9話 18歳の初夏(前編)
チケットの日付けはゴールデンウィークだった。
「オレたちももらったよ」
タカ兄が中華鍋を振り上げながら言う。
「オレと母さんのぶん」
「知らなかった。いつ?」
沙夜は小ネギを切りながら返す。
言いながら、何か違和感を感じたが、深掘りするヒマはない。
いまは絶賛混雑中だ。考えごとをしていたら怪我をする。
「たしか、四月の頭」
いっちょあがり、と滑ってきた皿には飯つぶが輝くチャーハンの山。そこに切ったばかりの小ネギを添えてカウンターに出す。
「はい。どうぞ」
子どもたちが口々に、ありがと、さやねえちゃん、たかにい、ネギきらい、と一斉に話す。
「好き嫌い言うやつはうちの暖簾をくぐるんじゃねえ!」
小学生とタカ兄がお馴染みのやりとりをするまでが一連の流れだ。
次から次にチャーハンを量産して、ふうとひと息ついたときに、カレンダーが目に入った。
(そっか、もう四月か)
それも下旬。
コンサートまでの日にちを数える間もなく、年度替わりは慌ただしく過ぎてゆき、沙夜は三年生になった。
新しいクラスに馴染む……とか、そういう類いのことはすでに諦めて久しい。お弁当は一人で食べられるし、同級生と苗字で呼び合うくらいの関係性は築いている。スクールカウンセラーやフリースクールの先生と相談して、保護者の多く来校する行事には参加しないことに決めた。
何も困っていない。
(でも、寂しいこともある)
放課後の癒しの時間が、ほとんどなくなってしまったこと。
多津教諭と話をできるひとときが、自分にとって学校の《居場所》だったんだな、と改めて気づく。
ただ学校という特殊な空間だったから築かれた関係性。それは脆い砂の城のようなもの。
いついなくなってしまうかもわからない存在。
(寂しい、なんて、久しぶりに思ったかも)
先日の《つなぎ》発言を引きずっているのかもしれない。
「らっしゃーい!」
タカ兄の張りあげた声に、頬をピシッと叩く。集中!
「紹介で来たんですけど、《多津》の」
「えっ?」
せっかく気合いを入れたのに、心を惑わすその名前。
玄関で片手をあげたのは——
「花吹先生!」
「よ」
「わーっ、どうしたんですか!」
「ん、前から来てみたいとは思ってたんだよ」
カウンターにビジネスバッグや何やら置いて、花吹教諭はネクタイを緩めた。
「あちぃな、ここ」
「今日のおまかせ定食チャーハンなので。火力強めです」
「おお、うまそう。ビールねえの?」
「ないです!」
ああそっか、子ども食堂だっけか、と言いながら席につく花吹教諭を、まだ残っていた子どもたちやタカ兄が、怪訝な顔で見つめている。
「あっ、えっと、この方はですね——」
「花吹先生でしょ!」
奥から泉さんがやって来た。
片手に三角巾、片手に缶ビール二本。ん?
「はーい、どいて、どいてー。そちら大事なお客さまです」
「いずみさーん! ひいきー!」
「贔屓しますよ。こちとら慈善事業なんでね」
「いみわかんない!」
沙夜もくすっと笑う。
(慈善事業だからヒイキするんだ)
子どもたちの可愛い文句をかわしながら、泉さんはカウンターに近づいた。
花吹教諭は一端の社会人っぽく、立ち上がって一礼する。
「先日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそご足労頂いて——ご注文はなさいました?」
「ああ、じゃあチャーハン頂いてもいいですか」
沙夜は黙ってタカ兄の目を見た。タカ兄は目を閉じて首を振る。ちょっと呆れ気味。
奥で洗い物をしている彩にも視線を送ってみる。ボイラーの音で聞こえなかったのか、一生懸命泡にまみれている。
タカ兄が「とりあえず卵とって」と、ため息をついた。
この日花吹教諭が来た意味は、コンサートの当日に知らされた。
「引率!?」
「さーや、頭動かさないで!」
彩はアイロンで器用に沙夜の髪を巻いてくれている。
「泉ママがねえ、なんか話を回してくれたみたいで。やっぱ何かと物騒だし、大人がいたほうがいいんじゃないか、って」
「泉さんがいるじゃん」
「それがどっこい」
どっこい、と沙夜が復唱する。
「鷹也さんと泉ママは、ちょっと用があって、そこから直接行くって言ってたから」
「あれ、そうなの? じゃあ、もう出発しちゃったの?」
「うん。鍵預かりました」
そんな話をしているうちに、可愛い髪型になっていた。
「ウラ編みでハーフアップにしてみましたー」
「すごい〜器用だね」
「服はこちら!」
白いワンピース、としか沙夜には表現できないが、彩の語りに寄ると、「ヘムラインのワンピース」らしい。
鎖骨が見えるほどの衿ぐりから胸のした、ウエストより少しうえで切り替えられ、やわらかにふくらむ裾は長さがちぐはぐで、脚を動かすとゆれて太ももまで見えそうだ。
「あたしのお下がりでごめんけど」
「え、ありがと……借りていいの?」
「あげるよ」
「うそ!」
「なんで嘘。笑うわ」
彩はファスナーを下げながら話した。
「さーやの体型くらいがちょうど似合う。あたし、そこまで衿あいてると、ゴツゴツの胸もと見えちゃうから」
言いながら、彩はアクセサリーを選び始めた。
沙夜はとりあえず着てみて、ふわふわの裾をゆらしてみる。
「あーちゃん、この裾、大丈夫ですか」
「へ・ム・ラ・イ・ン!! そのアシンメトリーがゆれてシルエットをアピールするの!」
いったいなにを言っているのか、カタカナが多すぎてわからない。
彩は鏡ごしに、沙夜の顔まわりにあれこれとアクセサリーを合わせていく。
「うーん、なんか、さーやはあんまり飾らないほうが可愛いね」
「それ、誉めてる?」
「ベースメイクはしたから〜、あとはビューラーして〜♫」
「楽しそうですね」
「そりゃそーだよ。変身するんだもん」
はい、出来上がり〜と言われて、沙夜は鏡のなかで上目遣いに彩を見た。後ろに立っている彩の顔は満足そうだ。ふんっと吐いた鼻息が沙夜の髪をゆらした。
「一階行こ!」
本日食堂は定休日。
店の戸締まりをすると、車のクラクションが鳴った。
おう、と窓越しに片手をあげる、花吹教諭の姿。
「準備はできたか、娘っ子ども」
彩は敬礼して、「準備万端です!」とおどけて答えた。
*
市営のイベントホールといっても、300人くらいは入りそうな施設である。
席をたしかめながら、花吹は女子二人を座らせた。
今ごろ多津は控え室だろうか。
「あ」
思い出したことを、今さらながら伝える。
「そういえば今回のチケット、《お返し》なんだとよ。伝えてくれっつってたのに忘れてたわ。青田、なんか心当たりある?」
「お返し……?」
「ココア、とか、なんとか言ってたな」
モゴモゴ喋る旧友の姿を思い出す。
対する青田は透きとおるような声で「ああ、バレンタインのお返しってことですね」と答える。
「ん? あげたの? 多津に?」
「あはっ、先生、眉しかめすぎ」
「おいおいおい」
「なんですか、恐いです」
「おまえら、どういう関係なの?」
とうとう訊いてしまった。
花吹の中の花吹がああーっと頭をくしゃくしゃする。
「えっと……」
(そこで頰を赤らめるな!)
ですよね、と食い気味に身を乗り出してきたのは、青田の友人だ。
「ぜったい、ただの教師と生徒じゃないですよね」
「《ただ》じゃなかったらなんなんだよ……」
「これじゃないですか?」
細い指で形づくられるハートマーク。
へえ、今はそれがハートマークか、と軽く押し寄せる世代の波。
「恋に年齢なんて関係なくない?」
「げ、煽んなよ」
「いーじゃないですか、恋バナ好き〜」
「えっと……そちら、お名前は」
「彩です! こんにちはー」
「えっと、アヤさん。世間には児童福祉法というものがありまして」
「18歳なら児童じゃないでしょ」
彩と名乗った少女は腕を組む。
「だいたい未成年相手だって、手ェ出してる人いっぱいいるじゃないですか」
「話すり替えんなって。『誰かがやってるから』とか言い始めるとキリがねえから」
「えっクチ悪っ! ほんとに教師!?」
そこでようやく、間に挟まれている沙夜が「ちがうから」と否定した。
「あっ、やっぱ教師じゃないんだ!」
「教師だわ! 青田、タイミング読め!」
沙夜が焦って訂正しながら「先生とは、そんなんじゃないから」とうつむく。
会場にアナウンスが響いて、人々のざわめきが静まる。
別行動をしていた二人がバタバタと席につく。
「ああ、間に合った!」
「もー、泉さんも鷹也さんもおそーい!」
「ごめんねえ、ちょっと手間取っちゃって」
あら、沙夜ちゃん、と小さくやさしい囁きが聞こえた。
「とっても綺麗よ」
そう言われて、恥ずかしげにうつむく姿は、年相応の少女に戻っていた。
大人と子どもの境目、稀有な眩さがそこにある。
(こんな青田見たら、多津のヤツ、どんな反応すんだろ)