Harmonie et Rosés〈3〉 ※
モンスターレベルが最大値です。ご注意ください。
(オヤジが壊れたのは、いつからだろう)
母親が不倫して出て行った。それは聞いている。でももう、母だった人の声も思い出せない。
まだ自分が幼い頃は、父親も仕事に家事に一生懸命だったと思う。忙しい合間を縫って親子参観に来てくれたときは、席から飛び上がりそうになるほど嬉しかった。
少しでも力になりたくて、喜んでほしくて、慣れないながらにカレーを作ったこともある。きっと具は半煮えで固かったけれど、笑いながら残さず食べてくれた。
愛しい思い出は、どうしても消せない。
だけど時の流れは容赦なく、かけがえのない時間をさらさらと、砂のように風化させていく。
彩の身体は第二次性徴とともに初潮を迎え、「守るべき子ども」から「女性への成長」を促した。
(いつだったか、言われたな)
——おまえの声も顔つきも、あの女にそっくりだ。
父が泣いていた。疲れていたのだろうと、今なら思う。罵倒されても憎むことはできなかった。
辛く当たられた次の日は、決まってひどく優しかった。
そのギャップに戸惑う。父親の顔色を伺うようになる。
ゆるせない。ゆるしたい。
そうしてだんだん、暴力と甘言に慣れてゆく。
「ウッ——!?」
息苦しくて目を覚ます。
父親が上体にのしかかっている。
重いとか不快だとか、それどころじゃない。
まるで……黒い怪物、闇に呑まれた怨念の塊。それがヒトの形をなして、影のように覆い被さってくる。
圧倒的な恐怖。本能で鳥肌が立つ。
頭が激しく痛んで、猛烈な吐き気が込み上げる。
「ぐぅ……っ」
薄れゆく意識の上澄みで、なんとか状況を把握する。
首を絞められている。実の父親に。
いや、もう父親とは言えない。
歪んでいる。表情も言動も、何もかも。
「おまえは昔っから、寂しがりだったよなぁ……」
顔は暗くて見えない。
だが、涙が落ちてくる。
彩は自分の首をわし掴む、毛深い手の甲を掻きむしった。
「や、だ……」
「一緒に逝こうな……」
(殺される)
逃げられる場所を必死に考える。
玄関ドアを見ると、ご丁寧にチェーンが掛けられていた。
(ああ、もうダメかも——)
口の端から泡が噴き出る。
その瞬間——
「彩ァ!」
花吹の声が大音量で響いた。
びくっと父の肩が痙攣する。
首の緊めつけがひるんだすきに、彩の脚は渾身の力を込めて父親の腹を蹴り上げた。自分の足首から、ポキッと変な音がした。
這いずるように逃げ出て、無我夢中で、キッチン下の扉を開けた。
包丁が入っている。それが救いのように思えた。
(殺される、くらいなら)
いきなり酸素を得た肺が、麻痺して呼吸をうまくできない。
不規則な息を吐きながら自分の父親を見据える。
眼球は飛び出て血走り、髪はベタベタにもつれ、ゆらりと膝で立つ。両腕は何かを探ろうとするように、前方に投げ出されている。
(あの腕にまた掴まったら、終わる)
ゾッとして、かつて同じ境遇に立たされた沙夜のことを思い出す。
(さーやは置いて逝かれた)
それを愛情だという親の詭弁。
愛しているから置いていく?
愛しているから連れていく?
男親、女親、どちらが残ったって変わらない。
どうしてアンタたちが勝手に決めるの。
そんなの、どっちも——
「いやだァッ!!」
彩は包丁を必死で振り回した。
「近寄るなッ、あっち行けぇ!!」
クソ野郎。アンタなんか、あたしの親じゃない。
だってお互い、べつの人間なんだから。
「あたしがどうやって死ぬか、あたしが決める!!」
きっと自分の目も血走っている。包丁を逆手に自分の胸に当てる。
ガァン! とドアが叩かれ、チェーンがゆれた。
「ここを開けろ! 彩ァッ!!」
ここは公営住宅だ。一階から四階まで階段じゅうに声が届く。きっと騒ぎになって、先生に迷惑をかける。
だけどそれは、こんな父親の元に生まれた以上、仕方がない。
自分といる限り、ずっとこんな迷惑が付きまとう。
(ごめん、優さん)
やさしいひと。いつも庇ってくれるひと。
そんな大事なひとに、もうこれ以上の迷惑をかけたくない。情けなくて消えてしまいたい。
彩は天を仰ぎ、父親に向けて言う。
「アンタに殺されるくらいなら、あたしは自分で死ぬ」
そうして握る手に力を込めた、一瞬——思いも寄らない声が届く。
「あーちゃんっ!」
風にゆれる鐘のような、通りのいい音。
「あーちゃん、待って!!」
彩が今しようとしていることを知っているかのような、切羽詰まった叫び。
「まえに話したこと覚えてる? 『何も知らない人は、簡単に、自分のためにがんばれって言ってくる』って」
——親ですら大事にしてくれなかった自分のために、どーやってがんばれっつー話よ。
まだ記憶に新しい、沙夜との会話。
共感してくれることが嬉しかった。
「自分のために、がんばらなくていいよ……っ」
ドアの向こうから懇願する、憧れている友だちの声。
「『この人のためにがんばりたい』って、自分で選んでいいんだよ!」
自分で選んでいい。
その言葉が、高原の爽やかな空気のように、彩の肺に吹き込んだ。
「お願いだから出てきて! 私だって……っ、花吹先生も泉さんもタカ兄も、あーちゃんを待ってる!」
沙夜の言葉に続いて「僕もだよ」と遠慮がちな声が聞こえる。
(まさか——)
「……多津センセまでいるの?」
彩は気が抜けて、可笑しくなってしまった。
こんな自分なんかのために、必死で声を張り上げてくれる人がいる。
彩は一歩、二歩と、ドアに向かって近づいた。
「——さ、や」
「ねえ、出てきて。お腹へってるでしょ。だし巻き卵、好きなだけ作るよ」
「……さーやのだし巻き卵かぁ」
それには弱い。最終兵器だ。
「また、食べてもいいの……?」
彩の頬には涙が伝っていた。
きっと沙夜も泣いている。
「当たり前だよ。それに、新作メニューの味見もしてもらわなきゃ」
「なにそれ、太らせるつもり?」
「前から思ってたけど、あーちゃんはもうちょっと太ったほうがいい」
「ははっ……」
彩の手から力が抜けて、鋭利な包丁が落ちる。
「オヤジ」
彩が振り返ると、父親が顔を上げた。
先ほどまでの化け物じみた表情は薄くなっていて、わずかに、昔の面影がよぎった。
さよなら。
あたしの家族だった人。
「元気でね」
靴も履かず、裸足でコンクリ床の上に立つ。
ふるえる手でチェーンロックを滑らせ、鍵を開けた。
どこかで、パトカーのサイレンが聞こえる。救急車の間延びした音も。
そこで、彩の意識は途切れた。
*
夜も十時を過ぎた病院。非常口のグリーンライトが、薄く総合受付を染めている。
花吹は息を吐いて、ロビーのベンチに座り込んだ。
多津が缶コーヒーを差し出してくれる。
「さんきゅ。青田は?」
「入院に必要なもの買ってる。院内のコンビニで」
「ああ……」
缶のプルタブを引いて、ぐっとカフェインを飲みくだす。
「ありがとな。現金貸してくれて」
多津は微笑んで「この病院、時間外はカード使えないんだよ」と応える。
「十割負担てエグいな。びびったわ」
「そうだね。検査が多かったから、その点数も嵩んだみたいだし」
診察してくれた当直医は、渋い顔をしていた。
——足首の捻挫や、肌の擦り傷は軽度です。打撲の腫れも一ヶ月ほどで引くと思いますが……これを見てください。
広げられたレントゲン写真には、ところどころ、不自然に節張った箇所が見られた。
——恐らく、骨折した名残りでしょう。ギブスで固定すればこうはなりません。自然治癒した痕です。しかも全身の各所に見られます。古いもの、新しいもの……。
医師が指さすところ、白い骨に映っていた、おびただしい暴力の痕。
いつ死んでいてもおかしくなかった。
「——間に合って、良かった」
花吹は背もたれに身体を預けた。
(あのとき一分でも遅れてたらと思うと、まだ冷や汗が出る)
三時間前、スマホに届いたメールは多津からのものだった。
『これ、住所。沙夜がフリースクールの代表に連絡を取ってくれた』
また、店のキャストたちにも助けられた。彼女たちの情報網から、最近父親が仕事を解雇されたことがわかった。
もともと職を転々としていたようだが、今回は様子がおかしかった、とも。
「——恐かった」
ポツリとこぼした本音を、多津は黙って聞いてくれている。
「こんなの初めてだ。恐怖と怒りで震える」
花吹は拳を握り込む。
まだ指の震えはおさまらない。
「——ンで、どうして、あんなことができるんだよ……! しかも、実の娘相手に」
怒りと失望のあまりに、泣けてくる。
今まで彩がどんな気持ちで生きてきたのか。
どれだけの痛みと辱めを耐えてきたのか。
「あの手の甲のアザだって、変なとこにあるとは思ってたんだ。だけど……青田から聞くまで《吐きダコ》なんだってわからなかった」
「過食嘔吐も、自傷行為のひとつだから。必要だったんだよ」
多津が穏やかに言う。発言の内容とは裏腹に。
「——俺、そういうの、まだ知識が足りないんだけど、治るもんなの?」
「治らない」
死線を越えた友人は、あっさりと答える。
「良くなったり悪くなったり波はあるけど、生きてる限り闘っていくものだから」
「そうなのか」
「虐待のトラウマもそうだし、I型糖尿病とか、統合失調症とか、挙げるとキリがないよ」
沙夜もまだ闘ってる、と多津が言う。
その声色には労りと愛情が込もっていた。
「……お互い、支え合ってんだな」
多津は少しはにかんで、照れくさそうに笑った。
「一生付き合っていく病気は、総力戦なんだよ。支えてくれる人の数がものを言う。僕にとっては花吹も、大切なサポーターの一人だと思ってる」
「俺、数に入れてる?」
「僕が死にそうになってたとき、助けてくれたのはおまえだろ」
「単に働き口紹介しただけじゃん」
「うん。そういう些細なことでいいんだよ」
些細なこと。
(そんなちいさなキッカケで、変わるものなのか)
たとえばピアノのように、単純な音階の練習をひたすら重ねて、日々をたゆまず、繰り返していくことが大切だというのなら。
「……俺、病室のぞいてくるわ」
「もう面会時間終わってるんじゃないかな」
「看護師さんたちに差し入れがてら。俺もコンビニで、なんか買ってくるよ」
多津はいたずらっぽく「そういうとこ世渡り上手だよな」と笑った。