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8話 17歳の仲春

「ふーん、栄養士ねえ」


 ピアノ椅子に座る花吹教諭が、「いいんじゃね」と付け足した。

 一応、迷惑をかけた自覚はあるので、事後報告をした次第である。


「今度、担任の先生と面接もすることになりました」

「おまえんち、なんか複雑みたいだけど、親は来てくれんのか?」

「私、親はいないんです」


 言った瞬間、先生の顔色が変わったのを感じた。

 だから被せ気味に言葉を続ける。


「あの、大丈夫です、後見のひとが——」

「わりぃ」


 花吹が気まずそうにうなじを掻く。

 一般的な反応だ。


「気にしないでください。言ってなかったですもん」

「そういうことは言えねえよ、なかなか。そりゃ進路希望も迷うわな」


 今度は沙夜の目を真っ直ぐ見てくれた。あたたかな瞳のなかに、労りと謝意の色がある。

 ああ、話しても大丈夫なひとだ、と嬉しくなった。


「もともと、食事には興味があったんです」


 ふっと昔の記憶がよみがえる。

 缶チューハイを片手にうなだれる母と、少し離れてカップ麺をすする自分。


(そこまでは言えないけど)


「友だちが、摂食障害で……たまに付き合いで、そういうフォーラムも行ったりして」

「セッショク障害?」

「まえは拒食症とか、呼ばれてたみたいですけど」

「ああ、それなら聞いたことがある。飯が食べられなくなるっつーか、ダイエットのし過ぎっていうのか?」

「ふふ、それくらいなら、まだマシなんですけど」

「……地雷踏んだか?」

「いえ、大丈夫です」


 (あや)のこと、大切な友だちのことだから、ちゃんと説明したいと思った。


「ちょうど後見人さんと進路相談した日に」


 多津にココア缶を渡した晩だった。


「その子がずぶ濡れで会いに来て……ちょっと、ご家族と揉めたみたいで」


 久しぶりの過食嘔吐をして、それを見た父親が彩を殴ったのだという。しゃくりあげながら話す彩が、ほんとうに痛々しかった。


「摂食障害で何がつらいって、たぶん飲食に恐怖を感じることと、それを誰にもわかってもらえないことなんですよ」


 毎日に不可欠な食べること。

 それが恐怖になってしまうなら、それはもう、生きること自体が恐怖になる。


「ふつうはケーキがご褒美だったり、友だちと食事に行くのが楽しみだったりするじゃないですか。でも、そういうこともできないから、学校でも家族のなかでも、どんどん孤立しちゃって……」


 居場所をなくして入院をした。退院できたかと思うと、家出をした。彩の家庭はあたたかなものではない。

 いまは食堂の二階で、沙夜と一緒に寝起きしている。


「その子が、『さーやの作った食事だけは、美味しく食べられる』って言ってくれてて」


 それが嬉しいんです、と、沙夜はありったけの勇気を振り絞って、言葉を結んだ。


「……サバイバーだな」


 サバイバー。生きるために闘っている人。

 花吹はうつむき、「アイツと一緒だ」と、複雑な面持ちで呟いた。

 その《アイツ》が誰なのか、沙夜にはわかる。


「そういえば、今日はいらっしゃらないですね。風邪……とか、ですか……?」


 相手の顔色を伺いながら、踏み込み過ぎないよう、気をつける。


「ああ、シフト調整だよ」


 沙夜の慎重な配慮とは裏腹に、花吹はあっけなく答えた。


「この時期には毎度のことだよ。心配すんな」

「多津先生、シフト出勤だったんですか」

「なんだ、聞いてなかったのか?」


 沙夜が首を振ると、花吹は鼻をフンと鳴らして「あの野郎、順番がちげえだろ」とけなした。


「じゃあ、来年度から出勤が減るってことも、聞いてねえな?」


(出勤が、減る?)


 それはつまり、今までのように会えなくなるということだ。


「……きいてないです」


 沙夜の顔があからさまに拗ねていたのか、花吹教諭が苦笑した。


「だよな、ふつー話せよって感じだよな」


 声色がもう沙夜を(なだ)めに入っている。

 花吹は立ちあがり、音楽の講義をするときのように、ピアノにもたれた。


「アフターコロナで変わった制度のひとつに、教員派遣の民営化ってのがあってな」

「あ……公民で聞いたかも」

「そうだろ。習ってるはずだ。覚えてねえのか?」

「ん〜、たぶん、むずかしかったのと、眠かったのと……」


 花吹は鷹揚(おうよう)に笑って、「ま、そんなもんだよな」と流した。


「つまり、公務員として働くほどの熱量はなくても、教員免許を持っているなら、民営の派遣会社に所属してもOKですよって仕組み」

「わあ、もうわかんなくなってきました」

「早えよ。まぁぶっちゃけ言うと、教員の離職率をカバーしようとしたわけ」

「うーん、つまり、正社員は無理だけど、パートならできる、みたいな人を増やした感じですか?」


 そう、と頷いた花吹が、顎に手を乗せて、ちょっと考えながら話を続けた。


「おまえらは、ちょうどアフターコロナの第二、三世代かな。教育や子育て支援に、ようやく国が危機感持ち始めた頃に生まれた世代」

「先生は?」

「俺は第一世代。酷かったよ。大人も子どもも、うつ病やら自死率やらめちゃくちゃだった。多津もその煽りを受けた一人」

「えっ」

「知ってんだろ。『青田さんにはバレてる』って、あいつ、飄々(ひょうひょう)と言いやがって」


 だから順番が違うってんだよ。

 花吹がぶつぶつ言いながら、ジャケットの内ポケットを探っている。

 取り出してみせたのは、二枚のチケット。


「これ、おまえに。多津から預かった」

「……邦楽ライブ?」

「市営の音楽ホールあるだろ。あそこでイベントやるんだと」

「イベント!?」

「多津はメインじゃねーぞ。あくまでも、邦楽仲間に誘われて、数曲入るって聞いたくらいだ」

「それでも凄いじゃないですか!」


 沙夜がチケットを仰ぎ見ると、花吹教諭は不満そうに舌を鳴らした。


「本当なら、こんな小さいイベント出るような弾き手じゃねえのに」

「弾き手……?」

「多津はもともと、箏楽師だったんだよ」


 しかも、いわゆる名門の、と花吹は付け足した。


「だからあくまで、教師は副業。病気療養中、てか、寛解(かんかい)中っつってたかな? とにかく《つなぎ》だと」


 ——つなぎ。


 その言葉が、なぜか沙夜の心の奥に沈んだ。

 これまでずっと大切に、つみ重ねるように紡いできた関わりが、糸切りバサミでちょきんと切られた、そんな感じがしたのだ。



 *



「そりゃあ(むご)いでしょ」


 部屋着の彩が、ばっさり言った。


「いや、そこまでは……」

「だってさー、さーやとタヅせんせーの関わり方、そんな軽いもんじゃなかったよ!?」


 お風呂も済ませ、前髪をあげた彩のひたい、左眉のうえに、まだ赤黒いアザが残っている。


「さーや聞いてる!?」

「あっハイッ、聞いてます!」

「家族の自死とか持病とか、そういう重い話ができるくらいの……なんていうの、シンライ? 信頼関係?」

「うん、それはある……っていうか、あったと思うけど」

「なのにいきなり、関係ぶったぎられたってことじゃん。それって、わざととしか思えない」


 鼻息荒く言い切られて、沙夜は枕に顔面を押しつけた。

 なけなしの《何か》——じぶんと多津教諭のあいだで特別だと共有していた感覚が——木っ端微塵に撃破された。

 ぐうの音もでない、とはこのこと。


「あっ、でもチケットもらったんだっけ?」


 沙夜は言葉もなく頷いた。

 二人のあいだに置かれたチケット二枚を指さす。


「なんで二枚なの! 鷹也さんか!?」

「……ちがうよ、彩の分だって」

「へ、なんで」

「彩は覚えてないかもしれないけどねえ、あのとき、多津先生お店にいたから」


 体育座りのまま、彩の顔を見る。

 形のよいくちびるが、ぱかーんと開いた。


「彩のこと心配しててくれたみたいで『気晴らしになれば』ってことで、二枚」

「っくぁぁぁ、初のタヅせんせーだったのに! 見逃したぁぁ! しかもあたしは涙鼻水出し散らかすという最悪シチュ!」


 カンカンカンカン、とゴングが鳴りそうなほど拳を振り下ろしてダウンした彩に、沙夜はなぐさめるつもりで「まあまあ」と言う。


「楽屋も行けるらしいから、そのときちゃんと挨拶できるよ」

「……さーや、そんなのんきな顔して、状況わかってんの?」

「状況?」

「推しかリアコか知らんけど、これからフェードアウトしていきそうな相手に、ズドンと大砲ぶちかますくらいの印象を! インプレッションを! 残さなきゃいけないんだよ!?」

「え、ええ……?」

「これは戦だから!」


 階下から泉さんの「女子ども、静かにしなさい!」という怒号が響いて、彩はようやく口を閉じた。





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