14歳、恋を知る。〈1〉
本編7話で鷹也にチロルチョコをあげた小学生視点の話。
(主人公とは)(モブとは)
「タカヤって、さやおねえちゃんにフラれたの?」
鷹也はブーッと飲んでいたお茶を吹き出した。
「やだぁ、キタナイ!」
中学ピカピカ一年生、その新品の教科書にまでお茶が吹きかかりそうで、茉莉は慌ててカウンターから仰け反った。
《さやおねえちゃん》は、この食堂で働いていた面倒見のいいお姉さんである。
この春から専門学校に通い始めたようで、もうほとんど会えていない。
「さやおねえちゃんとタカヤ、いい感じだったのに」
咳き込みながらも鷹也は、じろりと茉莉を睨んだ。
「……小学校卒業したからって、イキんなよ」
「べつになんにも変わんないよ。てーかさ、」
イキるどころか、学校は行きにくくなった。仲の良かった同級生たちが校区を離れ、気づいたときには、クラスの友だちグループに混ざれなくなっていた。
今日は初めて学校を早退して、家に帰ることもできず、気づいたら脚がここに向かっていた。
——マツリじゃん。入る?
——……まだ開店まえでしょ。
——いいよ。宿題でもやってな。
鷹也が今日の定食の仕込みをする音を聞きながら、シャーペンをもてあそぶ。
自然とため息は大きくなった。
(もう行きたくないなぁ。どうせ勉強するんなら、学校でもフリースクールでも一緒でしょ)
自分の性格が集団生活に向いていないことは、なんとなく、10歳になる頃にはわかっていた。
特に四年生のときは、学校に行こうとするとお腹が痛くなって、それがどうしてなのかわからなかった。
親にも伝えられなくて、あのときは、家の中がいちばん暗かった頃だと思う。
(今は……パパもママも、なんとなく理解はしてくれてるっぽいけど……)
また、あんなふうに行き場のない気持ちになるのは嫌だ。
茉莉はちいさく頭を振って、嫌な思い出を払った。
「ねー、タカヤ。フラれたの?」
「うるせ。そうだよ」
「認めたぁ」
「黙って勉強しろよ」
「ねぇねぇ、どんな風にフラれたの?」
「フラれたフラれた連呼すんじゃねえ!」
鷹也は観念したように《調理モード》を解除して、腕を組んだ。
「告白した。で、しばらく経ってから『ごめんなさい』って返事された」
「えっ、それだけ?」
「他に何があんだよ」
「え〜……?」
茉莉は最近読んだ少女漫画を思い浮かべた。
三角関係とか禁断の恋とか、色々とドラマがあった気がする。
(てゆっか、リアルで恋したことないな)
漫画やラノベによくあるような、モデル級のハイスペイケメンが、そうそう都合よく地元の学校に配置されているはずもない。
(まず、男子をカッコイイとか思ったことがない)
そんな茉莉は今、12歳の中学一年生である。
*
六月も後半になり、茉莉がカウンターで筆記具を広げていると、引き戸がカラカラと音を立てた。
「鷹也くーん!」
髪色の明るい女性だった。白いTシャツがピタッと胸に張りついて、デニムのショートパンツから太ももが見えている。おもわず膝まくらしてほしくなっちゃうようなマシュマロボディだ。
(出た、陽キャ!)
茉莉はギクリと固まった。
今、店には自分しかいない。鷹也はすぐ近くのスーパーに買い出しに行ってしまった。
(タイミングわるすぎ!)
心の中で鷹也をさんざなじって、茉莉はそそくさと帰る用意を始めた。
「あ、待って」
陽キャ女子が声をかけてくる。慣れない状況に心臓がバクバクする。
まるで猫に睨まれたネズミのよう。
茉莉が動けないでいると、裏口から入ってきた鷹也が驚いて声をあげた。
「ユナさん!?」
「いぇーい、来たよ〜」
「どうしたんです、こんなとこまで」
「鷹也くんの忘れもの持ってきたんだよ。この時間なら店にいるって聞いてたから」
ユナという女性は、トートバッグの中から空のタッパーを出した。
途端に鷹也の顔が真っ赤になる。
(えっ、なに、タッパーってそんな羞恥アイテムだっけ?)
「……わざわざ返しに来たってことは、また詰めて来いってことですか」
「うん。すっっごく美味しかったもん」
女性はちょっと照れくさそうに「だから、つい飲み過ぎちゃった」と笑う。
鷹也の顔がもっと赤くなった。
(わたしは今、何を見せられてるのかな)
これはなに?
イチャイチャというやつですか?
ちょっとよそでやってくれませんかね。
(ここ、子ども食堂なんですけど……)
固まっている茉莉に気づいたユナが「こんにちは」と声をかけてくる。
茉莉はどうしたらいいかわからなくて、わずかに頭を下げた。
「ごめんね、勉強のじゃましちゃって。すぐ帰るから」
「あ……マツリ。この人、ユナさん」
またコクンとうなずく。
「マツリちゃんっていうの? 可愛い名前」
見た目に似合わない、やさしい笑顔が、茉莉の心を少しひらかせた。
「ひらがな? 漢字?」
茉莉は迷ってから、黙ったまま、自分のノートに小さく書いた。
ユナが近づいて覗きこむ。
「あ、茉莉花のマツリちゃんか」
「マツリカ?」
「ほら、よくマツリカ茶って売ってるでしょ。あれ、ジャスミンティーのことなの」
私ジャスミン好きなんだぁ、と笑った顔が、まるで同年代のような親しみやすさで、茉莉はなんだか嬉しくなった。
ユナはそれから週一くらいの頻度で顔を出すようになった。
茉莉も夏休みに入り、通学のプレッシャーが減ったぶん、気楽な雰囲気で接することができるようになった。
ユナが来るのは決まって午後四時ごろ。鷹也の賄いを食べてから「行ってきまーす」と店を出ていく。
陽気な声を見送って、茉莉はカウンターの片づけをしている泉さんに訊ねた。
「泉さん、ユナさんって、なんの仕事してるの?」
泉さんはカウンターを拭きながら「ん〜?」と答えた。
「そうねぇ。夜に働く仕事、って言ったらいいかしら」
「いいなぁ。わたしも夜に働きたい」
「あら、どうして?」
「昼はイヤ。『真面目に生きろ』って、急かされてるような気持ちになる」
まぁ確かに、と泉さんはうなずいて、茉莉に定食を出してくれた。
「昼か夜かは別にしろ、そういう、急かされてるような気持ちって、わかるわ。私も鷹也が小さいときは、ずっと『良い母親でいなきゃ』って急かされてた気がする」
「泉さんも、そうだったの?」
「そうよ」
泉さんはわざとらしくおどけた顔をした。
「だけど……結局、自分のことを急かして、追い立てて、苦しい気持ちにさせているのは、自分だったの」
それはちょっと納得いかない、という茉莉の表情を読んだかのように、「私の場合は、ね」と泉さんが付け足した。
「人生には、折々にそういうときが来るものよ。それはきっと、本能が知っているんだわ」
今は自分を追い込む必要がある。
前を向いて生きていくために。
泉さんはそう言って、「ちょっと難しかったかしら」とほほ笑んだ。
それから数日後。
茉莉は夏野菜の煮びたしを食べながら、泉さんとの会話をユナに話した。
「——っていうことを、泉さんが言ってたんだけどさぁ、別に、いいじゃんね。真面目にぃ、とか、前向きにぃ、とか。そんなガツガツ生きなくても」
ユナは味噌汁椀をかたむけながら「そだねぇ」とゆるい相槌を打った。
茉莉はため息をつく。
「もう生きるのいいよ。すでに宇宙の塵になりたい」
「あははっ、病んでるねえ」
ユナは白米を掻っ込んで、ごくんと喉を鳴らした。
「でもぉ、私は泉さんの言ってること、ちょっとわかるかも」
「なんで?」
「茉莉ちゃんはさ、まだ体力あるし、ガツガツしなくてもいいじゃん。未来インフィニティ」
ユナが箸を置いて、両手で二つの輪っかをつくる。数字の《8》を横にした形だ。
その意匠に気づいて、茉莉は「ださ!」と笑ってしまった。
「えぇ〜、じゃあ他に、どうすればいいのよう」
二人で一緒にケラケラ笑う。
水を注ぐ鷹也も、楽しそうに口の端を上げている。
(こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
茉莉は夏休みのほぼ毎日を、鷹也とユナのあいだで笑って過ごした。
*
季節は秋になり、茉莉は13歳になった。
休み時間を粛々と過ごすぼっちにとって、学校行事ほどの修行はない。フリースクールに通うことが増え、その帰りに食堂でご飯を食べることが増えた。
時間帯が早いので、自然と小学生たちの面倒を見ることになる。
「まつりおねえちゃん! ククきいて!」
いんィちがいち、にィちがに、と、低学年の宿題はまだ可愛らしいが、四年生頃からグッと難しくなる。
「分数の掛け算って、結局ふえてるの? へってるの?」
「ほら、ここをバッテンにしてさ……」
「最後のやつ、まず問題の意味がわからん」
まつりおねえちゃん、まつりちゃん、オイまつり、と引っぱりダコで、そのままズルズルと閉店時間まで居座ることも増えた。
秋も深まる夕方、茉莉は座敷の広テーブルに突っ伏した。
今日は何かの振替休日なのか、子どもたちの来店が少ない。
「やばい。しんどい」
「えらいじゃーん」
茉莉の頭をなでてくれるのは、半月ほど店に来ていなかったユナである。久しぶり、と言いながら近況報告をするだけで、もう疲れ果てた。
「ねえ、ユナさんも手伝ってよお」
「できませーん。頭わるいもん」
「知らんけど。そこをなんとか」
「むーりー」
陽気で楽しくて、年上なのに放っておけないような、可愛い女性。
「あーユナさんと話すと楽〜」
「それディスってんの?」
「うける」
「うけるなし」
軽い言葉を打ち合う、卓球のような小気味よさ。
(さやおねえちゃんとは、また違う——なんだろ、安心感?)
そう考えていたとき、カラカラと引き戸が開いた。
いらっしゃい、と言いかけた鷹也の声が、かすれて消える。
「沙夜……」
立ち尽くす鷹也の見る方向、戸口に立っている二人。
一人は茉莉が小学生のときによく見かけていた男性で、もう一人が——たぶん、《さやおねえちゃん》——と言い切れないのは、彼女の姿が、覚えているよりもずっと大人っぽくてキレイだったからだ。
(え……半年、だっけ)
まず、見慣れたポニーテールがなくなっている。まっすぐな黒い髪が、ショートより少し長めに伸びて耳にかかり、ほんのり化粧をしているのか、くちびるはウルウルとツヤっぽい。
何よりも、表情がぜんぜん違った。
(おねえちゃんっていうか、《おんなのひと》って感じ……)
二人は笑顔で鷹也に挨拶した。
どうやら泉さんと約束していたようで、奥の座敷に入るよう言われている。通りがかり、二人は茉莉とユナにも気づいて挨拶を交わした。
「マツリちゃん、ひさしぶり!」
やさしいほほ笑みは記憶と変わらない。覚えているままの朗らかさと、爽やかな声。
「お久しぶりです」
「ユナさんも」
「こんばんはー! アヤ、元気にしてますか?」
「なんだか、軟禁状態で勉強させられてるらしいです」
うっそ、なにそれぇ、と笑うユナに驚いて、茉莉は前のめりになる。
二人が奥に行ってから、声を潜めて「知り合いだったの!?」と問いただす。
「そうだよぉ。茉莉ちゃんこそ」
「わたしは、さやおねえちゃんがいたときから、ここ通ってたから……」
沙夜が高校生のときはここで働いていて、自分も通っていたことを伝えると、なぜかユナは少し哀しそうに笑った。
「どしたの?」
「んー、とねぇ、鷹也くんがさ」
ユナの視線の先を追うと、カウンターの向こうで、鷹也が没頭するように何かを刻んでいる。
「まえに『忘れられないコがいる』って——」
ユナは自分の口を塞いだ。
「いいよ。知ってる」
茉莉が声をいっそう小さくする。
「タカヤがさやねえちゃんのこと好きだったの、たぶんほとんど皆知ってたよ」
「ええ〜? 小学生にもバレバレって……」
「だから振られたって聞いたとき、びっくりした」
「——そんなに?」
「うん、仲良かったし」
ユナは「そっかぁ」とちいさく息を吐いた。
「本人から聞いたけど……めちゃくちゃ長い片想いだったらしいね」
「重ォ」
「ねぇ、重いよねぇ」
クスクスと笑いながら、その声はやさしい。
「沙夜ちゃんみたいなコが相手だと、なかなか告白とかできないよ。鷹也くん、誠実だったと思うな」
「誠実ってどゆこと」
「うーん……大事にしてた、ってことかな」
「——たしかに、そうだったかも」
記憶の中で、タカヤはいつも彼女を気にかけていた。
怪我はないか、疲れていないか。
忙しい中でも交わされる軽口は、子どもの目から見ても、互いの信頼関係がわかるほどだった。
(タカヤの片想いって、もしかしたら、辛かったのかな)
半年前に自分が投げた言葉を思い出す。
——ねぇねぇ、どんな風にフラれたの?
(なんか、謝りたいかも)
たぶんデリカシーに欠ける発言だった。
今になってそれがわかる。
「……ユナさん」
「ん?」
「片想いって、したことある?」
ユナはびっくりした顔で、すぐにいつもの陽気な表情に戻った。
「ないない!」
「えっどうして」
「そんなピュアじゃないもん」
「ピュアじゃないと片想いできないの?」
「えーっ? むずかしいこと言う……」
ユナはちょっと考えてから、口に出した。
「片想いってさ、すっごく大変なんだよ」
「どして」
「待ってよ〜。めっちゃ考えてるんだから」
ユナは眉間にシワを寄せて、あー、うー、とうめき声を挟みながら、一生懸命説明してくれた。
誰かを好きだと思う気持ち、そのもの自体が凄いこと。
ずるい人は、好きじゃない相手とも、付き合ったりキスしたりできること。(茉莉には意味がまったくわからない)
片想いは、自分も相手も大事にできる、真っ直ぐな人じゃないと続かないこと。
真っ直ぐで、ずるいことができない。
だからピュア。
そういうことらしい。
「実際さぁ、すごく真面目でしょ」
主語がなくても、誰のことかわかる。
「うらやましいよね。ああいう人に好きになってもらえるって」
「……ユナさんは?」
「え?」
「タカヤのこと、いいなーとか、思ったりしないの?」
ユナは一瞬驚いて、次の瞬間に笑い出した。
「うける! なにそれぇ」
「仲良いから」
「ちがうよぉ、私、相手いるし」
「え、彼氏いるの?」
「てかぁセフ——んぐ、えっと、まあそんな感じ」
「どんな人?」
「仕事を紹介してくれる人」
「いいね。一石二鳥だね」
「笑う」
そーだったらいいんだけどぉ、と答えたユナの表情が、妙に寂しそうだ。
視線に気づいたのか、ユナは茉莉のちいさな頭をなでた。
「茉莉ちゃんは、大事にしてくれる人を彼氏にしなね」
クエスチョンマークがポンポン浮かんだ茉莉は、テーブルのうえに頬杖をついた。
(ユナさんの彼氏は、ユナさんを大事にしてくれないのかな)
(大事にするって、どゆこと?)
だけどそれはなんとなく、口に出してはいけない問いのような気がした。
(わたしはユナさんの明るいところが好き)
(話してて楽しいところも)
年は離れているけれど、大好きな友だちになった。
だから、彼女の仕事がどんなものかなんて、このときの茉莉には、まったく予想もできなかったのだ。