花吹の場合
R15ギリセーフくらいかな?(当社比)
花吹優は悩んでいた。
(彩が可愛すぎる)
自分がバカになったのではないかと思うくらい、いちいち可愛いのである。
二十代前半の娘らしく、ネコ耳のついた黒い部屋着を着て、夜にカモミールティーを淹れてやると、両手でカップを持ち、あろうことかフゥフゥ口をすぼめて冷ますのである。
歯ぎしりするほど可愛い。
ときにはバスタオルを巻いたままの格好で出てきて「ゆたかさん、あたし太った!」と不満そうに睨んでくるのである。もとが痩せすぎだったので、内心もっとふっくらしてほしいくらいだが、肌ツヤは明らかに良くなった。目に眩しくて正直ツラい。
そうして無意識に煽ってくるのだからやめてほしい。
こちらはタガが外れるのが怖くて、入籍してからキスも出来ていないというのに。
生来、花吹優は奥手ではない。
恋愛経験はそれなりに積んできたし、フランスでは一晩だけの関係もあったくらいだ。
来るもの拒まず、去る者追わず。
それが花吹の人間関係のボーダーラインだった。
そして、その境界線を初めて木っ端微塵にしてしまったのが——新妻・彩である。
彩の存在は、花吹の人生観も恋愛観も丸ごとひっくり返してしまった。一度壊れてしまったものは、再構築が難しい。
後輩いわく、今の花吹は《第二次童貞期》といっても過言ではないらしい。
花吹は前髪をくしゃっと掴み上げた。
(思いっきり甘やかして、オレのことしか考えられなくなればいい)
だけどブレーキが掛かる。
その理由のなかでも一番を占めるのは……彩が父親から性暴力を受けていたことだ。
入院中、彩は婦人科の検査を受けた。
膣の洗浄も含めて、妊娠していないかどうか、性感染症になってはいないか、その他いろいろ。
その中で知らされたのは、彩に月経が来ていないことだった。
当人はわざと気丈に「ここ数年ないよ。逆に良かったわ」と笑ったが、震える肩は隠せていなかった。
そっと抱きしめる以外に、何が出来ただろう。
(彩が傷つけられた事実を、ぜんぶ無かったことにしてしまいたい)
頭では無理だとわかっていても、心が納得してくれない。
「ゆたかさん?」
「ん」
「お風呂お先でした〜」
「あぁ……」
彩の髪がまだ濡れている。
「またおまえ……ちゃんと乾かせって——」
髪の束が鎖骨にふれて、雫がしたたり、流れている。あたたまった身体はほんのりと赤く染まっていて、花吹は目をそらした。
湯上がりの彩は目に毒だ。
ただし視界の端から、彩の猫のような目がまんまるく見つめてくるのを感じた。
「……なに見てんの」
「ん? んー」
彩は花吹の脚もとにぺたんと座り、はにかみながら嬉しそうに笑った。
「好きだなぁと思って」
出会った頃とは正反対の、眠たそうに安心しきった甘い声。
反則だ。
花吹が天を仰いでソファの背もたれに倒れ込んだ。さらに彩がヨイショと乗り上がってくる。誰かこの可愛い生き物を止めてくれ。
「彩サン……俺、風呂入りたいんだけど」
「んね、それはわかってるんだけど、なんか……」
花吹は彩の顔を見た。
「くっつきたくなった」
ぐう、と声にならない息が漏れた。
「え、なに! なんかダメだった!?」
「いやダメじゃないけど……そういうこと言うやつだっけ?」
知り合ってから結婚に至るまで、彼女の天邪鬼ぶりに相当振り回されてきたのだが。
「だってさ」
彩は口をとがらせた。
「お、奥さんになったのに、ぜんっぜん、キスも何にもしてくんないじゃん。あたしに魅力がないのかなとか、同情から結婚してくれたのかなとか、ぐるぐる考えちゃって」
「は……? いやいや、何それ。そんなこと考えてたの?」
「メンヘラ地雷女なめんなよ」
開き直ったように言う彩に、花吹は笑ってしまった。
「笑い事じゃないよ! わりと真剣に悩んでんの!」
ソファのクッションで攻撃してくる彩に、花吹も「わかった、わかった」と降参の白旗を上げる。
「べつに魅力がないとか、そんなこと思ってない」
「じゃあなんで」
「前に言った。キスしたらそれ以上もしたくなる、って」
「すればいーじゃん」
彩は小さく付け足す。
それは甘えるというよりも、どこか惨めそうに。
「上書き、してよ」
花吹は気がついた。
入院当時、麻酔でぼんやりとしながら、うわごとを呟いていた。聞き取れないほど不明瞭でも、うなされていることはわかった。
それほど、性暴力のPTSDは計り知れない。
(自分でも、癒えてないことは自覚してるのか)
健気に思った。
まだ癒えてないなりに、彼女はきっと充分考えて、結論を出してくれたのだろう。
その誠意に応えようとするなら、今度は花吹が不安を吐露する番だ。
「俺がおまえをそういうふうにさわって、怖くならない? フラッシュバック起きたり」
「……絶対ない、とは、言い切れない」
「うん」
「でもそういうときは、ちゃんと、言う」
待って、という一言を。
やめて、という信頼の制止を。
「俺も、ちゃんと彩の表情見てる。苦しそうじゃないか、つらくなってないか」
それに、と花吹は彩の細い五指に自分の指をからめた。
「体温でわかる。安心してると、肌がじんわりあったかくなる。今は——ちょっと緊張してるな」
彩は悔しそうにくちびるを噛んだ。
「……そっちばっかり、経験豊富でズルい」
「こればっかりは仕方ない。リードは任せな」
ふれあうための確認は素直に、真摯に重ねる必要がある。
言葉でも、
吐息でも、
匂いでも、
五感のすべてを使って、心と体の対話をする。
それをこの世で一番愛しい相手とできるなら、こんなに幸せなことはないだろう。
「ゆっくりでいい。二人のペースで」
花吹は彩のくちびるを指の関節でやさしく撫でた。
「キスの形だって色々ある。指先や、頬や、首もと。いきなりくちびる合わせるだけがキスじゃないだろ」
「うーん、そっか……」
でもそれだと、と彩が気まずそうに言う。
「優さんは、それで良いの? 物足りなくなったりしない?」
いじらしいことを。
花吹は彩の猫っ毛の頭をポンとさわった。
「あいにく俺はピアノ弾きなんで。自分の楽器が良い音奏でられるなら、練習時間は苦にならない」
「……どゆこと?」
「オヤジ発言だから気にしなくて良い」
「何それ気になる」
彩の瞳が好奇心にキラリと光る。
思えば初めて出会ったときから、彼女はその表情で花吹を惹きつけていた。
言葉が溢れすぎて、考えすぎてどうにもならない。
だからふれ合いたいと思うのだ。
皮膚の熱から想いの丈が伝わるように。
「彩からする? そのほうが怖くないと思うけど」
「うん……」
彩が花吹の肩にそっと手をかける。
「目、閉じて」
「ハイ。お好きなように」
彩の吐息がふるえているのがわかった。
くちびるが花吹のひたいへ、まぶたへ、何かを願うように降りてくる。
まるで花びらが落ちてくるようなくすぐったさ。
この可愛らしい行為に耐えるのは、なかなかの拷問だ。
「優、さん」
「さん付けじゃなくていい」
「……ゆたか」
勇気を振り絞ったくちびるが、自分のものに重ねられた。
それは時間にすれば一瞬だったかもしれないが、花吹にとっては限りない価値のあるものだった。
彩が自分の傷を癒すための、乗り越えるための一瞬。
大切にしたい。
本能がどんなに、このやわらかいくちびるを貪りたいと思っても、力ずくで奪ったりはしない。
時間をかけて、少しずつ。
そうして彩の美しさが咲き誇るさまを、一番近くで眺められる——
(光栄だね)