17話 卒業の春(後編)
郊外を走る車の後部座席。
さっきは衆目もはばからず抱きついてきた沙夜が、今度は多津の右腕を捕まえたまま、じっとフロントガラスを睨んでいる。
多津は頬を掻いて、緊張しながら訊ねる。
「あの、怒ってる……?」
「もう絶対、逃しませんから」
沙夜は、ようやく顔を多津に向けた。
睫毛のなかで滴がうるんで、光が乱反射している。
「なにその頬骨! 痩せすぎです!」
「えっと……卵焼きは作れるようになったよ」
「動画でもその単語しか聞いてないです。他には?」
「う……」
言い淀む多津の代わりに、運転しているトムが言いつける。
「プロテインゼリー飲んでましたー」
やっぱり、と悲鳴にも似た声。
バックミラー越しにトムが苦笑する。
「許してやって。最近スタジオに寝泊まりすること多くってさ」
あの、と多津が沙夜の方に身体を向ける。完全な弁解体勢だ。
「もちろん、レシピも冷蔵庫に貼ってあるし、自炊もしたいんだけど、まず買い物からしなきゃいけないっていうのが、大変難しくてですね」
「——する」
「え?」
沙夜は多津の両頬を掴んで(首をへし折られるかと思った)、真っ正面から言い切った。
「もう、絶対同棲する」
「えっ!?」
「多津先生がわるいです。そんな顔して会いに来るなんて」
「そんな顔って……?」
それには答えず、沙夜は「私は会いたくてもずっと我慢してたのに」とか「自分から離れていったくせに」とか怒涛の大詰めだ。
「そっちだけ好き勝手にするなんて許さない、私も好き勝手にする!」
どうやら、沙夜のなにかがプッツンしてしまったらしい。
「賭けの話も聞きましたよ! なんですか、あれ」
「ハイ、あの、青田さんは嫌だろうなとは……」
嫌どころじゃないです、とまたピシャリ。
「《多津先生の炎上対応が落ち着くのと、私がタカ兄を好きになるの、どちらが早いか》なんて。私の気持ち、最初から最後まで完無視ですか!?」
「無視した訳じゃない!」
ようやく多津も反撃を始める。
「だって、鷹也くんと一緒に食堂に立つ姿を、ずっと眺めてきたんだ。お似合いで羨ましかった。きっと鷹也くんを好きになるだろうって——」
「私が好きなのは、多津先生です!」
気圧されて黙った多津に、沙夜も語調をおさえて「タカ兄には『ごめんなさい』って伝えました」と言う。
「私がちゃんとケジメをつけたんだから、多津先生も、私に何か言うことがあると思います」
「う……」
しばらく沈黙。
いざ、となると、何を言えばいいのかわからなくなる。
沙夜のほうがよほど気風よく、カラッとしていて男前だ。
返しに迷った多津はついうっかり、インパクトの大きかった言葉を引っ張り戻してしまった。
「同棲って、ほんとに……?」
そこじゃない、と二人ぶんの怒号が響く。いつの間にかトムまで多津を非難している。
怖いやら可笑しいやらで、多津は両手を挙げた。
「降参です。トム、僕の家に向かってくれる?」
「ガッテン承知」
「話をそらさないで——」
「青田さんがカッコいいのは、もうわかったよ」
多津は両手で沙夜の手を包みこむ。
「だけど僕にも、ケジメをつける場所は選ばせて。こんなこと、初めてなんだから」
真剣に伝えてようやく納得したのか、沙夜は赤くなってうつむいた。
*
沙夜が車窓を眺めていると、都内のビル街から少し離れたところで、タイヤが砂利を踏んで駐車した。
小道の奥、ひっそりと緑に隠れる古民家がある。
そこだけ音をさえぎられて、別の世界にでも居るような静けさだ。
「ありがと、トム」
「おう。また連絡くれ」
バックドアから大荷物を二つも三つも出して、多津は「入ろうか」と沙夜を促した。
「ちょっと寒いかもしれないんだけど……」
鍵を開けて、カラカラと引き戸をひらく。
おじゃまします、と沙夜は脚を踏み入れた。建てつけがなんとなく、《子ども食堂いづみ》の雰囲気と似ている。
「そこ、座ってて。お茶でいい?」
「教えてくださったら、淹れますよ」
「うーん、じゃあお言葉に甘えてもいいかな」
大きなボストンバッグを抱えたまま「洗濯物の量が凄くて、回してくる」「茶葉はそっち。水はこっちの使ってください」とワタワタしながら、多津は廊下の向こうに走っていった。
沙夜はちいさな花束を水につけ、湯を沸かし、ちょっと落ち着いて、自分の暴挙を省みた。
羞恥が一気に押し寄せてくる。
やばい。恥ずかしい。
(勢いだけで来ちゃった)
頬ががぜん熱くなって、両手でおさえる。
手が足りない。
目も口も耳も、何もかも覆ってしまいたい。
(同棲って——)
いきなり過ぎる。しかも言い出した側だ。
引かれる。絶対にドン引きされちゃう。
まさか、こんなに激しい一面が自分にあるなんて、今までは思いも寄らなかった。
(深呼吸、しよ)
息をいっぱいに吸うと、屋内らしくない、緑の匂いと爽やかな風が過ぎていった。
辺りを見回すと、どうやら中庭があるようだ。縁側が巡らされて、眺められるようになっている。
瓦屋根や樋、雨受け石を覆う苔が、この家の佇む年月を伝えてくれる。
リィーン……と、仏壇のお鈴を鳴らす音が聞こえた。
響きのたゆたう方向に、足を二、三歩進めてみる。
仏間で手を合わせる後ろ姿があった。沙夜の板敷を踏む音に、多津が振り返る。
「あ……茶葉の場所、わからなかった?」
「それはわかったんですけど——お鈴の音が聞こえて」
ご挨拶しなきゃかな、と思って。
沙夜がそう言うと、多津は隣にずれて場所を空けてくれた。
床の間にそっと飾ってある写真立てに気づいて、じっと見つめる。
「この写真……」
一人のお年寄りと一人の青年に、もう一人。まだ立つのもやっとというような、可愛らしい男の子。
三人がおんなじ笑顔で映っている。
「僕の祖父と兄さんだよ」
多津が写真立てを取って、沙夜に見えやすく持つ。
「僕の名前、絃に漢数字の二って書くでしょう。兄さんは、奏でるに一で、奏一」
「そっくり……」
「兄さんが十歳くらい上かな。箏楽師としても、すごく優秀だった」
だった。過去形だ。
沙夜が押し黙り、多津も気づいて言い添える。
「兄さんは、祖父が亡くなるまえに、交通事故で……たぶん、そうだと言われているんだけど……早逝してしまって」
沙夜は頷いた。
《たぶん》交通事故。その意味は、《自死だった可能性も捨てきれない》という意味をもつ。
「本家の中でも祖父は特に、兄さんを厳しく指導していたらしい——『自分のせいだ』『おまえは逃げろ』って、ずっと言っていた。兄さんの不幸と宗家の色んなしがらみが、ぜんぶ爺さまに掛かってしまってたんだと思う」
心筋梗塞だった、と、ちいさな声が言った。
「今ごろ、二人で仲良く弾いているといいんだけど」
そう微笑んだ多津の表情が、どうしようもなく寂しげで、切なくて。
(ほんとうは、生きて三人で弾けたら、って)
そう思っていることが、ありありと感じられた。
沙夜がまばたきすると涙が溢れた。
雫を拭ってくれる多津の指は、硬い。
(こんなに硬くなるほど、弾いてきたんだ)
たった独りで。
「……私も、お線香あげてもいいですか」
「もちろん」
白檀の香に火を灯して、手を合わせる。
目を閉じる。
(おじゃまします)
(青田沙夜といいます)
(私、多津先生の隣りに居てもいいですか)
清かな風が吹き、木々の葉ずれに合わせるように、ホトトギスが鳴いた。
「ありがとう」
多津はまなじりをやさしく細めて、見守ってくれていた。
「お茶にしようか」
「はい」
多津が湯呑みを出して、沙夜が茶を淹れる。
二人で流しに立つ空気感が、なんとも言えずくすぐったい。
多津は縁側の柱に背をもたせかけて座り、ようやく息をついたようだ。ふっとほほ笑んで、沙夜を見た。
「まさか、爺さまと兄さんに挨拶までしてくれると思わなかった」
「……しますよ。必要なら、他のご家族にも」
多津がむせた。口もとを隠しても動揺は隠せない。
耳を赤く染めて、多津が片手を広げた。
「一回、仕切り直してもいい?」
「……はい。お願いしマス」
「卒業、おめでとう」
沙夜はぺこんと頭を下げた。
「髪、切ったの可愛い」
また頭を下げる。いくぶん耳が熱くなった。
「——本気で、一緒に住むの?」
拒絶されたらどうしよう。
沙夜はためらいながら、三度目の頷きを返す。
「……困ったな」
静かな庭に、雨滴の落つ音が響く。
「青田さん、僕の食事のことが心配なだけなら、ちゃんとまめに連絡するよ」
「トムさんが『海外の客演に呼ばれることもある』って……だから、いつ帰って来ても大丈夫なように——」
「それ、どういうことか、わかってる?」
戸惑う声色に顔をあげた。
真っ赤な頬、口もとを隠す多津がいる。眉をしかめて、おおきな瞳で沙夜を射抜く。
「きみが大事なんだよ。それなのに同棲なんかしたら、僕の身がもたない」
おとこのひとの、苦しそうな吐息。
沙夜の胸に動悸が走る。
「こんなに愛しい相手と寝食ともにして、何もしないでいられるほど、出来た人間じゃない」
黒い瞳に映る光の強さに、沙夜は息がとまった。
多津は沙夜から目をそらさずに続ける。
「ずっと閉じ込めていたいし、だけど、僕なんかが独り占めしていい女性でもないって、わかってる。なのに、きっと離せなくなる……。どうしよう——他に何て言ったら、わかってくれる?」
困り果てた多津はうなだれて、髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
沙夜はそっと、その手をとる。
不器用な男性だと知っている。気持ちの在り処は、筝弦だけが教えてくれる。
「もう充分です」
「ぜんぜん、足りないよ」
己の口下手に不貞腐れた様子で、多津はそっぽを向いた。
そんな多津を丸ごと抱きしめる。
「多津先生には、ぜったい私が必要なの」
「——仰るとおりです」
「私がそばにいたいの」
沙夜は多津の手を、自分の頬に当てた。
刹那、見つめ合った瞬間に、お互いの思いを知る。
多津は沙夜を掻き抱いた。
「好きだ」
遠慮のない力いっぱい、生のままの感情がぶつけられる。
沙夜が呼吸を揺らがせても、抱きしめる腕は身じろぎもしない。
「甲斐性のない僕だけど、ずっと傍に居て欲しい。君が僕を守ってくれるように、僕も貴女を守りたい」
たくさんのものを背負ってきたであろう背中に、沙夜はゆっくりと手をまわす。
「多津先生は、守るものがたくさんあるから」
せめて私にくらい、守られてください。
そう伝えると、抱きしめる腕にいよいよ力がこもった。
もう絶対に離すものかと云うように。
(覚悟なんて、もうできてる)
沙夜は多津に口づけた。
ビクッと動いた身体がバランスを崩し、ごつん、頭のぶつかる音がして、二人は抱き合ったまま板敷に転がった。
「——青田さん、まえから思ってたけど」
「はい」
「ふだんいい子なわりに、けっこう大胆で激しいよね?」
「それ、私も最近気づきました」
「——くっ」
「ふふっ」
くすくすと笑う二人に、中庭の光が差す。
「仕方がない」
沙夜をそっと下ろして、多津の上体が覆いかぶさる。
「気性が荒いきみも可愛い」
言い返そうとした瞬間、言葉をくちびるで塞がれる。
二度目の口づけは、なかなか呼吸を許してはもらえなかった。




