12・一人目の代父とお父様
薄氷色の双眸に射貫かれた天秤は、ガクンッ! と動きを止めた。左右の皿は水平を保ち、釣り合っている。
「契約は成立した」
マリウスがおごそかに告げた瞬間、天秤は光の粒になって砕け散った。光の粒は驚愕するアンネリーゼの右手に吸い込まれていく。
「あぁっ!」
カッと熱くなった右手をかざせば、親指の付け根のあたりに鈴蘭の紋章が薄氷色の光を帯び、刻み込まれていた。しばらくすると消えてしまったが、その存在は確かに感じる。
「これで私は貴方の代父だ」
鈴蘭の紋章が刻まれたのをしっかり見届け、マリウスは宣言した。鈴蘭はロスティオーフ侯爵家の紋章だ。使用できるのはマリウスだけであり、アンネリーゼを害することは、マリウスを敵に回すことを意味する。
「おじ様……何てことを……」
(いやアン、これはむしろ僥倖やもしれぬぞ)
典膳がやけにうきうきしている。さっきまではどちらかといえば、マリウスを警戒している様子だったのに。
(こやつが代父になっても、義務に縛られるのはこやつだけだ。そなたは養われ、守られるだけ……すなわち、大きな顔でタダ飯を喰らえるのだぞ!?)
――どこまでタダ飯が好きなのですか!?
大声で突っ込みたくても今は不可能だ。
(肉親でも血縁でもない者から喰わせてもらうタダ飯は
、タダ飯序列の中でもかなりの上位だ。しょっぱなからこれを引くとは、そなたはなかなかタダ飯喰いの素質がある)
タダ飯に序列なんて存在するのか?
タダ飯喰いの素質とは何だ?
心の中で懊悩するしかないアンネリーゼの手を、マリウスがそっと取る。マリウスの魔力に反応し、親指に鈴蘭の紋章が浮かび上がった。
「私は何があろうと、貴方にとって不利益になる言動は取れなくなった。貴方の祝福がどのようなものであっても決して口外はせぬし、利用もしない」
「……」
「だから頼む、アンネリーゼ。私を貴方の味方にならせて欲しい。貴方の祝福が誰かに知られてしまう前に」
真摯な口調にアンネリーゼははっとした。
いくらアンネリーゼがひた隠しにしても、『黎明の戦乙女』の祝福はいつ何がきっかけで露見してしまうかわからない。いくらジークヴァルトでも国王に命令されれば許可せざるを得ないだろう。
マリウスはその時、アンネリーゼの味方になると言っているのだ。代父という大きな保証をつけてまで。
心から迷いが消えていく。
(おお、タダ飯の良さがわかったか!?)
「お話しします、おじ様。ダミアン様に置き去りにされたあの時、何があったのか」
嬉しそうな典膳を無視し、アンネリーゼは語っていった。置き去りにされたあの村で何が起きたのか。どのような祝福を覚醒させたのか。
ただし典膳の存在だけは伏せておいた。手柄を横取りするようで気は咎めたが、『魂の伴走者』は『黎明の戦乙女』以上に稀有な存在だ。マリウスが利用しようとすることはなくても、危険だと判断したら、魔法で何らかの処置をするかもしれない。
(アン……そこまでタダ飯のことを……)
時おり聞こえてくる典膳の声は黙殺し、白狐の少年のことまで全て語り終えると、マリウスはめずらしく驚愕をあらわにした。
「『黎明の戦乙女』。そのような祝福、聞いた覚えがない。それも鑑定には引っかからず、条件成就によって覚醒するなど、私の知る限り初めてのケースだ」
「そうなのですか?」
「ああ。もう一つ、『勇将の下に弱卒無し』だったか。それもおそらく他に保持者はおるまいが、一人が同時に複数の祝福を与えられるのは、皆無ではなくともめったにないことだ。しかも、これほど強力な祝福を」
マリウスの表情は真剣そのものだ。典膳が評した以上に、二つの祝福はとんでもない性能だったらしい。
「それに……説明を聞いた限り、どちらの祝福もしもべの人数によって強化されていくようだ。『黎明の戦乙女』では、しもべが増えれば使える武術も増え、貴方の能力も上昇する。『勇将の下に弱卒無し』ではしもべが強化される。強化されていく祝福も、私は知らない」
『大魔法使い』のマリウスが知らないということは、他には存在しないという意味だ。
アンネリーゼの額をつうっと汗が伝い落ちる。『死神』の娘でありながら祝福を持たない出来損ないだと陰口を叩かれ、婚約者にすら馬鹿にされていた自分に、こんなことが起きるなんて。
「どちらの祝福も、明かす相手は厳選すべきだろう。ジークの他には私のように、契約で縛られた者くらいにしておかなければ、貴方は利用され使い潰される」
「……お父様にも、明かすべきなのでしょうか?」
アンネリーゼが問うと、マリウスは首を傾げた。
「当たり前だろう。彼は貴方の父親なのだから」
「……ですが、お父様は私を嫌っていらっしゃいます。私なんかのことで悩ませるわけには……」
「は? ……ジークが、……貴方を、嫌う? なぜそんなことを?」
マリウスはなぜか慌てるが、うつむいてしまったアンネリーゼは気づかない。膝に置いた手が小刻みに震えはじめる。
「だってお父様は、私をずっとお祖父様に預けっぱなしで……こちらに預けられてからも、一度も会いにきてくださらなくて……」
「ま、待て、アンネリーゼ。それは誤解だ。落ち着いて」
「お母様を死なせた私なんて、お父様に嫌われて当然かもしれませんけど……」
「……くっ! もう来たか!」
――オオオォォン!
焦った顔のマリウスが魔力を展開した直後、獰猛な獣の咆哮がとどろいた。
びりびりと空気が振動し、寝室の、いや侯爵邸の壁という壁を、窓という窓を揺さぶる。
後になって聞いたのだが、その程度で済んだのはマリウスがとっさに防御結界を張ったおかげだったのだ。もし結界が間に合わなければ屋敷は半壊し、使用人たちも卒倒していただろうと。
咆哮一つでそれだけの威力を発揮するのは、並み居る魔獣でもごくわずか。このヴァルチュール王国には『死神』ジークヴァルトの騎獣、グリフォンくらいしかいない。
「……ゼ!」
窓の方から聞こえてきた声に、アンネリーゼは耳を疑った。そう何度も聞いたことはないけれど、覚えている。忘れようがない。
この声は。
「お父様……」
「……っ、アンネリーゼ、そこか!」
ズシンッ……。
巨人の足音のような地響きが床を震動させる。何かに突き動かされ、アンネリーゼは立ち上がった。
「待て、アンネリーゼ!」
マリウスに制止されても構わず窓辺に走り寄る。じっとしてなんていられない。
もどかしい気持ちで開けた窓から、長身の偉丈夫がひらりと飛び込んでくる。短く整えられた金髪も透き通った碧眼も、気高い獅子のような顔立ちも、記憶と寸分も変わらない。
見つめあった刹那、抱え込んでいた思いがあふれそうになった。
なぜ、私を置き去りにするのですか?
なぜ、私を愛してくれないのですか?
なぜ、会いにきてくれなかったのですか?
なぜ、今にも泣きそうなお顔をなさっているのですか?
けれど。
「アンネリーゼ……、無事で、……無事でいてくれて良かった……」
床に膝をつき、息が止まるほど強く抱きしめてくる腕が震えていたから。顔を押しつけられた胸の奥で、心臓がどくどくと激しく脈打っていたから。
「……お父様……」
アンネリーゼはおとなしく身をゆだね、父ジークヴァルトをそっと抱き返した。
お父様、やっと登場しました。
ここから挽回できればいいのですが。




