4話 17歳の秋
音楽室にかかる夕陽が角度を変え、秋の訪れを告げる。
多津はぼんやりと、ゴザのうえに横たわっていた。
夏の湿気をすべて溜め込んで、台風とともに吸いあげられたかのように、身体が疲れ果てている。
低気圧のせいもあるかもしれない。
(あ、寝そう……)
明晰夢、というものがある。
夢のなかで、これが夢だとわかる。多津はわりと多いほうだ。
だから、音楽室がだんだんフェードアウトして、ふっと景色が変わっても、多津はためらうことなく夢の世界に飛び込んだ。
*
もの寂しげな秋の山林。
曇天の下、ときおり気がついたように、鳥がさえずる。
爺さまについて歩いた獣道は、少し肌寒くて、不気味で——だけど、そんな気持ちを伝える言葉を知らなかった。
老いながら異様に固い指先を、離さないよう必死に歩いた。
日ごろはやさしい爺さまが、この山林を歩くときだけ、なにか緊張しているように、足早になる。
とつぜん、木々の影は背の高い大人たちの影となり、覆い被さってくる。
——オマエは、ここに居てはならん。
どうして、と問うたはずのじぶんの声は低かった。
いつの間にか成人している。
爺さまのつむじが見下ろせた。
——逃げろ。
爺さまから両手を包むように握られて、そっと、ひらかれる。
そして見た光景に戦慄した。
じぶんの十指の腹から血が噴き出している。なにか刃物で切ったのだろうか。いや、まさか、そんな覚えはない。
(ああ、でも、やりかねない)
人々から賛辞を受けるこの指先を、何度もなんども切り裂きたいと願った。
(だれか手を引いて、僕を連れ戻して)
息をするたび、泥のように沈んでいく屍の身体。
動かせない。頭痛がする。
*
「せんせい!」
風にゆれる檐鐸のような声。
多津は目を覚ました。
「……あおた、さん?」
まだぼんやりと夢うつつな調子で返事をすれば、ふうっと青田が前髪を吹きあげた。
「またこんなところで寝ちゃって……いい加減、風邪ひきますよ」
「いま、なんじ」
「さっき終礼鳴ったところです」
熱でもあるんですか、と沙夜がうかがってくる。
左右の眉をしかめて近づいてくる真剣な顔に動揺して、多津の口がつい滑った。
「ちがうよ、飲んでる薬の副作用で」
あ、しまった、と思ったときには、沙夜はさらに距離を詰めてきていた。
「薬ってなんですか? いつから?」
「青田さん、近いよ……」
「顔も赤いです。やっぱり病院行ったほうがいいですよ」
それはたぶん違う理由……と思いながら、沙夜の伏せ目を眺める。
まつ毛が長くて、黒くて、その眼差しは強い。
十も年下なのにじぶんのほうが子どものようだ。
その強い眼差しが、ふと怪訝そうに、じぶんの手首に向いた。
(しまった)
袖口からガーゼが垂れている。
それを隠そうとしたのがいけなかった。沙夜は素早く多津の袖をめくり、巻いてある包帯を確認した。
「これ、いつからですか……?」
「——なんのこと」
「しらばっくれないでください。見たことあるんです」
沙夜の声がわずかに震えた。
「お母さんが、同じこと、してた」
同じこと。
手首に包帯を巻くようなこと。
「お母さんが?」
心の問いかけが思わず口に出た。
「私の母は自殺してるんです」
「えっ……」
「しばらく養護施設で育ててもらって、それから泉さんが後見を申し出てくださったんです」
淡々と話しながら、包帯をしげしげと眺める。
「うわ……これ、やったの最近ですね?」
「ちょっ、と」
「施設でも見たことある。お母さんよりはマシだったけど」
「ちょっと待って!」
多津は焦って声を荒げた。
年下のはずの少女は、動じる素振りもない。
「お、お母さんが、自殺って……」
「はい。今どきめずらしくもないでしょ?」
多津は息をのんだ。
いまの境遇に、なにかしら理由があるのだろうと、察してはいた。だが、まさかそんな事情からとは……思わなかった。
強い眼差しの意味を知る。
生きながらに地獄を見た、そういう眼だ。
長いまつげが瞬きして、多津から目をそらさず続ける。
「もともと病院通っていたらしいんですけど、薬飲んで、お酒飲んで、その勢いでドアノブ使って」
「待って、待って」
許容を超える情報量に、多津は吐き気がした。
口を塞ぎながら、それでも——最後まで聞かなければいけない、と思った。
どうしてだろう。
相手が、この少女だからだろうか。
「いつ……?」
「んー、そのへん、ちょっと記憶あやふやなんです。寒くて、雨が降ってたことは覚えてるんですけど」
それより、と沙夜が多津を睨む。
「最後にしたの、いつですか」
「……もうしてない」
多津は袖口を引っ張って隠した。
「じゃあどうして隠してるんですか?」
「み、見られたくないから」
ふっ、と、沙夜の瞳が夕陽を映して赤く染まった。
それがまるで、泣いているようで——
「見せてください」
抗えず、黙ったまま受け入れる。
沙夜は包帯をほどいてゆく。
もう乾いた傷痕。
だけどまだ生々しい。
沙夜はしばらく黙って見つめてから、うなだれた。
「昨日も、《小さな秋》弾いてくれたじゃないですか」
「……うん」
「こんな腕で、弾いてたなんて」
多津の胸がぎゅっと苦しく縮む。
ちいさなあーき、と歌った沙夜の声が、耳に残響を留めている。
知られたくなかった。
自傷したばかりの腕で、見栄えばかり整えた薄っぺらな演奏だったと、知られたくはなかった。
「ふ、幻滅するよね」
少女はそっと、傷痕をなでた。
「いいえ」
指先で、労わるように。
「勲章です」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
腕に熱いものが滴りおちる。
それは沙夜の涙だった。
「これは、勲章なんだ、って……」
沙夜の声が潤む。かがみ込む。
「死にたい気持ちと闘っている証拠だって、聞きました」
沙夜の口調は冷静だが、涙の粒が頬に伝っている。
「私には自傷する気持ちはわかりません。だけど、生きるための傷なんでしょう?」
(ああ……)
気が狂いそうな頭、苦し紛れの行為。
自分を死なせないための必死の抵抗。
(そうだ、生きるために傷をつけた)
だけどそんなふうに言ってくれた人はいなかった。
「……どうして、わかるの」
「ただの受け売りです」
沙夜は鼻をすすった。
「心理士さんが教えてくれたんです」
無理やりすみませんでした、と呟いて、沙夜は包帯を巻き直す。ほどいたときと同じくらい丁寧に。
多津は黙ってされるがままになっている。
だけど鼓動が鳴る。
押さえつけても、深く呼吸をしても、おさまらない熱がある。
(なんか、心臓が、おかしい)
毎日が、断崖絶壁を這うような、死の影に怯える日々。
それを——どうして、こんなに年下の少女が——青田沙夜というひとが、多津の手を引いて繋ぎ止めてくれた。
(どうかしてる)
(こんな、感情は)
自傷の痕を、涙を流して悼んでくれた。
勲章だと言ってくれた。
感謝とも懺悔ともつかない情動が湧きあがる。抱きしめたくて堪らない。
(だけど、絶対、だめだ)
恋情でもない。
劣情でもない。
これは忠誠だ。
「青田さん」
「はい」
強い眼差しのした、たいせつなひとの頬に残った雫をぬぐう。
「ありがとう……」
初めて強くなりたいと思った。
自分のために泣いてくれる相手を、笑顔にできるくらいには。