表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

27/38

Harmonie et Rosés〈5〉

 翌日、沙夜と多津が婚姻届を持ってやって来た。

 彩はもちろん、それを沙夜のものだと思った。


「わざわざここで書くことないじゃん。見せびらかしに来たの?」


 何言ってるの、と沙夜が返す。


「あーちゃんのだよ」

「は!?」


 多津がファイルから紙とペンを出す。


「間違えても大丈夫なように、二部用意してある。あと白紙のも」

「あーちゃん、これ旧姓の印鑑。草かんむりの(かり)で合ってたよね」

「そんなもんどこで……!」

「ネットストア」


 二人がテキパキとサイドテーブルに書類を広げている。

 花吹の欄はすでに記入済みだ。

 少し右上がりの細い文字。まるで教科書みたいにキレイな筆致。


(なんか、妙に圧を感じる)


 こういうシチュエーションは、お互いに机の前で正座して、はにかみながら書き入れて、それを二人で写真に撮ったりするものだと思っていた。知らんけど。


「ムードもなんもないじゃん!」

「仕方ないよ〜、間に合わないんだもん」

「なにが?」

「彩のお父さんの拘留(こうりゅう)期間」

「ひぇ、めっちゃ重いことサラッと言う」

「ほんとのことだよ。ここからちゃんと刑事ソツイに持って行かないと、あーちゃんの環境、変わんないんだって」

「……オヤジ、刑務所に入るの?」


 不安になった彩の顔色を読み取ったのか、多津が「沙夜」と声をかける。


「こういうことは、まだ……病床にある人に言うべきことじゃないよ——ごめんね、彩さん」


 ごめんね、と言われたことよりも、沙夜をナチュラルに名前呼びしていることのほうに驚いた。

 彩のちいさな動揺には気づかず、多津が話を続ける。ゆっくり、言葉を選びながら。


「あの日、きみのお父さんは……警察に現行犯逮捕されたから、前科がつくことは避けられない。ただし……これからどんな訴追(そつい)があるにしろ、まずはアルコール依存症を治療する必要がある。そのための施設に入ってもらうことを目指して、僕たちは動いてるんだよ」

「そう、なんだ……」

「状態が良くなれば、面会もできるようになると思う。彩さんが望む限りは」


 彩はうつむいた。

 ほっとしたのか、そうでないのかは、わからない。

 だけど胸の底に(こご)ったモヤモヤは、ゆるやかに溶けていった。


「あーちゃん、はい、ここ書いて」


 沙夜に促されて、彩はまだ青あざの残る手でボールペンを取った。

 多津がひとつずつ指さしながら、記入するべきことを教えてくれる。

 一筆ずつ、刻まれていく自分の人生。

 決意といえるほど確かなものではないけれど、変わり始めたいと思っている。


(このひとの横に、並べる自分になりたい)


 書き終えると緊張の糸が切れて、シーツの上に倒れ込んだ。


「うぇ〜……まさかこんなことになるなんて……」

「あーちゃんがもっと早く周りを頼ってたら、こんなことにはなりませんでした!」

「塩対応キツいぃ」

「塩ぐらい撒くよ……ねぇ、もう、あんな風にならないでね。すごく……怖かった」


 沙夜の口調はつらそうで、一瞬、ちいさな子どものようになった。


(そうだ……さーやは、母親を目の前で亡くしてる)


 だとすれば、きっとフラッシュバックしただろう。

 彩が死神の手にかかるさまを、母親に重ねたかもしれない。

 沙夜はうつむいたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。

 凍りついたのかもしれない指と感情を、多津の大きな両手が、あたたかくほぐすように包む。


「沙夜、大丈夫?」


 ほっとしたような顔で、沙夜が多津を見つめる。

 自分にはわからないアイコンタクト。

 大事な友人を取られたような気がして、思わず口から拗ねた言葉が飛び出す。


「けっきょく、オヤジを刑事ソツイするために結婚するの?」


 多津が「いや」と、やんわり制した。


「一番は、花吹がきみを独り占めしたいからだよ」


 あまりにも淡々と言われて、彩はポカンと口をあけた。


「もちろん、あいつはちゃんとわかってるよ。まだ彩さんの気持ちが追いついてないことも。だけどそれも折り込んだうえで、踏み切ったんじゃないかな」

「……『簡単に振れると思うなよ』って言われました」


 多津の大きな瞳が、さらに大きく見ひらかれる。


「めずらしい……。そんな花吹、なかなかお目にかかれないよ」


 キラキラした瞳が、嬉しそうに細められる。なんだか胸の奥をギュッと掴まれるような、か弱い小動物を保護したくなるような、そんな気持ちだ。


「あーあ。さーやはいつも、このキラキラウルウルのお目めに(ほだ)されてるの?」

「そう。多津先生の最終兵器。私も逆らえない」

「二人とも、人聞きわるいなぁ」



 *



 入院している間に、刑事さんが来たり、行政の人が来たり、それなりの来客があった。

 父親からの暴力について話さなければいけないときは、花吹が時間を合わせて傍についてくれていた。

 窓際にもたれかかり、腕を組んで、必要なことがあれば動いてくれる。


(……どう思ってるんだろう)


 不安になったのは、花吹が笑わないからだ。


(いつも怖い顔してる)


 自分と籍を入れたことを後悔しているのだろうか。

 面会に来てくれたと思ったら事務的な話ばかり。終わったらさっさと退室して、あの日のキスや告白は夢だったんじゃないかと思う。


(簡単に振られるの、あたしのほうなんじゃないかな)


 漠然とそう感じていたとき、ユナが見舞いに来てくれた。


「ごめんね、顔見にくるの遅くなって」


 これはお店の皆から、と、基礎化粧品や使い捨て下着の入った紙袋を渡される。


「いいよ〜。むしろありがとう、忙しいのに」


 ユナとはメッセージでやりとりをしていたので、お互いの事情は知っている。

 ママもその信頼があるから、店の名代(みょうだい)としてユナを立ててくれたのだろう。


「ケーキあるけど、食べられる?」

「フルーツっぽいものなら」

「おっけ〜」


 二人でスイーツをつつきながら、「これ美味しい」「最近できた店だよ。カフェもあるの」「ぜったい行く」「ガチ」なんて話しながら、話題は自然と花吹のことになる。


「凄かったらしいよ」

「何が」

「全校朝礼で入籍報告をしたときの、女子生徒たちの悲鳴」


 ごほっと、詰まったイチゴのかけらが口から出る。


「もう体育館が揺れたって。バサササってカラスが飛んでったって」

「なんのパニック映画?」

「そう、それくらい大騒ぎだったんだって、同僚のお客さんが言ってた」

「ウケる通り越して引くわ」

「え〜? 気持ちわかるよぉ、憧れの先生が結婚しちゃったら、なんかこう、日々の潤いが失われるカンジ!」

「わかんないわ。学校生活、そんな送ってないから」

「もう!」


 ユナはとがらせたくちびるが可愛らしい。

 本来は陽気で明るい性格なのだ。


「そういうこと、なんで言ってくれなかったのよ〜!」


 彩が入院してから初めてメッセージをやり取りしたとき、ユナは電話で泣きながら謝ってきた。

 秘密を守れなくてごめん。今回のことは私のせいではないか。

 そんなふうに自分を責めるユナの声を聞いて、彩は改めて、店の皆に心配をかけたんだとわかった。


「ごめんって。本当の年齢いったら、雇ってもらえないと思ったから」

「当然でしょ!」

「ねえ、それも含めて……なんだけど」


 彩はかねてから考えていたことを口に出そうとして、だけど緊張して、声がかすれた。


「あの、お店の皆もそうだし、今回お世話になった人たちに、お礼っていうか、貸切パーティーみたいなことしたいなって」


 スナックのママさん。

 営業返上で探してくれたキャストの皆。

 沙夜と多津センセ、泉ママ。

 もちろん、あのひとも。


「お世話になってる食堂からさ、オードブルとか出してもらって、お酒代とか……は、ツケになっちゃうけど」

「なに言ってんの!!」


 ユナの目が、これはどうしたというくらいキラッキラしている。


「それって、もう披露宴じゃん!」

「ひろ——いやいや、待ってって」

「やばぁ〜っ!! 嬉しい! ちょっとママに電話してきてもいい!?」

「待って! まだ花吹さんに話してないから!」

「そんなのOKされるに決まってるよぉ」

「えぇえ、わかんないよ。最近あのひと、めっちゃ怖い顔してるもん。こーんな眉寄せて」


 彩は親指と人さし指でぎゅっと眉間をつかんだ。


「えぇ? そうかなぁ……疲れてるだけじゃない? 最近ずっとお忙しいみたいだもん」

「それはね、忙しいと思いますよ」


 日々の仕事に加えて、市役所と警察署の往復。膨大な書類の量。


「あんなふうに大変そうなの見ると……あたしと籍入れないほうが良かったんじゃないかなって、思ったり」


 知らず口から洩れた言葉に、ユナが何か言おうとしたとき——


「なんだよ、そりゃ」


 仏頂面(ぶっちょうづら)の花吹が、ドアを開けて入ってきた。

 彩の喉の奥から、ヒッと声にならない叫びが出た。


「籍入れないほうが良かっただと……?」

「ちが——あの、待っ、ユナ!」


 すでにドアの向こうに消えるユナの髪が見えた。さすが水商売、修羅場アンテナの感度は高い。


(やばい、この空気でマンツーはキツい!)


 花吹は背中に妖怪でも背負っていそうな雰囲気で、彩のベッドに近づいてきた。

 その迫力に、彩はおもわず両手をかざす。


「……め——ごめんなさい!」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ