5話 入学の春
食堂の第一陣、小学生たちの喧騒が過ぎた頃、引き戸がひらいて「さーや!」と呼ばれた。
「来たよ〜」
「あーちゃん!」
沙夜はカウンターから飛び出して、彩と両手を合わせた。
「待って待って、まだ消毒してない」
「うわぁ〜久しぶり!」
「こら、飲食業ぉ」
憎まれ口を叩きながら彩が笑っている。その頬は、半年まえに見たときより幾分ふっくらしている。
それでもまだ、痩せすぎなほうだ。
抱きしめた腕をほどいて、おでこを合わせた。
「えらいね、ちゃんと病院食、食べたんだ」
「だって泉さんが毎日飯テロしてくるんだもん。今日はコロッケだ、今日はカラアゲだっつって」
「揚げものばっかじゃん!」
「そう。こっちは摂食障害で病棟入ってんのに、おかまいなし。泉さん、地雷踏みまくってきて逆に尊敬するわ」
彩はパーカーを脱いでカウンターに座った。
「まあおかげさまで、あっさりした病院食でも耐えられたんだけど。揚げものはもう見ただけで胃もたれ」
「今日のメインがまさに白身魚のフライだけど、どうする?」
「げ、なしで。吐きたくないし」
「おっけー」
沙夜が手を洗い配膳を始めると、彩は「今日はいないの?」と沙夜に訊ねた。その表情がニヤニヤしている。
「うわさのタヅせんせ」
「えっ、先生めあてで来たの!?」
「さーやの推しを生で見たくて」
「電話であんだけ『物好き』だの『変わってる』だのけなしたくせに!」
「めっちゃ根に持つじゃん。まさかリアコ——」
「推しです!」
はい、とお盆を出す。副菜、汁物、少しのご飯、メインの代わりにだし巻き卵を添えた。
「やったー! さーやのだし巻き!」
「ささやかな退院祝いということで」
「さんきゅ」
二人でやいやい話していると、明日の仕込みを終えたタカ兄もやって来た。
「彩じゃん、ひさしぶり」
「ちわ。鷹也さん、この子相変わらずですね」
彩がにやりと笑ったので、沙夜は焦る。
「え、なに言うつもり」
「相変わらず、タヅせんせ、タヅせんせって」
「あっ、ちょ——」
沙夜は恐ろしくて振り返ることができない。
(タカ兄、先生のことめちゃくちゃ嫌ってるんだよ〜)
とは言えない。
怯えて縮んだ沙夜の胸に、彩はさらに追い討ちをかけてくる。
「そもそも先生が推しとか、どーしてそういうことになったの?」
無邪気な声とは裏腹に、明らかに怒気のこもった声が、後ろからも飛んでくる。
「ぜひオレも聞かせてもらいたいね」
観念するしかない。沙夜はため息をついた。
「なんで両側から詰めてくんの……」
*
「えー、うららかなぁ、春の陽気とともにぃ——」
体育館の壁に反響しては濁って聞こえる祝辞の声、その背景で滴る春雨の音に、沙夜はふるえていた。
(——緊張、してる)
すでにこの数日、食欲はなく、大好きなコーヒーすら匂いで吐きそうなほどだった。
歯ぐきに勝手に力が入って、つい口内炎を噛んでしまう。
息がうまく吸えない。吐けない。
(落ちついて、落ちついて)
何万回も言い聞かせた言葉を、さらにじぶんに浴びせかける。
式の途中で倒れたりなんかできない。
ただでさえ、助けてくれる人はいないのだから。
(落ちつけ!)
ふうっと、肺のなかの空気をぜんぶ出し切って、沙夜は壇上を睨んだ。
今日の段取りはすべて打ち合わせ済みだし、こんなパニックも想定内のことだ。
フリースクールの先生は「もしものときは、無理せず保健室で休むように」と言ってくれた。
同い年の彩は、式に欠席することを決めたと聞いた。
そういう選択肢のなかから、じぶんにとって必要なことだと、入学式への列席を決めたのは自分自身だ。
義務教育の期間を終えて、これから一人で生きていかなければいけない、そのケジメのつもりだった。
その通過儀礼が、まさかこれほど——
(負担になる、なんて)
初日から、まるで宇宙人の気分だ。
晴れの日にこんな闘志で挑んでいる生徒は他にないだろうと思う。
この緊張はいつまで続くのかと思う。
だから祝辞が終わる頃にはもう、とても教室に行けるような、華やかな気分ではなかった。
人混みの列から遅れ、渡り廊下で立ちどまる。
(もう無理)
これ以上、孤独を知らされるのは堪らない。
じぶんには、着物で装う母親も記念日を撮る父親も、家族と呼べるひとは誰もいないと突きつけられるだけだ。
さりとて保健室へ行くのも気が塞いだ。
窓の外を見れば、桜の花びらは雨滴に落ちて、苔むした石にはりついている。
じぶんのつま先から苔の生えてゆく想像をする。
ただ黙ってそこに居るだけで許されるなら、どんなに良かったか。
沙夜は目を閉じた。
——雨音に混じって、なにかが聞こえる。
年始の商店街で聞くような、なにか雅やかな楽器の音色。
(……お琴?)
まぶたをゆっくり持ちあげて、音の出どころを探す。
(なんだろ、この曲……聞いたこと、あるような……)
探すうちに、渡り廊下の先、音楽室の表札が見えた。
「さくら、さくら?」
慣れ親しんだメロディは、転調して、今度は明るくワルツのダンスを描き始めた。
(なにこれ、おもしろい)
そっと扉を開けてのぞく。
おおきな筝を前に置いて、背すじを真っ直ぐに、しかし腕や指先はやわらかくしなるように動く。
男の人だった。
「えっ」
てっきり女性が弾いていると思っていたから、沙夜の驚きは口をついて出た。
それが演奏者に聞こえたらしい。
弦がゆらぎ、音の波紋を広げ、そして閉じてゆく。
黒髪に隠れた顔がゆっくりと振り返る。
沙夜は、じぶんの頬に熱い涙が伝うのを感じた。
「あ……」
「え?」
「あれ、なんで」
「うわっ、えっ、と」
相手が慌てているのを、ぼやけた先に見る。
それがなんだかおかしかった。
筝弦を操っていたときはあんなになめらかに動いていた手が、ぎこちなくポケットからハンカチをひっぱり出す。
「ど、どうぞ……あんまり、きれいじゃない、かも」
涙をほとほと流す沙夜とおなじくらい、挙動不審な眼鏡の男性。
それが多津教諭だった。
*
「それがね、初めて会った日の話」
沙夜がしぶしぶ語り終えると、彩はにっこり笑った。
「少女漫画かよ」
「違うってば!」
きゃいきゃい騒ぐ二人に、皿を洗えよ、と鷹也がわざと水を差す。
モヤモヤする。
これは嫉妬だけのせいではない。
「鷹也さーん、顔に出てますよ」
沙夜が食器を片づけに行った隙をみて、彩がささやいた。
「妬いてるでしょ」
それには答えない。
「うーん、アタシだって妬いちゃうくらいだもんなぁ。いやまぁ、あのときは、そもそも自分のことで手いっぱいだったんだけど」
「親御さんと一番ケンカしてた頃だろ?」
「そうそう、過食嘔吐ひどくて。沙夜がそんな状態だったこと、ちっとも気づけなかった」
鷹也も覚えている、入学に向かう日々の沙夜の苦しそうな表情。自分は無力だった。
思わず舌打ちする。
「あの頃の沙夜を変えたってのが……癪にさわる」
「お、本音、出ましたね」
「るせえ」
「やっぱ一番のリアコ勢は鷹也さんだなー」
「リアコ?」
彩はニッと笑って、鷹也に人さし指を突きつけた。
「リアルに恋してる」
「……うぜえ」
恋というには羞恥が勝つ。
だけどいわゆる、そういうものなんだと思う。
(沙夜がこの家に初めて来たときから)
可愛いと思った。健気だと感じた。
きっと一目惚れだったんだろう。
ずっと兄貴分のポジションを保ってきて、ようやく二十歳になれたと思ったら、いつの間にか余計な虫がついていた。
(これだけ待ったものを、今さら他人に譲れるか)
しかもあんなに頼りない、弱っちい男に。
鷹也は二人のやりとりを思いだす。
何かを共有しているような、立ち入れない雰囲気。付き合いはずっと、じぶんのほうが長いはずなのに。
「ねえタカ兄、今度さ、ハロウィンでしょ。なんか特別メニュー考えようよ」
「試作なんかしてる暇ねえよ」
「そこをなんとか」
沙夜がアイデアをひとりごとのように言うのを聞いて、まったくコイツは、と思う。
恋の《コ》の字も知らずに、考えるのは料理のことと、この店にやって来る子どもたちのことだけ。
(今はまだ、兄貴ヅラしといてやるよ)
だけど《その時》が来たら、容赦はしない。