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Harmonie et Rosés〈4〉

 歌声が聞こえる。

 TikTokでも、街中のコンビニでも聞いたことのないメロディ。

 どこかノイズ混じりの収録音と、鼻にかかったやわらかい歌声。

 愛情深さを感じるような、息づかい。


 彩が目を覚ますと、朝焼けなのか、夕焼けなのか、オレンジの光が目に入った。

 清潔なシーツ。点滴から伸びた管が、じぶんの腕に固定されている。パタパタと落ちてくる薬液。

 ここは病院だろうか。

 身じろぎしようとすると、身体じゅうが鈍く痛んだ。


「目、覚めたか」


 花吹の声が聞こえた方向に、目を向けた。

 スツールを置いて窓ぎわに座っている。

 問いたいことは山ほどあった。


(なんでこんなことになってるの?)

(どうして、あんたがここにいるの?)


 だけど、その問いのどれもが、今の自分にとっては労力のおおきいものだった。

 軽い話がいい。

 花吹はいつも好き勝手に喋って、彩の気持ちをなだめてくれる。


「……これ、なんの歌?」


 室内に流れている歌は、花吹のスマホから鳴っているようだ。


「ああ、これ? フランス語のシャンソン」

「シャンソンって何」

「……なんだろ、昔の流行歌って感じかな」

「曲が昭和っぽい」

「ああ、いいセン行ってる。ちょうど昭和の戦争中に流行った歌だよ」


 ふふ、と彩は笑った。


「おじいちゃんかよ」

「いいだろ。浸りたい気分なんだよ」


 いつもなら冗談で交わされる会話。

 だけど今日の花吹は、言葉は軽いのに、なんとなく優しくて……痛そうだ。


「なんていう歌?」

「《La Vie en rose》——日本語で、バラ色の人生」

「バラ色って」


 すごい。そんな言葉使ったことない。

 何色のバラだろう。やっぱりピンクとか赤とか、そっち系だろうか。


(そんな色の人生って、どんなだろ)


 少なくとも、枯れてはいなさそうだ。

 生き生きとして、満ち足りていて、愛にあふれている。


「いいなぁ、そんな人生、送ってみたい」


 彩の感想に、花吹は曲の音量を低くした。


「そうかねぇ」


 花吹の手がシャツの胸ポケットに伸びて、何かを思いとどまるように、膝のうえに戻された。

 タバコを吸いたいんだろうな、と彩は思う。


「この歌手、エディットピアフっていう人なんだけど」

「えでぃっとぴあふ?」

「彼女の人生は、全然バラ色じゃなかった」


 まぁ、本人からしたらバラ色だったかもしれないけど、と花吹は添えた。


「少なくとも、はたから見れば苦しみの連続だった」


 若くして産んだ赤ちゃんを亡くした。

 いちばん愛したひとは交通事故で失った。

 晩年はモルヒネの中毒になった。

 そんなことを、花吹は淡々と語った。


「フランスでは、赤いバラに《血》の意味もある」


 自分の信念に(じゅん)じて死ぬこと。そして、その犠牲になった者たちの血。


「生きることは綺麗じゃない。嫉妬したり、憎んだり恨んだり。傷つけて傷つけられる繰り返しだ。だけどそんな中で、奇跡みたいに訪れる美しい瞬間……人生って捨てたモンじゃないよな、っていうときも、ある」


 花吹がスツールを持ちあげてベッドの隣に置いた。そこに座って、彩の顔を覗きこむ。


「傷ついても苦しくても、それもひっくるめて《バラ色の人生》なんだよ。俺はそう解釈してる」


 語る人の双眸(そうぼう)は真剣だ。


「なんで……そんな」


 真面目な顔で見つめてくるの。

 何が言いたいの。

 いつもみたいに、好き勝手に話して笑ってよ。

 そう言いたいのに、彩のくちびるは動かない。

 花吹の鋭い眼差しに縫い留められた。


「彩、提案があるんだけど」

「……なに」


 花吹はフゥッと息を吐き切って、言った。


「籍、入れよう」


 一瞬、言葉の意味がわからなくて、《セキ》が《席》に聞こえた。


(セキ、《籍》? 養子縁組ってこと?)


 フリーズした彩を待たずに、花吹が重ねて言う。


「俺と同じ苗字になってくれ」

「えっ」

「おまえのこと扶養したい」

「は!?」


 彩の驚きっぷりに、さすがに花吹も「や、わかってる」とブレーキをかけた。


「とくべつ経済的に余裕あるって訳じゃない。留学したから貯蓄もないし、フツーの公務員だし」


 そうじゃなくて、と彩は口をもごもごさせた。

 うまく言葉が出てこない。

 そんな反応をどう捉えたのか、花吹は言い募る。


「じゃあ、ジムも通って腹出ないようにがんばるし、ハゲたらごまかさずに潔くスキンヘッドにする。老化は仕方ないから見逃して欲しい」

「ちがくて! あたしのこと、養子にするの?」


 花吹が目を真ん丸にした。こんなことは珍しい。


「ん?」

「えっ、ちがうの?」


 ふはっと花吹が笑う。


「わりぃ、言葉にしろって話だよな」


 花吹は彩の手をやさしく握った。


「好きだよ」


 彩の首すじから、ぶわっと熱がのぼる。

 どくどくと脈打つ手首の音が聞こえそうだ。


「少女漫画みたいなスパダリじゃねぇし、苦労もさせると思うけど、俺の全部賭けて、彩のこと大事にしたい」

「スパダリって何?」

「スーパー・ダーリンの略」

「なにそれ!」


 なにそれ。なにそれ!?

 少女漫画って、俺の全部って、大事にしたいって——いったい何!?


「じゃあ、後で届け持ってくるから」

「ちょ——」

「これ、着替え。青田が用意してくれたやつ。スマホはナースステーションに預けてある」

「待って!」


 帰り支度をし始めた花吹に、彩は必死で声を出した。


「こ、こういうのって」

「なんだよ」


 ふるえる手でシーツを掴む。


「好き、とか、大事、って」


 どんな気持ちでその言葉を出したのか。

 同情と哀れみなら、ぜったいに受け取れない。

 だけど期待したい自分もいる。

 そんなイタチごっこが頭の中でぐるぐる巡る。


(どう言ったらいいのか、わからない)


 はぁ、とため息をついた花吹が、焦れたように歩み寄ってくる。

 そして肩を掴まれたかと思うと——


「ン!」


 キスをされた。

 ふれるだけの優しい口づけ。

 しかしそれとは対照に、花吹が低く(うな)る。


「かんたんに俺を振れると思うなよ」

「ほぁ!?」

「また来る」


 花吹はジャケットを抱えて、さっさと病室を出て行ってしまった。

 彩は熱々になった両頬を手でパッチンした。

 痛い。

 夢ではないらしい。


「ど、どういう……?」


 ねえ!

 世の中の恋愛してる人たちに訊きたいんだけど!


「こういうのって、二人の気持ちが大事なんじゃないの……っ!?」



 *



「それは、やっぱり花吹先生のことだから」


 ひとしきりケラケラ笑った泉さんが、ペットボトルの水を差し出してくれた。


「多津さんみたいに真っ直ぐ言ってくれる訳じゃないわよ」

「えぇえ……もうわからない」


 男のひとがわからない、と(うめ)く彩に、泉が顔色を変えて言う。


「十代の娘っこにわかるわけないでしょ。聞いたわよ。スナックで働いてたなんて!」

「う……」

「ママさんが菓子折り持ってお詫びに来られたわ。年齢まで偽って働いてたなんて——まったく信じられない。普通だったら訴訟ものよ。雇い主が良識的でラッキーだったわね」

「ぐぅ……」

「彩ちゃん、あなた、地獄の深淵に片足突っ込みかけてたわよ」


 泉の言葉には凄みがある。

 彩は苦し紛れに「わかってますよぅ」と口をとがらせる。


「だから、あのひとには感謝してるし、入院費も、少しずつ返して行けたらなって思って……」

「甘いわね」

「うう、泉ママ、厳しい……!」

「当たり前でしょ。どれだけ心配させたと思ってるの。気が済むまで言ってやるわ」


 あのね、と泉が身を乗り出す。


「花吹先生が彩ちゃんと籍を入れるのは、気持ちがどうかは別としても、その方が皆動きやすいからなの」


 ピンと来ない彩に、泉はさらに説明する。


「治療費も今は十割負担だけど、期間内に籍を入れたら三割負担になる。つまり、その差額が戻ってくるの」

「どれくらい……?」


 泉はサラッと「数十万」と答えた。


「それに、これは明らかな傷害事件だし、あなたは摂食障害も患っている。診断書をもらえば行政から金銭的に支援がある。貴方が『お金を返さなきゃ』なんて思わなくて済むように、花吹先生も多津さんも、今はフルスロットルで動いているわ」


 彩はうつむいた。

 力も知識もない自分が、すごく悔しいし、情けない。


「ほんとは、ちゃんと自立したかったのに……」

「あのね」


 泉は声のトーンを落として、厳しく、しかしあたたかく、彩を見つめた。


「精神的に自立してこそ、経済的な自立ができるのよ」

「どういうこと……?」

「今はまだわからなくていいわ」


 泉は声をもとの調子に戻して「とにかく今は花吹先生に依存しときなさい」と続けた。

 そして彩の頬を、軽くつねるようにつまんだ。


「このほっぺをニッコリあげて『ありがとう』『嬉しい』って言っておけばいいの」


 泉が綺麗に笑う。

 ママさんもそうだ。歳を重ねても美しい女性たち。

 その秘密はなんだろう。

 彩がぼんやり考えていると、泉から爆弾が落とされた。


「男ってのはね、惚れた相手の笑顔のためなら、いくらでもがんばれちゃう生きものなのよ」

「ほ、ほれた相手って——!」

「あら、真っ赤」





花吹&彩ちゃんシリーズ、あと1話か2話で一区切りつきます。

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