14歳、恋を知る。〈End〉
ユナが泣いている。
鼻が赤い。
当人は「あはは、やばぁ」なんて言いながらテーブルの紙ナプキンを取っている。
「なんか久しぶりに……その名前、聞いたら」
情緒おかしいね、なんて言いながら、ユナはグスグスと鼻をすすっている。
「ごめん——」
「茉莉ちゃんはわるくないよ」
いや、悪かった。
少しばかりの悪意を込めた。
罪悪感の矢(アーチェリーとかそういう大きいやつ)がドスンと茉莉の胸を刺す。
ユナはとうとう両手に紙ナプキンを握りしめて、しゃくりあげた。
「ひっ、た、たかや、くんは」
茉莉はびっくり仰天した。
ユナがこんなふうに泣くところを初めて見る。
今さっきとはまるで違う別人格になっちゃったのかと思う。
「おばかで、おきらくで、そのままの、ユナだったら」
きっと一緒にいられた……と、ユナはかすかな声でそう言った。
しゃくりあげながら、それでも紡ごうとする言葉の在りかを、茉莉は必死で聞き取ろうとする。
「でも、たかや、くんは、ひっ、ひさい、しゃ、じゃない」
《被災者じゃない》。
茉莉にはわからない、その壁の分厚さと高さ。いったいどれだけの対話と絶望を積み重ねたら、その壁を越えることができるのだろう。
「そ、そんなの、ど、っちも、きずつく、からっ」
いっそ一緒にいないほうがいいと思った。
それなのに——
「いま、なまえ、きいたら……あ、あいたくなっちゃうじゃん」
気持ちを怒涛のように溢れさせるユナに対して、茉莉は受け止めることに精いっぱいだった。
次から次へと紙ナプキンを引き出した。
見かねた隣のお年寄りが、ごそっとひと束渡してくれるくらいに。
「ごめ、ごめん……こんな、泣くつもりじゃ……」
「ユナさん、あの、ごめんなさい。私が考えなしだった」
考えなしという言葉がどう響いたのか、ユナはとうとうテーブルの上に突っ伏した。
「か、考えなし、だったのは、わたしなの」
どうやら呼吸は落ちついたようだが、心の内はそうでもないらしい。
「鷹也くんのこと、初めから、いいなって思ってた」
茉莉は、ユナと初めて出会ったときを思い出す。
そうだ、空のタッパーを返しにきたんだ。
「誠実そうで可愛くて。だけど、なんか、むかついてきて」
「え、そうなの」
「そうだよ! こっちはがんばって物分かりのいいフリしてるのに、なんでわざわざ地雷掘り返してくるの!?」
だんだん語調が荒くなってきた。
ナプキンをくれたお客さんが、どこか懐かしげにうんうんと頷いている。
(えっ、全然わかんない!)
茉莉は戸惑って両者を見つめる。
「鷹也くんは真面目すぎなの!」
ユナは拳でテーブルを叩いた。
「彼氏がいても奪いに来てよ! 逃げそうになったら捕まえて、キスの一つや二つかませばいいじゃん!」
(もしかして、さっきのドリンク、アルコール入ってた?)
茉莉は素早くメニュー表を確かめる。紛れもなくソフトドリンクだった。
(お婆さん、私どうしたらいいんですか!)
目線を送ると、大丈夫、と言うように手のひらを振っている。
その通り年の功か、ユナはゆらりと起き上がった。
「結局、私のことを《かわいそうな人》扱いしてるの。実際そうなんだけどね。だけど」
拳がふっとゆるんで、ユナの語気もちいさくなった。
「鷹也くんとは、対等でいたい……そう、そういうこと」
ユナは自分で口に出して初めて気づいたように、視線を持ちあげた。
「私は私に自信を持って、まわりの人と向き合いたい」
その眼差しは、さっきと同じように、今この場所ではないところを見つめている。
だけど見える景色は、きっと変わっているのだろう。
厨房の外と内、表口と裏口のように。
茉莉も、ユナというひとの表と裏を今日知った。
明るく朗らかな青空を思わせる素直さ。
反対に、土砂の逆巻く津波に似た、冷たさと厳しさも持ち合わせている。
(きっと他にも、いろんなユナさんがいるんだろうな)
思いにふけりながら、何の気なしにジュースの残りをストローで吸っていると、ユナはようやく茉莉を見据えて、口に出した。
「茉莉ちゃん、来てくれて本当にありがとう。会えて良かった」
「私も……また、会いに来てもいい?」
「次はこっちから行くよ」
だから待ってて、と、目元も鼻も真っ赤にしてユナは笑顔をみせた。
ユナと別れてから母親とフリースクールに連絡を入れた。さすがに、ホームレスと刃傷沙汰になりかけました、とは言えなかったが。
母親からはさんざん叱られたし、フリースクールのスタッフさんは心配しながらも「冒険したね〜」と嘆息していた。
塾には間に合う。
(帰ったら、また叱られる)
だけど今はもう、怖くない。
(お母さんもきっと、私とは違う景色を見ているんだ)
自分が不登校になったときも、色々言いたいことはあるだろうに、受け入れてくれた母。
それでもまだ何かを期待するように、ときどき茉莉に向かって感情を爆発させる母。
どちらも同じ人。見えている面が違うだけ。そう思えば少し楽になれる。
わかり合うことはできない。
きっと時間が解決することなんだろう、とぼんやり感じた。
だけど過ごした時間は、お互いにあたたかな記憶で刻まれる。
(……それって、幸せなことなのかもしれない)
*
「そういう訳で、はい、連絡先」
子ども食堂にやってきて開口一番、茉莉は鷹也にスマホの液晶を差し出した。
しかし予想に反して、鷹也はプイと顔を背けた。
「連絡なんかできねぇよ」
「なにそれぇ〜! 女心わかってない!」
「女心はわからねぇけど、あのひとの考えてることは、なんとなくわかる」
「えっ、何!?」
鷹也は秋茄子を串に刺しながら(今日のメインはみそ田楽らしい)、マスクの下で嘆息した。
「あのひとが『待ってて』って言うなら、待つしかない。自分の落とし前つけて来るまで」
「落とし前?」
「『対等になりたい』とか『自分に自信を持って向き合いたい』って、そういうことだと思うけど」
(なんだ、けっこうちゃんと話聞いてるんた)
茉莉は意外な気持ちで鷹也を見た。
「——『彼氏がいても奪いに来てよ』発言は?」
「あのなぁ」
鷹也は手をとめて、茉莉をじろりと睨んだ。
「彼氏だろうが被災だろうが、あのひとを奪ってやろうと思ったら、こっちも生半可な覚悟じゃ奪えねぇんだよ」
イラついたように吐き捨てる鷹也の目が、口調よりずいぶん優しくて、だけど何かの決意を秘めていて、茉莉は一瞬ドキッとした。
「……ねえ、なんでユナさんのこと《あのひと》っていうの?」
「源氏名じゃ嫌だ」
鷹也は低く唸った。
「次は本当の名前で呼んでやる」
(ひぇ、怖い)
(リアルの恋って、こういう感じなの?)
茉莉は流行りの少女漫画を思い浮かべた。
BLに百合、三角関係、インフルエンサー、咲き乱れる華やかなドラマ。
(だけど、思ってたのと全然ちがう)
華やかではない。泥くさい。
実際に生きている、その人の熱量が真っ正面からぶつかってくる。
たとえるなら、ネイチャー映画と自然現象みたいだ。
4DXとは比べものにならない、うねるように絡みつく心の綾。
衝撃。
葛藤。
胸が苦しくなるような、人との出会い。
(モデル級のハイスペイケメンはいない)
だけど鷹也は格好いい。
(恋をして綺麗になっていくヒロインはいない)
だけどユナさんは魅力的だ。
(いつか、私にも来るのかな)
抗いようもなく感情すべてを持っていかれる自然現象。
お互いに振り回し振り回される、渦のような感情のぶつかり合い。
(おっかない)
(だけど、ちょっと楽しみ)
*
そして季節が変わった。
爽やかな秋の匂いをふくむ風。
そんな土曜日の昼下がり。
「あの——!」
紅葉とともに扉を開けたのは、懐かしい姿だった。
いつかのようにボストンバッグを肩から下げて、ショートパンツからのぞく脚が木漏れ日に光る。
(あっ)
茉莉が声をあげるよりも早く駆け寄った調理エプロンの青年は、鍋の煮立つ音もかまわずに、その積年の待ち人を抱きしめた。
食堂に子どもたちの囃し声が響く。
しかしそんな冷やかしには構いもせず、二人は固く抱きしめ合っている。
茉莉からは、鷹也の肩に顔をうずめ、涙を流している、大好きな人の姿が見えた。
「ごめん、鷹也くん」
「いいよ」
「ずっと、謝りたかった——」
「わかってます。無事で良かった」
ゆっくり話したいから、と鷹也に促されて、彼女は二階へ上がろうとする。
そのとき、茉莉と目が合った。
茉莉はとっさに「ユナさん」と引き止めた。
「ほんとの名前、教えて」
彼女は、今まで見せたことのないようなやわらかい笑顔で、くちびるの前に人さし指を立てた。
「他の人には、ナイショだよ」
茉莉の手元、開かれたノートのうすい罫線。
シャーペンを受け取った彼女は、罫線にかぶるように、ひらがな六文字を優しい筆致で書き記した。
茉莉はそれを、感慨深い思いで見つめる。
最初に出会った日、ノートに名前を書いたのは茉莉だった。
——私ジャスミン好きなんだぁ。
そっと、ひらがなの筆跡を指でたどる。
《ゆうかわ なぎ》
どんな漢字をあてるのかはわからない。
だけど《ユナ》よりずっとしっくり来る気がした。
(なぎ、さん)
岩を削り激しく流れおちる川は田畑をゆたかに潤して、水面を照らす光の粒が、最後にたどり着く凪いだ海。
(ああ、恋が愛になったんだ)
茉莉は自然と胸を打たれて、涙がひとしずく溢れた。
〈End〉
【御礼】
亀更新にも関わらず、ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
茉莉ちゃん視点のお話はここでひと区切りとして、鷹也くんの決めたこと、花吹と多津氏のその後などを、短編として後日掲載予定です。
この夏の暑さを少しでも凌ぎやすくなりますよう、娯楽のひとつとなれば幸いです。
皆さま、どうぞご自愛くださいませ。
秋乃 拝