最終話 或る日の初夏 〜ツバメの箏曲〜
二人で過ごす季節が、幾度か巡った。
*
ある初夏の夕凪。
陽の名残りが差し込む、うす暗い和室。
低いマットレスのベッドで、おおきなクッションにもたれて、沙夜は手紙を読んでいた。
古く黄ばんだ紙をめくる左手の指に、ちいさな石の光る指輪をつけている。
数年で伸びた髪が鎖骨にかかる。それを無意識に除けようとすると、キャミソールの肩ひもまで落ちてしまった。
(まあいいや)
手紙の続きを読んでいると、どこからともなく骨ばった手が伸びてきて、沙夜の肩ひもを几帳面に直した。
明け方に帰って来たパートナーが、どうやら起きたらしい。
「ありがと、絃二さん」
かすれた低い声が「いま、何時?」とうめく。
「五時半くらい」
「うそっ」
多津が飛び起きて、二人で被っていたタオルケットが落ちる。
半裸の多津を見ても、沙夜はもうドキドキしない。ただ「寝癖が可愛い」と思うだけだ。
「今日はなに?」
「舞台リハ!」
シャツどこ、いや、まずシャワー、と慌てる多津を見て、沙夜はつい笑ってしまう。
「だから言ったのに」
いたずらっぽく言う沙夜に、多津は少しむくれて返事をする。
「あんな姿で寝てる新妻を見て、どうかしないほうがどうかしてる」
多津はそのまま浴室に向かった。
(言い逃げだ)
沙夜は熱くなった頬を自覚しながら、手もとの封書に視線を戻す。
表書きには「沙夜へ」とある。
母親の遺書だ。
(初めて読んだときは、もう、酷かったなぁ)
泉さんがこれを渡してくれたとき、「多津さんと一緒に読みなさい」と言われた。その意味がわかったのは、読んだ後。
パニックを起こして、まるでパンドラの箱がひらいたかのように、泣き喚いてしまった。
あの七歳の冬に戻ってしまったように。
『さやへ
だいすきです。ちゃんと、いいおかあさんになりたかったです。
さやがうまれたとき、ほんとうに、うれしかった。
おとうさんとかぞくになれて、さやがかわいくて、しあわせだった。
でも、いきることはつらくて、わたしはよわくて、もう、あなたをまもることができません。
あなたといっしょに、しのうかな、とおもったことが、なんどもあります。
きのうは、さやを●●●●ようとして●●●●●
もう、おかあさんはあぶないから。
ごめんなさい。よわくて。
しあわせになってください。』
勝手だと思う。
自分の言いたいことだけ言って、残される娘の気持ちに寄り添う言葉はない。
文章のなかの、黒く塗りつぶされたところを指でたどる。
何が書いてあったのかは、もうわからない。
その指を、長く大きな五指がやわらかく包んでくれた。
「それ、お母さんの手紙?」
シャワーを浴びてきた多津が、タオルを頭に被ったまま、心配そうに覗き込んでいる。
「大丈夫?」
「うーん……前みたいに、泣き喚いて怒り狂って、っていうレベルまではいかない……かな」
多津がホッとした様子で「よかった。取っておいて」と言う。
「うん。あのとき破っちゃってたら、もう読めないところだった」
ありがとう、とちいさく言う沙夜のくちびるに、多津がやわらかく口づける。
労わるように、励ますように。
「破りたくなるものだよ。僕も兄さんのとき、そうだったから」
「お兄さんも?」
「遺書かどうかはわからないけど……僕に宛てた手紙があった」
「そうだったんだ……」
「何が書いてあるのかと思うと怖かったし、こんなに早く逝くなんて、って腹立たしかった」
だから読まずに破りかけた、と多津が言う。
「でも爺さまに止められたよ。『いつか読みたくなる日が来る』って」
「読めました?」
「いや、まだ。でも沙夜と一緒なら、読めそうな気がする」
多津が頭を拭きながら立ちあがる。
沙夜はふたたび手紙に視線を戻した。
『ごめんなさい。よわくて。』
「弱くないひとなんて、いないのに」
「そうだね。自死を選ぶのは……結局、やさしいひとなんだ」
沙夜は中庭を見る。
苔むした岩、葉からすべりおちる雫、風に乗って届く青葉の香り——それらを照らす夕凪の残照。
「……弱くても、生きていてほしかった」
生きることがつらいと云うなら。
弱いことが悪いと云うなら。
いったい誰が、この世に生まれたいと思うだろうか。
(弱くてもいい。悲しんでもいい)
沙夜は無意識に、じぶんの下腹を撫でた。
そしてふと気づいて、身支度の整った(若干まだ髪が濡れている)夫の背中に声をかけた。
「あっ、絃二さん、大変な忘れものがありました!」
「ん? あ、髪?」
いいよ、すぐ乾くから……とボヤきながら、マットレスに座る愛しいひと。
シャツのカフスボタンと格闘している。
「双子ですって」
おおきくて真っ黒な瞳が、訝しげに細められ、何かに気づいて、ハッと見ひらかれる。
「それって……」
「三ヶ月みたい」
ふふっと笑う沙夜に、多津がじわじわと喜びをにじませる。
「えっ、それ、なんでもっと早く」
「止めようとしたのに聞かなかったでしょ」
「うわぁ……すごい、嬉しい……」
感慨深そうに、沙夜の下腹にそうっとふれる。
「ちゃんと父親になれるかな……」
「私も不安です」
一緒にがんばりましょう、と多津の頬にキスをする。
多津は応えて沙夜を抱きしめる。
大切なものをやわらかく包むように。
「愛してる」
「私も」
離れがたい肌のあたたかさを感じながら、それでも「早く行かないと遅れますよ」と伝えてやる。
「あっ、やばい! でも、一人で大丈夫?」
テンパっている。
沙夜はけらけら笑いながら、困惑している夫を送り出した。
ようやく静けさを取り戻した室内で、沙夜はもう一度、手紙の文字を眺めた。
母がいちばん伝えたかったこと。
「だいすきです」
文字がところどころ、まるく滲んでいる。
だいすきです、と、それは何歳の沙夜に宛てた想いだろうか。
(うん)
心の中で、母の気持ちに相づちを打つ。
(今なら、本当だったんだなって、わかるよ)
どんなに不安が多くあっても。
どんなに実感が湧かなくても。
自分のなかに宿った命は、ただそれだけで、愛おしい。
(女の子かな、男の子かな)
(どちらかでもいいし、どちらもでもいい)
(元気に生まれて来ますように)
沙夜はあくびをして、また横になる。
最近妙に眠かったのは、つまり、そういう理由からだったようだ。
「赤ちゃんたち」
沙夜はちょっと緊張しながら話しかけてみる。
「あなたたちのママは、ちょっと怒りん坊です」
それからまた少し考えて、付け加えた。
「あなたたちのパパは、けっこう泣き虫です」
そんなママとパパでもいいですか。
あなたたちを、生んで育ててもいいですか。
「愛情がいきすぎて、あなたたちを追い詰めそうになったら、教えてください」
一緒に考えていこう。
家族になった意味や、心地よい温度を。
(箏の音って、胎育に良さそう)
(あれ良かったな、今度試演するっていってた——ナントカ楽……)
艶やかで幽玄な音色が、空に伸びる。
その響きに乗って夢をみる。
*
このちいさな家で、しとしと降る雨音を聞きながら、ふたりの子どもが筝をつまびいている。
弦の動きを楽しみ、弾く力を楽しんでいる。
無垢に遊ぶやわらかな音色。
その横で彼が詠う。
雨上がり、
桐の木陰は清らかに潤っている。
軒端の風鈴がゆれて、
わたしのまひるの夢を破る。
夢のなかで立派な屋敷を訪れたが、
そこに人影はない。
ただ、
一つがいの燕が軽やかに、
引っ掻く箏の音が響くのみであった。
【終】