多津の場合
多津絃二は悩んでいた。
(宴もたけなわ、か)
今日は将来有望な和楽器奏者たちを招いたイベントがあった。その懇親会として、ホテルで立食パーティーが行われている。
こんな社交場でも彼女らしく、失敗を恐れつつも果敢に挑戦していくあたり、そのタフさに頭が下がる。それを遠目に眺めている多津からすれば、大変愛らしくて尊い。
しかし気に入らないのは、婚約指輪を外していること。
彼女曰く「無くしてしまうと嫌だから」とのこと。金銭感覚のしっかりしている彼女らしい言い分だ。
だが、その弊害は多津の当初の予想を超えた。
(見てる見てる、飢えた狼があっちこっち)
若手が集まるだけあって、動画配信で名を上げた奏者や、お茶の間で話題のイケメン演奏家、海外遠征から帰って来たばかりの寂しがり、などなど、いかにも沙夜に癒されたそうな野郎どもがウロチョロしている。
(ほら、また)
初めは自分の色眼鏡かと思ったが、間違いない。仕草も振る舞いも何もかも、いちいち——
(可憐、っていうのかな)
沙夜好みのシンプルなデザイン、背中はファスナーではなく、ちいさな嵌めボタンが連なっているタイプのものだ。少し伸びた黒髪と白いワンピースの対比が美しい。
それが、この和装の多い会場では妙に目立ってハラハラする。
イヴニングドレスなのでさすがに膝は出ていないが、ふくらはぎからヒール靴に伸びる曲線や、思わずさわりたくなるような二の腕が、丸出しなのである。
目に眩しくて正直ツラい。
(沙夜を隠してしまえたらいいのに)
しなやかな身体も、涼やかな声も、絹のような黒髪も、ぜんぶ、誰の目にもふれないように。
そんなことを考える自分にも呆れてしまってうなだれた。
「絃二さん?」
煩悶の種がのぞきこんでくる。
「人酔いしちゃいました?」
「うん、まあ似たようなもの……」
「ふむ」
沙夜は両手の指を折り曲げながら言う。
「えっと、挨拶しなきゃいけない人は、もう大体まわったと思うし……」
「ありがとう。任せちゃってごめんね」
「大丈夫ですよ。今日は皆さんお若い方ばかりですし、いつもより気楽です。ただ——」
沙夜はうつむいて、ワンピースを少し持ち上げた。
「ちょっと……この靴履き慣れなくて、靴ずれしちゃったみたいで……」
「ちょうどいい」
「え?」
多津は沙夜を横抱きにして、司会者の元へ向かった。
「ちょっ、絃二さん!?」
「パートナーの脚が限界なので、先にお暇させて頂きます」
ブラックスーツの司会の女性は、反応に困ったように「は、はぁ……」と、返事ともとれない反応を返す。
「ダメですよ絃二さん! 多津宗家主催ってことになってるんですから!」
「何かしなきゃいけない?」
「せめて締めの挨拶くらいは!」
「ぜったい?」
「そんな可愛い顔で見てもだめ! してください!」
抱き上げられたままジタバタする沙夜がごねるので、仕方なくマイクの前に立つ。
「皆さま、今日はお忙しい中集まって頂き、ありがとうございました。おかげさまで良い懇親会になったのではないかと思います」
ほとんど棒読みだが、視線は集中している。
沙夜を抱き上げたまま話しているからだ。可哀想に、注目の的となった婚約者は、耳を真っ赤にして自分に抱きついて、決して誰にも顔を見せまいと隠している。
「未熟者ですが、皆さまの力を借りながら、これからも精進して参ります。私たちは先に失礼いたしますが、この後もどうぞご歓談を続けてください」
背中に回された沙夜の拳がポカポカ殴ってくるのを感じながら「では、重ねて、本日はありがとうございました」と締めた。
聴衆はポカンとしたまま、やがてパラパラと拍手が起こる。
スタッフが戸惑いつつも両びらきの扉を押し開けてくれた。
「ありがとうございます」
開放感も相まって、にっこり微笑むと男性スタッフが顔を赤くした。
沙夜が耳もとで憤慨する。
「男女問わず撃ち落としていくのやめてください!」
「人聞き悪いな。それは君のほうだと思うけど」
「私はじゅうぶん辱められましたっ!」
「はずか——そんな言葉どこで覚えてきたの」
そういうコンテンツでも見ない限り一般では使われない語彙に、多津は泡を食って問い詰めた。
「彩が……このまえ彩と会ったときに、絃二さんがしてくること、ちょっと、グチったの」
どうやら沙夜の親友が「それは辱められてるねえ」と嘆息したらしい。
「えっ、そんなつもりまったくないんだけど」
「彩は『無自覚だからタチわるいね』って……」
「無自覚なのかな」
「少なくとも、自覚してる人には『羞恥心』というものがあると思います」
「ふは」
それを言うなら、と多津はカードキーをタッチした。
オレンジみの電灯でやわらかく明るい、ツインの部屋が現れる。
「羞恥心と言うなら、ぜひ沙夜に持ってほしいものだね」
沙夜をベッドに座らせて、自分は絨毯の上に片膝をつく。
小さなパンプスをゆっくり脱がせてやると、小指が擦れて血が滲んでいた。
(こんなになるまで)
「歩き回らなくても良かったのに」
「少しでも絃二さんの負担減らしたかったんだもん」
「うん、それはすごく助かったんだけど」
むくれっ面の恋人が可愛いやら、健気やら。
愛しい気持ちと牽制したい気持ちの二律背反。
矛盾する気持ちの果てに、多津はぽつりと本音をこぼした。
「キスマークでいっぱいにしたい」
ひぇ、と沙夜の声で我に返り、見上げた彼女はすごい表情をしている。
(ドン引きしている茹でダコがいたら、こんな感じかなあ)
「だめ?」
「あっ、だめ、その表情も禁止!」
沙夜が両腕でバッテンをつくる。
何もそこまで言わなくても。
少しムッとして、多津はベッドの端に乗り上がる。
「婚約指輪をしないなら、他に何で縛ったらいい?」
「しば——!?」
「本当は他の男の目にもふれさせたくないくらいなんだよ。可愛い顔でその声でキラキラ笑って……今日ひと晩で、一体何人が君を振り返っていたか」
「ちょ、息継ぎして! 深呼吸!」
深呼吸、と言われてその通りにしてしまうのは、もはや反射だ。
沙夜に調教された——というと聞こえが悪いが、自分が覚醒し過ぎているとき、たとえば舞台の前後や難曲のスランプ時など、沙夜は察して合図をくれる。
深く息を胸に、腹に入れて、全身の血を巡らせる。
すると疲労感がドッと押し寄せて、沙夜の上に倒れ込んだ。
「あれ?」
「ほらもう、緊張してたんですよ」
沙夜が体勢をずらして、背中をトントンしてくれる。
「あれだけの参加者だったから仕方ないですけど、ね、休んでてください。私、コンビニで絆創膏買ってきます」
起き上がろうとした沙夜の手首を捕まえる。
「やだ」
「もー困った人だぁ」
「絆創膏なら後で買ってくるから、今は」
キスさせて、という言葉が、沙夜のくちびるの上で響いた。
意識してやわらかく、口づける。
それは自制するためだ。
愛しい人の身体なら、すぐにも全部欲しくなってしまう男の性を、どうにかこんな児戯でなぐさめる。
ついばむように。
頬に、ひたいに、髪に。
「沙夜、口あけて」
沙夜はくちびるを結んでいる。
まだ慣れないキスだから、ためらっているのだ。
多津は親指で、沙夜のおとがいをやさしく撫でた。
小さな肩がひと刻み、ゆれる。
「お願い」
沙夜の耳朶にささやきかける。
「深呼吸、させて」
は、と沙夜が息を吐いて、おずおずとくちびるをひらく。
いじらしくて愛しくて、がっつかないよう苦労して、そうして焦れるほど繊細に、深いキスを交わす。
互いに冷えていたはずの皮膚が、ふれているところから熱をもって、じんわりと広がってゆく。
(あったかい)
生きている沙夜の体温。
いつも自分を沼底から引き上げてくれる声、言葉、手のひら……なくてはならない大切な人。
「んくっ」
沙夜が唾を飲み込みきれず、口の端からこぼれ落ちた。それすら舐めとろうと舌が動く。
「ひゃっ」
驚く声もかまわずに、首すじをたどってゆく。
(ああ、やばいな)
このままでは自制が効かなくなる。
そう思ったところで、背中を拳で叩かれた。
どうやらタイムアップのようだ。
多津は残念半分、愉快半分で、沙夜を見下ろした。
「おかげで、深呼吸できました」
息荒く睨みつけてくる沙夜が、最高に可愛い。
「絆創膏、調達してくる」
「ついでに頭も冷やしてきて!」
「はい、ごめんなさい」
彼女の逆鱗にふれないうちに、さっさと退散することにする。
(僕たちはお互いを逆撫で合ってる気がするな)
逆鱗プレイ、とでも名付けようか。
崇拝と畏怖が混ざり合って反発し合って刺激になる。
(この感覚、たまらないな)
多津はくちびるに残っていた沙夜の唾液を舐めて、部屋を出た。