Harmonie et Rosés〈5〉
翌日、沙夜と多津が婚姻届を持ってやって来た。
彩はもちろん、それを沙夜のものだと思った。
「わざわざここで書くことないじゃん。見せびらかしに来たの?」
何言ってるの、と沙夜が返す。
「あーちゃんのだよ」
「は!?」
多津がファイルから紙とペンを出す。
「間違えても大丈夫なように、二部用意してある。あと白紙のも」
「あーちゃん、これ旧姓の印鑑。草かんむりの苅で合ってたよね」
「そんなもんどこで……!」
「ネットストア」
二人がテキパキとサイドテーブルに書類を広げている。
花吹の欄はすでに記入済みだ。
少し右上がりの細い文字。まるで教科書みたいにキレイな筆致。
(なんか、妙に圧を感じる)
こういうシチュエーションは、お互いに机の前で正座して、はにかみながら書き入れて、それを二人で写真に撮ったりするものだと思っていた。知らんけど。
「ムードもなんもないじゃん!」
「仕方ないよ〜、間に合わないんだもん」
「なにが?」
「彩のお父さんの拘留期間」
「ひぇ、めっちゃ重いことサラッと言う」
「ほんとのことだよ。ここからちゃんと刑事ソツイに持って行かないと、あーちゃんの環境、変わんないんだって」
「……オヤジ、刑務所に入るの?」
不安になった彩の顔色を読み取ったのか、多津が「沙夜」と声をかける。
「こういうことは、まだ……病床にある人に言うべきことじゃないよ——ごめんね、彩さん」
ごめんね、と言われたことよりも、沙夜をナチュラルに名前呼びしていることのほうに驚いた。
彩のちいさな動揺には気づかず、多津が話を続ける。ゆっくり、言葉を選びながら。
「あの日、きみのお父さんは……警察に現行犯逮捕されたから、前科がつくことは避けられない。ただし……これからどんな訴追があるにしろ、まずはアルコール依存症を治療する必要がある。そのための施設に入ってもらうことを目指して、僕たちは動いてるんだよ」
「そう、なんだ……」
「状態が良くなれば、面会もできるようになると思う。彩さんが望む限りは」
彩はうつむいた。
ほっとしたのか、そうでないのかは、わからない。
だけど胸の底に凝ったモヤモヤは、ゆるやかに溶けていった。
「あーちゃん、はい、ここ書いて」
沙夜に促されて、彩はまだ青あざの残る手でボールペンを取った。
多津がひとつずつ指さしながら、記入するべきことを教えてくれる。
一筆ずつ、刻まれていく自分の人生。
決意といえるほど確かなものではないけれど、変わり始めたいと思っている。
(このひとの横に、並べる自分になりたい)
書き終えると緊張の糸が切れて、シーツの上に倒れ込んだ。
「うぇ〜……まさかこんなことになるなんて……」
「あーちゃんがもっと早く周りを頼ってたら、こんなことにはなりませんでした!」
「塩対応キツいぃ」
「塩ぐらい撒くよ……ねぇ、もう、あんな風にならないでね。すごく……怖かった」
沙夜の口調はつらそうで、一瞬、ちいさな子どものようになった。
(そうだ……さーやは、母親を目の前で亡くしてる)
だとすれば、きっとフラッシュバックしただろう。
彩が死神の手にかかるさまを、母親に重ねたかもしれない。
沙夜はうつむいたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
凍りついたのかもしれない指と感情を、多津の大きな両手が、あたたかくほぐすように包む。
「沙夜、大丈夫?」
ほっとしたような顔で、沙夜が多津を見つめる。
自分にはわからないアイコンタクト。
大事な友人を取られたような気がして、思わず口から拗ねた言葉が飛び出す。
「けっきょく、オヤジを刑事ソツイするために結婚するの?」
多津が「いや」と、やんわり制した。
「一番は、花吹がきみを独り占めしたいからだよ」
あまりにも淡々と言われて、彩はポカンと口をあけた。
「もちろん、あいつはちゃんとわかってるよ。まだ彩さんの気持ちが追いついてないことも。だけどそれも折り込んだうえで、踏み切ったんじゃないかな」
「……『簡単に振れると思うなよ』って言われました」
多津の大きな瞳が、さらに大きく見ひらかれる。
「めずらしい……。そんな花吹、なかなかお目にかかれないよ」
キラキラした瞳が、嬉しそうに細められる。なんだか胸の奥をギュッと掴まれるような、か弱い小動物を保護したくなるような、そんな気持ちだ。
「あーあ。さーやはいつも、このキラキラウルウルのお目めに絆されてるの?」
「そう。多津先生の最終兵器。私も逆らえない」
「二人とも、人聞きわるいなぁ」
*
入院している間に、刑事さんが来たり、行政の人が来たり、それなりの来客があった。
父親からの暴力について話さなければいけないときは、花吹が時間を合わせて傍についてくれていた。
窓際にもたれかかり、腕を組んで、必要なことがあれば動いてくれる。
(……どう思ってるんだろう)
不安になったのは、花吹が笑わないからだ。
(いつも怖い顔してる)
自分と籍を入れたことを後悔しているのだろうか。
面会に来てくれたと思ったら事務的な話ばかり。終わったらさっさと退室して、あの日のキスや告白は夢だったんじゃないかと思う。
(簡単に振られるの、あたしのほうなんじゃないかな)
漠然とそう感じていたとき、ユナが見舞いに来てくれた。
「ごめんね、顔見にくるの遅くなって」
これはお店の皆から、と、基礎化粧品や使い捨て下着の入った紙袋を渡される。
「いいよ〜。むしろありがとう、忙しいのに」
ユナとはメッセージでやりとりをしていたので、お互いの事情は知っている。
ママもその信頼があるから、店の名代としてユナを立ててくれたのだろう。
「ケーキあるけど、食べられる?」
「フルーツっぽいものなら」
「おっけ〜」
二人でスイーツをつつきながら、「これ美味しい」「最近できた店だよ。カフェもあるの」「ぜったい行く」「ガチ」なんて話しながら、話題は自然と花吹のことになる。
「凄かったらしいよ」
「何が」
「全校朝礼で入籍報告をしたときの、女子生徒たちの悲鳴」
ごほっと、詰まったイチゴのかけらが口から出る。
「もう体育館が揺れたって。バサササってカラスが飛んでったって」
「なんのパニック映画?」
「そう、それくらい大騒ぎだったんだって、同僚のお客さんが言ってた」
「ウケる通り越して引くわ」
「え〜? 気持ちわかるよぉ、憧れの先生が結婚しちゃったら、なんかこう、日々の潤いが失われるカンジ!」
「わかんないわ。学校生活、そんな送ってないから」
「もう!」
ユナはとがらせたくちびるが可愛らしい。
本来は陽気で明るい性格なのだ。
「そういうこと、なんで言ってくれなかったのよ〜!」
彩が入院してから初めてメッセージをやり取りしたとき、ユナは電話で泣きながら謝ってきた。
秘密を守れなくてごめん。今回のことは私のせいではないか。
そんなふうに自分を責めるユナの声を聞いて、彩は改めて、店の皆に心配をかけたんだとわかった。
「ごめんって。本当の年齢いったら、雇ってもらえないと思ったから」
「当然でしょ!」
「ねえ、それも含めて……なんだけど」
彩はかねてから考えていたことを口に出そうとして、だけど緊張して、声がかすれた。
「あの、お店の皆もそうだし、今回お世話になった人たちに、お礼っていうか、貸切パーティーみたいなことしたいなって」
スナックのママさん。
営業返上で探してくれたキャストの皆。
沙夜と多津センセ、泉ママ。
もちろん、あのひとも。
「お世話になってる食堂からさ、オードブルとか出してもらって、お酒代とか……は、ツケになっちゃうけど」
「なに言ってんの!!」
ユナの目が、これはどうしたというくらいキラッキラしている。
「それって、もう披露宴じゃん!」
「ひろ——いやいや、待ってって」
「やばぁ〜っ!! 嬉しい! ちょっとママに電話してきてもいい!?」
「待って! まだ花吹さんに話してないから!」
「そんなのOKされるに決まってるよぉ」
「えぇえ、わかんないよ。最近あのひと、めっちゃ怖い顔してるもん。こーんな眉寄せて」
彩は親指と人さし指でぎゅっと眉間をつかんだ。
「えぇ? そうかなぁ……疲れてるだけじゃない? 最近ずっとお忙しいみたいだもん」
「それはね、忙しいと思いますよ」
日々の仕事に加えて、市役所と警察署の往復。膨大な書類の量。
「あんなふうに大変そうなの見ると……あたしと籍入れないほうが良かったんじゃないかなって、思ったり」
知らず口から洩れた言葉に、ユナが何か言おうとしたとき——
「なんだよ、そりゃ」
仏頂面の花吹が、ドアを開けて入ってきた。
彩の喉の奥から、ヒッと声にならない叫びが出た。
「籍入れないほうが良かっただと……?」
「ちが——あの、待っ、ユナ!」
すでにドアの向こうに消えるユナの髪が見えた。さすが水商売、修羅場アンテナの感度は高い。
(やばい、この空気でマンツーはキツい!)
花吹は背中に妖怪でも背負っていそうな雰囲気で、彩のベッドに近づいてきた。
その迫力に、彩はおもわず両手をかざす。
「……め——ごめんなさい!」