14歳、恋を知る。〈4〉※
(土下座)終わりませんでした……!
窓の外を雨滴が斜めに過ぎてゆく。
曇天はしかめっ面で茉莉の愚行を咎めているようだ。
(あ……)
(連絡は、入れなきゃ)
そう思ってスマホを取り出しかけたが、打つ言葉に迷って、どうにも指が動かない。
フリースクールどころか、塾さえ間に合うかどうか。
遅れるけど行きますとも言えないし、それをバカ正直に伝えたとして、ぜったい母親に連絡がいく。
(鬼電、確実)
茉莉はスマホをバッグの中に放り込んだ。
慣れない路線、初めての駅。
車掌のアナウンスが聞こえた。
『〇〇線は現在、運転を見合わせて——』
周囲の人がザワつく。
出勤ラッシュは過ぎているものの、車内は混んでいる。
近くの人が「人身事故だって」「最近多いね」と、いつものことのように言う。
その《日常感》にゾッとした。
生活圏内を一歩出れば、そこはもう守られる領域ではない。じぶんの常識は通じない。
茉莉は今さらながら、恐怖を感じた。
軽はずみだったと後悔した。
(会える保証なんて、どこにもない)
降車駅が近づくたび不安になる。
茉莉の心を映すように雨足は強くなり、駅を出る頃にはビニール傘を買わなければいけなかった。
地図アプリで何度も確認した道を歩く。
(こんなどしゃ降りで、どうするんだろ)
動画で見た人々や、ブルーシートのテントを思い出す。
炊き出しもない、缶を集めることもできない、そんなホームレスの人たちが行く場所はどこだろう?
目的地にたどり着いた。
簡易テントはあるが、人の動きは感じられない。
雨除けに高架下で集まっているのかとも思ったが、人影はまばらだった。
ただし——
(なんか、見られてる……?)
目視できる人影にはそぐわない圧の視線。
背中をヒヤリと汗が流れる。
アスファルトを後ずさり、周囲を見渡す。
何人かが……こちらに近づいてくる。
薄暗さもあり、男か女かはわからない。
だけど本能で自分が弱者であることをさとった。
膝がふるえて動けない。
それを察したのか、近づく影は速さを増した。
(嫌——!)
警告アラートが頭の中で鳴った瞬間、腕にあたたかい手のひらがふれた。
場違いなやさしい体温は、雨に冷えた茉莉の心をほぐしてくれた。
「静かに……こっち」
腕を引かれ、無理やり高架下から遠ざけられる。
パーカーのフードを被っている。だけど、顔が見えなくてもわかる。
覚えのある声に胸がいっぱいになった。
「ユナさん……?」
「なんで、こんなところにいるの」
厳しい目つきのユナは、豊満さの面影を残しながらも、どこかやつれた雰囲気だ。
「ユナさん、会いたかった」
おもわず抱きつくと「話聞いてる?」と抵抗される。
負けない。
心配したぶん、会えて嬉しいぶん、力の限りに抱きしめる。
何を言われてもかまわない。
いま自分を見つめてくれている瞳が、何よりも嬉しかった。
*
ユナの後に従って、価格高めの喫茶チェーン店に入った。
「何食べる?」
「えっと……」
「遠慮しないで。それなりに稼いでるから」
迷った挙句、無難にランチを頼んでメニュー表を片づける。
「さて」
ユナがいたずらっぽく指を組んで、その上に顎を乗せた。
「なぁんであんな危ないとこに立ってたかな。しかも一人で」
茉莉は、言葉に迷いながらも、少しずつ説明した。
あの雪の日に知ったこと。
どうしても気になって、震災遺児について調べていたこと。
たまたま見た動画にユナらしき人が映っていて、思わず来てしまったこと。
「やだぁ、顔にボカシ入ってなかったの?」
「ほんとだ。そういえば……」
ユナは呆れたように息を吐いた。
「ホームレスってのも色々なの。支援団体と一緒に社会復帰目指してる人もいるし、逆に絶望して、いっそ刑務所入りたいって思う人もいる」
「あ、それ、たまにニュースで見る」
刑務所なら衣食住は保証されているから、そんな動機で。
ユナは口を重そうに開いて、ため息混じりに伝えてくれた。
「通り魔っぽい事件とか……刑務所に入るためなら誰でも傷つけてやろうって思う人、たくさんいる。さっきの茉莉ちゃん、かなりヤバかったよ」
ユナは口を真一文字に結んで、腕を組んだ。
「だから、もう来ちゃダメ」
「……だって、ユナさんに会いたかったんだもん」
「それでもダメ」
「ユナさんがどうしてるか心配だったの!」
茉莉はつい声を荒げた。
「なんで食堂来なくなったの? 彼氏さんは?」
「——ズケズケきくじゃん」
「今どこに住んでるの? 安全なとこ?」
「話聞いてよ」
ユナが苦笑しながら茉莉のひたいを小突く。
「彼氏には振られましたぁ」
「えっ!?」
茉莉の大きな声に、やって来た店員が一歩たじろぐ。注文したものが届いたらしい。
「ほら、食べよ」
「今の流れで!?」
「食べなって。そのあいだに話すから」
顔をしかめる茉莉にランチの盆を押しつけて、ユナは季節限定パスタを前に「いただきまーす」と手を合わせる。
茉莉も渋々、箸を取った。
「うまぁー」
久しぶりに見るユナの食べっぷりに、茉莉の腹もグウと鳴った。
みそ汁をひと口飲んで、自分の身体が冷え切っていたことに気づく。
「おいし……」
「でしょー。ここ、私のご褒美スポットなのぉ」
「そうなんだ」
「大事な話は美味いもん食べながらするもんだよ。これライフハックね」
その通り、ユナは食べる合間に、少しずつ話をしてくれた。
「彼氏とは、まぁ仕事つながりの関係だったんだけど……だんだん、仕事自体、上手くできなくなってきて」
フォークをくるくる回しながら「鷹也くんの顔がチラチラしてさぁ」と呟く。肝心のスパゲティは全然絡まっていない。
茉莉のほうは、胃が温まったからか、さっきよりは落ちついて話が聞ける。
「出稼ぎ先でケンカして、スマホバキバキに割れちゃったんだよ。なんとか帰国できたけど……それから必死でさぁ」
でもさ、とユナが頬をもぐもぐしながら言う。
「茉莉ちゃんのことは、気になってたよ。あんな別れ方だったし」
茉莉は慌てて「そうだよ!」と答えた。
「あれからすごく心配してたんだよ。私もだし、泉さんも……タカヤも」
「うん、まぁそうだろうね」
「そんな他人事みたいに——」
「心配してくれる人って、うっとおしい」
ユナはたぶん、本音を言った。
歳下扱いされていない。そんな激しさを感じて、茉莉はゴクッと唾をのんだ。
「や、有り難いんだよ。心配してくれるって、それだけ気にかけてくれてるってことだし」
ユナが髪を掻き上げて、目を閉じる。
「だけど、そこじゃないの。私が欲しいのは」
茉莉はユナを真っ直ぐ見た。
相手はこちらを見ない。
きっと、震災のあの日、あの場所に立っている。
その景色を共有できるのは限られた人だけなんだろう、と思う。
「ユナさんが欲しいのものは、なに……?」
閉じられていた瞳があらわれる。
今度は茉莉を鋭く射る。
そして突き刺すように答えた。
「3月10日」
その日付の意味に気づいて、自分の頬が痙攣するのがわかった。
ユナは表情を明るくやわらげて、「まぁ、まずは住民票かな」と言い添えた。
「役所も被災して、そういうの全部流れちゃったからさ。今はそれを発行してもらってる。それないと生活給付ももらえないんだよぉ」
やってらんないよねぇ、と笑って、ユナは食事を終えた。
「んじゃ、あとは払っとくから……」
わざと吹っ切るような言い方に《さよなら》の雰囲気を感じた。
(このままだと、きっと)
もう会えなくなる。
「ユナさん、連絡先教えて!」
ユナは驚いたように目をみはった。
「さすがにもうスマホ持ってるでしょ?」
「そうだけど……」
断られないように、茉莉は必死で、ありったけの言葉を搾りだす。
「心配されるの嫌だっていうの、なんとなくわかるよ。でも、そういうのじゃなくて、違うの、お節介かもしれないけど、ユナさんがちゃんと生きてるっていうか、息してるって知っていたい」
支離滅裂とはこのことだ。
自分でも何を言っているかわからない。
だけどユナはどう思ったのか、あはっと笑った。
「息してるゥ!?」
すっごいパワーワード、と笑い続けるユナに、茉莉はちょっと恥ずかしくなってきた。
「SNSはダメだから! ちゃんと番号教えてね!」
「あははっ、はぁい」
どうにか教えてもらって登録する。
連絡先の交換に、これほど必死になったのは初めてだ。
そのときにふと、ユナの名前が本名でないことを思い出した。
「ねえ、ユナってほんとの名前じゃないの?」
「そだよー。源氏名ってやつ」
「ほんとの名前、教えてほしい」
スマホをタップしていたユナは、その指を止めて、茉莉に向かって不敵に笑った。
「い、や、です」
「なんで!」
「茉莉ちゃんの前では、おバカお気楽なユナでいたいのー」
ちっとも思い通りにならない。
悔し紛れに「じゃあ、タカヤの前では?」と言った。
ユナが黙ったので、内心「勝った」と思って顔を上げると、なんと——
「え、どしたの……」
ユナの両目から、ビーズの粒のこぼれるように、涙が流れていた。