Harmonie et Rosés〈Fin.〉
静寂がおちる。
花吹が動く気配はない。
(なにごと……?)
彩がそろりとまぶたを持ちあげると、花吹の虚ろな表情が見えた。
「——わかんねえのか」
その声の、あまりの細さに、彩は恐る恐る顔をあげた。
「そんなになるまで、殴られてたって」
花吹の瞳ふたつ、そこから流れる雫が、一滴、二滴……すうっと滑りおちる。
「黙って聞かなきゃいけない俺の気持ちが、わかんねえのか」
花吹は涙を見せたことを悔いるように、前髪をぐしゃりと掻き混ぜた。
「……っ、腕組みを、してんのは、そうしなきゃ、殴りかかりそうだからだ。誰彼かまわず」
(ああ、そうだったんだ)
刑事さんにも、行政の人にも。
だけど本当に殴りたいのは。
「おまえのオヤジ……っ、だって、本当は、死ぬまで刑務所にブチ込んでやりてぇよ!」
だけどそんなのは、おまえは望まないだろ、と、力ない声で花吹が言う。
「はなぶき、さん」
「——わりぃ、疲れてるみたいだわ」
出直す、と帰りかけた腕を、彩の手が掴む。
「待って」
「無理すんな。今の俺……《めっちゃ怖い顔》だろ」
「ごめん、まちがえてた」
彩は力を振り絞って、掴んだ腕を両手で引いた。ぽすん、とシーツのうえに、花吹の腰が下ろされる。
(『ごめん』じゃなかった)
ようやくわかった。
彩の容態を話すときの、このひとの苦々しい表情の意味。
「話の中であたしが殴られてるとき、一緒に耐えてくれてたんだね」
花吹はズッと鼻をすすった。
「そんないいもんじゃねえよ」
「優さん」
ゆたかさん、ありがとう、と何度もくり返す。
いつの間にか、彩はじぶんよりずっと大きい身体を抱きしめていた。
くちびるが自然と「すき」と動く。
「大好き、優さん」
わずかに煙たい匂いのするシャツに、顔をうずめる。
すっぽりおさまって、まるで彩のためにあるような身体が、ふっと緩んだ。
「おまえのほうだと思ってた」
「何が?」
「——俺と入籍したこと、後悔してるの」
「そんなこと思わない」
抱きしめる腕に力を込める。
応えるように花吹も彩を抱きしめた。壊れものを扱うように優しく。
「なぁ、俺だけの彩でいて」
*
退院の日、沙夜が持ってきた着替えは、白いメンズシャツにデニムのストレートジーンズ、それだけだ。
「これで良かったの?」
「これがいいの」
「まえに貸してもらったワンピースだって、着れそうなのに」
「いいんだよ。あれはさーやにあげたんだから」
メイクはしていない。
服を着替え、髪を無造作に振る。
伸びた長さのぶん、なんだか野生的に見えた。
(これぐらいが、ちょうどいい)
胸もとで銀色に光る認識票。
指輪でなくていいのかと問う花吹に、彩は「そんなのつまらない」と答えた。
——死んでも離さないで。そういう意味。
「あーちゃん、忘れ物ない?」
彩は振り返った。
私物が何もなくなって、スッキリした病室を見る。
「うん、大丈夫」
ナースステーションやすれ違う人々に挨拶をして、彩は病院の外に出た。
昼下がりの青い空。
さわやかな新緑の香り。
持っている荷物はちいさなリュックひとつ。
今ならどこにだって行けそうだ。
だけど、まずは——
「行こっか」
彩はそう言って、沙夜に笑いかけた。
沙夜もにっこりして「花吹先生も待ってる」と言った。
二人でバスにゆられてたどり着いたところは、沙夜が通っていた学校だ。いまは連休中なのか、ひとっ気がない。
玄関に足を踏み入れればもう、やわらかなピアノの音色が聞こえる。
廊下や壁、天井に反響して、それは何重にもなって旋律を彩る。
彩を優しく包むように。
(あの曲だ……)
——《La Vie en rose》——日本語で、バラ色の人生。
(優さん、今なら、わかるよ)
生きることは綺麗じゃない。
嫉妬したり、憎んだり恨んだり。
傷つけて傷つけられる繰り返し。
だけどそんな中で、奇跡みたいに訪れる美しい瞬間。
(今日のこと、一生忘れない)
渡り廊下から音楽室の引き戸を開けると、ピアノの音色があふれ出した。
ほほ笑む多津が一輪挿しを携えて立っている。飾られているのは白いバラ。
初夏の風がカーテンをゆらす。
ピアノの鍵盤をかき鳴らす、だいすきなひとの姿。
演奏する花吹が着ているのは、自分と同じ白いシャツにデニムのパンツ。
カーテンがふわりふわりと踊るなか、薄茶色の髪が、光に透けて輝いている。
(こんなに綺麗なものが、あるなんて)
メロディが響いて、窓から空に広がっていく。
花吹はピアノ椅子から立ち上がり、多津から一輪のバラを受け取った。
その花びらに、愛おしそうに口づける。
見惚れる彩の手もとに、一輪の白いバラが差し出される。
花吹が彩を見下ろし、照れくさそうにほほ笑んでいる。
彩も同じように花びらにキスを落とした。
ふたりだけの誠実な誓い。
尊敬と感謝を込めて。
苦しみも悲しみも、すべて受けとめて生きていく。
*
「ひゃあ、認識票やて。マニアック!」
スナックでの披露宴、花吹の同僚や上司、キャストたちが入り乱れる中、ママが声をあげた。
彩の細い首にかけられたボールチェーン、その先に繋がっているプレートには、彩の血液型と緊急連絡先が彫られている。
「これ、昔の映画で観たことあるわぁ。戦争行く兵隊さんがつけるもんとちゃうのん?」
「指輪だと無くしちゃうかもしれないし、コレならあたしが死んでも、すぐに優さんに連絡がいくでしょ」
「それがマニアック、言うてんの」
アヤ、とキャストの一人がシャンパン片手に近寄ってくる。
「せっかくだから白いドレス着たらよかったのにぃ。レンタル用、たくさんあるよ?」
「いいの。ドレス似合わないし……あんまり肌見せたくなかったから、相談して決めたんだ」
「ふうん? ま、その萌え袖はなかなかそそるけどね」
花吹と同じサイズのものを着ているので、シャツだけでチュニックとして着られそうなほど長い。
ボトムにジーンズを合わせてくれたのも花吹の配慮だ。身体のあちこちに、まだ内出血や切り傷の痕が残っている。
「シャンパン飲む?」
「病み上がりに酒すすめないでよ」
苦笑しながら返すと、「それもそっか」とキャラキャラ笑って他の席に行った。
入れ替わりに沙夜が取り皿を持ってくる。
「はい、あーちゃん」
「うわあぁ〜、久しぶりのだし巻き卵……!」
文字通りの卵色が、金塊のように鎮座ましましている。
ははーっと捧げ持って礼をすると、沙夜が「おおげさ」と笑った。
「作り立てじゃなくてごめんけど」
「さーやのは冷たくても美味しいから」
うまうまと食べる彩の様子を、沙夜が幸せそうに眺めている。
「タカ兄と泉さんも、色々腕を奮ってくれたの。ふだんは作れないような料理作れて楽しかったって言ってた」
確かに、並べられた料理を見ると、子ども食堂で出るようなメニューよりは洋酒に合うようなツマミ系の食事が多い。
彩はごくんと卵を飲み込んで、「そうだ、鷹也さん」と声をあげた。
「こんなところ来るの、初めてだよね? 大丈夫そ?」
「あっちでうまくやってるよ」
沙夜が促す先を見ると、大きめの卓の真ん中に座らせられて、男性教師たちや女性キャストたちと楽しそうに笑っていた。
「あちゃー、これからは鷹也さんが女寄せのエサになるわ」
「その言い方どうなの」
でも、いい感じだよね、と沙夜が話す。
「タカ兄が、あんなに年上受けがいいとは思わなかったよ。先生方も嬉しそう」
「今まで周りが年下ばっかりだったからね。いんじゃん、こういう関わりも」
「だね」
沙夜、と多津がふらついてやって来る。
「ダメだ、もう限界」
蒼白な顔で沙夜の肩にもたれかかる。
「あぁ、こういうとこ苦手ですもんね。今日はもうがんばったし、先にお暇しましょうか」
「よしよしして」
「もう、そういうこと人前で言わないでくださいってば」
まだ慣れない二人のイチャつきぶりに、彩は心の中で舌を出す。
「はいはい、ここは上手く言っとくから、先にそのヤンデレ男子を連れ帰ってください」
「やんでれ?」
「いいから」
そのまま二人ごと玄関に押し出した。
沙夜に荷物を持たせながら「今日はありがとう」と小声で伝える。
「今日だけじゃなくて、いつも。沙夜がいなきゃ、あたしはもうとっくに死んでたと思う」
「……お互いさまだよ」
沙夜はいたずらっぽく微笑して「じゃ、楽しんでね」と多津に寄り添った。
帰路につく二人の後ろ姿が、今の彩の憧れだ。
「なに、多津帰ったの?」
もみくちゃにされて髪もボサボサになった花吹がそばに立った。
「うん。なんか酔っちゃったみたい」
「あー、だよな。ここまで来ただけで快挙だわ」
笑う花吹の横顔を見て、腕を組みたいと思った。
ちょっと苦いくちびるにキスをしたいとも。
「……ねぇ」
「ん?」
「あたしにキスしてくれないの?」
「したいなら、好きなだけどうぞ」
ほっぺを差し出されて、子ども扱いに腹が立つ。
「そうじゃなくて!」
花吹とキスをしたのは、病室での、あの一回だけ。今日の誓いはバラ越しの口づけ。
疑問に思わないほうがおかしい。
「あたしは優さんからしてほしい」
「——っ、そういうことを、」
「ね、してくんないの?」
ばかやろ、とデコピンされた。
「察しろよ」
「むり」
花吹は、それはそれは大きなため息をついて、彩を睨んだ。
「可愛すぎて怖ェんだよ」
「どゆこと」
「おまえ、男の暴力はトラウマもんだろ」
彩は首を傾げた。
キスをしてほしいと言っているだけなのに、なぜそれが暴力の話になるのか。
「一回しか言わないから、覚えとけ」
花吹が真正面から彩を見据えて、トンと指先でひたいを突く。
「キスしたらもう我慢できない。めちゃくちゃに抱く。だからおまえにはまだ早い。以上」
早口でスラスラと並べ立てて、花吹は人の輪の中に戻っていった。
彩の頭がゆっくりと回転する。
(えっと、つまり……)
言葉の意味を理解し、彩は小さくうめいて座り込んだ。
(うわ……!)
(こんな、直球は……っ、反則)
しかも豪速球のストレート。
今でさえ真っ直ぐに愛情をぶつけられて、しかもこれ以上先があるというなら。
(食べたくない、とか、言ってる場合じゃないわ)
体力つけよう、と密かに決心して息をつく。
(生きていくこと)
(食べること)
(眠ること)
(誰かと話すこと)
(一緒に笑うこと)
(愛し合うこと)
ぜんぶ、体力のいること。
彩のくちびるに自然と微笑が浮かぶ。
そうしてなんだかくすぐったいような気持ちで、自分も店内に戻った。
すると、カラオケも何巡かしたのか、ママさんがラスソンを歌うところだった。
ピアノのイントロに合わせて、お客さんたちがやんやと騒ぐ。
「ママの十八番!」
「よっ、待ってました!」
「私も歌うー!」
手を挙げて躍り出たのは泉さんだ。
気分よく酔っているのか、頬が赤い。
「いずみちゃん、そんなんで歌えるのん?」
「らいじょぶ!」
「ベロベロやないの」
二人のやり取りがマイクで響き、ドッと皆が笑う。
「ほらぁ、しっかり立ちぃな」
「ほないくでぇ!」
関西弁のうつった泉に合わせて、タンバリンや拍手が湧く。
その中に花吹を見つけて彩は隣りに座った。
座面のうえの彩の手に、花吹がそっと手のひらを重ねてくれる。
きっとこれは最大級の譲歩だ。
彩は応えるように、花吹の指を握り返した。
マイクに響く、女性ふたりの深くて愛情深い声が、メロディと一緒に歌を奏で始める。
〜♪
誰かが言った
愛は川のようなもの
誰かが言った
愛は刃のようなもの
流されて 引き裂かれて
満たされることがない
愛は花だと 私は言いたい
あなたのおかげで ひらく花びら
傷つきたくないから
身をゆだねることができない
夢見ていたいから
飛びこむことができない
奪われたくない 預けたくない
こんな心のまま 生きる意味を
教えてほしいと 私は言いたい
ながく寂しい夜の道を
いつか 抜け出せるように
苦しくても弱くても
あなたのそばで 生きていく
陽だまりのような
あなたが 愛してくれるから
私はきっと咲かせられる
あたたかな 幸せの花を
〜♪
最後はみんなで大合唱になった。
彩は花吹と顔を見合わせて一緒に笑う。
この瞬間が、愛おしい。
〈Fin.〉