3話 16歳の初夏
沙夜が働く飲食店は、商店街から一本県道を越えた住宅地のなかに建っている。生垣のなかに続く飛び石、二階建ての一軒家、通り過ぎても店舗だとはわからない。
しかしその実を知っている子どもたちは、四時過ぎに幟が立つと、五百円を握りしめてやってくる。六時を過ぎると部活帰りの中学生も加わって、ちょっとした芋洗い状態になる。
それが《子ども食堂いずみ》の毎日だ。
「やっぱり、カレーの日は混みますね」
沙夜は食器を片づけながら壁時計を見た。すでに八時を過ぎている。
そうねえ、と応えたのは事業主である泉さんだ。
「あぁ、あっつい。沙夜ちゃん、私たちも休憩にしましょ」
「母さん、オレもう上にあがるから」
「鷹也、お風呂沸かしといて」
「りょー」
泉は「ふう」と三角巾を脱いで、首もとのタオルで汗を拭った。
沙夜は冷蔵庫から烏龍茶を出して、カウンターのコップに注ぐ。
「沙夜ちゃん、宿題は進んでる?」
「うーん、可もなく不可もなくって感じです」
「なぁにそれ」
けらけらと笑う泉が、階段をのぼる足音に耳をすませた。
「鷹也のほうは、もうすぐ試験みたいね。遅くまでやってるわ」
「えっ、勉強嫌いのタカ兄が?」
「そうよお、びっくりよねえ。槍でも降るんじゃないかしら」
二人並んでカウンターに座り、お茶を一気に飲み干す。
ぷはっと息を吐いたところで「通信制も今は変わりましたから」と骨ばった手の甲が伸びてきた。筝を弾く指が持つ、チョコパイの小袋みっつ。
「お疲れさまです。これ、鷹也くんにも」
「あらあ、先生ったら、気を遣わなくてもいいのに」
「今日は長居しちゃってるので」
多津が顔を向けた先を、沙夜も振り返る。座敷の卓を数人の中学生が占領していた。
「先生が勉強みてるんですか?」
「そう。家でしなさいって言ったんだけどね」
肩をすくめた多津に、泉が「捕まっちゃったのね」と面白そうに笑う。
「多津先生、いまの話……」
「ん?」
「通信制も変わったって、どういうことですか?」
「ああ——うん。僕の頃は、通信制の大学といえば、高卒の人がキャリアアップのために単位をとるイメージだったんだけど……」
多津は眉間にしわを寄せて、言葉を選ぶ。
「最近は学び方も多様性ってことで、通信も夜間も、カリキュラムがだいぶ充実してきたみたいだよ。だから試験も内容が濃いんじゃないかなあ」
「そうなんですか……」
「沙夜ちゃん。進学したいなら、遠慮は無用よ」
出し抜けに真剣なトーンで言われて、沙夜は面食らった。返事もしないうちに泉が続ける。
「鷹也も最初は高卒でいいって言っていたけど、なんだかんだ今は納得しているみたい。沙夜ちゃんだって、いつまでもこの店で住み込みって訳にもいかないでしょう。そりゃあ私は大歓迎だけど」
「きっと、鷹也くんもね」
多津が腕組みしたまま、いたずらっぽい笑みで補足する。
それがなんだか癇に障って、沙夜は意趣返しに顔を背けた。
気まずい空気を破ってくれたのは、「たづせんせー!」という中学生たちの声。
「いつまで休憩してんスかー」
「こっち! 因数分解が待ってます!」
「アウストラロピテクスも!」
多津はあからさまにグッタリして、「あとはYouTubeせんせーを頼ってください〜」と平手を上下に振っている。
泉が椅子から立ち上がり、沙夜の肩をやさしく叩いた。
「まあ、ゆっくり考えたらいいわ。少なくともお金の心配はしないでねって言いたかっただけ。行政の支援もあるしね」
使えるものはなんでも使いましょ、と、華奢ながら頼もしい背中——沙夜の法的な後見人が——伸びをした。
「あんたたちー! そろそろ閉めるから帰りなさーい!」
泉が中学生たちを追い立てる様子を眺めながら、沙夜も席を立った。
「先生、これ、ありがとうございます」
「あ、それ? 期間限定だって。僕そういうの弱いから、つい買っちゃうんだよ」
「お昼はパピコも……なんか頂いちゃってばっかり」
「いいんだよ。僕は貢ぎ症なんだ」
きょとんとする沙夜に、多津はほほ笑みを返した。
「このカウンター、覚えてる? 僕が初めて来たとき、座ったところ」
*
——大人は食べられないんですか……?
多津絃二が初めてその食堂に入ったのは、赴任したばかりの年、怒涛の四月が終わって、いわゆる五月病なるものに蝕まれていたときだった。
梅雨もまだなのに記録的夏日が続き、食欲もなく、慢性的な疲れもあって、自炊どころか買い物さえ行く気がしなかった。
アパートの自室で空腹を抱えながら、鼻にただよってきたのが、《食堂・いずみ》のカレーの匂い。
スパイシーで少し甘くて、久しぶりに「食べたい」と思える匂いだった。
あとはもう鼻を頼りに歩いて5分弱、その場所に辿りついた。
引き戸を開けるなり、わっと賑やかな声がして、それが一瞬で静寂に変わる。
自分が見つめられているのだと気づくのに、しばらくかかった。
——先生……?
彼女が声をかけてくれなければ、きっと倒れてしまっていたと思う。
あのとき駆け寄ってくれた、まだ髪もそれほど長くなかった少女の姿と、ようやくありついたカレーの味。
きっと一生忘れることはない。
お腹がふくれて、気が緩んで……お茶を出された途端、ぼたぼたと涙が落ちた。
——このひと、泣いてるよ!
——こっちきて! さやねえちゃん!
周りの子どもたちに心配されて、自分でも訳がわからなくて、それでも嗚咽は止まらなかった。
ティッシュ箱を差し出されて、ぽつりと、やさしい声が降ってきた。
——今度は、反対ですね。
自分を迎え入れてくれた少女が、困ったように笑っていた。
——入学式のときは、私が泣いちゃって、今は、先生が泣いてる……
——ああ、君、あのときの……
会話をしてから気づいた。
たしか春の入学式、どうどうとサボって音楽室に来た生徒だ。
大人びた表情にどこか胡乱な目で、迷い込んで来た野良猫のようだった。
多津は笑った。
泣きながら笑った。
——ほんとだね。反対だ。
少女は笑いながら右手を差し出した。
——青田沙夜です。
——……多津絃二です。
握手をしながら名乗ると、知ってます、と答えが返ってきた。
——先生、内緒にしててくれますか。私がここでバイトしてること。
——いいよ。その代わり、ぼくがここでみっともなく泣いたことも、内緒だよ。
——はい、共犯ですね。
華奢な手のひらと握手を交わした。
その瞬間から彼女はただの生徒ではなくなった。
そしてそれは、少女のほうも同じだったらしい。
奇妙な絆のようなものが芽生えて、少しずつ、会話がふえる。
学校でも挨拶をするようになる。
しまいには音楽室へやってきて、筝を弾いてくれ、とねだるようになった。
それがどんなに、救いになったか。