キュートな老害ちゃん
枯れ百合です。
鷹也の引越し前後のお話。
深夜零時をまわったスナックの店内。
広さは二十畳にも満たないが、黒とシルバーで統一された店内は、洗練されたエレガンスな雰囲気だ。
先刻までグラスやアイスの並んでいたカウンターは、すでに拭き清められて顔が映りこむほど。そこに置かれたスマホが、一件の通知を鳴らした。
品のいいジェルネイルの指が、液晶をタップした。
「あらぁ、いずみちゃん来はるて」
こら絡み酒やな、とスナックのママは察した。
わずかに残っていたキャストたちが、「アイス用意しておきますか」「わたし残りましょうか?」と尋ねてくる。
「んーん、ええわ。知れた仲やし」
気ぃつけて帰るんやでー、と手を振ると、キャストたちも挨拶を返して店を出ていく。
(ここんとこ多いなぁ)
肝臓を悪くしなければいいが、と同年代のよしみで思う。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出したところで、ドアベルが鳴った。
「ママぁ、聞いて〜」
普段は《子ども食堂いずみ》の店主をして、子育て支援の土俵で闘うキャリアウーマンだ。
(ほやけど今は、ヤケ酒あおって寂しがりの《かまってちゃん》やなぁ)
カウンターにのめり込むように突撃してきた酔っぱらい。水を用意してやると、「いらなぁい!」とグラスを押しのけられた。
「ボトル! 入れて!」
「ラストオーダー終わってんにゃけど」
「じゃあママのおごりで!」
「アホ言いなや」
ほら飲みよし、とグラスを泉の手に握らせる。
渋々喉に流し込む妙齢の女性を見ながら、ママはタバコに火をつけた。
「ほんっま、どうしようもないなぁ」
二人きりになった店内で、ママは遠慮なく毒づく。
「きょうび息子が出てくくらいで、そんな泣くことあるかいな。腹ァ決めて選んだ末の自分の道や。晴れがましいくらいやないの」
「知ってますぅ、でも寂しいものは寂しいのぉ。お店のことも不安なのぉ」
アタタ、とママは片目をすがめた。
どうやらすでに相当出来上がっているらしい。
真面目に付き合うのも馬鹿らしい。泉には水を飲ませ、自分はちゃっかり飲むことにした。
「明日も営業あるんやろ。しゃんとしいや」
「ううう……だめ……鷹也がいないと無理、まわせない……」
「アンタまえに『鷹也に店を継がせたい訳じゃない』言うてたやん」
「そらそうですけど」
応える口調に関西弁が混じる。
「複雑なの。私は精いっぱい生きてきたつもりだし、鷹也のことも育てたつもり。それがなんだか今さらになって、間違えていたかもしれないって、自信なくなってしまって」
「ほぉん」
「鷹也はたぶん、最初は継いでくれるつもりだったと思う。私が頼まなくても。だから調理師免許とか、衛生管理の資格もちゃんと取ってた。だから知らず知らずのうちに、期待しちゃってたんだと思う……」
「ええやん、カン違いやったいうだけの話や。気にすることないて」
「そんな身も蓋もないかなあ!?」
「アタシから言わせたら、えェ男に育ったと思いまっせ」
ママはタバコの灰を受け皿に落とした。
「男は志の熱いときが、一等カッコえぇ。火が消えたら腐ってく。だからお堅い働き方しとる人ほど、飲んで荒れよる……ストレスが多いんやろ」
二人で同じ方向を見て、フゥと息をつく。
棚に並べられているネーム付きの焼酎やブランデー。中には年代物の高級酒もある。14年、16年と時を刻むラベルたち。
「あれって、古い方が美味しいの?」
「美味しいっちゅうか……値段は高いけど、要は好みやなぁ」
「ママはどっちが好き?」
「14年の」
「ふーん」
泉は頬杖をついて呟く。
「離婚してから、もうそれくらいは経ったかしら」
「思い出すのんやめとき。悪い酒なるで」
「じゃあママが何か話して」
「勝手やのう」
ぷかぷかと煙を吐き出して、ママはネタを考えた。思いつくまえに泉から急かされる。
「若かりし頃のロマンスとか」
「なんもおもろないで」
ええやん、と泉がまた関西なまりで相づちを打つ。
「そもそも恋愛に夢見たことが一切ないな。親が不仲で離婚して、高校中退からの水商売して」
「あら、そうだったの?」
「田舎のスナックから飛び出して、北新地の売れっ子になった。和服でキメて、こぉんなガッチガチに前髪固めて」
ママは指先をピシッと揃えて、ひたいの前に鋭角を描いた。
「今思うとイキってたなぁ」
「前髪で?」
「そうそう。先輩よりも飛び出てようもんならヤキ入れられんで、ほんま」
けらけらと笑う泉は楽しそうだ。
「強気のとこがウケて、贔屓にしてくださるお客さまもようさんおったわ」
「でしょうねぇ」
「せやけど、結婚したい人はおらんかった」
「どうして?」
「『愛人や』『君が一番や』言うても、そんな男は金の切れ目が縁の切れ目や。どんな大企業の重役でも脂乗ってる役者さんでも、人生谷間はあるでなぁ。ほんな浮き草みたいな男に縋りつくような女は嫌やってん」
「あっはは! 結婚制度全否定するじゃない!」
「ちゃうで。一生添い遂げる覚悟ある人は尊敬してる。ただウチが向いてないだけ」
「それを言うなら、私も向いてなかったのねぇ」
「いずみちゃんの場合はなァ、見る目なかっただけちゃう」
「手厳しい〜」
ママも笑う。煙草をねじ消して、泉の肩に腕をまわした。
「ぜーんぶ生きる肥やしにしてこ。恥も悔いも、味わったもん勝ちや」
泉もママの肩に腕をまわす。
酔っ払いの中年女ふたり、おでこをゴチンと突き合わせる。
「まぁ強いて言うなら、一人おったわ」
「何、あ、ロマンスの話?」
「店の内勤さん。昼は大学行って夜はボーイして、働きどおしやった」
「苦学生かぁ。」
「そ。体壊して病気なって、あっという間に骨になってしもたわ」
「そうだったの……」
「まぁ言うたら、その病院通いの一ヶ月が、ウチの最初で最後の恋愛みたいなもんやったな」
ママは手で拳をつくって、泉の口もとに運んだ。
「次、アンタの番」
「えっ私?」
「ウチだけ喋らせといて、アンタが喋らんいうことないやろ」
なぁなぁ、と酔いのまわってきたママが、少しイジリを含めた笑顔で追撃する。
「なんでDV男と結婚したん?」
「ええ、やめてよぉ、黒歴史、若気の至り」
「子どもまで作っといて、なんも良いとこなかったん?」
「うーん、鷹也を授かったことだけは感謝してるけど……」
息子の名前を出して再び寂しさを思い出したのか、泉はシュンと肩を落とした。
振り出しに戻る。
「ハイハイ、飲もや」
「いいの?」
ママは立ち上がり、泉のひたいにデコピンする。
「店の酒やない。裏の冷蔵庫の缶チューハイや」
こうして結局、二人で飲む羽目になる。
(あかん、ウチの肝臓もやられるわ)
私用の小さな冷蔵庫から缶二つを取って、後方に声を張りあげる。
「今度さぁ、二人で人間ドック行ってみよ」
「なあに、いきなり」
「一人で行くより、二人で行くほうが楽しいやん」
「そういう趣旨のものだっけ?」
「たしかに」
ママも泉も忍び笑う。
「あれって『結果を省みて、日頃の不摂生を改めましょうね』っていう、わりと真面目なイベントじゃないの」
「せや、冷やかしで行くもんとちゃうな」
取りとめもないことで笑い合う。
そこに老いはあっても、悲観はない。
なぜなら——
「医者のセンセいじめて、なんなら店に来てもらいまひょ」
「商魂たくましいわぁ。私も名刺持って行こうかしら」
「うっとおしいババア二人やなぁ」
「やあねぇ、老害になっちゃう」
「上等」
うざったくて説教くさくて、だけど情に厚くて涙もろい、そして図太く生きる様を背中で見せる。
そんなキュートなおばあちゃんを目指すのだ。