジークヴァルトのグリフォンなら地形を無視して移動できるが、たったの一時間? それも魔獣の討伐をしていた?
「愛しいアンネリーゼが死ぬところだったのに、魔獣と遊んでいられるか。三十分で始末して、三十分で飛んできた」
何か問題でも? と言いたげな口調にマリウスが頭を抱える気配がする。
(……そなたの父御は、なかなかの怪物よな)
典膳もあぜんとしていた。アンネリーゼも同感だ。どこの世界にたった三十分で魔獣の群れを始末できる人間がいるのか。『死神』とは祝福ではなくジークヴァルト自身のことではないかと疑いたくなるけれど。
「愛し、い……?」
父の正体よりも、その言葉の方がアンネリーゼは気になった。父は溺愛する妻を殺した娘を、嫌っているのではなかったのか。
「お前は自分を嫌っているのではないかと、アンネリーゼはずっと思っていたようだ」
「馬鹿な! なぜそうなる!?」
マリウスの補足にジークヴァルトが愕然と叫んだ。アンネリーゼはジークヴァルトの汚れた軍服をきゅっと掴む。
「だってお父様は、私が生まれてからずっとそばに置いてくださいませんでした。いつもお祖父様に任せきりで、ダミアン様と婚約してからは侯爵家に預けられて……顔を見にも来てくださらなかった」
「それは……っ」
びくりと震えたジークヴァルトの腕がわずかにゆるむ。アンネリーゼは押しつけられていた胸から顔を上げ、ずきんと胸が痛むのを感じた。
焦燥と悲しみにゆがんだ精悍な顔。『死神』のこんな表情を見たのは、亡き母以外にはきっとアンネリーゼくらいだろう。
「……お前は、怖くないのか」
思わずまじまじ見つめていると、ジークヴァルトはとまどったように問いかけてきた。
マリウスが息を詰める気配がする。
「なぜ、私がお父様を怖がるのですか?」
「『死神』を怖れない者はいない。俺を養育した神官たちも、それを命じた王も、同じ戦場を駆ける者も、いつも恐怖に身を震わせていた。……女性で俺を怖れなかったのは、テレーゼくらいだ」
初めて聞く父の過去はアンネリーゼの胸を締め付けた。王国の安寧に『死神』は多大な貢献をしているはずだ。なのに感謝するどころか、怖がるなんて。
「お前にだけは怖がられたくなかった。お前に怖がられたら、俺は生きる意味を失ってしまう」
「……待って、ください。お父様は、私が……お母様を死なせて生まれた私が憎いのではなかったのですか?」
尋ねた瞬間後悔した。そんなの、もうわかりきったことではないか。
でも尋ねなければ、本当は違うのかもしれないと一縷の希望を温めていられたのに。わざわざ自分から傷つきにいくなんて――。
「憎いものか。お前はテレーゼが命がけで託してくれた宝だ。お前より大切なものは存在しない」
「……っ……」
「だから、お前に怖がられるくらいなら最初から離れている方がましだと……そう思って……」
あまたの敵を戦慄させた『死神』がしおしおとうなだれる。
これは現実なのか。アンネリーゼはマリウスを見上げたが、苦々しげにうなずかれた。……現実なのだ。
(人のことを言えた義理はないが、不器用な男よの)
典膳がつぶやいた。
(アン、こやつはな、そなたが寝入った後、たびたび枕元に忍び込んできてはじっと寝顔を眺めておった。それはそれは幸せそうな顔でな)
――えっ?
(そなたが祖父のもとに預けられている頃から、ずっとだ)
だから、だったのか。
遠ざかっていく父の後ろ姿がやけに脳裏に刻み込まれているのは。
寝顔を眺めて去っていく父を、夢うつつに見つめていたから。
怒り、もどかしさ、切なさ……さまざまな感情がぐるぐると頭の中を回る。
でも、言いたいことは一つだけだ。
アンネリーゼは大きく息を吸い、小さなてのひらで父の両頬を挟み込んだ。
「私を、舐めないでくださいませ」
「ア、アンネリーゼ……?」
「私はアンネリーゼ・マルガレータ・フォン・ランドグリーズ。『死神』の娘です。私を愛してくださるお父様を、……どうして、怖がることなどありましょうか」
視界がぼやけ、ジークヴァルトの頬に添えた手が震えはじめる。アンネリーゼ、とマリウスが声を上げた。でも黙ってなんかいられない。
「私は、お父様のおそばにいたい」
「……っ」
「離れたくない。お父様と一緒にいたい……!」
わななく腕がアンネリーゼをさらうように引き寄せ、たくましい胸に閉じ込めた。
「すまない、アンネリーゼ……すまなかった」
「お、父様……」
「俺がずっとそばにいれば、ダミアンにあんな真似はさせなかったのに。怖い思いをさせてすまなかった」
何度も謝られるうちに、ふ、ふぅっ、と嗚咽がこみ上げてくる。
そうか……私は怖かったんだ。
ダミアンに見捨てられて、魔獣に囲まれて、親飛竜に遭遇して……ずっとずっと怖かった。でも泣かなかった。泣けなかった。泣いても助からないから。生き延びるためには、戦わなければならなかったから。
でも、この腕の中ならもう何の心配も要らない。どんな怖いものからも守ってくれる。
「う……、わあぁぁぁぁん! 怖かった、お父様……怖かったよぉ……!」
アンネリーゼはジークヴァルトの首にしがみつき、わんわんと声を上げて泣き出した。不器用な、だが大きく優しい手が、上下する小さな背中をさすってくれるのが心地よい。
「もう大丈夫だ、アンネリーゼ。俺が付いている」
何度も何度も耳元でささやく声は低いのにしっとりと甘く、大地を潤す慈雨のようにアンネリーゼの心に染み込む。
「どこにも行かない。ずっとそばにいるよ……」
(……我が身を持つ幸せ、か。うらやましいことだ……)
典膳の独り言は、泣きじゃくるアンネリーゼには聞こえなかった。