6話 17歳の冬
花吹教諭のテノールが、廊下に響く。
「青田沙夜ァ!」
ぎょっとして、沙夜は後ろを振り返った。同級生たちまで威にあてられている。
叫んだ本人は不遜な顔でプリントをくしゃくしゃに握りしめ近づいて来た。
「なんですかいきなり!」
「オレも知らねぇよ、とばっちり食っただけだ!」
ずい、と押しつけられたプリントは、以前に白紙で出した進路希望調査票。
「なんで花吹先生が持ってるんですか?」
「おまえの担任から頼まれたんだよ。『進路相談はできない、三者面談もさせてくれない、何を考えてるかわからない、花吹先生ならなんかご存じじゃないですか』ってな!」
しらねえよ、とまた怒号を継いで、花吹教諭は沙夜を見下ろした。
「おまえが音楽室に入り浸るせいで、この受験シーズン忙しい最中、受け持ちでもないクラス生徒一人のためにここまで来たんだ。とりあえずなんか書け」
「わあ、パワハラ……」
「なんでもハラスメントにするなっての」
「とにかく、これから移動教室なんで、放課後!」
「ぜってー書けよ!」
「わかりましたってば!」
沙夜はしわくちゃのプリントを半ばむしるようにして受け取った。
*
いきさつを話すと、多津教諭はくすくす笑った。
「あいつも大変だな」
「先生は受け持ちないですもんね」
「非常勤だから」
「にしては、わりと毎日いません?」
「まあ、非常勤という名の、体のいい雑用係をしています」
多津教諭が受け持つのは古典や日本史。テストの監督や、日によってはクラスの副担任など、様々なサポートをしているように見受けられる。
(なかには、多津先生を見下すような態度のひとも、いる)
「もし答えたくなかったら、いいんですけど……」
「うん、なに?」
「先生が薬を飲んだり、治療中だってことは、どこまで知られてるのかなって……」
多津はフムと天を仰いだ。
「花吹以外は、教務主任までかな。ひと口に《うつ病》といっても、どんな受け取り方をするかは人それぞれだからね」
「今日は、体調どうですか」
先日に見た包帯はなくなった。
それはつまり、自傷行為はしていないということだろう。
食堂にもちょこちょこ顔を出してくれる。
(なにが、多津先生をそこまで追い詰めたんだろう)
沙夜の脳裏をよぎる、しゃがれた声。
——もう、大人は子どもを守ってやれない。だから、じぶんの生きる道をじぶんで歩くための武器が必要です。
(多津先生は、守ってもらえなかったのかな……)
「……『縦社会世知辛いツマラナイ』」
「え、なに。いきなりびっくりした」
「ラップです」
「いやそれはわかるけど」
「今流行ってるおじさんラッパーです。中年太りで踊る姿が受けているらしく」
このまえ彩が来たときに、みてみて〜、とTikTokのお気に入りを紹介された。
「やりたいことがあるひとは、いいですよね。キラキラしてる」
「青田さんは、ないの?」
「ざんねんながら」
沙夜は机に突っ伏した。
「多津先生は、どうして教師になろうと思ったんですか?」
「うーん、どうしてだろう……」
(それこそお琴の世界で、じゃんじゃん活躍すればじゃないですか)
そうだ、この人は武器を持っている側。
ちょっとした妬みもこめて、心のなかで呟く。
だけど口には出さない。きっと先生には先生なりの地雷がある、と思うからだ。
突っ伏した腕の隙間から、こっそり多津教諭を盗み見る。
「僕もそんなに大した理由はないよ。ただ学生時代に、教免取っとけばいい、みたいに言われたから、流れでこうなってるだけで……」
誠実に、悩みながらも答えてくれる姿が、可愛い。
一生懸命に語る様子に、沙夜のささやかな妬みも打ち消されてしまった。
(これだから推しは尊い)
沙夜は鑑賞モードに切り替えた。
しかしその途端、多津教諭の声が、凛と響いた。
桐陰清潤雨余天
檐鐸揺風破昼眠
夢到画堂人不見
一双軽燕蹴箏弦
「——雨上がり、桐の木陰は清らかに潤っている」
つづけて語られる情景に、沙夜は目を閉じる。
「鐸が風に揺れて私の昼寝を破る」
金属の音がすれて、水の音と混じり合う。
「夢のなかで私は立派な屋敷を訪れたが、そこに人影はなかった」
昼の光の届かない、薄暗い板敷きの部屋。
縁側にひとつ、筝だけが置かれて、そこに日差しが下りている。
「一双の燕が足で引っ掻く、琴の音が響くのみであった」
雨上がりの雨滴、湿気と苔のにおい、そこに何も旋律を持たない、無垢な音が聞こえる。
ただ遊んでいるだけ。
そのうつくしい情景が、水に落ちた波紋のように広がって、沙夜のこころに雫をおとす。
「——きれい」
沙夜はおもわず、ほうっと息をついた。
「陸游っていう人の詩だよ。広東語の発音だと、もっと綺麗で味わい深いんだけど……」
多津が照れくさそうに言う。
沙夜は今起こった感動を共有したくて、前のめりになる。
「日本語でもじゅうぶん素敵でした。ていうか、カントン語、だと意味わからなかったと思います」
「そっか……よかった」
心底ホッとしたように多津が言う。
(ああ、もう、そういうところが)
可愛い! と叫びそうになって、自制した。
多津はまだ何かを言いたそうだ。
「あの……僕の祖父は、プロの箏楽師で、詩吟を趣味にしていたんだ。だから、古典とか歴史とか、ちいさい頃から興味があって……そうすると演奏も奥行きが増すって言われて……」
多津は頭を掻きむしって、「えっと、なにが言いたいかっていうと」とうろたえた。
沙夜はなんだか励ましたくなって、相槌を打つ。
「はい。聞きたいです」
多津はまた頬を赤らめて、もごもごと言った。
「青田さんは、立派、だよ。やりたいことがないって言うけど、その歳で、いろんな経験して、だけど明るくて、食堂で働いていて——」
消え入りそうなほど、小さな声が聞こえた。
「きらきら、して見える」
湯気が出そうなほど真っ赤になって、じぶんのために紡いでくれた言葉たち。
沙夜は胸のなかに起こる、堰き止められない何かを感じた。
ぼうっと頭のなかに熱がこもったように、風邪をひいたときのように……
(自信をなくしたとき、いつも、励ましてくれる)
窓の外を、にわかに霙の叩く音がして、ハッと意識が覚醒した。
「あ……」
「寒くなってきたね。暖房をいれようか」
「私は大丈夫です。もうすぐ行かなきゃいけないし」
はくちゅん、と多津がくしゃみをして、二人は顔を見合わせる。
多津の頬がほころんで、「僕のほうが必要みたいだ」と目尻を下げる。
眼鏡でいつも隠されている、愛嬌あるドングリ眼。
沙夜はそっと、多津のダテ眼鏡を外した。
多津の長すぎる前髪を分けて、その瞳をあらわにする。
「あ、青田さん……?」
「まえから思ってましたけど、先生、とっても目がきれい」
誉めると潤み、さらに光が反射した。
まっすぐに見つめる瞳は、周りの光をすべて集めて閉じ込めたよう——それは炎でもない、宝石でもない。ゆららかに佇む静かな煌めきは、まるで水のなかのよう。
「……なんだか、白魚のウロコを一枚一枚、縫いつけたみたいな——」
「こ、怖いこと言わないでクダサイ……」
「ふふっ、私には先生ほどの表現力がないから」
沙夜が笑うと、多津教諭も笑った。
抱きしめたい。
(その瞳に映る、悲しみや苦しみもいっしょに)