21、左利きの侍女頭(2)
「この扉の向こうに彰鈴妃がいらっしゃいます。ご挨拶できる準備ができたら呼びますから、少しお待ちなさい」
雨萱はそう言って扉の向こうに入っていった。
待っている間、扉の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてくる。
花の装飾が凝らされた扉の向こうで交わされる会話は、普通の人間なら聞き取れない声量。でも、紺紺は耳がいいので会話が丸聞こえだ。
「まあ、桜綾、これが冶葛ですって? わたくしに毒の備えを勧めますの? 恐ろしい……わたくし、毒よりも花茶が好きですわ」
「彰鈴妃。黒貴妃様や紅淑妃様はご実家から開運招福の家宝を後宮に持ち込んでいると聞きます。ご実家が護衛用の術師を送ってくれている妃様もいらっしゃるんですよ」
「桜綾。実家、実家と、気が滅入ることを言わないでください。他家の妃に比べて実家がわたくしを守ってくれていないことなんてわかってます」
「いつどのような諍いに巻き込まれるかわかりませんもの。有事に備えて、せめて出来る備えをなさいませ」
「……諍いに巻き込まれて、毒をどのように使いますの? わたくし、今よりも上の地位を目指す気はありませんの。現状維持で、諍いに巻き込まれないように平穏に過ごすつもりですの」
……不穏な会話。
桜綾は、以前お仕事をたくさん抱えて走っていた時に声をかけてくれた侍女だ。そういえば、彼女は咸白宮の侍女だった。
紺紺がついつい耳を澄ませていると、時間を知らせる声が二人の会話を遮った。
「お話中、失礼します。新人の侍女が挨拶に参りました」
「もうそんな時間でしたか。通してくださる?」
雨萱が扉を開けて中へと招いてくれるので、紺紺は礼をした。
長榻に寛ぐ彰鈴妃は、儚い印象の姫君だった。
金木犀をあしらった薄黄の上衣がよく似合っていて、柿色の帯に若菜色の紐飾りを重ね結びしているのが可憐だ。
腕にかける薄紗の布は帔帛といい、ひらひらしていて天女の羽衣のよう。髪を彩る蛋白石付きの簪も、動くたびにきらきらしていて、綺麗。
手に持っている二つの黒い陶器の壺は、桜綾から渡された毒物だろう。
受け取ってしまったらしい。彰鈴妃は少し迷ってから侍女頭の雨萱に壺を渡し、棚に仕舞わせた。
そして、紺紺に着座を勧めた。しかも、自分の座る隣を手で示して。
「立っていると疲れるでしょう。お座りください」
「え、あ、ありがとうございます……っ?」
普通、侍女は主人の隣に座らない。
この待遇はおかしいのでは?
周囲を見るが、雨萱は「いいのよ」と頷いてくれた。
いいらしい。
……本当に?
いきなり「無礼者」とか言い出さない?
「いいのよ」
「あっ、はい」
ちょこんと座ると、彰鈴妃は何かを運ばせた。
……揚げ芋?
「わたくしは、彰鈴です。お名前を教えてくださる? あ、この揚げ芋さん、わたくしが育てたお芋さんです。お料理も、わたくしがしたの。召し上がって」
「ふぇっ? 今、なんて……あ、名前は、紺紺です」
「変わった名前。紺は青地に赤色を挟みこんだ色。一色に染まらず複雑な色合いを見せる夜空の色。そして、文字自体は縁を紡ぐより糸の形と甘の形で造られている……素敵なお名前ですわね」
「ありがとうございま……」
「育てた」とか「料理した」とか聞こえた気がする。気のせいかな?
そして、なぜ揚げ芋を箸で挟んで「あーん」と食べさせようとしてくるのかな?
「召し上がって」
このちょっと逆らいにくい雰囲気は、兄の霞幽に似ている。
ほくほくの揚げ芋を味わいながら、紺紺は思った。
「美味しい? あなた、病気がちなのですって? わたくしが美味しいものをいっぱい食べさせてあげるから、元気になりましょうねえ」
「おいひいです……私は元気です……」
「たんと寝て、栄養を摂取して、わたくしと一緒に傾城様ごっこをしましょう。健やかになりますわ」
儚げな微笑で、よくわからないことを言っている。
彰鈴妃は、不思議な妃だ。
謎なところは「兄君と似ている」と言えなくもない……かもしれない?
「んふふ。咸白宮の侍女は、全員わたくしの姉妹です。ここをお家だと思い、他のみんなを家族だと思って過ごしてくださいね」
「はい……!」
彰鈴妃は「妹が増えましたわ」と微笑み、揚げ芋を持たせて個人部屋に返してくれた。本日は、挨拶だけでお仕事が終わりらしい。
「優しい方でよかった」
どちらかというと、優しすぎてびっくりかもしれない。
自室に戻った紺紺は、霞幽からの二枚目の手紙を開いた。咸白宮に着いたら読むように、と言われていたからだ。
『咸白宮で働くと聞いたので、君の参考になればと思い、妹のことを書きます。
妹について――
年齢ニ十歳。好物不明。嫌いな人物は私。
お気に入りの侍女は雨萱。
何がしたいか不明。
何を考えてるか不明。
悪女としてお気に入りの侍女と断罪されるかもしれない。詳細不明。
おまけ、主上が羊に「めえこ」と名をつけました』
「……悪女としてお気に入りの侍女と断罪されるかもしれないっ?」
あの優しそうな方々が?
それにしても、「参考になれば」と言う割に不明情報がいっぱい。何を参考にしたらいいのだろう。
それに……「めえこ」の情報、いる?
「今日はもう就寝時間だし、寝ようかな」
おやすみなさい、と呟いて灯りを消すと、部屋が真っ暗になる。
臥牀は寝心地がいい。
でも、「おやすみ」に返事してくれる人は誰もいない。
「……」
そよそよとした外の音が聞こえる。
集団房室と違って、誰かの寝言や寝息が聞こえてきたりしない。
誰かがごそごそ寝返りを打ったり、ぐすぐすと泣き出したり、厠に起き出したり、「ねえ起きてる?」と囁き声で夜更かし話をすることもない。
静かな寝室は、伸び伸び過ごせる一方で、ちょっとだけ寂しい……。
「みんな、今日どんなお仕事したのかなぁ」
どんな出来事があって、何を感じたんだろう。
親しい人たちの顔を思い浮かべて寝返りを打ったけれど、寝付ける気がしない。
そんな紺紺の耳に、部屋の外の声が聞こえてきた。普通の人間の聴力では聞こえない、小さな声だ。
「こんな時間まで大変ね」
「桜綾さんも」
「ねえ、今日配属された新人がいるでしょう?」
どきりとした。それは、自分のことだ。
「雨萱様って、私たちに嫌われているから新人を味方につけようとしてるみたい。すごく甘やかしてたわ」
「へえ……そうなんですか……」
「あなた知ってる? この前ね、雨萱様が私に言ったの。あなたたちをクビにして人員を刷新する時期かもねって」
「えっ、やだ。そんなことを仰ったんです……?」
会話していた人たちが遠ざかり、やがて声は聞こえなくなった。
声が完全に聞こえなくなってから、紺紺は耳を塞いだ。
聞かない方がいい会話だった気がする。
少なくとも、聞いていて良い気分はしなかった。
今のは、陰口だ。
それも、「良い人だ」と思っていた桜綾が「良い人だ」と思っていた雨萱の陰口を言っていた。
「実は悪い人? それとも、良い人だけど悪く言われてる? ……どっちが?」
紺紺は布団の中で悶々として、夜明け近くになってからようやく眠りについた。




