表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/38

最終話 或る日の初夏 〜ツバメの箏曲〜

 


 二人で過ごす季節が、幾度か巡った。



 *



 ある初夏の夕凪。

 陽の名残りが差し込む、うす暗い和室。

 低いマットレスのベッドで、おおきなクッションにもたれて、沙夜は手紙を読んでいた。

 古く黄ばんだ紙をめくる左手の指に、ちいさな石の光る指輪をつけている。

 数年で伸びた髪が鎖骨にかかる。それを無意識に()けようとすると、キャミソールの肩ひもまで落ちてしまった。


(まあいいや)


 手紙の続きを読んでいると、どこからともなく骨ばった手が伸びてきて、沙夜の肩ひもを几帳面に直した。

 明け方に帰って来たパートナーが、どうやら起きたらしい。


「ありがと、絃二さん」


 かすれた低い声が「いま、何時?」とうめく。


「五時半くらい」

「うそっ」


 多津が飛び起きて、二人で被っていたタオルケットが落ちる。

 半裸の多津を見ても、沙夜はもうドキドキしない。ただ「寝癖が可愛い」と思うだけだ。


「今日はなに?」

「舞台リハ!」


 シャツどこ、いや、まずシャワー、と慌てる多津を見て、沙夜はつい笑ってしまう。


「だから言ったのに」


 いたずらっぽく言う沙夜に、多津は少しむくれて返事をする。


「あんな姿で寝てる新妻を見て、どうかしないほうがどうかしてる」


 多津はそのまま浴室に向かった。


(言い逃げだ)


 沙夜は熱くなった頬を自覚しながら、手もとの封書に視線を戻す。

 表書きには「沙夜へ」とある。

 母親の遺書だ。


(初めて読んだときは、もう、(ひど)かったなぁ)


 泉さんがこれを渡してくれたとき、「多津さんと一緒に読みなさい」と言われた。その意味がわかったのは、読んだ後。

 パニックを起こして、まるでパンドラの箱がひらいたかのように、泣き喚いてしまった。

 あの七歳の冬に戻ってしまったように。


『さやへ


 だいすきです。ちゃんと、いいおかあさんになりたかったです。

 さやがうまれたとき、ほんとうに、うれしかった。

 おとうさんとかぞくになれて、さやがかわいくて、しあわせだった。

 でも、いきることはつらくて、わたしはよわくて、もう、あなたをまもることができません。

 あなたといっしょに、しのうかな、とおもったことが、なんどもあります。

 きのうは、さやを●●●●ようとして●●●●●

 もう、おかあさんはあぶないから。

 ごめんなさい。よわくて。

 しあわせになってください。』


 勝手だと思う。

 自分の言いたいことだけ言って、残される娘の気持ちに寄り添う言葉はない。

 文章のなかの、黒く塗りつぶされたところを指でたどる。

 何が書いてあったのかは、もうわからない。

 その指を、長く大きな五指がやわらかく包んでくれた。


「それ、お母さんの手紙?」


 シャワーを浴びてきた多津が、タオルを頭に被ったまま、心配そうに覗き込んでいる。


「大丈夫?」

「うーん……前みたいに、泣き喚いて怒り狂って、っていうレベルまではいかない……かな」


 多津がホッとした様子で「よかった。取っておいて」と言う。


「うん。あのとき破っちゃってたら、もう読めないところだった」


 ありがとう、とちいさく言う沙夜のくちびるに、多津がやわらかく口づける。

 労わるように、励ますように。


「破りたくなるものだよ。僕も兄さんのとき、そうだったから」

「お兄さんも?」

「遺書かどうかはわからないけど……僕に宛てた手紙があった」

「そうだったんだ……」

「何が書いてあるのかと思うと怖かったし、こんなに早く逝くなんて、って腹立たしかった」


 だから読まずに破りかけた、と多津が言う。


「でも爺さまに止められたよ。『いつか読みたくなる日が来る』って」

「読めました?」

「いや、まだ。でも沙夜と一緒なら、読めそうな気がする」


 多津が頭を拭きながら立ちあがる。

 沙夜はふたたび手紙に視線を戻した。


『ごめんなさい。よわくて。』


「弱くないひとなんて、いないのに」

「そうだね。自死を選ぶのは……結局、やさしいひとなんだ」


 沙夜は中庭を見る。

 苔むした岩、葉からすべりおちる雫、風に乗って届く青葉の香り——それらを照らす夕凪の残照。


「……弱くても、生きていてほしかった」


 生きることがつらいと云うなら。

 弱いことが悪いと云うなら。

 いったい誰が、この世に生まれたいと思うだろうか。


(弱くてもいい。悲しんでもいい)


 沙夜は無意識に、じぶんの下腹を撫でた。

 そしてふと気づいて、身支度の整った(若干まだ髪が濡れている)夫の背中に声をかけた。


「あっ、絃二さん、大変な忘れものがありました!」

「ん? あ、髪?」


 いいよ、すぐ乾くから……とボヤきながら、マットレスに座る愛しいひと。

 シャツのカフスボタンと格闘している。


「双子ですって」


 おおきくて真っ黒な瞳が、(いぶか)しげに細められ、何かに気づいて、ハッと見ひらかれる。


「それって……」

「三ヶ月みたい」


 ふふっと笑う沙夜に、多津がじわじわと喜びをにじませる。


「えっ、それ、なんでもっと早く」

「止めようとしたのに聞かなかったでしょ」

「うわぁ……すごい、嬉しい……」


 感慨深そうに、沙夜の下腹にそうっとふれる。


「ちゃんと父親になれるかな……」

「私も不安です」


 一緒にがんばりましょう、と多津の頬にキスをする。

 多津は応えて沙夜を抱きしめる。

 大切なものをやわらかく(くる)むように。


「愛してる」

「私も」


 離れがたい肌のあたたかさを感じながら、それでも「早く行かないと遅れますよ」と伝えてやる。


「あっ、やばい! でも、一人で大丈夫?」


 テンパっている。

 沙夜はけらけら笑いながら、困惑している夫を送り出した。

 ようやく静けさを取り戻した室内で、沙夜はもう一度、手紙の文字を眺めた。

 母がいちばん伝えたかったこと。


「だいすきです」


 文字がところどころ、まるく(にじ)んでいる。

 だいすきです、と、それは何歳の沙夜に宛てた想いだろうか。


(うん)


 心の中で、母の気持ちに相づちを打つ。


(今なら、本当だったんだなって、わかるよ)


 どんなに不安が多くあっても。

 どんなに実感が湧かなくても。

 自分のなかに宿った命は、ただそれだけで、愛おしい。


(女の子かな、男の子かな)

(どちらかでもいいし、どちらもでもいい)

(元気に生まれて来ますように)


 沙夜はあくびをして、また横になる。

 最近妙に眠かったのは、つまり、そういう理由からだったようだ。


「赤ちゃんたち」


 沙夜はちょっと緊張しながら話しかけてみる。


「あなたたちのママは、ちょっと怒りん坊です」


 それからまた少し考えて、付け加えた。


「あなたたちのパパは、けっこう泣き虫です」


 そんなママとパパでもいいですか。

 あなたたちを、生んで育ててもいいですか。


「愛情がいきすぎて、あなたたちを追い詰めそうになったら、教えてください」


 一緒に考えていこう。

 家族になった意味や、心地よい温度を。


(箏の音って、胎育に良さそう)

(あれ良かったな、今度試演するっていってた——ナントカ(ラク)……)


 艶やかで幽玄な音色が、空に伸びる。

 その響きに乗って夢をみる。



 *



 このちいさな家で、しとしと降る雨音を聞きながら、ふたりの子どもが筝をつまびいている。

 弦の動きを楽しみ、弾く力を楽しんでいる。

 無垢に遊ぶやわらかな音色。

 その横で彼が(うた)う。


 雨上がり、

 (きり)の木陰は清らかに潤っている。


 軒端(のきはし)の風鈴がゆれて、

 わたしのまひるの夢を破る。


 夢のなかで立派な屋敷を訪れたが、

 そこに人影はない。


 ただ、

 (ひと)つがいの燕が軽やかに、

 引っ掻く箏の音が響くのみであった。







【終】





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ