初めての大喧嘩
本編17話と最終話のあいだのお話。
誰にだって、欠点の一つ二つはある。
非の打ち所がない人なんて世界のどこにもいない。
そうわかっていても、沙夜は込み上げる怒りをどうしようもなかった。
「あ——ありえないっ!!」
沙夜が叫ぶ横で、多津がちょこんと正座している。
「いや、だってほら、どうしても和装の人が多いから……」
「和装がどうこうってレベルじゃないです!」
「ハイッ!」
二人の目の前には、仕立て上がったばかりの振袖が掛けられている。
薄い生地が光に透けて、衣紋掛けの形がわかる。
「だからって……夏物の振袖、長襦袢から仕立てるなんて……」
沙夜は頭に血が昇りすぎてクラリとした。
多津といっしょに暮らすようになって、少しずつ和装の知識が増えてきた。
それは良い。勉強になる。
着物にもTPOがあって、演奏会の規模によって、どの装いがいいか変わってくること。
年齢に合わせた色味や柄ゆき。
インナーとして着る長襦袢というもの。
そして、それらのお値段も。
「……たんですか」
「え?」
「この襦袢と振袖を仕立てるのに、一体いくらかかったんですか」
「う、えっと……」
多津は恐る恐るというふうに、人差し指と中指、薬指を立てて、計三本の数を示した。
(三十万?)
(ううん、夏物の生地なんて縫いにくくて、ただでさえ工賃がかかるのに)
(それだけで済むはずない)
そうなればケタがひとつ違う——三百万!?
「嘘って言って」
「……」
「これ、レンタルですよね?」
それなら百歩譲って三十万でも納得できる。
「新品感を出すために、しつけ糸が残ってるだけですよね?」
縫い立ての着物は、袖や裾がずれないように、専用の糸でしつけられている。
糸をほどくのは、着る人のもっとも大切な相手の役目。
多津からそう教えてもらって、慣れないながら嬉しい気持ちで糸をパチンパチンと切ったことも、記憶に新しい。
「ね、レンタルでしょう?」
多津が首を振る。
「あっ、わかった、お母さまのお下がりとか!」
多津の母親は、会うときはいつも和服を着ている柔和な女性だ。
せめて布がお下がりなら、洗い張りと仕立ての工賃だけで済む。
しかしこれにも、多津は首を振った。
畳の上に倒れ込む沙夜の背中を、多津の手のひらがそろそろとなでる。
「あの、説明してもいい?」
「やだぁ、聞きたくない」
沙夜はもう半べそだ。
「僕も最初はそこまでしなくて良いって言ったんだよ? だけど母が楽しくなっちゃって……生地を見ていたら、なんだか僕も『これは似合うだろうなぁ』『綺麗だろうなぁ』とか思ったり、しちゃって」
「だからって」
「ほら、やっぱり本家の集まりだからさ、緊張するだろうし、少しでも勝負服というか、力になれればという意味で……」
「それ、お母さまの受け売りでしょう」
「ハイ……」
沙夜はキッと多津を振り返った。
「だいたい、私もう二十です! 振袖なんていつまで着られるか——しかも、袷なら分かりますよ、季節関係なく着られるから! なのに、なのに——夏の一ヶ月や二ヶ月しか着られない生地で最礼装を仕立てるなんて——!!」
何度も着られるものでもないのに、と、あとはもう言葉を失って、沙夜は全力疾走の後のように肩を上下させた。
多津は身をすくめて言う。
「だけど、どうしても着て欲しくなっちゃって」
「金銭感覚ゥ……」
「ごめんね」
「……それは何に対する謝罪ですか」
「えっ! ン……そう、だね……沙夜を飾りつけたくなっちゃったこと?」
「違ァう!!」
わかるまで口を聞きません、と豪語して、沙夜は家を出た。
*
「そんで、もう三日経つの?」
トムが筝の調弦をしながら言う。
今は同窓の仲間が演出する舞台の音合わせをしているところだ。規模の大きいイベントなので、自然と打ち合わせは多くなり、顔を合わせる機会も増える。
「それは先輩が悪いと思いますよー」
口を挟んできたのは、家ぐるみの付き合いがある後輩だ。
「オレも学生ンときに言われたことあります。金銭感覚違い過ぎるって」
「それは、君のとこは雅楽のお家柄だから……」
「雅楽なんて嗜む人口決まってますから、大したもんじゃないですよ」
だけど筝は違うでしょ、と後輩に諭される。
「小学生の手習いから京都の芸妓さんまで、嗜む人がたくさん居て、しかもその大きな流派の宗家ですよ? 全国的なイベントになったら、何億万円が動く業界じゃないスか」
はい論破、とトムが合いの手を入れる。
「多津の気持ちもわかるけど、ここは真に一理ありだな」
「あざーッス」
「沙夜ちゃんなんて特に、飲食業だろ? 一円一銭で利益の変わる業界だよ。おまえのどんぶり勘定なんて、愛想つかされても仕方ねえな」
「……ヒトの彼女を、気軽にちゃん付けで呼ばないでクダサイ」
こころ狭っ、と二人に言われて、多津はたちまちしょぼくれてしまう。
ただでさえ、今は家に沙夜がいない。
それだけでも落ち着かないというのに、ここから一体どう挽回せよというのか。
多津の落胆ぶりを見て、二人も多少同情したのか、口調をゆるめてくれた。
「まぁ、あんなに情の深いコもなかなか居ねえから、即お別れとはならんだろ」
「大丈夫ですよ。多津先輩のメンヘラに付き合えるなら、金銭感覚ぐらい些細なもんですって」
「……君たちは、僕を励ましているの? それともトドメを刺したいの?」
ひーっと腹を抱えて笑う野郎どもは置いておいて、多津はスタジオを出た。
スマホを取りだして液晶を眺める。
何度電話しても出てくれないし、メッセージも既読にならない。
昨晩は眠れないばかりに「仲直りの仕方」「復縁する方法」など検索し尽くして、とうとう怪しげな占いサイトに飛んだ挙げ句、架空請求されるところだった。
(はぁ、僕だけなのかな)
こんなに会いたくてたまらない、一瞬でも長く隣りにいたい。
だけど我慢している。
独占しないように、彼女の世界を閉じてしまわないように。
沙夜が専門学校に通うようになって、学年が上がってからまた更に、彼女の勉強を尊重しているつもりだ。
だからこそこんな場面で、我慢していたものが爆発してしまうのかもしれない。
(浮かれてた、かも)
ため息をついて、多津はスマホをポケットに放り込んだ。
*
夜になって帰宅すると、玄関の灯がついていた。
ハッとして引き戸を開けると、上がり框の下に揃えられた、年季物の草履。
「母さん!?」
「おかえりなさーい」
ダイニングで寛ぐ母は、居酒屋よろしく、すでに一杯やっている。突き出しの小鉢には、沙夜が作ったであろう、美味しそうな高野豆腐の煮しめ。コンロの鍋からは砂糖と醤油の甘じょっぱい匂いがしている。
「沙夜は?」
「ご挨拶ねぇ。母親より婚約者が大事?」
「大事だよ」
「まぁ、失礼しちゃう」
そういう母の表情に嫌味は一切ない。
沙夜を紹介した初対面から、「うちのふつつかな息子をどうぞよろしく」と涙するような親だ。
沙夜を実の娘のように可愛がっている。
「沙夜ちゃんは、今お仏壇のお花を買いに行っているわ」
多津が手を洗う後ろから、母の声が投げかけられる。
「あなた、ここ三日、ろくに食べてなかったでしょう。あの子ったら、冷蔵庫開けて悲鳴あげてたわ」
楽しそうにコロコロ笑って、手酌する。
「食事どころじゃなかったよ。例の振袖の件で、沙夜の逆鱗にふれちゃったらしくて……ああ、でも、良い匂い」
沙夜が帰ってきたぁ、と鍋を覗きこむ。
「沙夜ちゃん、ウチに来てたのよ」
「え?」
「来る前に『お母さま、お振袖のことで』って、連絡があってね」
「——さすが……」
「それから、行きつけの呉服屋さんに行ってきて」
「ええっ!?」
「あ、べつにクレームを入れたとかじゃないのよ。沙夜ちゃんにも着物を着せて、菓子折り持って、一緒にお仕立てのお礼に行っただけ」
「だけって、それって相当アクティブ……」
「ねえ。本当に」
母親はくすくす笑って言う。
「あなた、しっかり者のお嬢さんで良かったわねえ。ちゃんとお振袖のこと考えて、仕立て直しや染め直し、お手入れのことまで聞いて。和裁士さんも楽しそうだったわ」
「仕立て直し……?」
「ほら、結婚したら袖を断つでしょう? あとは、地が淡い色だから、歳を重ねたらグレーや紺に染めてもいいですね、なんて。あれはきっと一生着倒すつもりよ——あら、なぁに、赤くなって」
多津は腕で顔を隠した。
こんなところは、母親にはとても見せられない。
「……や、なんか」
「まるで『プロポーズされたみたい』?」
母の口もとがニヤニヤしている。
これはもう、隠しても意味がなかったようだ。
「ただいまぁ、あれ、絃二さん?」
おかえりなさい、と顔を出した沙夜の腕にはお仏花が抱えられている。
「ちょうど良かった。一緒にお供えしましょ。お仏飯、盛ってください」
二人で花とご飯の用意をして、お盆に乗せる。
「お母さま、ゆっくりなさっててくださいね」
沙夜が何気なくかけた声に、母親が嬉しそうにうなずく。
(沙夜を紹介してから、よく笑うようになったな)
多津の覚えている母の顔は、常にどこか緊張していて、陰鬱だった。宗家の嫁であり、長男を事故で失った女性。
そんな母の笑顔を見られるだけで、多津は沙夜を拝みたくなる。
(だけど、目下、ケンカ中……)
まだ沙夜が何に対して謝罪を求めているのかもわからない。
廊下を歩きながら、沙夜は淡々と多津に話しかけた。
「絃二さんのお金なのに、私が口出すの、筋違いですか?」
「……や、一緒に生きていくんだから、二人で共有することだと……思いマス」
「それなら、高いお買い物は、決済するまえに教えてください」
「はい」
「あの値段なら筝が三つ四つは買えます。お弟子さんに貸し出したり、楽器の修繕に使うこともできます」
「はい……」
毅然としている沙夜の言うことは、まさに正論で、だから余計に突き刺さる。
しょんぼりしたままお参りしたら、爺さまと兄さんに笑われるだろうか。
沙夜がテキパキとお供えをして、二人で仏前に並んで座った。
「絃二さん、私が何に怒ってるか、わかりました?」
「イエ……面目ないですが……」
沙夜は静かに膝を寄せて、絃二の手を握った。
「私のことを、絃二さんの相手に不釣り合いだって言われる方々がいますよね」
「そんな、ことは……」
ある。そうなのだ。
後輩にも言われた通り、大きな金額が動くところには、妬みも嫉みも多くある。
そんな中で、宗家次期当主の隣りにいるのが、どこの馬の骨とも知らぬ娘で良いのかと、分家のお偉い連中に釘を刺されたことも、一度や二度ではない。
だからこそ、文句も付けようのないほど令嬢然と装わせて、意地悪な嘲笑から守りたかった。
「……ごめん」
「わかってます。だから、あれだけ立派なお振袖を仕立てて頂いたんだって。その気持ちは、とっても嬉しかった」
お燈明に照らされる沙夜の表情は、やわらかくほほ笑んでいた。
その美しさに、ドキッとする。
「もともと孤児なんだから、そう言われても仕方ないですよ」
でも、そんなことどうでもいいの、と、沙夜が手に力を込める。
「だって、私には、絃二さんとお母さまっていう、一番強いお二人が味方にいてくださるんだもの」
(弱い僕を、強いと言ってくれる)
(ああ、沙夜って、なんて)
「幸せいっぱいで、怖いものなんて何もないんです。それが伝わってなかったのが、悲しかったの」
(なんて強いんだろう……)
多津は沙夜を抱きしめた。
「弱気な男で、ごめん」
「絃二さんは謝ってばっかり」
「本当にそう思うんだよ……」
思いがけず声が拗ねてしまい、多津は自分の口もとを覆う。
沙夜が笑って言う。かわいい、と。
そして多津の肩に腕がまわされた。
「むしろ私がお礼を言わなきゃ。着るものなんて全然考えてなかったから」
これからも、色々教えてください。
そうささやく声が妙に色っぽくて、多津は誘われるようにキスをした。
やさしくふれるだけ。
しかし、沙夜が慌てたように身体を離した。
見下ろすと、耳も首も真っ赤に照れて、消え入るように「お仏前ですから……」と言った。
「君は、まったく」
僕をどうするつもりなの、と吐き出して、再びギュウと抱きしめた。
「凛々しくて、強くて、しっかり者で、だけどこんなに可愛くて」
「ちょ、絃二さん?」
「三百万なんて端金だよ!」
「絃二さん、バグってるから!」
「バグらせたのは沙夜だよ」
せめてもの意趣返しに、沙夜の耳もとでささやく。
「愛しい相手を着飾る喜びを、教えたのは君だよ」
「ひゃっ」
「着飾った装いを崩す楽しみも」
畳のうえに押し倒すと、沙夜は恥ずかしそうに首をすくめて、多津を睨みつけた。
「……悪役みたい」
「沙夜はぜったいヒーローだね」
「じゃあ絃二さんはヴィランなの?」
「そう」
僕はヒーローに憧れてやまない悪役。
ケンカになっても最後は必ず君が勝つ。
多津宗家では、近々婚約披露パーティーのようなものがあるみたいです。
婚約指輪は、お母さまのお下がりをサイズ直して使うことになりました。
(せめても節約しようという沙夜ちゃんの苦肉の策)