7話 17歳の初春
二月も半ばを過ぎると、食堂にちらほらと、受験生たちが合格を報告しにやって来る。
さやちゃん、たかにい、いずみさん、と、顔を見た順に、子どもたちははにかむように笑って「ありがとう」と伝えている。
「たづ先生も、ありがとー! これ、お礼!」
ガラガラと引き戸の音と一緒に声が聞こえて、鷹也は聞き耳を立てる。
「嬉しい。ありがとう」
多津は差し出されたものを受け取ったようだ。
見ると、小さくて可愛らしい紙袋にギフト用のリボンがついている。
女子生徒に手を振って、多津はカウンター席に着いた。
「おまかせ定食お願いします」
何事もなかったかのように注文する多津に、鷹也はつい、言ってしまう。
「それ、バレンタインチョコすか」
「え……ああ。そっか、そういう時期だね」
反応も淡白。舞い上がるような歳でもないらしい。
なんだか余裕を感じて、からかってみたくなった。
「本命だったりして」
「ホンメ……? あ、義理と本命のことか」
なつかしいなぁ、と笑う多津がなんとなく憎らしい。
「もらい慣れてそうっすね」
「そう、かな……ギフトとか花束は、けっこうあったかも」
「花束かよ!」
聞かなきゃよかった、と思いながら、鷹也はカウンターに水を出す。
ふと、多津が自分を見つめていることに気づいた。
「なんすか」
「いや……鷹也くんも、もらうのかな、と思って」
「あ? あー……」
そういえば先日、小学生たちからチロルチョコをもらったような気もする。
「あれがバレンタインと言えるなら、そっすかね」
「——青田さんから、とか」
出た名前に、鷹也は目を剥いて多津を見た。
「や、なんでも、ない、忘れてください」
表情は隠されて見えないが、耳と首が赤くなっている。
(は? なんだそれ)
いつのまに、そんなふうに意識するほど沙夜との距離が近づいたのか。
「……沙夜からもらってたら、どうなんすか」
「いや、ほんと、立ち入ったこと訊いて……」
スミマセン、と消え入りそうな声にかぶせて言う。
「もらいましたよ」
多津が弾けるように顔をあげる。
まるで純粋な子どもが慄いたような瞳に、鷹也は罪悪感を覚えてうつむいた。
「あ……あいつは、いつもやっすい市販チョコで、そんなのいらねっつってんのに……」
嘘だ。完全な見栄っぱりの虚言である。
小学生からのチロルチョコを、盛って話す自分が情けなくてたまらない。
(やばい、ダサすぎる)
変な汗が出てきた。
「あ、青田さん」
「先生! いらっしゃいませー」
肩がびっくりするぐらい上下して、鷹也はギギギと振り返った。
沙夜と母親が二階から降りてきたところだ。
(うわーっ!)
やめてくれ、ここでバレンタインの話を出さないでくれ、と何かに祈る。しかし運命は非常で、沙夜が「せーんせ」と近づいてくる。
「先生の注文、もう聞いたから! おま定いっちょ!」
「なあに、そんなに慌てて。わかったから、ちょっと待って」
沙夜がカウンターに持ってきたのは、ココア缶だ。
「先生、どうぞ。外寒かったでしょ」
これは……と思うまえに、「オレのは?」と反射で口が滑った。
ときすでに遅し。今さら口を塞いでも、溢れた言葉は戻らない。
「タカ兄の?」
沙夜も多津も、キョトンとしている。
(うわぁぁやめてくれぇぇ! 羞恥で死ぬ!)
「タカ兄には、こないだあげたでしょ」
「は?」
「覚えてないの? 勉強中に差し入れしたじゃん」
「あ——あれか!?」
「そうだよ〜。タカ兄イヤホンしながら勉強してて、生返事だったもん」
失礼しちゃう、とふざけながら、沙夜はカウンターに身を乗り出す。
「先生、それ一応、バレンタインのつもりです」
「あ——あり、がと」
多津はココア缶を両手で大事そうに持った。
「あったかい……」
不安も恐れもなく、すべて安心しきって預けるようなほほ笑み。
それを受けて、沙夜もどことなくはにかんだ表情で「おまかせ定食、待っててください」と応える。
二人の間の空気が、変わった。
鷹也は一瞬、息ができなくなった。
(待てよ)
二人で勝手に進んでんじゃねえ。
俺はまだ、切り札を出してない。
*
泉は三人のやりとりを後ろから眺めていた。
(鷹也、アンタの恋は前途多難ね)
一階に下りてくるまえ、沙夜と進路の相談をしていた。
彼女は栄養士の資格を取りたいのだという。
——なにか、ひとを支える、お手伝いをしたいなとおもって。
——それで栄養士?
——私には他に何もないから。
何もなくはないでしょう、と言いたかったが、自分の過去を省みて、口をつぐんだ。
自分が高校生だったときも、この手に何ができるのかがわからなくて、途方に暮れていた覚えがある。
だいたいこの方向かな、と手応えを掴めたのが、三十を過ぎてからだ。もっと遅い人もいるだろう。
——わかった。担任の先生とも、面談をしましょ。
——ありがとうございます。
——ちなみに、ほんとは誰を支えたいと思ったの?
沙夜は頬を赤く染めて、くちびるを噛んだ。
——ごめんね、おおきなお世話だったわ。
イタズラ心からほんの軽い気持ちで訊ねたことを、泉は甘酸っぱく反省した。
(沙夜ちゃんみたいな、あまりにもいい子過ぎる性分は、アンタにはきっと荷が重いわよ)
息子の成長した背中を見て、母は思う。
(けどまあ、実る恋だけが良い経験とは言えないからね)
泉はこっそり笑みを浮かべて、調理用のエプロンを取った。
*
多津が食事を済ませる頃には、もう客足も引いていた。
沙夜はカウンターの除菌をしながら、置かれたままのココア缶に気がついた。
「飲んでないじゃないですか」
多津は黙って席を立ち、ウールのコートを羽織る。
そのまま缶をポケットに入れて、沙夜の横を通り過ぎざま、ちょっと屈んで立ちどまる。
「もったいなくて飲めないよ」
耳もとで小さく聞こえた本音は、沙夜の心臓をワシづかみにしてお手玉し始める。
(えっ、むりむりむり)
(ど——どっ、どんな顔で)
背後で泉店主の「ありがとうございまーす」と磊落な声が響く。
(せんせいのかお、みたい。でも、みれない)
語彙力を喪失する出来事に、沙夜は固まってしまった。
(どうしよ、せめて、見送りだけでも)
そう思って振り返った瞬間、ガラララ、と乱暴に引き戸がひらかれた。
雨に濡れたダッフルコート、スカートの下でガクガクとふるえる細い脚——蒼白な頬に涙のあとがいくつも見えて、青むらさきのくちびるが動く。
「さ、さーや……」
そこに立っていたのは、悲愴でくしゃくしゃに潰れてしまいそうな彩の姿だった。