14歳、恋を知る。〈2〉※
ユナさんバックボーン闇深め。ご注意ください。
茉莉は自分に自信がない。
(って、ひと言じゃ足りないよ)
もうどうにでもなれ、と叫びたくなるような呆れ、周りと比べては込み上げるコンプレックス、Wi-Fiがめちゃくちゃ接続悪いとき、みたいな軽い絶望感。
その他もろもろ刻まれて混ぜこぜ、どうしようもなくなったホコリまみれの感情が、心のなかに積もっている。
(それなのに大人たちは、SDGsだなんだって、変な期待を押しつけてくる)
自分に何ができるのかも、何が向いているのかもわからないのに、ただ一方的に期待されるのは息苦しい。
それをユナに話すと、いつものようにあっけらかんと笑い飛ばしてくれた。
「期待してくれる人がいるだけマシじゃん」
「えっ、そこ?」
「まぁね、茉莉ちゃんの気持ちもわかるけどさぁ。まだ社会のこと何もわからないのに、そんな期待押しつけないでって感じだよねぇ」
「それ、そうなの」
茉莉はユナのほうに前のめりで頷いた。
「だけどぉ、これはもうしょうがないよ」
ユナは賄いのサバ味噌をつつきながら、「うーん」と片肘をついた。茉莉の母親がもし見たら、お行儀がわるいわよ、なんてピシャリと言われそうだ。
だけど茉莉は、ユナのそんなリラックスした雰囲気も好きだ。丸い肩、ふわふわのほっぺ、軽く組まれた脚、全身からにじむゆるさが茉莉の気持ちを軽くしてくれる。
しかし、ぷるんとした唇から出た言葉は鋭くシビアだった。
「大人になったら、期待してもらわないと稼げないもん」
「うわ、ゲンジツって残酷……」
「ざーんこーくなンフフのテーゼ〜♪」
「何それ」
「知らないの!?」
ジェネレーションギャップ! と嘆きながら、ユナはそれでも朗らかに茉莉を見つめた。
「私の場合、お客さんに気持ちよくお酒飲んでもらうことが仕事な訳」
「んー、居酒屋みたいな?」
「まぁそんな感じ」
だからさ、とユナが言葉を継ぐ。
「『この子だったら、自分のこと楽しませてくれそうだな〜』っていう期待がないと、お客さん来てくれないのよ」
「……無理ゲー……」
「あ、そうそう、お客さんといえば」
これあげる、とユナがトートバッグから出したものは、どこかで見覚えのあるご当地菓子だった。
「もらったの。みんなが来たら食べて」
「これ、どこの?」
「広島ぁ」
「ユナさんって、ちょいちょい旅行してくるよね。このセレブめ」
ユナは面白そうに、きゃはは、と笑った。
「仕事だよぉ、出張みたいなの」
「えっ、すごい。それって、彼氏さんが紹介してくれるの?」
「んーと、まぁ紹介というか、仲介というかぁ」
ユナが目を泳がせた。
たまにこういう時がある、と茉莉は思う。
(ユナさん、嘘つけない性格なのに、何かごまかそうとするから)
不自然な空気に割り込むように、鷹也がお茶を出した。
「ユナさん、そんないつも気ィ遣わなくていいですよ」
言葉とは裏腹に、どこか尖った感じの声。
ユナはそれを知ってか知らずか「こわぁい」と肩をすくめる。
「いいじゃん。物に罪はないんだし」
「……そういう問題じゃなくて」
「じゃあ、なんのモンダイ? 私の仕事?」
挑発するようにユナが言うと、鷹也は眉間に大きくシワを寄せた。
(あ、タカヤが怒った)
これは本当に不快で怒っている顔だ。
子どもたちを諌めるときのような顔ではなく、心底腹を立てて、それでも耐えているような、くしゃくしゃの眉間。
茉莉は鷹也のこんな表情を、一度だけ見たことがある。
(さやおねえちゃんが、体調崩したとき)
あのときは子どもたちに対してもそっけなくて、泉さんとしか会話できなかった。
——タカヤ、なんであんなに怒ってるの?
——ああ、あれ?
泉さんは苦笑しながら教えてくれた。
——あなたたちは悪くないのよ。あの顔してるときは、鷹也が自分に腹立ててるときなの。
(あのときは、意味がよくわかんなかったけど……)
なんとなく、今はわかる。
(さやおねえちゃんのときと同じくらい、今、タカヤは自分に怒ってるんだ)
だけどその理由までは、さすがに全然わからない。
*
クリスマスムードのただよい始める頃、茉莉はフリースクールの先生と話し合って、塾の短期講習に行ってみることにした。
塾といえば、皆ガリ勉で殺伐とした空間を想像していたが、そこはまったく違う雰囲気だった。
自分と同じようなホームスタディの学生や、軽度の発達障害を持つ人、まだ日本語に慣れない留学生、色々なタイプの生徒に個人指導を行っているらしい。
先生たちのキャラが濃くて、これなら自分も楽しく通える、と思った。
(そのぶん、食堂に行ける日は少なくなったのが、ちょっと寂しいかな)
だから、たまに食堂に顔を出したときは必ず、ユナの近況を鷹也に訊ねることがルーティンになった。
「ねえ、ユナさん今日は来るかな?」
鷹也は皿を拭きながら、億劫そうに答える。
「さあな。まえに来たとき、『今度はフィリピン行ってくる』つってたよ」
「えーっ、何それ!」
茉莉は、ユナがヤシの木の下で優雅にトロピカルジュースを飲んでいる姿を思い浮かべた。
寒いなか鼻水をすすりながら勉強している自分とは、大違いだ。
「ずるい、一緒に行きたいぃ」
「バカ言うんじゃねえよ」
「そんな怒ることないじゃん」
鷹也は口を真一文字に結んで、皿拭きに集中し始めた。
(せっかく来れたのに、つまんないの)
カウンター席にずるずると座って、茉莉は英語の課題を広げ始めた。覚える単語や文法が一気に増えて、げんなりしてしまう。
「タカヤぁ、ご飯なに?」
「年上を呼び捨てするようなヤツにくれてやる飯はねぇ」
「タカヤさん、今日のご飯はなんですか」
「おでん」
「何それ最高。がんばる」
鷹也の表情がゆるんだ。
(あ、タカヤが笑った)
(笑うとけっこうマシなのに、もったいない)
いやマシってなんだ、と自分にツッコミを入れて、茉莉はノートに向かった。
そうしてしばらく集中して、おでんの良い匂いが食堂に満ちる頃、店の引き戸がガラリとひらいた。
「こんばわ〜」
「ユナさん!」
茉莉はおもわず席を立って、シャーペンを落としてしまった。拾うことさえもどかしく、ユナのそばに行く。
「茉莉ちゃんじゃん。おひさぁ」
「その格好エグ!」
ユナは旅行用のボストンバッグに、半袖シャツと七分丈のカーディガン、下はなんとミニスカートだ。
「あははっ、日本の寒さ油断してた」
これおみやげ、と手渡されたのは、ビニールのパッケージに入ったドライマンゴーだ。表記は英語。
「ユナさん英語話せるの?」
「いきなり何」
「だってフィリピン行ってたんでしょ?」
茉莉は受け取ったパッケージをしげしげと見つめた。数字以外、ほとんど読めない。
ユナは「フィリピンはぁ、タガログ語かな」と言いながらカウンター席に近づいて、大きなバッグをスツールの上に置いた。
「英語も通じるけど、私はそんなに話せない」
「そうなんだ……」
(ん? でも接客業なんだよね?)
心の中に感じた疑問は、ユナの「ひえっくしょん!」というクシャミにかき消された。
キッチンの奥から鷹也が出てくる。
「うわ、なんですかその格好」
「鷹也くん、暖房強くして」
「ユナさんが薄着なんですよ」
「仕方ないじゃん、常夏の国から帰ってきたんだから」
鷹也はブスッとした顔で、自分が羽織っていたジャージをユナの肩にそっと掛けた。
「クサいのは我慢してください」
ユナは嬉しそうに袖を通して、くんくんと鼻を動かした。
「ダシの匂いがする」
「なっ……嗅ぐなって!」
「え〜好きだよ、この匂い。落ちつく」
カウンターに戻った鷹也はそっぽを向いているが、耳が真っ赤になっている。
茉莉とユナの目が合うと、彼女はナイショ話をしてでもいるかのように、人差し指を口の前で立てた。
(タカヤが照れてるの、気づかないフリしよってことかな?)
茉莉が黙ると、ユナは鷹也の後ろ姿に「ありがとう」と声をかけた。
「あったかい」
「——ん」
「ね、好きだよ」
匂いが、と言ったユナの声と、ガラガラガッシャーンと調理器具の落ちる音が重なった。
クワンクワン……と響く店内に、ユナの吹き出す声と、鷹也の舌打ちが響く。
「この、調子に乗りやがって……!」
茉莉もユナも、たまらず笑い出してしまった。
そこに泉さんがやってくる。
「なんだか賑やかね」
ねえ泉さん、聞いて、と茉莉が言う。
「だーっ! しゃべんな!」
「あはははっ!」
おかしくて涙出る、とユナが笑う。
ぶかぶかのジャージを着てはしゃいでいたユナの顔は、たぶん今までで一番、楽しそうだった。
*
雪が降る。
茉莉の短期講習は終わって、年が明けた。
年始の挨拶に行ってきなさい、と手渡された桐箱入りのカマボコを下げて、茉莉はサクサクと雪の積もる道を歩いた。
(降雪予報、どうだったっけ)
食堂の表玄関には「年末年始お休みです」の札が掛かっている。
(裏口にまわったほうが良さそう……たしか、こっちにあったはず)
茉莉は玄関から前庭を抜けて回り込んだ。
母屋と塀に挟まれて、ちょっと狭いが、茉莉ひとり通れるくらいの幅がある。
(傘はムリだな)
傘をたたみ、ダッフルコートのフードを被り、紙袋を抱え直して、いざ行かん。
茉莉がするする進んでいくと、どこからか、ひとの話し声が聞こえてきた。
口調からすると、ケンカ……ほどではないが、何かを議論しているようだ。
(タカヤと泉さんかな?)
母屋の隅からちょいと顔を出すと、調理コート姿の鷹也が見えた。
傘も差さずに、何か、必死な表情だ。
「……ところ、……ないですよ」
鷹也が何を言ったのかはわからなかったが、次に聞こえた笑い声は、雪空に高く響いた。
「鷹也くんは、心配性だなぁ」
(——ユナさん)
茉莉はハッとして顔を引っ込めた。
いつもの笑い声じゃない。
鳥肌の立つような、高い声。
(ダメだ、これ、聞いちゃいけない話——)
茉莉がとっさに後ずさろうとしたとき。
「待ってください!」
鷹也の声が、茉莉の足まで縫い留めてしまった。
「ユナさん、本気で言ってるんです。このまえのフィリピンだって、言葉が通じなくて怖かったって、言ってたじゃないですか」
「それ、は……海外は初めてだったから……」
ユナの声がふるえる。
きっと寒さのせいじゃない。
「いいんだよ……私はこれで食べてきたし、ちゃんとしたお仕事なの」
「——っ、そこまで、しなくても」
「もう慣れたから大丈夫!」
わざと明るく答えるユナに、鷹也が「だからって」と声を荒げる。
「また次も海外って、その男アタマおかしいですよ!」
「あのひとを悪く言わないで!」
いつものユナの、やわらかい話し方が嘘のように、張り詰めた声が飛んだ。
「鷹也くん、いいかげん、わかってくれないかなぁ!」
まるで嘲るような口調。
(そうだ、ユナさんは……)
可愛くて、放っておけなくて、どこか子どもっぽくて——だけど、確かに。
(オトナの女)
「あのひとだけなの!」
ユナはヒステリックに、まくし立てるように鷹也を詰めた。
「鷹也くんは知らないでしょ。震災で親亡くした子どもってね、心配してもらえるのは最初だけなの。住所たらい回しで、休めるところもなくて、結局はゴミ溜めみたいな場所に流れ着いて、ダンボールかぶって寝ることになる」
震災? ダンボール?
聞いちゃいけない。
そう思いながら耳を塞ぐことができない。
「あのひとだけが私を助けてくれた」
ユナは自分自身に言い聞かせるように、言葉を絞り出す。
「休む場所も、食べ物も与えてくれた。こんなやり方でも、お金を稼ぐ方法教えてくれた——っ!」
まるで血を噴き出しているような、悲痛な叫び。
「鷹也くんみたいな、幸せな人にはわかんないよ。ちょっと一緒に寝たくらいで彼氏ヅラしないで。ほんとの名前も知らないくせに——私の苦労も知らないくせに!!」
怖い。
責めないで。
《くせに》なんて言わないで。
(……怒ったときのママみたい)
自分が学校に行けなくなったとき、母親は茉莉を詰った。
——どうして学校休むの。
——お母さんのこと困らせないで。
——どれだけ苦労して育てたか知らないくせに。
人を責めて、しかも互いに傷つく、苦しい言葉。
(ユナさんが、使わないで)
茉莉はぎゅっと目を閉じた。
身体が硬直する。
足元が滑り、
持っていた傘が——
落ちた。
静けさの中に、バサリと覆い被さるような音で。
ハッと息をのむ気配がした。
誰、と問われなくても、きっとすぐにバレてしまう。
茉莉はうつむいたまま、建屋の陰からそろりと姿を見せた。
「マツリ……!」
(ごめんなさい)
(立ち聞きしたかった訳じゃないの)
弁解の言葉は、白い息になって消える。
ガチガチと合わない歯の根が、ただ煩い。
「茉莉ちゃん……」
顔を上げられない。
ユナが近づいてきたことは、足音と気配でわかった。
だけどもう——
「ごめんね、茉莉ちゃん」
ユナは降りかかる雪のように言葉を落として、その場を離れた。
裏道の曲がり角、ぼやける視界から消えてゆく後ろ姿。
鷹也も茉莉も追うことができない。
彼女が閃かせた激情を、受けとめることに精いっぱいだった。