Harmonie et Rosés〈2〉 ※
毒親モンスターレベル高めです。ご注意ください。
『彩ちゃんと連絡が取れないの。一週間ずっと』
電話口でそう言ったのは、泉だった。応える花吹は昼休みの校舎、昼食を取る間もなく、新年度の慌ただしさで大量の書類を抱えているところだ。
「そりゃ、心配ですけど……今までもそういうことはあったんでしょう?」
『そうなんだけど、今回はちょっと長くて……。多津さんと沙夜ちゃんに電話してみても、知らないみたい』
「えっ、行方不明ってことですか?」
『このままだとそうなるわ』
事態の深刻さにザッと血の気が引く。
花吹はカレンダーと腕時計に目をやって、一瞬で目算した。日にちを遡って数えると——
(店に行った日か!)
金曜の夜、店からそのままファミレスに行った。あのとき置き去りにされた伝票が、今になってあざやかに脳裏によみがえる。
花吹の腕になんとか収まっていた書類が、雪崩れのようにバサバサバサッと滑り落ちた。
職員室が静まり、近くにいた教員が声をかけてくる。
「あの……どうかされましたか? お顔が真っ青ですよ」
どうしようもないのだ。どうしようも。
そんな軽薄な一般常識で動けずにいた自分が、いま目の前に立っていたら掴み掛かりそうだ。
彼女に何かあったら、自分のせいだ——
(店に行こう)
周囲に社交用の詫びを入れて、落ちた書類を拾いながら考える。
(あとは、多津に連絡入れて、青田にも訊こう)
心当たりのある場所、住んでいるところ。
手がかりになりそうなところは全部。
どうして今さら。
もっと早く必死になっていれば良かったのに。
彩の声が虚しく聞こえる。
——パチスロばっかやってるくせに、あたしに稼ぐことまで無理やりさせて……
どこか冷めた物言い、ティーカップを持つ華奢な手首。
だけど無邪気に笑う朗らかさを知っている。
——ありがと、センセ。
(くっそ!)
書類をひねり潰し、床を殴りつけたくなるような衝動を抑えて、花吹はどうにか顔を上げた。
*
怒涛の残業を終わらせてすぐさま、彩の働くスナックに顔を出した。
カランカラン、と昔ながらのドア鈴が鳴って、女性たちが振り返る。
清掃をしていたり、ボトルを整理していたり、グラスを磨いていたり。そんな立ち姿の並ぶ奥に、目当ての姿を見つけた。
「ママさん!」
「あらぁ、花吹センセ、どしたん? まだ開店まえやのに、血相変えて」
長い睫毛をふさふさ揺らしている瞳を見すえ、花吹は極力声を抑えて言った。
「彩と連絡が取れないんです」
ああ、とママは何でもないことのように応える。
「あの子、そういうのしょっちゅうやで」
カウンターの灰皿を寄せて、店主の女性はタバコに火をつけた。
「なんのタイミングか知らんけど、連絡取れへんくなるときが定期的にあるんやわ。急に出勤できん、いうこともあるから、まぁ正直困ることもあるけど……」
ふうっと煙を吐いて、赤いくちびるで苦笑する。
「水商売には訳ありの子ォも多いし」
花吹が黙っていると「そやし、あんまり入れ込まへんほうがええよ」と優しく宥められる。
「アヤのこと気に入ってくれはったんは嬉しいけど、プライベートなところまでは、踏み込まんでええのとちゃいます?」
「それは……そうですけど……」
「まぁ強いて言うたら、今回は長いかなぁ」
あくまでもゆったりと話すママに、自分のほうが過剰に反応し過ぎなのかと恥ずかしくなる。
(一旦、落ち着こう)
花吹もアイコスを取り出すと、遠慮がちにカウンターに近づいてくる女性がいた。
「あの……ママ」
床拭きのモップを両手で持って、不安そうにしている。
花吹はその顔に見覚えがあった。
「あ、たしか先週も……いましたよね。ユナさん、だっけ?」
コクン、と頷いて明るい巻き毛が垂れる。
前の金曜日、花吹が彩をオーラスで指名した日、ユナも他の席で接客していた。
「彩から聞いてます。仲が良くてヘルプし合うことがよくあるって」
そう、ちょうど先週、そんな会話をしたのだ。
(たしか、父親がツレと飲みに来るときも、一緒に席着くって言ってたか)
そして脳裏に甦る会話。
——向こうのお客さん、オヤジのパチスロ仲間だ。
——指名客?
——そう。あのひと飲み方荒いから、助かった。
飲み方の荒い、つまり素行の悪い男。そんな客に笑顔で接するユナのことも、感心して覚えていた。
「ユナさんは、居場所に心当たりないですか?」
藁にもすがるような花吹の問いだったが、ユナは突然肩をふるわせ、モップを取り落とした。
カタン、と音が響いて、店内をシンとさせる。
「——かも、しれない……」
「ん?」
「もしかして、私のせいかもしれない」
ユナは眉をしかめてうつむく。
黙らせるものかと思い、花吹は「どういうこと?」と食い下がった。
「あの……お客さん……先週、来てたひと」
「うん。彩の父親のツレだって」
ユナのくちびるは青ざめてふるえている。
「あのお客さんも、アヤちゃんにけっこう入れ込んでるから……花吹センセのこと、きかれたの。アイツ誰だって。ボトルの銘柄もしつこく見てて、それで、新規のご贔屓さまです、って答えたの」
ごめんなさい、と謝るユナの心のうちがわからない。
「いいよ、それくらい。本当のことだし」
「ごめ……なさ……」
「個人情報ってほどのことでもない」
ユナが涙をいっぱいに溜めて、ちがうの、と言う。
「そういうことじゃ、なくて」
「じゃあ何が問題なんだ?」
焦って口調が荒くなる。
ママが「ちょっと」とジェルネイルの指先で制した。爪に乗せられたラメが、店の暗い照明に妖しく反射する。
ウッとうめいたユナが、しゃがみ込んで顔を隠した。
「アヤ、今ごろ、殴られてる」
「え?」
花吹は一気に寒くなった。力が抜けて、膝もとで上下するつむじをぼうっと見つめる。
ユナはしゃくりあげて泣いていた。
「ふ、太客がつくと、『ぜったいオヤジから連絡が来る』って、い、言ってた」
ユナの尋常でない様子に、他のキャストたちも戸惑いの声を上げる。
ママがユナの隣りに膝をついて、真剣な顔つきで尋ねた。
「そんなん、聞いてへんえ?」
「ま、ママには、黙ってて、って、アヤが」
ごめんなさい、と、喉を詰まらせながら泣くユナを、花吹は絶望的な思いで見つめた。
(帰すんじゃなかった)
あのファミレスで、あの伝票に、もっと早く気づいていたなら。
もっと早く、知っていたら、
頭の芯をガンガンと叩いてくる、かつて交わした泉との会話。
——でもね、先生。そんなに気になるなら、いっそ貴方が保護なさいませ。つまり《法的》に。
——うーん、あのじゃじゃ馬を乗りこなす勇気はねえなぁ。
(俺は、ただのゲスだ)
何を怖がって、じゃじゃ馬だの、勇気だのと、薄っぺらな言葉を並べて。
(彩は必死に生きてるだけだ)
抗っている。
理不尽な縄をかけられて、自由を奪われて、それでも屈さずに生きている。
そんな彼女の姿を目端に入れながら、見ない振りをした。なんという情のない男だろう。
(性根はアイツの父親と変わらない)
自分に都合の良いときだけ愛玩して、都合の悪いときは無視をする。
相手が助けを求めているとわかっていても。
「センセ、しっかりしィな!」
背中を張られて、我に返った。
そうだ、まだ終わった訳じゃない。
「ユナ、あんたお客さんに連絡してみ。ツレやったら住んでるとこもわかるかもしれん」
ママがユナの脇を持って立たせ、周りの女性たちを見回した。
「指名ある? 時間は?」
キャストたちに確認してから、「今日は営業返上や」と静かに、しかし決意を込めた声が言う。
「アヤのお父さんの連絡先やら住んでるとこ、わかりそうなお客さん、他にもいてると思います。ええか、気張って探しィ!」
さすが水商売の女たちは、胆力がある。皆いっせいにスマホを取り出した。
花吹はぶわっと汗をかいて、カウンターのスツールに倒れ込むように座った。
スラックスの後ろポケットからスマホが滑り落ち、カシャンと音を立てて液晶が光る。
メールの通知が一件、あった。
*
ジンジンと終わらない痛み。
口のなかに鉄の味。
硬い床の冷たさを感じて、彩は目を覚ました。
着ていたものはビリビリに破られて、ところどころ赤黒い染みがある。
(えっと……)
脈うつように痛む頭を支えて、もう一方の手で床を押し、上体を突っ張った。
どうやら気絶していたらしい。
時間も記憶も、すっぽり飛んでしまって、自分が今どうしてこうなっているのかわからない。
まるで竜巻に巻き込まれたあとのよう。
災害のような存在。
抗うすべも隠れる場所も奪われて、恐ろしい音がギリギリと自分の身体と心を傷つけて、悲鳴をあげても助けは来ない。誰にも届かない。ただ嵐が過ぎるのを待つしかない。
「ッつ!」
足首を捻挫しているのか、立ち上がることができない。喉も渇いているし、体じゅうベタベタで気持ちわるい。
隣りの六畳間からテレビの音が聞こえているが、アイツは起きているのか、寝ているのか。
(オヤジが満足して、外出さえしてくれたら)
そうしたらシャワーを浴びて、着替えて、スマホをチェックするんだ。
そうしてやっと嵐は過ぎる。
だからもう少し、気絶したふりをしていよう。